将棋に「投了」という言葉があります。ご存知かとは思いますが、将棋は相手の王様を先に詰めた方が勝ちになるゲームです。「投了」とは、まだ詰められてはいないうちに負けを認めて勝負を終わらせることを言います。プロの棋戦になると、最後の最後、玉(王様)が詰められるまで勝負を続けることはまずありません。「棋譜(勝負の記録)を汚す」と言って嫌うのです。アマチュアでも高段者の試合になると「投了」で終わるのが慣例になっています。
投了のタイミングは大きく二つ、あります。一つは途中で形成が大きく開きすぎて、勝負すらさせてもらえないときです。多少なりとも将棋を指される方は、覚えた手の頃に強い人から、飛車はおろか角金銀桂香をことごとく取られてさんざんいたぶられた経験をお持ちではないでしょうか。簡単に言うと、そういうときに勝負を投げるのです。
もう一つは、相手玉に詰みがなく、自玉に詰みを見つけたときです。将棋は先の読み合いのゲームですから「俺が負けるのはもう読めた」という時点で先に頭を下げてしまうのです。
どちらにしても、武士の情と言えるでしょう。自分で腹を切る機会を与えてくれているのです。これから負けを待つためだけの時間、全力を尽くして局面を読み切って負けを認めなければならない不条理。故・村山聖九段が「八十一枡の盤面に命を賭けられるか」「一局の将棋に負けると死んでしまったような気がする」という言葉を残したのを思い出しました。
安楽死には二つの条件があると思うのです。一つは、現在の苦痛をこれ以上長引かせないようにすること。もう一つは苦痛を感じないで死ぬこと。両方の条件が揃ったところで初めて、安楽死と呼べるのではないでしょうか。
つまり、すべての自殺は安楽死ではないと思うのです。死ぬときに痛いとか苦しいとか、想像を絶する方法があるから、それらの方が一般的だからです。
ときどき「あれっ」と思うところで投了してしまう人がいます。確かに形勢は不利なのですが、まだまだ一発逆転を狙って勝負を賭けるチャンスがいくらでもあるときです。このまま勝負を続けたら、確かに八割方、負けでしょう。しかし有利に勝負を展開している相手も人間です。こちらから捨て身で勝負を賭けたとき、気合負けして誤る可能性だってあるのです。それが残りの二割いや、もっと言ってしまえば何でもない局面で変な手を指して自滅する可能性もあるのです。そういうときに投了してしまう人は、プロだとまず三流で終わってしまいます。アマチュアでも高段者になる見込みは、まずありません。
強い人と指して、ごくたまに勝勢に持ち込むことがあります。さらにそのごくたまになのですが「あれっ」と思うところで投了されることがあります。こういうときは、本当に僕の勝ちなのです。詰み筋があるのです。ただ、僕よりも先に、相手が自玉の詰みを見つけてしまうのです。更には、局後の検討で教えてもらって初めて相手玉に詰みがあるとわかることもあるのです。こういう負け方をされると、その後、その相手が異常に強く思えて、勝てなくなるのです。
プロの世界で、たまに面白いことが起こります。本当は勝っていた筈の人が負けるのです。つまり、深く読みすぎて読み誤り、かってに自分の負ける筋を発見してしまうのです。そして局後の検討で「どうして投げたのですか」などと言われながら相手玉を詰める必勝の手を教えられて、愕然とするのです。そのまま勝負を続けてたら、ひょっとしたら本来勝つ方が勝っていたかもしれません。おそらくそうなっていたでしょう。だからといって、ラグビーで言うと認定トライのように判定勝になることは、絶対にありません。とにかく「負けました」と頭を下げた時点で勝ち筋を読みきれなかったのですから、負けは負けなのです。
大抵の人は、人生を詰むか詰まされるかするまで粘ります。
ごくわずかの人が、投了するようです。有名人が自殺すると、ニュースになります。たとえどういう理由であれ、僕は「あ、投了した」と思ってしまいます。つまり、彼(彼女)は負けたんだな、と。そして、その人の人生を、何の関係もない赤の他人として見る場合「投了」のタイミングや頭の下げ方に、人柄がもっともよく現れるのではないでしょうか。この辺はプロ棋士の「負け方」と同じものを見るような気がします。
すべて勝負事には美学があると思うのです。ですから、勝者よりも敗者の方が美しく見える名勝負が生まれることさえあるのです。大抵、敗者は醜いものです。ただ、ごく希に美しい敗者もいることはいるでしょう。つい最近、人生を「投了」したフランスの画家ビュッフェ氏は、自玉の詰みを読み切っての投了かと思われます。
ついでに、もう一言。よく「才能を発揮できないまま」とか「惜しい才能」とかいう言葉を聞きます。これほど無意味な言葉はないのではないでしょうか。才能は発揮できてこそ才能で、埋もれたままならただのゴミにもなりません。「才能を発揮できないまま」この世を去った人は、そこがその人の限界だったのです。惜しくも何もないでしょう。
真剣師(賭け将棋を生業にする人)で、小池重明という人がいました。彼の生活は奔放とか破天荒とかを通り越して、文字通り「破滅型」の人間のそれでした。一時期、特別にプロ棋士にさせようという動きがあったのですが、彼の私生活が問題になり結局そのせいでプロ入りが果たせなかったのです。彼は肝硬変で世を去りました。最後に収容された病院では、延命治療のため身体中に針を刺されチューブだらけになったそうです。しかし彼は自分でそれを全部外して息絶えました。彼に相応しい「投了」だったのではないでしょうか。
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