恋逢話9


さっきよりも煙が濃くなっている。

香はドアのすみに立った。

手には古ぼけた消火器が一つ。さっきラ螺旋階段の下で見て、とっさにつかんだものだった。
よく見ると有効期限もとっくに過ぎているような代物だ。それでもなにも無いよりはぜんぜんマシ。

(信じてるからねっ)

消火器をからだの前にしっかりと構え、意を決してドアを蹴った。

熱風と煙が一気に噴出す。

(動いてっ!!)

身を低くすると一気に低めに消火器を作動させる。

目の前から襲い掛かる熱風と、手に持っている消火器の衝撃で香は倒れそうになった。

それでも足を踏ん張り、目を薄く開いた。

煙もだいぶ外に流れたようだった。
熱さは相変わらず感じるが、火の勢いと自分の気持ちは思ったよりも落ち着いていた。

(佐伯さん―は?)

消火器を動かしながら香は事務所に中に足を進める。

まだ火は収まっていない。髪の毛や肌が焼けそうだ。
香は佐伯の机のあたりに進んだ。うっすらと何かがある輪郭を感じる。

佐伯がしゃがみこんだ格好のまま香をゆっくりと見上げる。頬も服も焼け焦げだらけだ。
佐伯に火が近づくのも時間の問題だろう。

香は息を飲んだ。

「は、早く逃げなくちゃ」煙を吸い込んでごほごほと咳き込んだ香は、それでも佐伯に近づき、手を伸ばした。

自分の腕を掴もうとする香の指を、佐伯は払った。

それは今までのような、怒りや嫌悪でなく、弱々しい拒絶だった。
ぽつりと、炎の勢いに負けそうな小さな声で佐伯がつぶやいた。

「もう、いいんだ」
今まで、聞いたことのないくらい、落ち着いた声色だった。

「え?」
「清美はもう俺を許してはくれないだろう。これじゃあ職人に戻れもしないしな」
佐伯が香を見上げる。

「もう、いいんだ。はやく逃げろよ。あんたも死んじまうぜ?」

少し、口端をあげて笑った。

「何言ってるのよっ!!バカっ」

また大声を出して、咳き込む。

香は煙臭さと喉の痛さ、熱風の暑さに涙しながらも佐伯の腕を掴んだ。
そのまま佐伯の腕を担ぐように立ち上がり、佐伯を引っ張り上げた。

「な、なにッ」
「このままここで死なせやしないんだから。清美さんに許してもらいたかったら最初に謝るのが筋ってもんでしょうがっ。行くわよっ」

そういうと、香は無言で佐伯を引っ張って出ていこうとする。

火の勢いは止まらない。

佐伯はまだ呆然としているようで、自分の意志で歩こうとしていない。
香が佐伯を抱えたまま、ふらりと傾いだ。

思わず、膝を突く。

「だから、無理しないで、一人で逃げろっていってるだろ。余計なー」
「うっさい。ちょっと黙ってて」

ミシ、ミシッ と天井が鳴る。

香と佐伯は思わず、見上げた。インテリアの為に渡してあった、建築上は意味のない太い木製の梁が燃えて音をたてている。
建物を支えないその梁は、想像よりも簡単に燃え落ちる。そんな風に感じた。

大きな、大きな固まりが落ちてくる…

「なに、ぼけっとしてるんだ。動けっ」

香は声の方向に目を向ける。

(僚っ)

煙の中からすがたを表した僚は、そう声を掛けると、香と佐伯を抱えるようにその梁の下から移動させた。

すぐその後、大きな梁が下へと落下した。

炎の勢いは増すばかりだ。

僚はそれを見ることもしないで、香の背中から佐伯を取り上げ、肩に担ぐ。

そして、空いてる方の腕で香を引き寄せるようにすると、そのまま事務所を飛び出した。

「大丈夫か?」

僚の声に、香はうなずいた。
僚は返事をしない。ただ香の髪の毛をくしゃり、と混ぜただけだった。

 

+++

 

「おいっ、人が出てきたぞ。救急車回せっ」
「火の回りが早いぞ。気を付けんだっ。こっちだっ」
消防車や、救急車のサイレン。

回りの工場や事務所からの野次馬。
僚たちが事務所から脱出したときには佐伯の事務所の前は騒然としていた。

そんな喧噪の中、まるでそこだけぽかりと切り取られた様に、駐車スペースの隅、僚のクーパーにもたれた柵原と清美がこちらを見ていた。
柵原と清美は僚たちの姿を確認すると、駆け寄ってきた。

