株を始める(1999.11.3)
株を始めることにした。
実は株で儲けることに関して、あまり良い印象はない。バブルの財テク熱を思い出し、嫌な気持ちになるからだ。金はちゃんと働いて稼ぐもの、という古い考えがいまだに僕の中には残っている。プロのトレーダーは、そのために情報を収集し、分析し、判断して、株の売買により生活の糧を得ている。僕が嫌いなのは欲に駆られた素人が手を出す、その根性だ。そして今、僕がその素人に成り下がろうとしている。
理由はいくつかある。
まず、書斎の家賃とネット関係で毎月約¥20,000−がかかる。今は残業をしない。会社から出る給料はほぼ基本給のままだ。家に生活費を入れて、本を買ったりCDを買ったり飲んだりすると、お姉ちゃん遊びもしないうちに毎月赤字が出る。かつて残業に次ぐ残業で、結婚資金プラスαが残った。貯金の利子では到底、書斎の家賃は払えない。つまり、今のままじっとしていると「プラスα」を少しずつ食いつぶしていくことになる。不本意ながらも体を痛めて得た金がじわりじわりと減る様をむざむざと見ている手はない。どうせ減るなら、自分の手で動かしての方がなんぼか気は楽だ。
今はまだデフレ傾向が続いているらしい。しかしいつ大きなインフレが訪れるかわからない。戦前のドイツみたいなことになったら、預貯金などカスにしかならない。それなら株の方が、まだインフレに対応できるだろうという考えもある。
俗に「飲む、打つ、買う」と言われるが、一時に全部に手を出したことがない。僕が自分自身に対して、堅気でいることを証明してやるために、勝手に立てた掟だ。ここ数年、ギャンブルからはすっかり足を洗っている。そもそも下手だから、負け続ければ飽きる。競馬はライスシャワーが死んでから、興味が失せた。麻雀は適当な相手がいないから打てない。プロはだしか、やっと牌を並べられる初心者だけで、中途半端なところにいる面子が揃わない。パチンコは飽きた。どれにしても労力と儲けの釣り合いが取れないような気がする。
更に、書斎を借りてからは時間的、経済的の両面から問題が生じ、おねえちゃん遊びをしていない。それならギャンブルを始めて、何の問題があろう。
どうせギャンブルを始めるなら、スケールが大きい方が良い。十万、百万単位の賭けの方が、本腰を入れて楽しめる。せっかくiMacを買ったのだからこれを使わない手はない。オンライン・トレードならば、相場の情報収集・分析以外の手間は省ける。労力と儲けの釣り合いが取れているような気がする。
もう一つ、僕にはあまり社会的な関心がない。小説の幅を広げるために、株を始めて特に経済面から社会に関心を開くことも可能なのではないかという助平心もある。金を儲けたい気持ちはやまやまだが、どちらかというとマネー・ゲームに参加してみたいという興味の方が強い。
従って、財産株と投資用の株を買って、前者は貯金の代わりと思い、後者をちまちままわして儲けは部屋代とネット代が浮けばそれで充分と思っている。
もし何かの拍子に大儲けしたらどうするか。無論、その金を握り締めておねえちゃんのところへ遊びに行く。自分で立てた掟を破ることにならないかって?そもそも素人が相場に手を出した時点で、既に堅気ではないのだ。
霧小舎捕人(1999.11.4)
僕の名前である。無論、本名ではない。正確には僕のハンドル・ネーム(HN)で、ペンネームではない。ホームページ他ネット上ではこの名前を使っているが、小説は原稿用紙に書き、本名を署名している。他に発表するところがないので自分のHPに掲載し、霧小舎捕人名義になっている。
既にお気付きの方もいらっしゃると思う。「霧小舎捕人」はある外国人の名の当て字である。「エドガー・アラン・ポー」が「江戸川乱歩」になったのと同じだ。ただし僕の場合、実在の人物ではない。カート・ヴォネガット氏の諸作品に登場するキルゴア・トラウトという人物から頂戴した。
