やってしまいました.....。以下の添書きは約11,000文字です。
いつもながら、長くてゴメンナサイ!! 今回ご紹介した国際連合の本部の土地は「ロックフェラー」家からの寄贈(1946)ですが、NYマンハッタンには、「ロックフェラー」家ゆかりの場所が他にもたくさんあります。 今後掲載予定のミッドタウンには、「ロックフェラー・センター」(1931-39)。また、「リンカーン・センター」建設推進グループのリーダーは、ロックフェラー家の人間でした。他にも「クロイスターズ美術館」(1925)、「近代美術館」(Museum of Modern Art)(1929)、「リバーサイド・チャーチ」(1924-30)、そして「ロックフェラー医学研究所」(現「ロックフェラー大学」)(1901)などなど。 ちなみに、ロックフェラー家は「親日家」と言われており、例えば、1923年関東大震災で崩壊した東京大学の図書館の再建寄付金400万円が「ロックフェラー財団」から寄贈されています。第二次世界大戦前後、日米関係が悪化する中で休止した、NYの「ジャパン・ソサイエティ」の復興にもロックフェラー家が一役、買っています。また吉田茂首相が、日本再独立のため「サンフランシスコ条約」調印後にNYを訪問し、ロックフェラー家にたいへんに歓待されたとか。 で、「ロックフェラー家」とは、そもそも何者なんでしょうか?― 「石油王」でした。 こちらに「アメリカ大富豪」ランキングがあります。 初代ジョン・D・ロックフェラーは堂々の1位で20.9兆円!!。38位に弟ウィリアムもランク・インです。 「19世紀半ばから、NYは産業拡大期を迎える」、と「ヘルズ・キッチン」や他のお散歩コースで書きましたが、それはアメリカの他の都市でもほぼ同時期であり、1820年代から始まったとされる、アメリカ「産業革命」の発展期が、南北戦争(1861-65)後訪れます。 その発展が一服しますと、様々な業界で、企業倒産、買収などを経て再編成が行われ、19世紀末には、経済的な「寡占」「独占」の時代へと向かっていきます。「アメリカ大富豪」ランキングに名を連ねる「鉄鋼王」カーネギー、「鉄道王」ヴァンダービルト、そして「業界再編」を成し遂げる「金融王」J.P.モルガンなどが登場してくる、という訳ですね。 「独占」の時代の中での最大級の人物は、「石油王」ロックフェラーと言うことが出来ると思います。 彼らは「robber barons」と呼ばれました。直訳すれば、「追剥ぎ男爵」ですね。「robber=追剥ぎ」には、利益を追求して力任せに相手を圧迫、脅して経営権などを奪い取ることを、そして「baron=男爵」には、社会的地位の高さと優雅な暮らしを、それぞれ象徴しているんだと思います。 ちなみに、ダーウィンの「種の起源」が1859年に発表され、「適者生存」、言い換えると「弱肉強食」は自然界の摂理であるという考えが出されます。その考えは自然界から他の現象の分析にも応用され、経済界では、「安価で良質な製品を作る強い企業」が、弱い企業を倒産させて生き残っていくのは当然のことであり、大企業の「企業合同」「独占」を正当化する根拠ともなりました。 「鉄鋼王」カーネギーはかつて言い放ちました:「私が、良い鉄鋼を、安く作り出せるからだ!!」 - 「石油王」ジョン・D・ロックフェラー - 一家はビルの妹夫婦の住むオハイオ州ストロングスビレ(クリーブランドの南)という場所に1853年、転居します。息子ジョンは、商業専門学校へと入学し、複式簿記、商法などを勉強しました。そして1855年に16歳で、農産物を取り扱う小さな商社に勤め始めます。 ちなみに同年、父親のビルは、マーガレット・アレンという女性と重婚(!)したとされています。ロックフェラーが大富豪となったはるか後年のことですが、母親エリザの葬式に実父ビルは姿を現わさず、ロックフェラーは葬式を執り行う牧師に、「母親は未亡人であったことにして欲しい」と頼むことになってしまいました。 さて1859年にペンシルバニア州西部で油田が発見され、「オイル・ラッシュ」がスタートします。 1861年に南北戦争勃発し、米国経済は大打撃を受けますが、戦時中から北米を中心に工業化・産業化が進んでいきました。さて、ここでロックフェラーは人生の岐路を迎えました。 ロックフェラーが農産物の商社を営んでいたオハイオ州では、エリー湖畔の「港町」、クリーブランドが中心した。「ヘルズ・キッチン」散歩で書きましたように、NY州の州都「アルバニー」と「エリー湖」までのエリー運河が1825年に開通し、「アルバニー」と「マンハッタン」まではハドソン川がすでに結んでおり、この農産物を中心とした流通路の中継地として、クリーブランドは栄えていた、という訳ですね。