fujiyanの添書き:近世ヨーロッパ史とドイツ系移民(+米国史) fujiyanは、この「マンハッタンを歩く」でアメリカに移民していた(黒人の場合は「強制的に奴隷として連れてこられた」わけですが)民族をfujiyanの判る範囲でご紹介してきました。 「なぜ、この民族はアメリカに移民してきたのか?」ということを最初に調べることにしています。様々な理由がありますよね。「アイルランド系」は「大飢饉」、「中国系」はアヘン戦争前後からの国内(清朝)の混乱、「ユダヤ系」は迫害からの避難、「プエルトリコ系」はアメリカ植民地化、「ドミニカ系」は独裁制とその後の混乱などなど。「国内の混乱」とそれに伴う「飢餓・迫害」が主な理由ですね。またユダヤ系も同様ですが、宗教的「迫害」もあります。 同様にドイツ系移民についても「なぜ移民を?」と調べた訳です。やはり「国内の混乱」でした。しかし、この混乱はホントに長い。1517年のルターによる宗教改革に端を発し、一応の終息をしたのが1871年のドイツ帝国の成立。350年を超える混乱です。 あまりにも長いので、ドイツ系移民史の話は割愛しようか(笑)と思ったのですが、まあ、数十年振りに世界史を勉強するいい機会だと思いましたし、アメリカ史の裏側に欧州事情があることも間違いないわけですので、今回欧州史と米国史をまとめて書いてみました。 (16,17世紀:英仏が中央集権化を進めるのに対し、ドイツは封建制が強まる。)
さて1517年はルター、1536年にカルビンと、いわゆる「宗教改革」が発生、それに端を発し、16、17世紀と「旧教」(ローマ=カソリック)対「新教」(ルター派、カルビン派、英国教など)の争い、そして「王」継承の紛争を背景に、国内外で内乱、戦争が相次ぎました。 その結果ですが、イギリス、フランスでは諸侯の力が弱まり国家への中央集権化が進みました。 「イギリス」では1534年、国王がカソリックでは認められない離婚をしたいために新教=英国国教が成立、その後エリザベス1世(位1558- 1603)時代にスペインの無敵艦隊を破るなど国威は向上します。ちなみに、アメリカ東海岸の南部の「バージニア」(1584年入植)は「処女王」エリザベス一世がその名の由縁です。さらにちなみに(笑)、「バージニア」近辺で、英国系入植民と恋に落ちた、インディアンの酋長の娘が、ディズニー映画にもなった「ポカホンタス」という次第。 また海上貿易で富をなした商工業国家オランダと3回戦い、後年の世界覇権への階段を昇っています。1664年にヨーク公軍がマンハッタンを制圧したのは、その戦争の一環でした。 「「英国教」でも改革不足である」という人々は、「清教徒=ピューリタン」ということになりますが、これが二派に別れました。一つは「分離派」で英国教から分離します。1620年にアメリカ大陸に渡った「メイフラワー号」は、分離派の信徒がいったんオランダに移住し、その後アメリカに渡った時の船ですね。一方、「英国教」内部に留まり、内部改革を目指した「清教徒」たちは、その後即位した王の信仰(英国教の遵守強制、あるいはカソリック)次第で弾圧されたりしましたが、1642年には「清教徒革命」を起こし、1688年の「名誉革命」に繋がるいわゆる「市民革命」が続き、英国では「市民」議会政府が樹立するに至ります。 (補足しますと、「プレスビテリアン(Presbyterian) 長老派」は、カルバンに影響を受けた、スコットランド発祥の新教です。) 「フランス」では、1562年にカソリック=国王、とユグノー(カルバン派新教)教徒の諸侯との間に内乱が勃発、1598年に終結させたナント勅令で新教・旧教どちらとも信仰が認められました。長い争乱で諸侯は力を失い数代の王ののち、太陽王ルイ14世(1643-1715)のもと、絶対王権が確立します。 ルイ14世の頃、フランスは現在のカナダ東部からアメリカのミシシッピ川沿いを植民地化します。ちなみに、ミシシッピ川周辺はルイ14世の名から「ルイジアナ」となりました。 ルイ14世は強大な王権のもとで「ナント勅令」を廃止、つまりカソリックを強制したために有産市民が国外に亡命、その後のフランスの凋落につながるというオマケまでありました(苦笑)。 それに対し、当時は「神聖ローマ帝国」(962-)と呼ばれてた「ドイツ」では、逆に諸侯の力が強まり、封建制度が強化されました。 「神聖ローマ帝国」は、現在の、「ドイツ」+「オーストリア」+「チェコ」+「ポーランドの一部」と考えると良いと思います。