このキルゴア・トラウトはSF作家である。ケチで、猜疑心が強く、人を信用することもなく、女房には逃げられ、一人息子には見捨てられる。しかも、本業の小説も、まるっきり売れない。せいぜいポルノのパルプ・マガジンの空白ページを埋めるためだけにに二束三文で売れるのがやっとで、それすらしばしば出版社が倒産したり、踏み倒されたりして手に入れることができない。
「ただやけくそのように書き続けるだけ」と一人息子から形容されるような、どうしようもない作家だ。
あやかるには縁起の悪い。
どうしてこんな架空の、しかも売れないという設定の作家の名前にちなんだか。
僕は、猜疑心が強く、人を信用することもなく、結婚すらできないから女房に逃げられることすらできず、当然のことながら見捨てられる息子すらいないし、ポルノ雑誌の穴埋めどころか、原稿が売れたことは一回しかない(どこにどのように売れたかは秘密・小説ではない)。良く似ている。見ようによってはキルゴア・トラウトよりも悲惨な状況かもしれない。今更、縁起の悪い名前を付けたところで既に、失うものは命と少々の小銭くらいしかのこっていないのだから、後は比較的長生きしてくれたらそれで良い。キルゴア・トラウトは割と長生きして、しかも最後まで元気だった。
それから何よりも『ガラパゴスの箱舟』を読んでいただきたい。この作品の語り手が、ラスト直前で、ヴェトナム戦争に出兵し梅毒をうつされる。そこでかかった医者から、名前のことを訊かれる。独断と偏見に過ぎる嫌いはあるが、このエピソードがなかったら『ガラパゴスの箱舟』は半分以下の価値しかなかったのではないかと思う。
ひょっとしたらヴォネガット氏は、この数行を書きたいがために、『ガラパゴスの箱舟』を書き進めたのではないか。「霧小舎捕人」という僕のHNは、こういう奇跡が起こることを信じたい気持ちと、僕の作品で起こせたらという願いが込められている。
これが僕の、文学的な姿勢だ。
空白期間(1999.8.14)
最初の小説を書くまでに8年近くかかった。
学生時代、友人が自主発行する学内週刊紙にエッセイだか評論だか良く分からない文章を連載して、一応はファンもついた。師匠のむー君はもうこの頃、既に小説を書き始めていた。だから僕も雑文だけでなく、すぐに後を負って小説を書くつもりでいた。
ところが、卒論を書き終えたら、何も書けなくなった。日記と手紙と会社関係の書類以外、自分の趣味で文章を書く気がなくなった。確かに会社の仕事は予想を越えて忙しかった。だがそれよりも、発表の場がなくなったことの方が痛い。友人の学内紙は僕が卒論を書いている間に自然解体した。
そんなことがあって、もう書くこと、テーマも機会も含めて、はないと自分勝手に決めていた節がある。
それが入社5年目の春から、少しずつ事情が変り始めた。カナダのバンクーバーに三ヶ月の出張を命じられたところからだと思う。
出張に出かける前、大学の後輩の女の子と差しで飲む機会があった。
「今は何を書いてるんですか?」
何も書いていないと答えると、彼女は少し残念そうな顔をして言った。
「霧小舎さんのエッセイ、好きだったんです。今でもあの新聞、全部とっておいてますよ」
「のエッセイ」が抜けていればもっと嬉しかったのだが、贅沢は言っていられない。これは結構、嬉しくもきつい一撃であり、同時に大きな驚きでもあった。何せ書いた本人は自分の書いた文章のあまりの未熟さに耐え切れず、原稿も掲載紙も卒業と動じに全部捨ててしまっていたのだから。どこがどう気に入ったのだろうか。僕の未熟な表現で奇怪な論旨の文章が、少なくとも一人の女性にとっては大切なものになっていたのだ。これが最初の変化。
バンクーバーでの生活は、出張というよりもバカンスに近かった。朝のミーティングが終ってしまえば後は就業時間まで昼休み、気が向けば書類の翻訳をする程度の仕事しかない。英→日、日→英の翻訳に飽きると、向うの社員を相手に馬鹿話で英会話の実地レッスンを受ける、といった具合だった。僕の一番の仕事は夕食を作るのと朝ミーティングの議事録作りだけだった。こういう生活もあるんだな、と実に不思議な思いがした。
