2014

5月

5月4日(日)

道志川

 連休に入り、行楽の車やバイクの量も増えたけど、例年に比べるとどうなんだろう。個人的には、若干少なめに感じる。天気なら、連休期間中ずっと晴れマークが並んでいるんだけどな。
 シーゲル堂では今月の企画展が始まっています。地元の土鈴作家が作る「若葉の小鳥たち」展。お店で小鳥たちを揺らして、コロコロと心地よい音色を楽しんで下さい。
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 車の旅行も、いずれは車に向かって「●●に行きたい」と言えば、人が操縦しなくても車が自動的に運転して、目的地まで運んでくれるようになるのだろう。こないだ、グーグルがやっている自動車の自動運転の実験の動画を見たけど、自分の車の周囲の車や、歩行者や自転車も認識して、町中を普通の速度で走行していた。

Googleの自動運転カーが街で走れるレベルになっている!
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 日本の自動車メーカーにも技術はあるけど、省庁がいままであまり積極的じゃなかった。ここへきて、海外の自動運転の実証実験が盛んになるにつれ、ようやく日本政府も慌てて動き始めようとしている段階。

 こういう技術がなぁ、明日にでも山里には欲しいのですけど。山の中で暮らしているお年寄りが、自由に病院や買い物に行けるようになれば、限界集落の問題はかなり緩和されると思います。
 あと、酒を飲んでも車で帰れるし。

 こんなふうに、灯りを壁や天井に当てて間接光にします。(冬は寒々しい感じになるのでやってません)

 最近の記事で、個人的に特に納得したものがある。

電気代ゼロ円!東京の公団で完全オフグリッドライフを楽しむ、ソーラー女子の知恵とワザ
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 町中で暮している人が、小規模な太陽光発電パネルで電気を自給している記事だけど、記事全体も興味深かったけど、個人的に特に納得した部分と言うのは、「照明を消費電力の低いものにしたら、それまでずっと不眠ぎみだったのに、暗いので12時前には自然と眠くなってぐっすり眠れるようになった」という所。

 わたし自身は不眠で悩んだ経験は無いのですが。
 夏に、部屋の照明が「ちょっと明るすぎるんじゃないのか、なんだか暑苦しい。もっと暗くしたら、夏の夜は涼しげに感じるかな」と思い、夜の照明を小さなLEDライトを天井に当てて間接照明にした事があります。

 そしたら夜の12時近くになると、自然に身体が眠気を感じ始めるのです。なんか、そのまま自然に眠りに入れる感じ。たぶん、部屋を暗くして、身体を闇に浸すと、体内時計が「寝る時間だよ」と反応するんじゃないかなぁ。

 でもこれは、お年寄りのいる家庭には勧めません。視力の弱い高齢者には、足下もはっきり判るような、明るい照明は不可欠でしょう。いくら省エネが大事だと言っても、それでけが人を出したらしょうがない。

 ただこの話、いろいろ応用が効くんじゃないかなぁと思った。
 科学技術の進歩によって、夜を明るくする事もできれば、夏を涼しく冬を暖かくする事もできるし、歩かなくても遠くまで移動できるようにもなった。
 これはこれで便利なのだけど、果たして身体にとっては健康な事なのかどうか。

 手づくりのブランコで遊ぶ子どもたち。

 例えば夏の暑さは不快かもしれないが、汗をかくと、そこには重金属などの毒も排出されるという。何も、冷房を使わずに我慢しろと言っているのではない。机での仕事とか、熱帯夜で眠れない時には冷房を使えばいいと思っている。
 ただ、夏の暑さも「身体から毒を出してくれる大事な季節」と思えば、不快だけではなく、有難くも感じられるかもしれない。

 人間の生活の全てを「便利さ」で埋め尽したら、それはかえって健康からは遠ざかるものなのだろう。昼は明るく夜は暗く、夏は暑く冬は寒い、そんな自然界の「ゆらぎ」のようなモノに左右される事によって、意外と人間の健康は保たれているのかもしれない。