従いまして、「ドイツ系移民」とは、現在の「ドイツ」に相当する地域から移民してきた人々を指す場合と、「オーストリア」から来た人々をそれに加える場合の二通りがあるようです。現在の「チェコ」からの移民は、「ボヘミア」地方からの移民として、「ドイツ系」移民とは別扱いする場合が多いようです。 1618年から始まる新旧教の内乱(南はカソリック、北はルター派という色分けだったようですが)である「30年戦争」の結果結ばれた「ウェストファリア条約」(1648)は、諸侯乱立と新旧教の信仰自由を承認することになりました。ちなみに「スイス」は実質的に神聖ローマ帝国から独立状態でしたが、この条約で正式独立。国土は疲弊し全人口は、ペスト流行、人口流出もあり3分の1へと減少、ここにドイツの後進性は決定的なものとなります。 というわけで、英仏が「王位継承」や「宗教改革」を背景にした争いに決着をつけると同時に、封建諸侯の力が弱まり王権への「中央集権化」が進みます。それどころか、イギリスでは「市民革命」も終了、「王」から「市民」のよる政治が始まりました。また、海上貿易で富をなした商工業国家オランダと戦い、後年の世界覇権への階段を昇っています。対して、ドイツはむしろ逆行、つまり「封建制」が強化され国全体の力が低下しました。 ちなみに名目だけのものとなった「神聖ローマ帝国」皇帝は、実質上ハプスブルク家の支配する「オーストリア」王が兼ねる、ということになりました。この辺りから「太陽王」ルイ14世(在1643-1715)フランス=「ブルボン家」がドイツへと領土拡大、ドイツ「ハプスブルク家」と対立、という構図もさらにドイツを混乱させていきます。 −−−− さてアメリカへのドイツ系移民ですが、荒廃した本国からオランダ領ニュー・アムステルダム時代から少しづつアメリカ大陸へ移民したきたようです。ちなみに1626年ニュー・アムステルダムに最初に入植したオランダ初代総督Peter Minuitは、ドイツ系オランダ人でした。ルター派牧師などもやってきました。 (18世紀−アメリカ独立達成(1783年): 欧州は仏、オーストリア、プロイセンの紛争、英北米覇権から米独立まで)
・スペイン継承戦争(1701-14): 「英・蘭・独」対「仏・スペイン」 :「ハプスブルク家」の絶えたスペイン王の継承にフランス「ブルボン家」が王を出し、ハプスブルク家の総本山であるオーストリア(独)とフランスに争いが起こります。 ここで重要なのは、ドイツの諸侯国の一つ「プロイセン」が皇帝=オーストリア側についたため、「候」国から「王」国へと昇格し、後のドイツ統一の中心となるきっかけを掴みます。「プロイセン」は歴史地図を見ますと、現在のドイツ北東の端と、ポーランド北の飛び地、という国でした。 ・オーストリア継承戦争(1740-48): 「仏・スペイン・プロイセン・ドイツ諸侯国」対「オーストリア・英」」 :女王マリア・テレジアのオーストリア国継承に「女性であるので反対」とプロイセンが中心となって因縁をつけ、諸国が介入。 ・七年戦争(1756-63):「オーストリア・仏・露」対「プロイセン・英」 :オーストリアのマリア・テレジア女王によるプロイセンへの復讐戦。オーストリアは因縁の敵国フランスと同盟するという「荒業」で、ロシアも味方につけプロイセンを追い詰めますが、ロシアが離脱し結局プロイセンを屈服させることができませんでした。ちなみにオーストリアとフランスの同盟の証が、マリア・テレジアの娘であるマリー・アントワネットのルイ16世へのお輿入れで「ベルサイユの薔薇」というわけですね。 欧州大陸はいつも、戦争、戦争でした。しかし、フランス、オーストリア、プロイセンが欧州大陸内部での紛争、そして領土争奪をしていたのに対し、イギリスはせっせと欧州諸国の海外植民地への侵攻に勤しむなど、海外での飛躍を続けました。欧州で上記の紛争が起こる中、イギリスは常にフランスの敵でしたが、その間イギリスは北米のフランス植民地を切り取っていき、英仏の対立が激しいものとなっていきました。「七年戦争」(1756-63)の一環として北米で英仏が戦った「フランス=インディアン戦争」の結果、カナダ及びミシシッピ川東の「ルイジアナ」を獲得することにより、北米大陸でのイギリスの覇権が確立します。また、ミシシッピ川西のルイジアナはスペイン領となりました。 