仕事をしていない時間の方が圧倒的に長い。この「余った」時間をどう使ったら良いのかわからず、とまどっている自分が馬鹿にしか見えなかった。
たまたま職場に、同じアパートに住むJanという女の子がいた。どういう訳か彼女にいたく気に入られ、他の日本人が帰国し僕一人残されてからというもの弟のように可愛がってくれた。週2回は夕食を一緒に食べたろうか?ある晩、食事を終って酒を飲んでいるとき彼女にこんなことを訊かれた。
「来世は何になりたい」
「テナー・サックス吹きになりたい。才能はあるけど酒に溺れてメジャー・シーンに昇り切れない。それで、40歳くらいで肝臓壊して、スラムの裏道で野垂れ死ぬ。なんか恰好良いじゃん」
すると彼女は真顔で言う。
「今生では?今生では無理なの?あなたはただのエンジニアで終るような人には見えないわ」
僕は答えに窮した。楽譜も読めない、楽器に触ったことすらない、今からじゃとてもじゃないけどプロになんかなれない、と言っても彼女は納得してくれなかった。苦し紛れにこんなことを口走った。
「今生は作家になるのに忙しいんだ」
これが第二の変化。
帰国するとまた仕事で忙しくなった。片道一時間半かけて朝九時までに現場に出勤する。一月の残業が100時間を越える生活が一年と少し続いた。この間、不安性の頻脈発作が2回出た。激しい運動をしているわけでもないのに突然動悸が激しくなり、一分間に脈拍が200近くまで跳ね上がる。目の前が暗くなり死ぬのかと思った。まだ読んでいない本のこと。まだ聴いていないCDのこと。まだ書いていない小説のこと。せめて短篇一つだけでも小説を残したかったという思いがぐるぐると頭を駆け巡った。そこまで「小説を書く」ことに対して切実な願望があったことに、ようやくこのとき気付いた。僕は前々から、死ぬときはおねえちゃんのことを考えるのだろうな、と思っていた。いざ死にかけてみると(これで死ぬことはないと医者に言われたから、いささかオーバーな表現ではあるが)、おねえちゃんよりも小説が大事。これが第三の変化。
バンクーバーに滞在中、山口瞳氏が亡くなった。これで書けるような気がした。筒井康隆、山口瞳、丸谷才一の三氏には僕の文章を読まれたくない。みっともなくてお見せできるような代物ではない。僕の文章なんか、彼らの目に触れることなど絶対にない。しかしどこかでいつも目を光らせているような気がする。友人への私信など、たとえそれが気楽な文章でも、書こうとすると睨まれているような気がしていた。山口瞳氏が亡くなったのはもう本当に口惜しい。誰か代りに死んであげられる人はいなかったのかと思うくらい、もう新作の小説が読めないことに寂しさを感じた。だから、接続詞としてはおかしいが僕の気持が要求している、だから睨みに隙間ができて、そこをかいくぐって書いていけそうな気がした。第四の変化。
丁度そのころ、むー君から「『カナダ旅行(本当は出張なのだが)記』を書いてみなさい」とお題を頂戴した。書く気はあった。あってもきっかけが掴めずに、それよりも筆を執るのが恐くて、うやむやなまま書かずに終らせた。
ところがそれで終らせてくれないのが僕の因業なのか。一昨年、大学を卒業をして初めての夏休みが取れた。友人がロンドンに留学しているので、観光がてら会いに行ってみた。彼女は造形作家だ。創造者である。創る苦しみと楽しみを僕以上に知っている。
夕食を付合ってもらい、遅くなったので彼女を家まで送ったら、帰りの終電がなくなってしまった。仕方がないから泊めてもらった。学校の宿題で忙しい様子の彼女を尻目に、同じ部屋で僕はのんびりとマリブをグレープフルーツジュースで割って飲んでいた。遊んでくれないので、手元にあった本を眺めながら何事かを考えていた。
何の気なしに小声で呟いた。
「また筆を執ってみたい気もするんだよな」
これを彼女は聞き逃さなかった。
「書くのが好きなんだから言う前に書いてみたら。言ってるだけだと書けなくなるし、みっともないだけだよ」