 まあ、こういう事を書くと決まって「江戸時代に戻れと言うのか」といった意見を言う人がいるけど、そういう人だって、「夏に農作業をやって大汗をかいたら癌が治る」と言われたら、やるんじゃないかしらん。

山向こうの集落

 快適さ・便利さで埋め尽された生活は、どこか身体の健康を歪ませる所がある。夜でも煌々と明るい町並と、夜でも不自由なく仕事したり遊んだりできる環境は、現代文明の成果かもしれないが、それは健康な状態なのかどうか。

 冒頭で書いた自動車の自動運転の話のように、私だって今後の技術の発展に期待している人間の一人だけど、そのような新しい技術が、真に人間を幸福にしているのか、かえって人間を歪ませていないかを、内省的に考え続ける必用性は、今後ますます増えて行くと思っている。

5月11日(日)

あるイベントでの一こま

 連休を過ぎた頃から、フジノのイベントは加速していく。毎週のように週末にはどこかで何かやってるし、時には週末以外でも何かやっている。上の写真もそんなイベントでのもの。フジノでも極小クラスのイベントで、その割には内容はやたらと濃いのです。まあ、私は軽く立ち寄るくらいしか出来ませんでしたが。

 小さな子供、それも特に女の子は、食べ物や飲み物を作る工程に妙に関心があるのか、コーヒー豆を挽いたりお湯を注いだりする作業を、質問をたくさん投げかけながら、食い入るように見ていた。たぶん子供の目には、こういう作業が魔法のように見えるんじゃなかろうか。
 そう考えると、童話的な光景にも見える。大人の魔女が、魔女志望の子供に秘法を教えているような・・・。

 今度の週末は、フジノでも最大規模のイベントの「ぐるっと陶器市」がある。「芸術の小径」サイトで、詳しく紹介されています。
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 週間天気予報を見ると、17・18日とも、どうやら晴れるらしい。これは、この陶器市の伝統から見ると奇跡的な現象だろう。例年、二日の内のどちらか、もしくは両日とも雨に降られるのが通例だったから。

相模湖と山

 前々回の日記で、人々が普通に「死」を意識する世の中になったらどうなるか、といった事を描いたけど、先日、ある講演を聞いて、自分自身が死について、いろいろ考えるハメになった。
 その講演のテーマは、緩和ケアについてのもの。緩和ケアとは以下のように定義されています。

 緩和ケアとは、生命を脅かす疾患による問題に直面している患者とその家族に対して、痛みやその他の身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな問題を早期に発見し、的確なアセスメントと対処(治療・処置)を行うことによって、苦しみを予防し、和らげることで、クオリティー・オブ・ライフ(QOL:生活の質)を改善するアプローチである。
WHO(世界保健機関)による緩和ケアの定義(2002年)

 いろいろ考えさせられましたね。死は自宅で迎えるべきか病院や施設で迎えるべきか、とか。理想的な「死」とは、どういうものかどうか、とか。
 実の所、実際にこの緩和ケアの仕事に日々努めている方の生の話を聞くと、どうもチャランポランに生きてきた私には、神の鉄槌が降りたような、深い反省を求められるものでした。
 あー、おれも、明日からは、もうちょっと真面目に日々を生きようと思ったけど、この決意があと何時間続くだろうか。
(何日間ですらない)

立夏の湖水

 一つ思った事があるとしたら、「死」というものを、もうちょっとごく普通に語り合える環境になったら、もっと風通しの良い世の中になるんじゃないかという事。
 「死」というものが、あまりにも情け容赦なく、また無気味で恐ろしいために、人々は通常はどうしても、それが、あたかも存在しないかのように明るく振舞うけれど、そんな「明るさ」が、かえって人が死を迎えるのを、安らかではないものにしているのではないか。

