地方交付税はもらってはいけない金か

 本論に入る前に、次の図を見て欲しいのですが、これを見ると、いわゆる過疎の地方の町村が交付税を貰っているのと同時に、横浜市や川崎市のような大都市も貰っている事が判ります。不交付団体は、むしろ田舎とも大都市ともつかない、その中間の町に多い事が判ります。

神奈川県発行『これからのまちづくりと市町村合併』より転載
平成15年度の神奈川県内市町村の普通交付税交付団体・不交付団体

 無地は不交付団体。薄いピンクは交付団体。少し濃いピンク@は相模原市で、不交付団体から交付団体に移動した。濃いピンクは交付団体から不交付団体へ移動した団体。Bの川崎市、大和市、葉山町と異なり、Aの清川村は、宮ケ瀬ダムが出来て多くのお金が降りてくるようになり、不交付団体になった。


 U字説のところでも書きましたが、自治体の運営にお金が係るのは、何も過疎の地方町村だけではなく、大都市も同様に交付税の援助を必要としている事実があります。企業や人口が集中して多くの税収が入る大都市でも、様々な形で発生する都市問題で、それを上回る支出に悩まされているのです。
 決して、都市が稼いだ金を地方が無駄に使っている、という論理は、現実を正確に反映していない事をまず知って下さい。

 地方交付税は、町の運営に係るお金が、その町の税収よりも多くてまかないきれない場合、不足分を国が補ってくれるものです。
 この事が、いろいろと非難の対象になります。
「町を運営するお金が足りない」、と言うだけで、何の努力も無しにお金が国からやってくるのです。
『交付税をあてにして、行政の無駄を放置していないのか?。無駄な事業、無駄な人件費を野放しにしているのではないか?』
『税収が足りないのなら、企業を誘致するとか、地場産業を興すとか、何か自ら努力をして税収を増やすべきだ。』

これらの意見には、いずれも一理あり、この国の赤字体質を作ってきた原因の一つは、確かに交付税の問題があるでしょう。

 しかし交付税は、決してゼロにしていいという物ではないのです。仮に交付税制度が無くなるとしても、それに変わる同様の制度は必ず必要になります。
 その最大の理由は、ナショナルミニマムの保障です。ナショナルミニマムとは、その国の最小限度の生活水準の事です。
 どんなに貧乏な町であっても、小学校が無くて義務教育が受けられないとか、火事が発生しても消防が来てくれないといった事態はあってはなりません。この最小限度の生活水準の保障は、国家の社会的責任です。

 そして、どんなにそれぞれの自治体が努力しても、ナショナルミニマムの保障が出来ない場合が出来てしまいます。

 例えば、今まで山里で木炭を作っていたけど、外国から安価な木炭が輸入されるようになったので収入が無くなってしまった、と思ったら、外国で森林資源の保護が叫ばれて、その国で木炭の輸出が禁止され、また国産の木炭が見直される、といった事態が近年ありました。
 いままで大きな工場があって町の財政を潤していたけど、安い人件費を求めて工場が海外に移転してしまい、急に財政状況が悪くなった町は全国各地にあります。 
『私の町には原発があるから、いくらでも金が降りてくる』
と言う町もありますが、これとて、これから太陽電池パネルや燃料電池の単価が下がっていったら、いつまでも安泰というわけにはいきません。
 嫌な想像ですが、将来世界的な食料危機が発生し、日本でも慌てて農村で食料を増産しなければならなくなったら、都市と農村の地位は、現在とは逆転するでしょう。

 時代や環境の変化に伴い、財源に恵まれた自治体と恵まれない自治体の格差は、どうしても生じてしまいます。かといって、
『時代や環境の変化で財源が無くなった自治体には、人が住まなければ良い。新たに財源が恵まれるようになった場所へ移住すれば良い。』
と考えると大変です。
 これでは、山里には人は住まなくてもいい、みんな都市に住めばいい、という話にもなります。しかしこれは国土の健全な利用のあり方とは言えません。
 やはり、山には山で暮らす人々がいて、都市には都市で暮らす人々がいて、例えば山里の住人は林業を営みながら、山の適切な管理をして都市の人々に木材を買ってもらい、同時に都市に住む人々の水源を守っている、そんな関係は、今後も維持されていかなければなりません。(最近、この問題を解決する一つの方法として「水源税」という制度が始まりましたが)