そう言って「もう遅いからはよ寝えや、傍でぶつぶつ言われると気になるわ」と僕を別の部屋に押し込み、宿題を続けた。これで、何かが切れた。脳内の配電線がショートを起こした。壊れた。
帰国後、筆慣らしにエッセイを書き、調子が戻った頃を見計らって、秋口から小説を書き始めた。2ヶ月かかって、四百字詰原稿用紙十六枚の作品『再開発地域』ができあがった。嬉しかった。良く読み返してみたら、調子が戻るどころか、とんでもない悪文なのがわかった。それでも満足だった。誤解を恐れずに言う。何が嬉しいといって、これで僕自身に対して義理が果たせたいう気がしたのが一番嬉しかった。もうすぐ三十歳に手が届く直前だった。これからも小説を書くだろうという予感と同時に、これからの作品は全部「おつり」なんだな、という思いもした。実は「おつり」にしては多すぎることを現在目論んでいるのだが、それでも「おつり」という意識に変りはない。
事実、予感は見事的中してしまい、家族親戚友人関係一同の心配を他所に、まだ少しずつでも小説を書いている。
ところで、妹を始め数人の連中は、僕が小説を書き始めたことについて、長い潜伏期間を経てようやく発病したという見方をしている。異論を挟む余地はない。
クリスマス1999(1999.11.13)
最近、派手なイルミネーションやモミの気を見る機会が増えました。そう言えばもうすぐクリスマスなのですね。まだ一月以上もあるのに、気の早い話です。
三十歳も過ぎると決して強がりではなく、一人で迎えるクリスマスに対して何の感慨もなくなってきます。特に会社勤め、しかもシステム開発なんぞを手がけていると、毎日のルーチンワークで季節感が消えるのです。「そろそろお正月なのでここは一つ、縁起の良いシステムを」なんて注文、十年近くこの業界で働いていますが、まだ受けたことはありません。
確かに昔は腕を組んでレストランやホテルに入るカップルを見ると、後ろから鉄パイプで襲撃してやりたい衝動に駆られたものですが、今では「あのねえちゃん、小柄やから懐炉の代りになりそうやな」とか「一晩で生まれるものかキリストよ」と川柳を詠ってみたり実に風流に過ごしています。
某サイトの日記に「恋人のいないクリスマスを迎えるのは十三年振り」と書いてあるのを見て、そういう人もいればいるものだと感心してしまいました。それならこちらは三十一年連続。この記録を持つ人はかなり少ないのではないか、将棋の初段保持者とどちらが多いのだろうと妙な比較をしてしまいます。
仮に今すぐ恋人ができて十三年連続でクリスマスを一緒に過ごすことになります。すると僕は44歳。相手の女性も少なくとも30代には差し掛かっているでしょう。あまり見たくない光景です。それ以前に、相手の女性から結婚を迫られることでしょう。途中から「妻」になったらそこで記録は途切れるのです。要するに、僕には十三年連続の記録はもう絶対に破ることができないのであります。
「恋人のいない」クリスマスは、確かに三十一年連続なのですが、女友達と過ごしたクリスマス・イヴは確か、3回程あります。ちょっと記録に傷が付いた気分がして、残念です。
最初は、高校一年の時でしたか。中学で仲の良かった同級生が何とはなしに集まって、その中に女の子が二人いた、というだけの話です。そのうち一人は、既に結婚しています。もう一人は、どうやら独身のようです。短大を卒業して大手保険会社に就職したという消息を聞いたとき、二〜三年後には玉の輿と予想していました。ところが、優秀な社員で年収が800万近くもあるらしく、馬鹿らしくて結婚なんかしていられないのだそうです。ちなみに彼女は、中学の頃は目立った存在ではなかったのですが、歳を重ねる度に美しさに磨きのかかるタイプの美人です。
次は会社に入ってから。エレベーターを降りたら一階のホールに後輩の女の子がうろうろしてました。彼女はうちの近所に下宿していて、会社の行き帰りに時々一緒になったり、ボーリングに行ったり、寄り道して喫茶店に行く程度の仲でした。そのときも「誰か待ってんの」と気軽に訊いて、誰も待ってないとの返事だったので飯でも行くか、と誘ったのです。たったこれだけのことでした。次の年、彼女は会社を辞めて、間もなく急に結婚が決まったそうです。後で従妹にこの話をすると「捕ちゃん、にぶいなぁ」と言われました。しかし僕にもあの娘にそういう気があったとはまるっきり思えないのです。もっとも僕に限って言えば、身体だけならいつでもO.K.なのは言わずもがなですが。