 以前、こんな事を人と話した事がある。
「もし、自分が死ぬとしたら、いつ頃がイイか」
「その如月の望月の頃・・・」
「西行じゃあるまいし」
 少し真面目に考えてみて、「できれば冬と夏は避けたいな、厳しい季節だし、ただでさえ葬式が多そうだし」
「すると春か秋かになるな」
「春の方がいいな、これから冬に向かう秋よりは、これから温かくなる春の方が、あまり悲壮感はないかなぁと思う」
「じゃあ春の何月頃」
「年度末と年度始めの3月と4月は、なんか気ぜわしいので気が引ける。できれば5月の連休が終わって一息ついた頃。」

 初夏の心地よい薫風に身も心もなごむ感じで、BGMに井上陽水の「五月の別れ」を流して、弔問の方々には寿司でも自由に食べてもらうとか。これならだいぶ、悲壮感はないだろう・・・

「誰がお前が死んだくらいで悲愴感なんて湧くものか、それより早く寿司を食べたいからさっさと死ね」

 そう言われても、できればあと50年は待って欲しいが、こればかりは自分の意志で、どうにかなるものではない。

シャガの花

 なんか今回は、いつにもましてグダグダな文章になってしまったな。私自身、この話について、しっかりと時間をかけた思索の積み重ねがあるわけではないし、自分なりの見解があるわけでも無い。

 ただ、これは間違いがないんじゃないかと思う予想がある。20世紀の「良い生き方」とは、何かモノを多く獲得する事だった。テレビとか自動車とか豪邸とか。
 それが、21世紀の「良い生き方」では、方向性がだいぶ変わると思う。もはや、単にモノの獲得だけでは、人はそれを「良い生き方」とは認めなくなるだろう。

 21世紀的な「良い生き方」とは何かを考え始めた時、どうしても「死」の問題は避けて通れないような気がする。逆に言えば、20世紀のモノを獲得する「良い生き方」とは、モノを獲得する事に夢中になる事によって「死」を直視しなくてもいい生き方だったのだろう。

5月18日(日)

 ぐるっと陶器市にて

 17・18日の土日に行われた陶器市は、二日とも恐ろしいほどの快晴に恵まれた。これほど天気に味方された陶器市は、ちょっと珍しい。私は用事があって、篠原あたりをさらっとしか見られなかったけどな。時間があれば、もっと全体を回ってみたかったものだ。
 もっとも、この陶器市も、ここまで規模が大きくなってしまうと、一泊二日ぐらい時間をかけないと、全体を見るのはもはや不可能になりつつある。

 陶器市の会場で、5月の爽やかな風に吹かれながら、「ああ、もしかしたら、これから人々が目指す方向って、こういう事なのかな」と漠然と思った事がある。その事を書こうと思うのですが、ちょっと内容が自分の手に余る感じなので、1回だけじゃ足りないかもしれない。

 世界全体を覆っている停滞と混乱の基本的な原因は、次の目標や理想が見出せない事にあるのだろう。時代がこうなってしまうと、こういう時代でもっとも元気の良い人間は、理想も目標もない、自己の欲望を充足させる事だけに情熱を注ぐ下品な人間ばかりになってしまう。政府の姿を観ていても、そんな感じだ。上は上で勝手にやりたい放題をやり、下は置いてきぼりで混乱と衰退は拡大して行く。上下交わらずして天下に邦なきなり、とは、こんな状態を言うのだろう。

 もっとも、この状態も無意味でもないし、長く続くものでもない。長く続かない理由は「成功しない」事。言い方を替えれば、無茶や無理を通さないと、維持すら出来なくなる状態にある組織は、新しい仲間も生まれず、むしろ組織内の敵対と分裂を繰り返して縮小していく。
 無意味でない理由は、こういう状態になって、ようやく人々が本気になって考え始めるという事だ。そして、これら「本気になって考え始める人たち」は、仲間を作って規模を拡大して行く。

