第二章

 馬券売り場の窓口で俺の前に並んでいた男が、いよいよ次は自分の番となって突然、声をかけてきた。
「これ、この一万円、ここで使えますよね」
 見れば彼の財布の中身は一万円札がびっしりと詰込まれている。蒲鉾板どころか、システム手帳ほどの厚さもあったろうか。
「物騒ですよ、そんな大金を見せびらかしちゃ。」
 彼は俺の様子を見て、安心したようだった。そしてポケットから、時計屋が目に挟んで使うルーペのようなものを出し、その中を覗いてから、窓口に財布の中身をそっくり差し出した。
「馬連5−7、これ全部」
 俺はびっくりした。いくら本命だからといって、全財産を賭けることはないだろう。負けたらどういう反応を示すか見てやろうと思い、さっさと馬券を買って、彼を追った。
 彼は立ち見席で悠然とレースを見ていた。馬券を買った者特有の、血走った目ではなく、馬が走っている姿に見とれている姿だった。レースはガチガチの本命馬が勝った。
「あの、失礼ですがどちらかの場主さんですか?」
「え?」
「いや、あの、失礼かとは存じたんですが、買い方が目立ってたので。場主さんか余程あの馬に思い入れがある方かと」
「はあ。変ですか、私の馬券の買い方。ふーん。そうだ、じゃあ、次のレースは1−6を買いたいんですが、どう買えば良いか教えていただけませんか?」
「は?」
「いや、1−6を買うときに不自然に見えない買い方ですよ。次は絶対に1−6なんです」
 彼は例のルーペを除き込みながら声高に言った。そう言われては仕方がない。俺は1−6の他に1−3、1−8の高配当を少しを買うように勧めた。そうすれば、1流しの穴狙いの格好がつく。ついでに俺も一緒に1−6を狙って買ってみた。
 これも当った。どう見ても彼は素人にしか見えない。いわゆるビギナーズ・ラックというやつだろう。たまたま手にしたあぶく銭を持て余して遊んでるのではないか。そう思っていると彼は、次のレースで、彼は2,000倍の配当を選んだ。2−12だ。どちらもだれもマークしていない馬、まず勝てる見込みはない。それに彼は全額を突っ込むという。
「それはまずい。今、かなり稼いでますよね。これを2,000倍にしたら、両替所でもお金がなくて支払いきれませんよ。それにそんなのが当ったらニュースなって大変な騒ぎになる。まずはこれだけで買ってですね」俺は札束の一つを手に取った。
「はぁ、払ってもらえないのなら仕方ないですね。それにあまり目立ちすぎると僕も困ったことになる」
 彼には他にも札束でいくつか、本命から流して買わせた。散らしておけば御大尽のお遊びでごまかせる。しかし、たとえ本命の流しで押えに買った馬券が当っても、元は取り返せない。それでも最初に比べたらかなりの儲けだとは知っていながらも、俺はヒヤヒヤしながらレースを待った。
 ハプニングが起こった。ゲートで本命馬が暴れ出し、出走取り止めになった。これで本命流しの元がとれる。負けても札束一つ、負けてもそう痛くないし、勝てば目茶苦茶に大きい。
 レースが始まると、二番人気が落馬、三番人気が斜走で進路妨害失格、そのうちに2−12がするすると抜け出してあれよあれよと言う間に一、二着で入っていた。
「あ、あんた、す、す、凄いよ」俺はこれだけ言うのが精一杯で腰を抜かした。それでも彼は最初からわかっていたとでも言いたげに平然としていた。
「どうして、あんた、そう平然としていられるんだい」
「わかってましたから。あの馬が来るのは」
「と、とにかく、人が引いたら換金しましょう。その前に、札束を入れるバッグを用意した方が良い」
 急いで買ってきたボストン・バッグの中は、20万馬券を勝った賞金で一杯になった。
「さあ、これで帰れる」
「いやあ、これだけ勝てば、帰れるどころじゃないでしょう」
「いや、そうでもないです。あなたにはお世話になったから、ちょっとだけお話しましょう。まずはこれを覗いてみて下さい」
 例のルーペだ。覗いてみると、スポーツ新聞のマイクロフィルムらしいものが見えた。そこに今日の結果が全部出ている。驚いて日付を見ると、明日になっている。
「これは昨日、図書館で借りてきたものなんです」
 彼は未来からやってきた。未来は凄いインフレで、通貨はドルに変ってしまった。一万円は補助通貨になっている。一ドルが百万円らしい。彼は結婚記念日にどうしても妻へワインをプレゼントしたくて、こちらに金儲けに来た。無論、見つかれば未来の警察に捕まるが、この程度のことなら日常茶飯事、目をつぶってくれる。ときどき、高配当の馬券が当ったというニュースが流れるのも、彼のような未来人が小遣稼ぎに来たからだそうだ。
「そうとう高価なワインでしょうね。優に5千万円はありますよ」
 彼は溜息をついて目をそらした。
「やっと50ドルか。安物のワインが精一杯だな。パチンコで2千ドル負けて、余った小銭からここまで戻したんだ。よしとしなければ。そう言えば、あなたには随分お世話になりましたね」
 そしてこちらを向いて、お礼だからと札束を一つ握らせると、目の前からすぅっと消えた。
 目の前の百万円の札束にはこんなメモがはさんであった。
「お子さんに飴玉でも」

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