その次は、カナダに行った年ですからかれこれ4年前になるでしょうか。12月23日に、現在ロンドンで留学中の友人が実家の京都から知り合いを訊ねて上京してきました。その知り合いは午後から夫婦揃って夜遅くまでパーティーに出席するため、彼女はその家で一人でいたそうです。他に東京の知人は僕一人、その日僕は仕事のピーク、土曜日のくせに朝から出社していたのでようやく夜になって捕まりました。どこか連れてってくれと頼まれたので、23日の夜は渋谷を一回りしてショットバーへ。24日は新宿で都庁ビルの展望台に行きその後、歌舞伎町から東口をまわって飲んでました。
「なぁ、そう言えば今日は24日やな。クリスマスや」
「プレゼントでも欲しいの?」
「ううん。違うねん。あたしな、もうクリスマスなんかどうでもよくなってんけどな、まさかあんたと過ごすようになるまで落ちぶれるとは思わへんかったわ」
今年のクリスマスイヴは、金曜日なのできっと盛り上がるでしょう。一人で繁華街をうろうろしていろんな人を見てまわろうかと考えています。幸せなカップルも佃煮にするほどいるでしょうし、仕事に忙しいビジネスマンもいるでしょうし、訳もわからずうろうろしている団体や、僕みたいな輩もいるでしょう。そういう人達を総ざらいにじっと観察してみたい気がするのです。ホテルの前で急に喧嘩を始めるカップルや、サンタクロースのコスチュームの人がデパートのトイレに入っていく姿なんかを見ることができたら面白いと思っています。風俗店の入り口でどんな人が入るのかを見るのも一興かと思います。僕自身が入ってしまう危険は常に隣り合わせになりますが。そうして夜中、書斎に戻っていつものように小説を書くのです。
そう言えば、一昨年のクリスマス・イヴも女性が一緒でした。感冒性急性胃腸炎でゲロゲロになり、医者で点滴を受けました。看護婦さんがなかなか上手く針を入れられなくて、三回程刺し直しました。そこには大きな青痣が残りしばらく困りました。
決して、寂しさに負けて、SMクラブで「女王様の『白衣の天使』コスチューム針責めプレー」に走った訳ではありません。
結婚(1999.7.22)
いい加減な年齢になったせいか今年は結婚式への出席が多い。知らない人が大勢集まる場所が嫌いで、余程親しい間柄ではない限りできるだけお断りしているのだがそれでも今年は4件出席する。3月に高校〜大学時代の飲み友達が結婚した。こいつは「俺は結婚なんかしない、お前の方が先だろう」と常々語っていたのだが、いつのまにかそういう発言がなくなったなと思っていたら結婚が決まった。
5月には従妹が結婚した。5歳下で、適齢期というところか。
その直後、僕より3ヶ月年上(早生まれで学年は1つ上)の従兄が急に結婚した。彼の場合、籍だけ
先に入れて、式は12月に予定している。30歳を過ぎ、いよいよ親戚からの攻撃が激しさを増したところへ、大きな砦が一つ崩れたのは実に痛い。「まだかまだか」の声が苛烈を極めてきた。
妹が11月に結婚する。従兄の結婚にも困ったが、実はこれが一番痛い。僕は自他共に認める兄馬鹿であり、いくら妹に軽蔑されても妹と飲みに行く楽しみを奪われ(僕より強いからいつまででも付合ってくれ、つぶれても安心なのが大きい)、何より寂しい。
妹の旦那になる人はいつも仕事で忙しいから、どうせ結婚しても「兄さ〜ん、一人で寂しいよ〜。飲みに連れてってよ〜」と電話してくるのは目に見えているが。
「兄さんが結婚するまで、心配で結婚できないよ」といつも僕を急っついた。しかしとうとう痺れを切らしたらしい。当の本人にその気がないから、もうどうしようもない。