しかし「七年戦争」などの戦費でイギリス国費が疲弊したため、北米のイギリス植民地への課税強化(1765年「印紙法」など)や、他の植民地エリアの優遇(1773年:「茶法」-東インド会社から北米植民地への茶の直送を認める。同年「ボストン茶会事件」発生)を行い、それに反発した北米13植民地は1775年からイギリス相手に独立戦争をはじめます。北米独立軍は、「敵の敵は味方」=フランスへの援助を依頼する、というわけですね。 −−−− さてドイツ系移民ですが、国内の内乱が続く一方、特にドイツ南部のカソリック圏ではプロテスタントへの迫害は続きました。「ペンシルバニア」を設立した「クェーカー教徒」のウィリアム・ペンが、ドイツ人プロテスタントを自らの土地に招くと、物凄い勢いで移民してきたそうです。ペンシルバニアで7万人、北アメリカでは20万人程度の流入だったとか。ちなみに、NYに居住したドイツ系移民は、1790年には2,500人だったそうです。 (フランス革命(1789)以降、19世紀)
ナポレオンはドイツ諸侯やオーストリアを撃破し、プロイセンとオーストリアの除く全ドイツに「ライン連邦」というフランスの衛星国を樹立します。この頃から欧州大国への対抗の必要から、「ゲルマン民族」統一国家の必要性が認識されたようです。「ゲルマン民族」の統一構想は、オーストリア中心のゲルマン民族国家樹立を目指す「大ドイツ主義」と、オーストリア抜きの「小ドイツ主義」で、その間に対立がありました。「小ドイツ主義」で中心となる国家は「プロイセン」で、歴史地図を見ますと当時のドイツでは北東の端にあった国でした。 一方アメリカはフランス革命後の英仏戦争では、中立姿勢を示していました。独立戦争中に米仏は攻守同盟を結んでいたわけですが、英仏が全面戦争に入ると、仏は当然アメリカのフランス援助と参戦を要求してきましたが、ワシントン初代大統領は「この攻守同盟は、ルイ16世、つまりブルボン王朝であるフランスと結ばれたものでさり、彼が処刑されたので無効となった」という理屈で、要求を拒否してしのぎます。 実は独立前から、アメリカはすでに南北二派に別れていたようで、 ・北部=親英=連邦派(強い国家政府主義) =商工業主義=清教徒=理念的(=後の奴隷解放主義) ・南部=親仏=州権派(各州の権限尊重主義) =農業主義=英国教徒=現実的(=後の奴隷制維持主義) と言う訳で、英仏二大強国の間で、どっちつかずの中立姿勢にならざるを得なかったようです。 (ちなみに、ワシントンは南部出身でありながらも、欧州巨大大国に対抗するためにはアメリカがまとまって国力を見せ付ける必要があるという考え方であり「連邦派」と言っても良く、このことは、その後のアメリカの発展を考えると「奇跡」的な幸運でした。) 「南部」政権が設立すると、「北部」は独立をちらつかせ、逆に「北部」が政権を取ると「南部」は連邦離脱を騒ぎ始める。この対立は結局、後年の南北戦争(1861-65)を呼ぶことになります。 英仏ともに相手を経済封鎖するという戦法に出たため、アメリカの海外貿易は打撃を受けます。フランスと非公式な戦闘状態もありました。 しかしイギリスは米国籍船を臨検、ついでに旧英国出身者の船員を水兵として強制徴募(というか「誘拐」ですね)するなど、経済的にも、そして親英の面子も潰れて、北部は大打撃。 米大統領は第三代ジェファーソン(任1801-9)、第四代マディソン(任1809-17)と南部系政権だったこともあり、北部親英派の勢力は衰え、またナポレオンの周到な外交政策もあり、1812年アメリカは英国に宣戦しカナダの英植民地へ侵入。(-14:「War of 1812 1812年の戦争」または「第二次独立戦争」) が、米軍は撃退され劣勢となり、ナポレオン敗北後は英軍の逆襲により首都ワシントンにまで攻め込まれ、ホワイトハウスは炎上する始末。1814年にカナダ国境の「エリー湖海戦」そして南部の「ニューオリンズの戦い」での米軍勝利をきっかけになんとか講和に持ち込みましたが、イギリスもナポレオン戦争で疲弊していましたので、特に厳しい講和条件をつけませんでした。 ちなみにこの「1812年の戦争」の中、米軍の守るマクヘリー砦に英軍が襲しい砲撃を続けた一夜があけ、夜明けになって昨日同様に翻っていた星条旗を見て感動した詩人が作ったのが、アメリカ国歌「The Star-Spangled Banner」です。(国歌の詩にご興味のある方はこちらをクリック。) ちなみに、仏革命−ナポレオン戦争の頃から、50年ほどでアラスカ(1867年ロシアより買収)とハワイを除く、アメリカ合衆国の、現在の領土がほぼ確定していきした。 ・ナポレオン戦争中にアメリカは、ナポレオン政権がスペインより得た、ミシシッピ川西の「ルイジアナ」を、購入(1803)。 ・「1812年の戦争」後、英領カナダとの国境が北米大陸を横断する形で定まり、オレゴン州などの米西海岸北部が、後に米合衆国に参加しました。 ・1819年にはフロリダをスペインから購入しました。 ・1845年テキサス州の米合衆国参加をきっかけに、1846年メキシコとの戦争が勃発し米が勝利、カルフォルニアを含む米西海岸南部を割譲させます。 さて、欧州に話を戻しますと、ナポレオンが敗れた後、1814年ウィーン会議後戦勝国の傀儡と言うべき「ドイツ連邦」が発足します。その後プロイセンに、「言論や多数決ではなく、鉄と血で獲得される」という主張を持つ「鉄血」宰相ビスマルク(1862年就任)が登場すると、「飴と鞭」の政策によりプロイセンは国力をつけ、オーストリアを破り(1866普墺戦争)北ドイツを統一し「大ドイツ主義」を捨てさせ、ナポレオン三世率いるフランスを破り(1870普仏戦争)南ドイツへのフランス介入を断ち切り、1871年にオーストリアを除外した「ドイツ帝国」(第二帝国)を樹立します。 −−−− ナポレオン戦争で荒廃したドイツ諸地方から、またプロイセン主導のドイツ統一に対して恵まれない立場に追い込まれた諸侯国からアメリカへの移民が進み、1840年にはドイツ移民はNYで2万4千人となり、現在の「イーストビレッジ」の「アルファベットシティ」から「ローワー・イースト・サイド」に住んでいました。 ここは「Kelindeutcheland」=「Little Germany リトル・ジャーマニー」と呼ばれ、オイスターバーやビアホールが並んでいたそうです。 本国ドイツの旧「封建国家」を反映して、「リトル・ジャーマニー」はその中で出身地方によってさらにエリアが細分化されていたようです。明治維新前の日本みたいにほんの少数の人間を除くと「国家」意識は無くて、例えて言えば「薩摩」「長州」「土佐」「会津」という地方別な意識だったんでしょうね。 また宗教もルター派、カルバン派、そして少数派だったようですがカソリック、と様々でしたが、これも母国の特徴と一致します。また、この頃混雑する「リトル・ジャーマニー」を嫌って、一部のドイツ系の人々は北の86Streetの3Aveを中心とした「ヨークビル」に移り始め、「ヨークビル」は1850年頃にドイツ系移民の街となります。 ドイツ移民は1880年には37万人となり、これはNY市人口の3分の1にあたります。この増加する人口に比して「リトル・ジャーマニー」はさらに手狭となり、高架式鉄道の2Ave線、3Ave線がそれぞれ1878年、1880年と開業したことも相まって、北の「ヨークビル」へさらにドイツ系の転居が進みます。またイースト・リバーを渡ったブルックリンには、「ウィリアムズバーグ」というドイツ人街ができましたが、そこと「アルファベット・シティ」はフェリーで結ばれていました。 「リトル・ジャーマニー」の南部である「ローワー・イースト・サイド」は、狭くて環境も悪いものでしたが、ドイツ系移民が転居した後は、ユダヤ人居住区となっていきます。1900年にはニューヨーク市のドイツ系移民は約75万人に到達しそのピークとなり、「ヨークビル」の他、クイーンズの「アストリア」にも居住しますが、その後はニュージャージなどの郊外へ転居が進みNY市内のドイツ系移民の数は減少してきます。 また、「ボヘミア」=現在のチェコあたり、あるいはハンガリーからもアメリカ移民が増加します。 19世紀半ばのアメリカ移民は、「ドイツ系」と1845年の大飢饉から逃れてきた「アイルランド系」が主軸でした。民族比較を行うのはあまり品の良いことでは無いなのは重々承知していますが、「ドイツ系」そして「アイルランド系」移民が当時どのように認識されていたかを見るために、参考文献から以下を訳しますこと、ひらにご容赦。 アメリカ人はドイツ系移民の工業への適格性、道徳そして性格を尊重したが、これらは絶えて久しいオランダ系移民のものであった。アイルランド系移民への、アメリカの共通したステレオタイプのイメージは、それらとは逆の性質のものが強調された。ドイツ系とアイルランド系の比較は避けられず、職業の人種的な区分があった。ドイツ系は製造業に従事し、アイルランド系は一般的な作業あるいは家庭内作業に就いた。