で、オハイオ州内の農産物はクリーブランドへ運ばれて、そして運河、川によりマンハッタンまで運ばれる、という構図。 しかし、ロックフェラーはオハイオ州の農業とその流通の将来性を疑いました。1850年頃からほぼ水運と同じルートで鉄道が整備され、さらにこの鉄道は西へと向かっていきます。シカゴより広がる中西部の大穀倉地帯から農産物が運ばれてくると、価格競争でオハイオ州産の物は勝てなくなる。 - ロックフェラーは石油ビジネスへ - その大手三社とは(時代とともに名称は変遷していますが)、 ・「NYセントラル鉄道」社。 ・「NY&エリー鉄道」社。 ・「ペンシルバニア鉄道」社。 の三社でした。 エリー運河とハドソン川で繋がれた水運ルートは、「NYセントラル」鉄道とほぼ一緒。さらにちなみに、「NYセントラル」鉄道は鉄道王「ヴァンダービルト」家の手にありました。 北に「エリー湖」、南は工業都市「ピッツバーグ」、西にいくと「オハイオ州」。また、ニューヨーク市、フィラデルフィア市などの大都市で囲まれた円の中にいると言うわけです。便利な場所から石油が産出されたものですね。 で、ロックフェラーは、原油をこの「石油地帯」からオハイオ州に輸送し、そこで石油を精製、そして船、鉄道でNYなどの大都市に送るというビジネスなら、今後の将来性が見込める、と考えた次第。 1863年、ロックフェラーは小さな石油精製所の共同経営を開始、それから快進撃を続けます。特に、オイル輸送について、鉄道会社に、ある一定の輸送量を約束する変わりに運賃を割引させる(正確には「リベート」としての払い戻し)という方法を行い、価格競争で優位にたったためだそうです。その後、会社を再編成し、弟ウィリアムやパートナー達と、資本金100万ドルで1870年「スタンダード・オイル」社(Standard Oil Company)を設立しました。 さて当時の石油製品は圧倒的に「灯油」であったそうです。「灯油」というと「暖房」というイメージですが、当時は「照明」用に主として使われていました。他の照明用燃料-鯨油など、と比べますと無臭であり、火力も強い。(ちなみに、ペリー提督が日本開国を求めてきたのは、米国が鯨漁の寄航場所として日本を開港させましたが、鯨漁の目的は「鯨油」獲得でした)。 当時の石油「精製」ですが、これはホントに単純なもので硫酸で「洗う」というだけことだったそうです。初期投資額が少なく新規参入が容易なので、若きロックフェラーも参入してきた、という訳ですね。 しかし、簡単に新規参入できるということは、競争が激しいことはもちろんのこと、値段も安定しない。また「幼稚」な精製をされた「灯油」は品質がバラバラで、消費者に迷惑を掛け通しだったそうです。そのために「標準となる油」を出荷し、一方で価格の安定を行わなければならない、という良く言えば「社会使命」をもって、ロックフェラーは会社名を「スタンダード・オイル」=「標準の油」としました。現代風の大規模石油精製工場を作り、品質の安定した、安価な製品を産み出していきます。そしてその「大義名分」、はたまた彼の「野望」、のため、彼は今でいう「企業合同」により、石油精製業界を「統一」しようとします。 19世紀後半は、アメリカで鉄道網が発達していく時代となります。その輸送需要の少なくない割合を、油田から原油を精製工場まで運送し、出来上がった加工油を消費地まで送る、という業務が占めました。 1871年に、ロックフェラーとその仲間は、「サウス・インプルーブメント」社(South Improvement Company)という、休業状態の会社を買取り、今で言うと「ダミー会社」とします。 - 石油業界「独占」への道 - ・「サウス・インプルーブメント」社傘下の業者向け輸送運賃:1バレル$1.50このスキームの提案は、「鉄鋼王」カーネギーもお世話になった「ペンシルバニア鉄道」によるものだと言われており、ロックフェラーは後年、「自分から言い出したことではない」としています。しかし、ロックフェラーが「サウス・インプルーブメント」社最大の株主でした。上述した近隣の大手鉄道会社三社はスキームを受け入れました。輸送運賃価格と輸送需要の安定確保を考えてのことですね。 このスキームは、翌72年に「油漏れ」(笑)しまして世の人々の知るところとなり、「サウス・インプルーブメント」社は糾弾され解散し、結局このスキームは一度も作動しませんでした。ロックフェラーはその後、クリーブランド近辺の独立系精製会社に、安売りによる価格競争、原油、精製薬品や器具の地域での買占め、鉄道会社と組んで競争会社向けの運送運賃値上げの圧迫などで攻撃し、経営譲渡を求め着々と傘下に治めていきます。 