昨夜、テレビを見ていたら今まで男性と付合ったことがなくキスはおろか手すら握ったことがないという二十二歳の女の子が出てた。「お祭りに行くのがつらいんです、同級生の友達はみんな彼氏と一緒に行くから、わたしと一緒に行く人がいなくなっちゃったんです」これは切実だろう。今の僕が、丁度この状態である。親しい友人はほとんど、結婚してしまった。結果、遊び相手が、随分と減ってしまった。
相談の回答者は「時期が来るまで待ちなさい」と言っていた。多分それが一番の正解だと思う。これから彼女に相応しい男性が、きっと表れることだろう。ただ、あまり待ちすぎると僕のように開き直るしかなくなるような状態に追い込まれるから、それだけは気を付けた方が良い。
三月まで携わっていたプロジェクトの上司は、現在三十七歳で独身だが、本人は二十四歳で結婚して今頃はマイホームパパになっているつもりだったらしい。唯一の誤算は、これを考えたときに結婚相手の当てがまるっきりなかったことで、それは現在も続いている。
三年前に中学の同級生のお母さんが、お見合いの話を持ってきた。もうそのときには結婚なんぞ諦めていたので、丁重にお断りした。他の理由もある。まず、その頃は以上に忙しかった。朝九時に現場に出社し、仕事が終るのは大抵十一時を過ぎてからだった。さらに現場までの通勤時間が一時間半もかかり、そんな生活が半年以上続いていたため、見合いなんぞする暇があったら、寝てたかった。次に、例えば写真を見て「好みじゃないから」と断るなんて失礼なことは、ちょっとやりにくい。仲介者が親戚だったらある程度の我侭を通せるが、同級生の家族のご好意だから、まず僕にはそれだけの度胸はない。何より、何の間違いかお付き合いをすることになったは良いが、途中で破談になったときのことを考えると、とても恐くて見合いなんかできるものではない。
この同級生のお姉さんが、ちょっと渡辺満里奈に似た美人で、時々会社帰りの駅でばったり出会うのが楽しみななのだ。お姉さんが見合いの相手なら喜んでお願いしていたかもしれない。ちなみにお姉さんは独身であるばかりでなく、本当に彼氏もいない。世界七不思議の一つではないか。
ところで、僕はこの同級生のご家族にすこぶる評判が悪い。まあ、中学生のときから一緒に酒を飲んでまわっていたから、いい筈はないのである。それなのに何故、僕に見合い話しを持ってきたか。実は同級生は、その年の春に恋愛を経て結婚した。僕も含めて家族の見解によれば、実の息子が勝手に結婚してしまったので、僕がスケープゴートになったのではないか。
僕にその気がないのは、色々理由があるが、まずは僕の気に入った女の子には必ずと言って良いほど、旦那かほぼ決まりの彼氏がいることが挙げられる。ようするに僕はどんくさいのだ。
僕より目ざとい人間はこの世に腐るほどいる。
たとえ偶然、独りであっても、僕を将来の結婚相手の候補にすら入れてくれない。もてない男たる所以である。面目躍如と言ったところか。先の同級生のお姉さんも、このパターンだ。
次に、両親の姿を見て、結婚生活に対するあこがれがまったくなくなってしまった。実に面白くなさそうに見える。
次に、子どもがあまり好きではない。僕自身がまだ、子どもなのだ。迂闊にも子どもが授かってしまった場合、どうしたら良いのか。子どもが子どもを育てられるか。
どうのこうの言ったところで、今、僕にとって一番大事なのは、現在の会社に勤めて生活費を稼ぎながら、原稿収入を得ることなのだ。三十五歳までに何とか、月給の三分の一くらいでも、原稿収入を得たいと思っている。できれば四十五歳までには原稿収入と印税で暮らしたい。頭がそっちの方にしか働かない、というのが正直なところだ。
三十五歳までに、これは、と思う女性が現れず、いや、現れても見向きもされず、原稿収入すら得られなければ、僕はおとなしく見合でも何でもして結婚し家庭を持ち、一介のサラリーマンに甘んじようと思う。
とはいうものの、妹から「はやくお姉さんがほしいよ。兄さんが夫婦喧嘩したら、わたしは絶対にお姉さんの味方するんだから」と言われるのは、つらい。