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グリニッジ・ビレッジの散歩を、この「West 西」編と「Central 中央」編の2回に分けて掲載しております。なお、「西」「中央」という表現はfujiyanの造語で、こちらでは使いませんのでご注意下さい。
今回は、古き良き「アメリカ村」の建物と、音楽演劇などのアート関連の場所そしてゲイ文化という、3つのテーマを持つ、チョット複雑な?お散歩です。

左が南 ← → 右が北
お散歩距離約3KM(除建物等内部距離)
Greenwich Village (West)

地図中の青い星印のHudson StreetとSt. Luke's Placeからお散歩スタートです。まずは、(1)St. Luke's Placeを歩きます。瀟洒な15の住居が並びます。続いて、Bedford Streetを左折。ここも住居が並びますが、(2)幅薄で印象的な建物を拝見した後、小道に左折。(3)オフ・ブロードウェイのシアター、が見えます。

Hudson Streetまで戻ると(4)古き英国式教会です。Grove Streetへと入ります。(5)(6)と1800年代半ばの住居を拝見です。

クリストファー・ストリート(Christopher Street)に出てまずは西へ。(7)レトロな地下鉄入口を見たら通りを逆戻りです。


クリストファー・ストリート(Christopher Street)を歩きます。(8)のシアターなどもありますが、(9)、(10)、(11)「ゲイ Gay」の方々の中心とも言うべき通りです。

(12)、(13)そして(15)(16)は再度古き建物を拝見。間に挟んだ(14)は、多くの著名ミュージシャンがレコーディングしたスタジオです。グリニッジ・アベニューを歩きます。7th Avenueで、(17)ジャズの名門クラブを見て、お散歩終了です。




(グリッド・プラン)

「グリニッジ・ビレッジ Greenwich Village」の歴史などについては、お散歩コースグリニッジ・ビレッジ(中央)をご参照下さい。今回のお散歩エリアですが、簡単には以下のように考えると良いのではと思っています。
  • 1800年以前は、農園あるいは別荘的な邸宅。
  • 1800年代前半にダウンタウンで疫病が発生し、避難して来た富裕層が定着。
  • 1850年代から、成功した商人などが転入。
  • 1800年代の末には、西(地図では上)のハドソン川の方に、食料品の加工工場などが出来て、ヨーロッパからの新移民(ユダヤ系、アイルランド系、イタリア系など)が単純労働に従事、富裕層はアッパー・イースト等へ移転し、このエリアの邸宅は取り壊され、労働者階級の集合住宅的な建物が出来ていった。
  • 1900年代の前半から、富裕層が所有しつつも空家となった住居に、アーティスト達が居住しボヘミアンの街と呼ばれる。
もしもお手元にマンハッタンの地図があれば、おわかりいただけるのですが、マンハッタンの14Streetより北側は、南北にアベニューが、東西にストリートが走り「碁盤の目」になっています。一方、このストリートですが、南側のHouston Streetが「ゼロ」Streetとなって北へと平行に「碁盤の目」を守って、番号が増えて行きます。

さて、今回のお散歩エリアはグリニッジ・ビレッジの6th Avenue (Avenue of Americas)より西側です。この6th Avenueより東側では、何とか「碁盤の目」が不完全ながらあるのですが、今回のお散歩エリアでは「碁盤の目」が崩れ、しかも通りがキレイに平行になっておらず「碁盤の目」に対して斜めに走っています。

この「碁盤の目」は、こちらでは「Grid グリッド」と呼びます。「Grid plan グリッド・プラン」という、この道を「碁盤の目」にする提案は1811年に承認されました。都市計画上での建築の効率性の向上と、街の空気の循環を良くする衛生上の目的だったそうです。車が排気ガスを巻き散らかしながらも、マンハッタンの空気がさほど汚れないのは、モチロン「島」であることもありますが、この「グリッド」のおかげでもあるようです。ちなみに現在の「パーク・アベニュー」は、「4th Avenue」だったのですが、3rd Avenueと5th Avenueの間が広すぎる、ということで、「レキシントン・アベニュー」と「マディソン・アベニュ」ーが加えられ、「4th Avenue」は「パーク・アベニュー」と名を変えましたが、14th Streetから南にほんのチョットだけ、この「4th Avenue」が残ってしまっています。