 つまり、環境問題も含めた国土の健全な利用のあり方・人口の配分のあり方を考慮し、時代や環境の変化で「ナショナルミニマム」の保障が失われないようにするためには、交付税制度は無用になる事はありえないのです。

 この事から、「地方交付税が今後いくら減らされるか判らないから、いま合併しなければならない」という理屈の無法さが判ります。現行の制度が続く以上、地方交付税は、これ以上減らしてはならない限界があるのです。これは、いかに政府といえども、好き放題に減らせるものではありません。

 もし本当に地方交付税を減らすのであれば、まず、交付税を貰っていた自治体の、交付税の使い方にどこが問題があるのか、また歳入を増やし、歳出を抑制するための努力を怠っていたのかを指摘し、改善を求めなければなりません。言い換えれば、その町が
『私の町では、変なお金の使い方はしていない。独自に無駄を徹底的に省き、様々な自助努力を行っている。地方交付税の使い方にしても恥ずべき使い方は一切していない。』
そう堂々と言える状態であれば、たとえ
『これから交付税がいくら減らされるかわからないぞ』
と脅されても、脅えて合併に応じる事は無いのです。そのような自治体であれば、いかに政府とはいえ、それ以上交付税を減らせないのですから。
 むしろ、町がそう堂々と言えない所に、国は付け込んで合併を進めようとしている所があります。

『合併しなければやっていけない』
合併推進派の人達は、よくこう言います。
でも、『やっていけない』という状態とは、一体、どういう状態を指しているのでしょうか。
ナショナルミニマムが保障されない状態を指していいわけがありません。もしそんな事を許す市町村合併であれば、その合併政策は違憲でもあります。
『やっていけない』という言い方は、具体性が無いわりには、ナショナルミニマムも保障されなくなるような恐怖心を煽る効果もあります。
 実際、藤野町では、ゴミの収集が来てくれなくなって、町中がゴミだらけになるとか、消防や救急が来てくれなくなるとか、いかにも『もっともらしく』そんな噂話が大いに幅を効かせました。そして、その雰囲気が住民投票の結果に影響を与えたのです。

 こんな噂話が説得力を持ちえた背景には、
『交付税をもらう事は悪』だとする、考え方の浸透があったと思います。
しかし、決して交付税はそんなものでは無く、この国の赤字体質を助長した欠点はありましたが、この国の健全な形を維持しようとすれば、必要不可欠の制度でもあるのです。

 この交付税の制度は、今後は改良を強く求められるでしょう。もしかしたら交付税を廃止して、それに変わる制度を採用するかもしれません。 実際、ナショナルミニマムの保障については、交付税をばらまくやり方では無く、すべて国庫支出金として全額国が負担する方が無駄が省けるという考えもあります。
 しかし、制度は変わっても、ナショナルミニマムの保障自体は今後も決して無くなる事はありません。

 現在行われている市町村合併は、ナショナルミニマムの議論も無く、地方交付税の削減と一緒に合併を論じている点に、暴力的な所があります。

 今回、貧しい町が交付税をもらう事はちゃんと正当性があり、決して恥ずべき事ではない事を説明するに当たって、問題をナショナルミニマムに絞りましたが、他にも幾つもあります。

 一番よく言われるのが『国と地方の税源配分の補完』でしょう。国は税金を「3」受取って「2」しか使いません。地方は「2」だけ受取って「3」使う事を求められます。地方交付税は、国と地方の財源配分の一環としてこうしたギャップを埋める役割を担っています。

 もう一つ、面白い説明を聞いたので、それを紹介します。
『田舎を出ていった若者が都会に住んで働き、老いた親は山里に残って、医療や介護などのサービスを受けながら暮らしている。地方交付税は、都会の子供から田舎の親への「仕送り」と考える事もできるのではないか?』
 この説明は面白いだけでなく、確かに真実を衝いた説得力があると思います。

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