そして今度は原油発掘業者側が連合して、ロックフェラー側には原油を売らない、と対抗しました。原油生産量のコントロールをしたわけですね。これは1970年代から80年代にかけてのOPEC(石油輸出国機構)も同様でした。しかし、生産連合側の泣きどころは、経済的にガマンできなくなった構成員が脱落して生産を増やしてしまうことでしたが、これはOPECの崩壊でも同様でした。 上述の、ペンシルバニア州の油田地帯の原油は枯れ始めました。そのためでもあるのでしょうが、ロックフェラーはさらに全米の石油精製会社を、膨大な力-鉄道網を使わせない、原料である原油を供給させない、そして安売り競争に持ち込む等々-で着々と傘下におさめ、1877年にはその全米シェアは90%となります。一方、既存の原油輸送手段-鉄道、馬車、あるいは人力-などに代わる、はるかに安価なオイル輸送手段として現れた「パイプ・ライン」網も、1880年代に株式買占めなどの方法で支配、また油の「小売部門」も着々と傘下に治めていきます。その裏側では、暴力や破壊行為などが、ロックフェラー派、反ロックフェラー派双方より、少なからず使用されています。 「原油産出」、「原油輸送」、「石油精製」、「石油製品輸送」、そしてその「小売り」という、石油にかかわる全部門の支配(「垂直統合」っていいますね)を全米で行っていき、そのロックフェラー石油王国の中枢として、1882年に「スタンダード・オイル・トラスト」を設立します。 「トラスト」と言いますと、経済参考書ですと「企業合同」、つまり独立企業が集まった状態、を指しますが、そもそもこの「トラスト」は「信託」であり、今で言うと複数の企業の株式を保有する「持ち株会社」ですね。 ロックフェラーに買収された石油会社の株式保有者は、その株式を「トラスト 信託」に預けて、その信託の株式(正確には「受益証券」)と、実質的に「交換」する、という次第。 この業界支配の「トラスト」形態は、砂糖、果てはロープ製造などの他の業界も、真似ていったそうです。 1891年に「持ち株会社」を、財政悪化(蚊が大量集団発生したための殺虫予算のためだとか(苦笑))していたニュージャージー州が法的に認めたため、「スタンダード・オイル・トラスト」は1892年解散、同州で「スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー」という持ち株会社の元で再編成されました。「スタンダード・オイル」はその後海外進出へ乗りだし、海外の情報入手などの便宜からニューヨーク、そのマンハッタン(ローワー・マンハッタンのブロードウェイ26番地)に、1885年「スタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク」を設立します。 (大変長らくお待たせしました、ようやくロックフェラーがその姿をNYに現わしました(笑)。) 1900年には、カリフォルニア州の「Pacific Coast Oil Company」を買収、同社を1906年に「スタンダード・オイル・オブ・カルフォルニア」と改名しました。西海岸に到達、全米制覇したとも言えそうです。 - 「スタンダード・オイル」の全盛。世論の批判と社会貢献事業 - 世論では反「独占」モードが高まっていき、1880年代から90年代にかけて、「独占」を行う企業、そのオナーへの攻撃が激化します。世論の最大の標的は「スタンダード・オイル」そしてロックフェラーでした。 1890年に「独占禁止法」が成立します。しかし、1896年の大統領選挙では、ロックフェラーは独占に対して寛容な共和党のマッキンレーに25万ドルの選挙資金提供を行い、マッキンレーは当選、ロックフェラー石油王国への政治的攻撃はしばらく後のことになります。 ちなみにこの反「独占」の世論は、独占企業オナー達に相当なストレスを与えたようで、「鉄鋼王」カーネギーは1889年に「The Gospel of Wealth 富の神の声」を書き、「富裕層は社会に対する奉仕者となる責任がある」と論じ、1891年のカーネギー・ホール建設など社会貢献を行っていきます。 一方のロックフェラーは、1889年の母エリザの死をきっかけに、母、そして本人が信仰したバプティスト派の大学をシカゴに設立(シカゴ大学:正確には復興)するという最初の大型社会貢献事業を行います。 彼は若い頃から、バプティスト派教会とその新設に対して絶え間なく「寄付」(=収入の十分の一の献金)をしていましたが、宗教色の比較的薄い「社会貢献」はこれが初めてでした。