「香さんっ」
その声に香は僚の胸から顔をあげる。

僚は香を抱いていた腕をそっと放した。そして、香の肩を少し…押した。
香は驚いて、僚を振り返える。

振り返った香が見た、僚は佐伯を担いだまま、救急車に向かって歩いていた。
清美が僚と佐伯に駆け寄るのが見える。

僚の横顔も見えない。

「香さん、大丈夫でしたかっ」

「え、えぇ。大丈夫です。柵原さんは」

「は、早く救急車に…」

「あ、はい」

煙が目にしみて、涙がでた。


+++

 

「まったく、あなたには呆れたものだわ」
そんな美樹の声に、香はただ恐縮するだけだった。

ちいさくなった香を見て、美樹は微笑んだ。
「でも本当に、無事で良かった。心配したのよ」

美樹はそういいながら、香のベッドサイドの窓を開ける。庭から気持ちのいい風が入ってくる。

ここは、教授の屋敷だった。

あのあと、救急車に乗せられた香は総合病院に運ばれたのだが広範囲の火傷と灰を飲み込んだため、長期の入院を余儀なくされた。
当初は大人しく入院していた香だったが2週間を越えると目に見えて元気がなくなってきた。

何しろ意識ははっきりし、痛みも特には感じない。

それなのに動けない、おしゃべりができないというは元来働き者の香にとっては辛い事だろう。

美樹やかずえが世話をしに来てるくれるのも、申し訳ないという気持ちが香にはどうしてもでてきてしまう。
それに偶に痛みを感じたり湿布の替えをお願いしたくても、忙しそうな看護士さんを見ると、香はどうしてもそれを言い出すことが出来なかった。

「もう…退院したって平気なのに…」

ちょうど教授が見舞いに来たときにつぶやいた香の言葉に皆は顔を見合わせた。
結局、教授の口添えもあり、香は教授の家に行くこととなった。 

「でも…ほっとけないでしょ…?」

香が小さくつぶやく。

そんな香にまた美樹は優しい気持ちになる。

「ごめんなさい、美樹さん。お店あるのにいつも世話しに来て貰っちゃって」
「いいのよ。だって香さんとおしゃべりできないとツマラナイんですもの。声がでるようになってよかったわ」

脱出直後は出ていた声が、緊張状態が解けたからか病院に付いた時点で声が出にくくなりそのまま、音が出なくなった。煙で喉がやられたらしかった。
香は少し微笑んで、美樹の顔を見る。

「ありがとう。……あの、美樹さん、僚は…」

香が言いにくそうに、パートナーの名前を出した時、ドアがノックされ扉が開いた。
顔を出したのはかずえだった。

「香さん、美樹さん。いいかしら?」

美樹は香の顔を見てから答える。

「え、ええ?どうぞ」
「お客様なの、香さんに」
「お客さま?」

かずえに促されて、部屋に入ってきたのは柵原だった。

「柵原さん。もうお身体はよくなったんですか?」
美樹が柵原に問う。

「えぇ、おかげさまで」
「それは良かったわ」

美樹は柵原に会釈をすると、香のベッド脇に置いてあった椅子から立ち上がり、かずえと一緒に部屋を出て行った。

ドアを閉め、美樹はかずえと顔を合わせる。

「冴羽さんは?」
「今日も来ていないわ。何考えているのかしら」

「香さんが…気にしてるの。あれから一度も顔をみせていないじゃない?」
「香さんが心配じゃないのかしら。あんなに火傷を負ってるのに」

「心配しすぎて、来れなかったりして」

美樹とかずえはまた顔を見合わせた。そして二人で吹き出す。 

「やっかいな、性格してるわね」
「ファルコンにとっちめて貰わないと」

二人は香の部屋の前からそっと立ち去った。

 

+++

 

「柵原さん、大丈夫でしたか?」

香の言葉に柵原は苦笑いを浮かべる。

「えぇ。僕は……全然。なんともないです。お見舞いに来るのが遅くなってすみませんでした」

そういって、柵原は香に深々と頭を下げた。

佐伯の事務所の火事、その現場に柵原が居たことはたちまちワイドショーのニュースになった。
佐伯と柵原の事もおもしろおかしくかき立てられていた。

香が現場にいたことはばれなかった(のか誰かが裏で手を回したのかはわからなのだが)ため
そのことで騒がれることはなかった。

「な、なんですかっ。柵原さん、止めてください。柵原さんだって大変だったのに」
「すみませんでした。俺のせいで香さんにこんな怪我をさせてしまって」

香のとりなしで、やっと顔を上げた柵原は、先ほどまで美樹が座っていた椅子に座る。

「何言ってるんですか。わたしこそ…佐伯さんの行動が読めなくて柵原さんにも佐伯さんにも危険な目に遭わせてしまって…」
「俺なんて、全然危険な目にあってません。怪我だって本当になんとも無かったんです」
「今までどおり、ケーキ作れますか?」

