crocodile tears18

 

暖冬といわれた今年だけれど、さすがに11月に入ると夜風は冷たい。
香は思わずコートの前を合わせた。
「寒いですね」
並んで歩く斎藤は少し微笑んで言った。負ぶわれている雪奈は目を覚ます気配もなくぐっすりと眠っている。
「ホントに。もう冬のコート出さなくちゃだめですね」
香は斎藤に返事をしたが、その後はお互いに会話もなく、ただ歩いていた。
斎藤は先ほど香に問うたことがいまだにまずかったと気に病んでおり、香に遠慮して
話しかけることができなかった。
香は3ヶ月前まで一緒に住んでいた男のことを思い出していた。
(衣替えはどうしてるんだろう。一年中着の身着のままな彼は対して気にしていないかもしれない。麻理絵ちゃんはどうしているんだろう。身内の人は見つかったのかしら。それとも…まだ僚と暮らしているのかな…)
僚の事ばかり気がつくと考えてしまう。
そんな自分に嫌気がさす。意識を飛ばす為に頭を振った。
「……香さん」
「え?」
気がつくと斎藤は立ち止まり、香を見ていた。
「突然すみません。あ、あの香さんはあのその…」
暗い夜道で、斎藤は明らかに照れていた。
「はい?」
「あの…あの、お付き合いされている人とか…いらっしゃるんですか?」
「え…」
「あのですね、そういう方がいなければ…」
我に返った香は斎藤の言葉を遮った。
「斎藤さん、あの…あ、あたし…あの付き合ってる人はいないんですけど」
そのまま唇をかみ締めた。
ここで止めるわけにはいかない。言わなくては…行けない。
顔を上げて斎藤を見上げた。
「忘れられない人がいるんです…」
「あ…」
斎藤は動揺し、そして次の瞬間不自然に笑い出した。
「あ、あーー、そうですよね、香さんにそんな人いないわけがないですもんね。
あ、いやー、まったくもってバカだよな、俺も…」
「…ごめんなさい。あの…えっとあたしそういうの鈍感で…その…今日とかもおうちにお邪魔しなければよかったですね」
「い、いえいえ。そんな今日はとても楽しかったんです。自分こそなんつかその立場も考えないで…すみませんでした。これからも、その雪奈の父兄としてその…よろしくお願いします」
静かな夜道に斎藤の声がことさら大きく響いた。
それから2人は無言で歩いていた。

幼稚園の庭に植わっているもみの木が見えた。住宅街のここでは飛びぬけて大きく見える。
ここまでくれば香のアパートまではもうすぐだ。
香は斎藤に礼を言って別れようとした、その時。

ガッシャーン

幼稚園の方からガラスの割れる音がした。
香と斎藤は顔を見合わせ、次の瞬間、園に向かって走りだしていた。
それでも雪奈を負ぶった斎藤はやはり起きない様にと走っているので、香の方が
早く園についた。
香は目の前の塀を見上げた。
託児所に一度行けば、そこから園庭には入れるのだが、斎藤と一緒に託児所に行くのはためらわれる。
それにさっきのガラスの割れる音が幼稚園からかどうかは未だわからない。
託児所の皆に不安な思いをさせるのははばかられた。
香は意を決して塀の上にジャンプをして手をひっかけた。
「香さん?!」
「ちょっと中を見てきます」
そのまま香は足を塀のへりに引っ掛けて器用に塀の上に上った。
「すぐに済むと思います。何かあったら託児所に駆けつけるし…斎藤さん、今日はありがとうございました」
「あ、危ないですよ、香さん」
香は斎藤のその言葉に少し微笑んで見せてから、塀の向こうに消えた。
着地の音が聞こえる。そしてその足音は幼稚園の方に向かっていった。
斎藤は少しの間呆然としていたが、今度は雪奈が起きない様に注意しながら隣接している
託児所に走っていった。