「鉄鋼王」カーネギーは、1901年に「カーネギー・スティール」を、「金融王」J.P.モルガンが指導する「U.S.スティール」に4億8000千万ドルで売却し事業から引退、社会貢献に専念します。 ロックフェラーは1891年に、バプティスト派牧師をロックフェラーの慈善事業の責任者として採用します。また1901年、現在のロックフェラー大学の前身である、「ロックフェラー医学研究所」を設立します。 しかし彼はストレスにより右の写真のように脱毛症、しかも頭だけではなく全身の毛が抜けていく、という病気になってしまいました。このことは、「弱肉強食を突き詰める」一方で、まじめで敬虔なバプティスト派信者、という、ロックフェラーが内部に持つ、2つの異なった性格を物語っていると言われています。 「シアター・ディストリクト」散歩の添書き「ブロードウェイよもやま話」でも書きましたが、1881年トーマス・エジソンが発電所を建設し、翌年から操業するなど、1880年代からから90年代にかけて、照明は「灯油」から「電気」への移行が進んでいきます。 しかし(幸運なことに?)1896年から自動車生産を開始した「ヘンリー・フォード」は、1908年大衆車「T型フォード」を発表、1913年ベルトコンベア式の流れ作業による大量生産が開始され、安価になった自動車の大衆化が進み、ガソリン需要が急速に拡大します。「スタンダード・オイル」はここでその隆盛の頂点を極めたとも言えます。しかし、実はロックフェラーは、1890年代から少しずつ、密かに、実際の経営から離れていったそうです。 - 20世紀初頭は「独占」への攻撃。ロックフェラー家は「篤志」家へ - まずは、大企業の独占に寛容なマッキンレー大統領が1901年暗殺され、副大統領のセオドア・ルーズベルトが大統領となりますが、彼は行き過ぎた「独占」に対して攻撃を開始します。 一方、今でいうと「(企業)告発記事」でしょうか、「スタンダード・オイルの歴史 The History of Standard Oil」が1902-4年に掛けて連載発表され、大きな反響を呼びました。筆者の「イーダ・ターベル Ida Tarbell」(1857-1944)は、フィラデルフィア州のオイル地帯の、原油採掘、貯蔵そして精製会社社長の娘で、ロックフェラーの圧力によりその会社は崩壊したとか。「ペン(活字)」による、「敵討ち」ですね。 この「スタンダード・オイルの歴史」は、「ロックフェラー王国」に立ち向かったターベルの「勇気」(父親は「報復」を恐れて、掲載中止を説得しようとしたそうです)とともに、いわゆる「企業告発」ジャーナリズム史上の第一号として礼賛を浴び、およそ100年後の1999年にニューヨーク大学のジャーナリズム部が行った、「20世紀アメリカ・ジャーナリズム作品ベスト100」の第五位となっています。 他のメディアもロックフェラー家を叩き始めます。例えば、1903年ジョンの孫にあたる女の子が誕生したら、「全ての赤ちゃんの中で、最高に裕福な赤ちゃん誕生!!」、てな具合。チョット品がないかなぁ(笑)。 そんな中、1907年に連邦政府から訴訟されていた「スタンダード・オイル」王国ですが、1911年アメリカ最高裁は解体を命じる判決を出しました。 それを受けて「スタンダード・オイル」は、石油会社、化学会社やパイプ・ライン会社などの34社へと分割されます。「スタンダード」という「ブランド名」は使用を認められたようで、東海岸南部は「スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー」、東海岸北部は「―・オブ・ニューヨーク」、南部は「―・オブ・ケンタッキー」、西海岸南部は「―・オブ・カリフォルニア」・・・・等など、全米地域別に「担当エリア」が定められ、また「パイプ・ライン」会社などもそれそれに独立しました。 日本人であるfujiyanからみると、JR東日本、JR西日本、JR東海・・・・そして、JR東部?貨物、JR西部?貨物・・・・という感じの区分けですね。 反「スタンダード・オイル」の世論と、この判決により、1901年にテキサス州で油田が発掘された後に同州に設立された「テキサコ」社と「ガルフ」社が、「よちよち歩き」ながら「スタンダード・オイル」に倒されずに済んだとも言えましょう。