そんな香の問いに、柵原は笑みを浮かべた。

そして『aki yanahara』のケーキボックスを香の目の前に置いた。

「あ」

香の顔が満面の笑みに変わる。

その香の前でボックスを開けると小さいけれど、ワンホールの可愛いケーキが登場した。

「シンプルな、ショートケーキにしてしまいました。いいイチゴが手に入ったので」
「とっても美味しそう」
表面に並んだイチゴが艶々と輝いている。
クリームもピンとたち、まるで全体がガラス細工の様に光っていた。

「復帰第一段のケーキはぜひ香さんに食べて貰いたかったんです」
「食べていいですか?」

香が柵原を見上げる。

「もちろん。…でも香さん普通食、平気なんですか?」
「ダメって言われても無理です。これ美味しそすぎますから」

柵原がベッドのそばの棚からフォークを取りだし、香に渡した。
香がケーキにフォークを入れる。

柵原はその様子をじっとみていた。

「美味しい」
「本当ですか」

香が柵原に微笑む。

「えぇ、本当、すっごい美味しいです。ぱくぱく食べちゃう〜」
「良かった…実はちょっと心配だったんです」
「美味しい…」
「ありがとうございます」

柵原は近くにあったポットで紅茶を入れ、香に渡した。

「…柵原さん。お店は…」
あの火事で、柵原のケーキショップも一般客が入れないくらいの野次馬が来ていたのを、香もテレビで見て知っていた。

「えぇ…続けますよ。といっても俺はまたパリに戻るんだけど」
「えっ!」

香が持っていた紅茶のカップが揺れる。
柵原はそんな香の顔をじっと見ている。

「逃げるんです…なんて」
「ど、どうして?」
「めんどくさくなっちゃった。ってのが本当の所なんだけど」
「柵原さん」

香が怒ったように、柵原を見る。

その視線に柵原は苦笑いを浮かべる。

「すみません…。もう一回出直そうって思いました」

香も柵原を見つめる。

「東京のお店は…?」

「続けますよ、もちろん。せっかくオープンしたんですから」
「でも柵原さんがいないのに…」
「お忘れですか?香さん。うちには清美という出来たパティシエが居るんですよ?」
からかうように柵原が言った。

香の表情はてきめんに明るくなる。

「じゃあ、清美さんは残るんですねっ」

清美は柵原をけ落とそうと思って、あんなことをしたわけではなかった。
だけれど、結果として…清美は柵原を傷つけていたのだから。
だから、あの時の柵原の怒りを知っている香は…清美が店から出ると思って心配していたのだ。

「もちろん。彼女がいなきゃうちの店なんてすぐに立ちいかなくなるんですから」
「…よかった…」
「俺がいないのに?」
「もう」

「スミマセン。ってことでこっちは安泰だと思いません?佐伯も居るし」
「…え?」
柵原は少し照れたように、言った。

「佐伯にも、うちで働いてもらうことにしたんです。香さんをこんな目に遭わせておいてなんなんですけど…」
「全然。全然です。すごくいいと思います、それ」
「佐伯もまだ退院できてないんですけど…」
「でも直るんですよね」
「えぇ、医師からはそう言われています。直るまでは俺もこっちに居る予定です」
「早くよくなるといいですね」

「香さんも…」
「えぇ。もちろん。そして柵原さんのお店にケーキを買いにいきます」
「どうぞどうぞ、何個でも持っていってください」
「ちゃんと買いますってば」

「いいえ、依頼料として、ずっと無料で」
「えっ」
「あ、ああ。ちゃんと正規の依頼料も払いますよ」
焦った声を上げた香に楽しそうに柵原は言った。

「あ、あぁ。ありがとうございます」
「じゃあ、僕はこれで失礼します」

柵原は椅子から立ち上がる。

「ありがとうございました」
「早く、良くなるように祈っています」

その言葉に香は微笑んだ。
「じゃあ」

そのままドアに歩み寄り、柵原は香を振り返った。
「あの香さん…冴羽さんは?」

香が目を見開く。
「あ、えーっと。最近見かけてないの。こんなドジなパートナーの面倒なんて呆れてみてられないのよ、あはは」

乾いた声で固い笑い声を立てた。

「香さん。そんな事、ないですよ」

香は唇を噛みしめる。

「また来ます」
柵原は香の部屋から退室した。

 

 
続く