ドイツ系移民は職人としてテイラー、靴、家具そしてタバコの製造、ビール醸造、そしてそれらの商人となります。ピアノ製造会社で有名な「Steinway スタンウェイ」は1853年マンハッタンが発祥です。 そして音楽ではドイツ系移民は大きな影響力を持ちます。合唱クラブ団の設立や、1842年に設立された「ニューヨーク交響楽団」は、楽団員の大多数がドイツ系移民でした。 また、1883年から始まる「メトロポリタン・オペラ」は当初イタリアあるいはフランスのオペラを「イタリア語」で演じていた、つまりイタリア人向けでしたが、翌年からの7年間はドイツ籍の会社がスポンサーとなりオペラは全て「ドイツ語」で上演、つまりドイツ系移民が聴衆となります。 (ちなみに1891年頃から、オペラはその作られたオリジナル国の言語となったそうです。) (20世紀:二つの世界大戦-本国が敵国、ドイツ系は圧迫される)
(「Show me your flag!!」、ですね。) ドイツ語は学校教育から排除され、「メトロポリタン・オペラ」でのドイツ語上演は禁止されました。また、「ハンバーガー」は「リバティ・サンドイッチ 自由のサンドイッチ」、「サワークラフト」は「リバティ・キャベジ 自由のキャベツ」と英訳?されました。 (第二次世界大戦中の日本で、英語が敵国語となって、英単語が珍妙な日本語になったものが多かったそうですが、当時のアメリカも一緒ですね(笑)。) 第一次世界大戦後、ドイツ系移民は民族的誇りを取り戻すために活動をし始めますが、残念ながら本国ドイツでの「ナチズム」(1921ナチス党結成:33ヒトラー独裁)の影響も受けてしまいます。 「ヨークビル」は、「反ナチ」そして「親ナチ」のセンターでした。「German American Bund」という、ニュージャージーそしてニューヨークの組織はナチス政府と密接に結びつき、反ユダヤ主義などの行動を起こします。第二次世界大戦(1939-45)当初、アメリカは不介入姿勢を示していました。しかし欧州大陸を制圧し、イギリス本土攻撃を開始したナチス・ドイツの勢いに「イギリスが陥落したら次はアメリカが狙われるので、今のうちにイギリスを援助しドイツに宣戦すべきだ」という声が大きくなり、日本軍による真珠湾攻撃(1941)による世論沸騰を背景に参戦、それに伴い「German American Bund」のリーダーが逮捕され、組織は壊滅させられました。 アメリカ参戦後はドイツ系移民は政府から疑われないように行動し積極的に兵役につく一方で、「悪役」は真珠湾攻撃に出た「日本」系移民ということになり、ドイツ系への差別は第一次世界大戦と比せば、緩やかなものであったようです。 ちなみに、NYヤンキース第一次黄金時代に、ベーブ・ルースとクリーンアップを打ち、1995年にカール・リプケン・ジュニアに破られるまで連続試合出場記録保持者であった、「アイアン・ホース」ルー・ゲーリック(1903-41)はNYの「ヨークビル」の貧民街生まれのドイツ系で、第一次世界大戦中は、非常に辛い思いをしていたそうです。彼は、1923−39年の間、ヤンキースでプレーをしていました。fujiyanの推測に過ぎませんが、ルー・ゲーリックが国民的英雄になったことも、ドイツ系の人々への風当たりが、第一次世界大戦中と比して、第二次世界大戦中の方が比較的弱かった理由の一つではないかと、思っています。 第二次世界大戦後、荒廃したドイツ本国から移民がニューヨークに来てワシントン・ハイツなどに居住しますが、ドイツ系移民はさらにニューヨークの郊外である「ニュージャージー」や「ロングアイランド」に居住していき、「ヨークビル」からも転居が増加します。結果、クィーンズのアストリアを除くと、NY市にはドイツ系コミュニティは実質的に無くなってしまいました。
一つは、完全に「アメリカ」化し「民族」を忘れて「融合」したという解釈。 もう一つは、第一次、第二次と世界大戦でアメリカの敵国となったため民族アイデンティティを隠さざるを得ない、特に「ユダヤ問題」があるためそれが加速されたという解釈です。 あくまでもfujiyanの推測に過ぎませんが、19世紀半ばからほぼ同時期に移民してきたアイルランド系が、その民族意識を今なお、ある意味で「頑強」に失わないことと比しますと、そのコントラストは際立ちます。
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