crocodile tears10


かずえが朝食を用意する間、教授は香と話していた。
香はかずえを手伝うと聞かなかったのだが、教授がそんな身体では却って
邪魔になるだけだ。そう宥められると少し苦しそうな顔をしてから、そうですね。
と言ってベッドに座った。
 教授は自室に香を連れていった。
「どうじゃね、香くん。あの少女との同居生活は?」
「……ずっと兄か、僚か…の2人暮らしだったので、新鮮です」
「そうじゃの…。ま、わしも懸命に調査してるんだがの。すまんがもう少し…」
「僚は…施設の話を前にしてましたけど…」
教授はその言葉に苦笑いを浮かべた。
「まぁ、あやつの考えもわからんわけでもないがのぉ。香くんはどうかの」
「あたしは…妹ができたみたいでちょっと楽しかったんです。けど…甘かったなーって」
香はそういうと手に持っていた湯のみに視線を落とした。
「ん?どういう意味じゃ?」
教授が優しく問うと、香は笑みを浮かべながらも「なんでもない」という風に
首を横に緩く振った。
「ばかなんだから…」
かずえの朝食の用意が出来たいう呼び声と重なった。
香の小さなつぶやきは教授には聞こえなかった。


☆ ★ ☆


香はアパートの階段を休み休み上っていた。
部屋までのこの階段をこんなにも長く感じたことは今までなかった。
いっそこのまま、どこかへ行ってしまおうか…
そんな乱暴な考えが浮かんだとき、見なれた我が家のドアにたどりついた。
いつもより重たく感じる扉を体重を掛けて押し開ける。
「ただいま…っと」
返事を期待しないで、いつものくせで言ったけれど案の定、だれの返事も聞こえなかった。

 僚と麻理絵はどこにいるんだろう。昨日の疲れでまだ2人とも寝ているかもしれない。
さすがに昨日の今日で出掛けたりはしないと思うのだけれど。
と、そう落胆しないで靴を脱いだ。
 ふと、玄関に入るといい匂いが漂ってきた。キッチンからだ。
香は急いで自分の部屋に荷物を置くと、キッチンへ向かった。

「はい、パパ。これで目覚ましてね」
麻理絵はマグカップにコーヒーを並々に注いで僚に渡した。
「だから、パパっていうな、っつただろーが」
苦々しい顔をしながらも僚は麻理絵の差し出したコーヒーを飲んだ。
香がいない朝となってはインスタントコーヒーでもしょうがないなと思って
いたが、麻理絵はしっかりと豆から淹れていた。
それだけではない。麻理絵は香のエプロンを身につけ、甲斐甲斐しく
僚に朝御飯を提供する。
それはトーストにインスタントのスープ、それにソーセージや
スクランブルエッグといった簡単なものだが、なかなか手際がよくて関心する。
「おいしい?」
麻理絵が僚の前に座ってニコニコと話しかける。
「まーまー、こんなもんじゃねぇ?」
ハムを口にほお張りながら言う。
「もう。美味しいでしょ?」
「お前、料理できんだな」
「うん、ママが仕事で忙しかったから家のことは麻理絵がやってたんだ」

…まずいことを言った。
口に入れたコーヒーを思わず吹き出しそうになった。
麻理絵は気にしないで、朝食を食べている。

そんな麻理絵を見ながら、それでも昨日あんなことがあったのに、
良くもまあここまで戻ったな。とは思っていた。
こんな事で麻理絵の気が晴れるならそれもいいだろう。
 昨日は事件のショックもあったのだろう。だんだん口数も減って
教授の家から家に帰った時には無口になってそのままベッドに入っていった。
 これで香を迎えに行くときにはいつもの麻理絵に戻っているだろう。
僚としても無口で居られるよりは気がいい。
それからは何も言わず、麻理絵の作った朝食を食べていた。


 麻理絵に気を取られていた。
 僚はキッチンの前に立つ気配に驚いた。


「あ、香さん!!お帰りなさい〜」
麻理絵が椅子を降りて、香に近寄る。
「……ただいま」
固い声で香が答えた。顔色もいいとは言えない。
麻理絵が香の怪我をしているほうの手を引っ張った。
「たっ」
香の顰め面に麻理絵は慌てて手を放した。
「あ、ごめんなさい。大丈夫?痛い?」
「うん。平気よ。ごめんね。麻理絵ちゃんこそ、怪我とかない?大丈夫だった?」
「パパがすぐに助けにきてくれたから、全然平気だったよ。なんかドラマのヒロインに
なったみたいだったよ」
麻理絵が無邪気に言う。
香はそれよりも「パパ」が復活していることに違和感を感じていた。
「そう、良かった。……えっとごはん、麻理絵ちゃんが用意したの?」
麻理絵は笑顔で言った。
「うん、そうなの。だってパパったら起きるなり『腹減った〜』ってうるさかったの。 香さんはいつ帰ってくるかわかんなかったし」
「すごいね、麻理絵ちゃん。とっても美味しそうに出来てる。びっくりしちゃった」
麻理絵は…小学生にしては家事はよくやっている。料理もできるのか。
「うん、パパも美味しいっていってくれた。香さんも食べる?」
香は僚の方を少し向いて、自分に僚の視線があると気づいて逸らした。
「あ、あたしは戴いてきたから…ごめん、ちょっと休んでるね、なんかあったら呼んで?」

香はそういうとそのままキッチンを出ようとした。
僚は香に判るように息を吐いた。
「香」
僚の呼びかけに仕方なくという風で顔をあげた。
そうすると今度は僚が口をつく前にあせったように香は話し出す。
僚はいよいよ顔を顰めさせた。
「……昨日はごめん。助けに来てくれてありがとう」
香の消え入りそうな声に、僚は不機嫌そうな声を出す。
「怪我は?」
「たいしたことない。時間がたてば直るだろうって…」
「どうして電話しなかった?」
「……僚、まっまだ寝てるかなって思って」
「教授の家で待ってれば良かっただろう」
「たいしたことなかったし。教授がタクシーよんでくれたから」
僚はいらただしげにタバコに火をつけた。
「……それでまた襲われたらどうする気だったんだ」
香ははっとした表情を見せた。
「あ……」
その視線は僚と麻理絵の間をせわしなく何度も何度も行き交った。
そして香の瞳からは大粒の涙があふれた。
「ごめん。ごめんなさいっ」
香は何かに追われるように大声で言うと部屋に走って戻った。
身体の痛みなんてどうでもなかった。
ただ、心は痛くて痛くて張り裂けそうだった。

キッチンには乱暴にタバコをふかす僚と、戸惑っている麻理絵だけが残された。


☆ ★ ☆


彼女を傷つけたかったわけじゃない。
無事な姿を見て抱きしめてやりたかった。
本当は良くやったと言ってやりたかった。
もっと話を交わしたかった…だけれど

いつまでたっても強がって甘えないことに、体調の悪ささえ隠そうとすることに、
自分がいつまでも彼女の支えにはなれていないと言われているようで…いらついた。
 なにも考えず、ただ俺に甘えて欲しかった。
優しい言葉ひとつ掛けないくせに、バカなことを思う。

結局、俺に出来る優しいことなんざ、あいつのいうとおりにしてやることだけだ。
だから、あの日もそうしたんだ。

 

麻理絵と一緒に攫われてから、一週間たったある深夜。
香は僚の寝室のドアをノックした。

 next>

back

*これからどうなるのよ!?(え…