crocodile tears11


ぎしぎしと鳴る古いビルの窓ガラスを香は一気に開けた。
暑い暑いといわれながらもやはり風は秋特有の寂しさをのせていた。
「う〜〜ん、やっぱ空気入れ替えると気持ちいいわねー」
そのまま首と肩をストレッチする。

「わー。さむい、さむい」
「香せんせいさむいよー」
「かぜひいちゃうよ〜〜」
「窓しめてーーー」
香のうしろで子供達がわいわいと騒ぎ出す。
なにをしても楽しいのだろう。
「もう、これくらいで寒がってもっと寒くなったらどうするの!」
香は笑顔を見せながら言った。
「こたつにもぐっとく〜」
「おうちから一歩もでないー」

子供達の言い分に呆れつつ、窓を閉めた。
少し空気が流れただけでもイイだろう。
冬が近づいた今は日が落ちるのも早くなってきた。
そんな事を思いながら、ふとグラウンドの前に停まっている車が気になった。
暗くて良く見えないが、運転席の人物がこちらをずっと見ているようだ。
いつからあそこに停まっているのだろう?
香は一生懸命思いだそうとするのだがどうしてもわからず、諦めた。
気持ち悪さにカーテンを急いで閉めて、視線を遮断した。
「どうかした?香先生?」
他の保育士が香の様子を心配して声を掛けてくる。
「ううん?なんでもないんです。ごめんなさい」

「こんばんわーーー」
裕の大きな声がドアから聞こえる。
「はいこんばんは。裕くん元気ねー。寒くなかった?」
香が問いかけると靴を棚に入れながら
「うん、全然寒くないよ。おれ外でサッカーしてーもん」
「してーもん。じゃないだろ、こら」
母親の攻撃を避けて、遊んでいるみんなの輪の中に入っていく。
母親は苦笑いして、その様子を見ていた。
「今日はいつもより早いんですね?」
「うん、今夜は同伴なんでね。いろいろ用意が必要なのよ」
母親はニッコリと笑った。この笑顔に魅了されちゃう男性は多いんだろうなーと香は思った。そしてその裏にある男を思い浮かべていた。
「…せ。…んせ、香せんせってば」
「え、あ、ごめんなさい。なんですか?」
「もう、香センセってば、平気?あのね、外にさ黒い車停まってるの知ってる?」
子供達に聞こえないように、それでも表情は変えないで裕の母親は言った。
「あ…はい。さっき窓を閉めたときに見かけたけど…」
「あれね、アノ車。最近良く見るわよ。昨日も停まってた」
「え……?」
「ちょっと気持ち悪いなーって思ってたから確かよ。ご近所の家に遊びに来てるだけかもしれないけど…」
「ちょっと注意してたほうがいいですね。気をつけます」
「物騒な世の中だもんね。さってじゃあ行ってくるか」
子供に呼びかけると手を上げて出ていった。


香は自分にしがみついて寝ていた雪奈をそっと離すと布団の上に寝かせた。
「みんなぐっすりと眠っているわね」
「あ、園長先生。えぇぐっすり。さっきまでここで大騒ぎしてたのに」
園長と呼ばれた初老の女性は香に微笑むと雪奈の脇に座った。
「お茶入れますね」
香は立ちあがって流しにいく。といっても広くは無い部屋なので話はできる。
「皆子先生と、花ちゃん先生はお散歩かしら?」
「えぇ、大きい子たちを連れて。野村先生は今洗濯物を干しに行ってます」
「香先生がお留守番なのね?」
香はお茶を持って園長の前に座った。
「あたしが洗濯やろうと思ってたんですけど、雪奈ちゃんが抱きついたままで。
 離すと起きちゃうんで寝入るまでそのままだったんです。だから野村先生が」
園長はうなずきながら微笑んだ。
「そう。でも香さんは毎日出勤でごめんなさいね」
「いいえ。もう楽しいです。毎日毎日」
香はぶんぶんと顔を横に振った。
「この生活にも慣れたかしら?」
「……はい。みなさん良くしてくれるし、子供達は可愛いし」
香はしっかりと園長の顔を見て答えた。
「良かったわ。うちは万年人手不足の資金不足だから。子供達はたくさん来てくれるんだけれど。香さんみたいに面 倒見のいい、優しい、フットワークの軽い先生が来てくれて私も他の先生も子供達も親御さんもみんなとっても喜んでるのよ」
「そんな事無いです…あたしこそ、こんなあたしを働かせてくれて…」
少し寂しそうにつぶやいた。
「何言ってるの。香さんならどこでも働けますよ」
力なくうつむいて、香は首を振った。
「もう…もうどこにも行きたくないんです……」
香は園長の前で肩を震わせて、搾り出すように言った。
「えぇ、そうね。どこにも行かなくていいのよ。ずっと居てちょうだいね」
園長のやさしい言葉と暖かい手に香は嗚咽を漏らした。