さて、今回のお散歩エリアが何故、ストリート・ナンバーを守らず、しかも斜めに通りが走っているかですが、「グリッド・プラン」は法的強制力が無く、しかも上記のようにこの辺りは1800年代前半は富裕層の街でしたので、財力・権力に物言わせ「嫌だ!」とゴネたからだそうです(笑)。ちなみに、アベニューは南北、ストリートは東西に走るのがマンハッタンの原則ですが、この辺りでは、グリニッジ・「ストリート」が南北に、グリニッジ・「アベニュー」は、やや斜めながらも東西に走るという例外が出来てしまいました。

結果、現代の我々お昇りさんが、道にすぐ迷うという困った街になりました、とさ(笑)。

(ついでに、fujiyanは上の地図を作る際にノイローゼになりそうなほど苦労しました、とさ(苦笑)。)





(ゲイ・カルチャー)

今回のお散歩エリアで、独特の光を放つのは、クリストファー・ストリート (Christopher Street)です。この通りは、ゲイの方々の中心地と言うことができます。

ニューヨークは、港を中心とした交通が発達し、また他の地域と比べると家族主義の程度が小さく、一人暮しがさほど変ではなく他人をあまり干渉しないため、1800年代の後半からゲイの方々がお住まいでした。1890年代は、現在のイースト・ビレッジを含むローワー・イースト・サイドのThe Boweryという通りが、新宿歌舞伎町のような?労働者階級の歓楽街だったようで、その辺りがゲイの居住区ということになました。例えて言えば新宿二丁目ですね。

1920年代は、ゲイの居住区はグリニッジ・ビレッジと移ってきます。19世紀末からグリニッジ・ビレッジには、カウンター・カルチャーの街として、アーティスト、過激政治思想者が集まってくるのですが、ゲイの方々も転入してきました。例えば、グリニッジ・ビレッジ(中央)で、禁酒法時代(1920-33)のもぐり酒屋(speak-easy)としてご紹介した写真(11)「Black Rabitt」の経営者は、ポーランドからやって来たレズビアンでゲイの方々もこの店に良く集まってきたそうです。しかしながら、ボヘミアンの街グリニッジ・ビレッジでも、ゲイの方々への市民あるいは警察の攻撃は大きく、「Black Rabitt」も含めてゲイ相手のもぐり酒屋は閉店を余儀なくされたようです。また、ハーレムでも「ハーレム・ルネッサンス」という文化ムーブメントの中、黒人系のゲイが居住して行ったようです。

第2次世界大戦の開戦と終戦の間、多くの兵士が欧州戦線への往来でNYを中継しましたが、兵士の中でゲイの方々は、NYでのゲイの生活がアメリカの他地域と比すれば快適であることに気がつき、終戦後NYに住み始めます。しかし禁酒法が終了した後も、ゲイ相手の商売に対してNY州は酒類販売免許を出さず、警察はゲイ・バーへの取締りを強化します。当時は、ゲイであることは「反道徳」の点から「法律違反」であったようで、NYでのゲイのプレゼンスが大きくなるにつれ、警察による逮捕、政治指導者の弁論による攻撃、市民の暴力などが相次ぎます。1950年代半ばからゲイの人権団体「Mattachine Society」が創設され、1960年代にはその攻撃的な抗議スタイルにより一定の成果を上げていきます。しかしながら、ゲイへの差別は大きく残り、特にゲイ・バーへの取り締まりは大きかったようです。

クリストファー・ストリート(Chridtopher Street)のゲイ・バー「Stonewall Inn」(写真(11))で1969年6月にゲイの集団により発生した「ストーンウォールの反乱 Stonewall Rebellion」をキッカケに、ゲイは彼らの人権のために立ち上がり始め、現在の地位を築きます。クリストファー・ストリートのストーンウォール前は、「Stonewall Place」と名を変えその反乱を記念し、毎年6月末にゲイ・プライド・パレードが行われています。現在では、グリニッジ・ビレッジの家賃が高騰し、アーティストなどのボヘミアン達がこの地を去っていますが、ゲイの方々は、住みやすさからでしょうか、あまりこの地を離れない、とのことです。



さらにご興味の在る方はこちらをご覧下さい。
fujiyanの添書き「ゲイ差別」と「ストーンウォールの反乱」





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