香はそっと足を忍ばせて、園庭側から園内に近づいた。
教室から庭に出てるそちら側は全面ガラス戸になっていたからだ。
さっきの音はどう考えてもガラスの割れる音で、そうならばそちらのほうが確立が高い。
香はジーンズのベルト通しに差したペン一体型のライトをとりだした。
それを見て少し、自嘲した。
僚のアシスタントを辞めてもなかなか全ての細工を取る気になれず、袖口のかみそり刃も仕込んだままだ。
こんなところで役に立つなんておかしなものだ。
香は手で光を押さえながら点灯させた。
久しく使っていなかったそれはゆっくりと光はじめた。
頼りない光ではあったが託児所の明かりの届かないここではとても明るく感じる。
辺りの状況がわかるだけで万万歳だ。
人の気配はしないけれど、香は慎重にガラス戸を確認し始めた。
半分を過ぎ、もうすぐ終わりだろうと思ったときに、地面に光の反射を見た。
香がその正面のガラス戸にライトをゆっくりとあてた。
キラキラと光が映るはずのガラス戸にライトの光は吸収されていく。
ビンゴだ。近づいて、その戸の様子を見る。
石かなにか硬いものをぶつけられたようだ。大部分のガラスは園の中に欠片が落ちている。
注意して覗き込むと案の定、こぶし大の石が園の中にあるのが見える。
香はそれを確認すると園庭の隅にある、背丈の高い植木の鉢を引きずりながら持ってくると
割れたガラスが隠れる様な場所に置いた。
「…これでよしっと」
手を叩きながらつぶやいた。
 不審者(車?)といい、今回のことにしたって全て偶然や思い違いというには無理がある。
もう一度園長先生に話してみよう。これを見ればなにか対策をしなければいけないと園長も思ってくれるだろう。
 香は前回、里美がつけられた車のことを園長に話した時の反応を思い出していた。
子供達の安全を一番に考えるのに、その時は「もう無いといいわね」という一言で終わってしまったのだ。
もちろん里美には他にも声を掛けたし、保護者や保育士たちに注意を促したりはした。でもそれだけなのだ。
いつもならば警察に連絡だとかいう話になるのに、と少し違和感を覚えたものだった。
 託児所のビルの側の塀から、向こう側に戻った。
ビルと園庭に繋がるドアはあるのだが常時施錠してある。とはいえ簡単な鍵なので香に開けられないわけではなかったが、やはり万一誰かにみられるとまずい。
さきほどと同じ場所から降りるのも同じ理由から怪しまれると思い、別の場所からもどった。
無事に降りてほっとしたところにライトがあてられた。
(誰かに見つかった?!)
香はとっさに身を低くして、顔を隠した。
「…香さん?香先生ですか?」
斎藤の声が聞こえた。香はそっと顔を上げた。
「あぁ、やっぱり香先生だ、よかった」
斎藤が手に懐中電灯を持って立っていた。
「斎藤さん…どうしたんですか」
斎藤は香に手を差し出した。けれど香はそれをとらないで自分で立ちあがった。
その手に気づかなかったように、だけど拒絶の意思を感じるように。
斎藤も静かにその取られなかった手を元に戻した。
「香先生ひとりじゃ危ないと思って、園に雪奈をお願いしてこれ借りてきたんです」
「あ、そうだったんですか」
「えぇ、それで何かありましたか?」
香はポケットからガラスの欠片1つを取り出した。
「やっぱり割れてたのは幼稚園のガラスでした。割られてたのは一枚だけでしたけど」
「えっ!」
斎藤は香の掌にのったそれを電灯であてた。
「イタズラかもしれないし、そうじゃないかもしれないんですけど。朝、園長先生に伝えようと思っています。だから今は他の先生方には余計な不安を掛けないほうがいいかなと思って…言わないでおこうとおもうんですけど」
「そ、うですね。一日くらいなら…。今日は男の先生もいましたし…防犯にも気をつけて
はいるから平気でしょう」
ガラスも見て動揺したであろう斎藤も、とりあえず平常心をとりもどしたようだ。
「香先生。じゃあお送りします。手とか汚れてるけど、上に行く気はしないでしょう?
送った後にコレを返すついでに雪奈引き取りますから…」
「そんな…もう本当に近いんで」
斎藤は少し笑った。
「ダメですよ。何がナンでも送るって決めたんで。安心してください。部屋に入ったのを見届けたらすぐに帰りますから。だって雪奈が待ってますしね」
香は苦笑いを浮かべた。
そして2人は並んで歩き出した。


☆ ★ ☆

 

麻理絵がばあちゃんと帰って3ヶ月。その3日前には香が出ていった。

僚は暖房も効かしていないリビングで、汚れたコートを着たままあお向けになって天井を見上げていた。
香がいた時の明るく清潔な太陽を感じた、その匂いは消えて。
懐かしい、だけども嬉しくもない硝煙と血の匂いが充満し始めている。
負の引力は強力だ。
ふとこの季節には不釣合いな軽い音が耳に入った。
音のするほうに目を向けると、窓際に風鈴がかかっているのが見えた。
まだ麻理絵が来る前、梅雨明けをしてすぐに香が買ってきてつるしていた。
あの時、どんな会話をしたのだろう…思いだせもしない。
窓にあたってなるその風鈴の音にイライラした僚は…
パイソンを取りだし、銃口を風鈴に向けた。

カシャンと軽い音がして、それが砕けた。

そしてまた静寂の戻ったリビングで、僚はそのまま目を瞑った。


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*この方が香らしいよね。