ーもう泣かないって決めてたのにー


☆ ★ ☆

「僚…起きてる?ちょっといいかな?」
僚は今夜は出掛けていない。
23時など僚にはまだ夜になったばかりだろう。寝ているわけなどないと分かっていても何も言わないで居れなかった。
「あぁ」
ドアの向こうから僚の声が微かに聞こえた。
香は扉を開く前に大きく深呼吸してから、僚の部屋に入った。

僚はベッドサイドのランプだけつけて、ベッドの上でタバコをふかしていた。
「……忙しかった?」
香は僚の顔が見えるまで寄った。
「いんや。別に」
僚は香の顔を見ようとしなかった。香も来たはいいが何を言えばいいのか分からず黙っていた。
2人の間でタバコが燃える音すら大きく響く様だった。
やがて僚が短くなったタバコを灰皿に押しつけた。
「…で、ナンの用だ?」
「え?」
「用があったからここまで来たんだろう?」
僚の様子は至って普通で、おチャラけても怒ってもいない。
ただそんな僚だから却って話し出し難かった。怒った勢いか何かで言ってしまいたかった。
香はぎゅっと両手を握った。

「うん。あのね。あ、あたしこの家を出て行こうと思うんだけど」

僚はその言葉になんの反応も示さなかった。
ただ顔をあげ、香の顔を見上げた。
「そうか…で、いつだ」
「えと…明日にでも」
香は普通に会話が進んだことに驚いた。
そして次の瞬間寂しかった。自分は引き止めてもらいたかったんだ。
そう実感した。
あれだけ考えに考えて出した結論だったにも関わらずどこかに甘えがあったことに動揺した。
だけれど、声に出してしまったら、もう戻ることは出来ない。
「住む場所はどうするんだ」
言いながら僚は新しいタバコに火をつけた。
「うん。教授が仕事を紹介してくれたの。でその近くにアパートを……」
「麻理絵はどうするんだ」
「……あたしが面倒を見るって言っておきながら、こんなことを言うのはあれなんだけど」
「ここに置いていくのか?」
「………麻理絵ちゃんも、ここに居たいと思うし…」
僚は眉根を寄せた。
「何でだ?…お前も俺がアイツの父親だとでも思ってんのか?」
「……」
香には答えられなかった。
父親であるか無いかは分からない。ただ麻理絵がそう思って僚を慕っているのは確かだ。
僚だってきっぱりとは否定していない。
 僚はタバコの煙を大きく吐き出した。香がうつむいたまま話し出した。
「麻理絵ちゃん、家事もできるし…あたしがいなくても僚は変わら…」
それを僚は遮った。
「ま、勝手にしろ」
香は唇をかみ締めた。
「あ、明日朝、麻理絵ちゃんが起きる前に出て行くから…伝言板は…」
「もうイイって」
涙が溢れそうになった。
それでもココでは泣かない。だって決めたから。

「い、今までお世話になりました」

香は大声で言って、頭を下げた。そして部屋を飛び出そうとする。
「香」
その香の背中に僚の声が聞こえた。思わず、足を止めた。
「ローマンは…ばれないようにしろよ」

 部屋には麻理絵が寝ている。そのまま香はキッチンに駆け込んだ。
出て行く理由さえ、僚は興味がない様だった。
−勝手にしろー
 香はシンクの前でしゃがみ込み、口に腕をあてて泣いた。


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                                                           *彼の前で泣かない、意地っ張り。