第三章
僕は両親から「反抗期がなかった」と言われます。とんでもない。実は静かに、しかも長期間に渡っての反抗期だったため、あまり目立たなかっただけなのです。
目立たなかった原因は、家庭環境にもあります。反抗期や非行の前兆とされる飲酒や喫煙は、我家では物心ついたときから解禁でした。つまり、家の中で飲む分には誰にも文句を言われないのです。例外的に、一日にビールを二本も三本も飲むと「一体誰の働いた金で買ったビールを飲んでるんだ」と怒られることはありましたが。刑法に触れない範囲での悪さは一通り経験しましたが(他の法律は破っていたかもしれない)、別にそれは両親に対する反抗とは思われませんでした。
将来のことさえちゃんと考えれば、たとえ警察に捕まるようなことをしても構わないというのが我家の教育方針でした。どう責任を取るか、前科者として一生を過ごす覚悟があるのか、それさえしっかりしていれば泥棒をしようが詐欺で一儲けしようが、人を殺そうが、すべて僕の裁量に任されていたのです。僕は一応、大学に進学し堅気で暮らそうと思っていたので、犯罪の道には走りませんでした。
両親から怒られるのは、単に僕が父なり母なりにとって気に入らない行動をとったときに限られました。これが我家の「掟」で、「掟」を守らせることが僕の教育そのものでした。
ですから、明ら様に反抗をするとすぐにねじ伏せられます。その分、陰湿な感情を伴って、長い間両親に接しなければならなかったのです。
では、僕の反抗期の行動とはどういったものでしょうか。
それは、僕の進路に関して、ことごとく両親の期待を裏切ることで果たしました。高校進学にあたって、父は僕を高専に進ませたかったようです。母は経済的な事情を前面に出して、公立高校に進学するように口酸っぱく僕を洗脳しようとしました。残念ながら僕が選んだ高校は私立の、しかも文系進学率の高い学校でした。公立高校は、とても僕の内申点では望むべくもないところを選んで、わざと落ちたのです。同じ手を大学受験の時も使いました。相変わらず父は理系への進学を、母は国公立大学への進学を望んでいたのですが、結局は私立の文系に収まりました。
父へのわだかまりは大学時代にだんだんと氷解していったのですが、何故か母に対してはそろそろ反抗期が終わっても良さそうな時期になっても残りました。僕が大学に進学するときの口実は「教員になりたい」というもので、母は僕に公務員か教員になって堅い職に就いてほしいと願っていました。教員採用試験や私立学校連盟の試験を受け、当時の就職戦線はバブル後期の超売手市場でしたので、数十校から教職のお誘いを頂戴したのです。しかし、僕は母の目の前でことごとくこれらを断りました。東京都職員の採用試験も、申込んでは見たものの受ける気がせず、試験当日は一日中、繁華街をブラブラしたものです。
最後に落ち着いたのは、当時はまだ海のものとも山のものともつかない発展途上の、関西に本社のある、情報処理観系の企業でした。母は安定指向ですから、今でも山師のような人間の多い情報処理業界などとんでもない選択に映ったようです。しかもとんでもない関西嫌いだったのです。
留めは小説を書き始めたことでしょう。僕にはそういう意識はなかったのですが、母にとっては「とうとう来るべきものが来てしまった」ように思えたそうです。これで僕への期待が、完全に消えました。僕は晴れて自由の身になったのです。もう、何も反抗する必要がなくなったのです。
おおよそ、父の現役リタイアと時を同じくするように、僕の長い反抗期はようやく終わりました。もう本当に三十歳を目の前にしてでした。