新緑

 ただ、これからの時代の「本気になって考え始める人たち」の仲間は、今までの仲間の作り方とは異なる形になる。
 今までの理想や目標が、「夏を涼しく冬を暖かく」とか、「歩かずに遠くまで移動できる」とか、物質的な技術の問題が主だったが、それらの目標は概ね満たされている。それに対して、これからの目標は、より精神的なものになって行くだろう。精神的な目標へと集う仲間たちは、その仲間の作り方、仲間の集まり方も精神的なものになる。

 物質的な目標の時代は、人々の集まり方も、あたかも人間が物質のような扱いでも良かった。ピラミッド型の上意下達の組織のあり方は、そんな時代に合っていたのだろう。
 しかし、精神的な目標を持つ人々は、ひとり一人が精神的なので、人間性を無視したような組織のあり方・・・命令と服従、権力と依存という関係・・・は馴染まない。では、精神的な仲間の作り方、仲間の集まり方、組織のあり方とは、どんなものになるのか。

雨が山の向こうから降りてくる(5月12日)

 まず当然ながら、そのような組織の集まり方は、人々がイヤイヤ集まるものではない。「命令と服従、権力と依存」という関係ではないのだから当たり前だ。
 裏をかえせば、人々が喜んで集まる組織、仲間になる事が精神的な快楽になる集まり方が、これからの標準という事になる。

 5月の爽やかな風に吹かれて、「ああ、もしかしたら、これから人々が目指す方向って、こういう事なのかな」と漠然と考えたけど、それは、これからの人々が目標とするのは、人々の雰囲気そのものが、「5月の爽やかな風」になることなのかなぁ、と思ったのです。

 例えばですね、「お前バカだなァ」という言葉でも、人によっては、冷たい侮辱に響くような言い方をする人もいれば、そう言われても、どこか温かみを感じさせる言い方をする人もいる。
 この二者の違いには、「5月の爽やかな風」の有無があるのではないかと。

初夏の風

 そういうことだったら、その二者の違いに「5月の爽やかな風」なんてややこしい言葉を使わずに、優しさとか愛情とか人格でもいいんじゃないか、と言われれば、その通りなんですけどね。今の私には、「5月の爽やかな風」という表現が、妙にしっくりと来るのです。

 組織を構成している人、ひとり一人が、人々の心を明るく晴れやかにする力を、周囲に漂わせている。これからの組織や仲間の理想は、そんな形になるのではないかと。

 ただこの話、深く考えて行けば、どうしても宗教的な話になっちゃうんだよなァ。自分に、そこまでの話ができるかどうかは判りませんが、続きはまた別の機会に。

 『易経』 否卦 上下不交而天下无邦也)

5月25日(日)

雨樋の補修

 先日、篠原の自治会の集会所で、雨樋の修理が行われた。2月の大雪で壊れた箇所を新品と交換して治す。業者を頼まずに、地元の人間でなんとか修理した。こういう時には、いろんな工具を持っている人の力が、実に心強い。
 けっこう怖い工事だったけどね。写真の脚立のある場所も、急峻な石段の上にあるので、写真ではよく判らないかもしれませんが、本人はまるで崖っぷちで作業をするような、肝を冷やす経験だったに違いない。

 自治会の役員の10人ばかりで行われたこの作業。こんな時には、作業の合間に様々な雑談が飛び交う。
「夜間、車で走行中、篠原の●●さんの家の近くで、イノシシの親子が道を渡ってたよ。」
「あそこはイノシシの通り道なんだ。」
「うちはイノシシにタケノコをあらかたやられた。」
「○○さんは、イノシシ除けにラジオを大音量で流しているな。」
 あー、始まったなー。今年もイノシシの猖獗する季節が。

 そういえば改正鳥獣保護法が成立しましたね。

改正鳥獣保護法が成立=捕獲強化で食害抑制
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 名前は鳥獣保護法だけど、今回の改正はイノシシなどの獣を「殺しやすく」するもの。狩猟者の高齢化もあって、山里にとっては必用とされていた改正ですね。

沸き上がる雲

 そりゃあ私だって殺生を好む人間ではないですよ。でももはや山里は、住民が本気になってイノシシや鹿や猿と向き合う覚悟を決めないと、農作業を放棄しざるをえない所まで追い込まれてきた。
 それになー、たとえ殺生を好まない人間だって、豚や牛や鶏の肉は食べているんだろう。山の野生の肉を、有難く頂くのも、これからの持続可能な世の中の在り方かもしれない。

「昔ね、●●地区の人で、イノシシにやられた人がいてね。」
「イノシシに限らず、獣の牙で裂かれた肉って、なかなかふさがらないんだよね。雑菌が多いという事もあるんだろうけど。」
 こういう話。都会に住む人にはどんなふうに聞こえるのかな。実際に山里に身を置いて、時々イノシシや鹿や猿を身近に感じるような生活をしていると、こんな会話にも、生々しいリアリティーを感じます。
「そういえば青野原で熊が出たそうだが・・・」
 ケモノの話題はなかなか尽きない。

 もう一つ、こんな事も話題にあがった。
「こんな雨樋の修理も、勿論しないわけにはいかないけれど、自治会とか地域の作業も、もう少し減らす事も考えなくちゃならんな。」
 これから人口が増えるわけではない。むしろ減少傾向で、特に若者の人口減少は著しい。自治会とかの行事や作業だって、担い手がいなければ維持ができなくなる。

山の雨

 この手の地元の行事や仕事って、年を重ねる毎に蓄積するように数が増える傾向がある。地元の子供会が何年前にナントカ活動を始めた、地元の老人会がナントカ活動を始めた、行政からナントカ活動をやりましょうと働きかけられて組織を立ち上げた。そんなこんなで数が増える事はあっても、なかなか自分で「終わらせる」ことは出来ない。
 しかし、これもそろそろ本気になって「選択と集中」を行うべき時に来ている。さもないと、地元の人間が地元の作業に忙殺されて、その人の本業すらできなくなってしまう。

 本来、地元を栄えさせるための自治会だったり、地元の活動だろう。自治会や地元の活動が、かえって地元の人間の負担になったり、地元を疲弊させる要因になったら、それこそ本末転倒だ。

 さて、「選択と集中」だけど、選択の方はまあだいたい想像がつくとして、何が「集中」かとなると、なかなか明解な答えが見つけにくい。自治会というのは、地元の「現状維持」の為の組織であって、戦略的に未来を創造できるような新しい手法を生み出す組織ではない。
 まあそれでも、地方の農村部では「どうやって人口を増やすか」を基本のテーマにして、いろいろ考える事になるんだろうな。

 そういえば最近、こんなサイトを見て驚いた。

田舎スタイル 物件一覧
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 こんな不動産情報を見ると、地方の空洞化はかなり進行しているなぁと、ちょっと不気味な感じがする。私の住む藤野も、まぎれもない田舎だけど、東京への通勤圏でも(かろうじて)あるので、まだ空洞化の問題も、ここまでは深刻ではない。

 空き家の物件に混じって、使われなくなったペンションの情報もある。一見、安い価格だけど、維持したり修繕するだけでも大変なんだろうな。
 建物は余っている。しかし、それを運用する人がいない。

 もっとも、地方の田舎でも普通に仕事ができる環境ができたら、これらの地方の物件が、ものすごい影響力を発揮するかもな、とも思った。東京のような大都市に依存しない働き方の在り方ができれば、若者がどっと地方に押し寄せる可能性だって、ないとは言えない。

 それに、既に大都市に依存しない働き方を身に付けている人で(例えばネットが通じればどこでも仕事ができる人とか)、田舎暮しが好きな人にとっては、夢のような世界が現実化しつつあるんだな、と思った。