さて、ロックフェラーの資産金額は、この解体により「世間」の把握が容易になり、1913年にそのピーク、9億ドルと推測されています。(ちなみに、「ロックフェラーの財産額速報」と題して、日次で速報を伝えていた新聞もあったそうです(笑)。)ただ「分割」しただけですから、大株主としては大きな影響力を持ち続けることのできたロックフェラー家ですが、このあたりから世論の攻撃に疲れてきたようです。 長男「ジョン・D・ロックフェラー Jr.」(1874-1960)は「スタンダード・オイル」社で働いていましたが、1910年退社し社会事業に専念しようとします。 20世紀初頭は、貧富の差の拡大が激化する一方で、社会主義運動も活発になりますが、それはロックフェラー家の環境にも影響を与えます。長男ロックフェラーJr.の保有するコロラドの鉱山会社で大規模ストライキが発生、1914年に暴力衝突で死亡者が出て州兵が派遣されるなどのの混乱、そしてロックフェラーJr.は公聴会に呼ばれる、などのトラブルもあり、ロックフェラーJr.はますます経営から遠ざかり社会貢献事業に専念しようとします。 1913年には、「ロックフェラー財団 Rockefeller Foundation」が1億ドルの寄付とともに設立され、この財団が社会貢献事業の中心の役割を果たすことになります。 一方、初代ロックフェラー.は、1917年から少しずつ個人資産を、主としてロックフェラーJr.に相続させ始め、1937年、彼が目標としていた100歳に3年足らずして亡くなりました。 そして、ロックフェラー Jr. は、ビジネスから引退後、大不況時代の始まりである1929年「暗黒の木曜日」の株式暴落によって価値が半分になった、と言われていますものの膨大な資産を持って、「篤志家」として数々の貢献をします。 NYでの主だった業績としては、 ・(1925) 「クロイスターズ美術館」を「メトロポリタン美術館」へ寄付 ・(1929) 妻アビーが「近代美術館」(Museum of Modern Art)の創設者の一人となる。 ・(1924-30) 「リバーサイド・チャーチ」建設。 ・(1931-32) 「ハーレムYMCA」新館の補助。 ・(1931-39) 「ロックフェラー・センター」の建設。大不況時代に投資、雇用を提供。 そして、今回の「タートル・ベイ」散歩でご案内した1946年の、「国連本部」の土地購入費の寄贈です。
「ロックフェラー家」の「第三世代」については、色々と書いてみたいのですが、この「添書き」も長くなりましたので、右の簡略家系図をご参照いただきながら、簡単に以下。 長男である「三世」は、父「ジョン・D・ジュニア」を助けて社会貢献事業。 1950年代に「ジャパン・ソサイエティ」の復興と「アジア・ソサイエティ」を設立。また「リンカーン・センター」建設推進グループのリーダーでもありました。 次男の「ネルソン」は、フランクリン・D・ルーズベルト、トルーマン、そしてアイゼンハウアーの各政権に参加後、1958年からNY州知事を四期務めつつ、大統領職を狙うものの、ジョン・レノンにも歌われた「アッティカ刑務所暴動」(Attica Prison Riots:1971)への高圧的対処を筆頭としたタカ派的イメージと、「ロックフェラー家の闇の力」というイメージを押し付けられ、ウォーターゲート事件によるニクソン辞任後のフォード政権での副大統領止まりでした。 五男の「デイヴィッド」は、チェース・マンハッタン銀行の社長、会長となり、南米向け融資や、兄ネルソンがNY州知事時代に提案したものも含め数々の建設プロジェクトに参加。特に「ミッドタウン」に対して寂れ気味になりかかった「ローワー・マンハッタン」の再開発に、銀行在籍中、退職後も携わり、「ワールド・トレード・センター」、「サウス・ストリート・シーポート」、「バッテリー・パーク・シティ」などに関連。 ちなみに第四世代である「ジョン・D・ロックフェラー四世」(1937-)は、ウェスト・バージニア州知事を経て現上院議員です。彼はハーバード大学で日本の文化と言語を学び、日本の国際基督教大学(ICU)に留学しており、州知事時代にトヨタ自動車の工場誘致に携わったそうです。 ―――― 「ジョン・D・ロックフェラー」と「スタンダード・オイル」社が近年、アメリカのみならず日本のメディアでも取り上げられました。それは、「ビル・ゲイツ」と「マイクロソフト」社との共通性、という視点。 「ロックフェラー」は「石油」、「ビル・ゲイツ」は「PCソフト」という、その時代の経済の「血液」とも言うべき物を「独占」し巨万の富を築き、連邦政府から「社会悪」として権力解体の訴訟を起こされている、という論点です。「ビル・ゲイツ」はその資産の大きな金額を「社会貢献事業」に注ぐ、という発表をしました。一部のメディアはこう解釈しています; 「社会貢献事業に乗り出すのが遅すぎる。これはロックフェラーと同様である。」 ロックフェラー家が社会貢献に注ぎ込んだお金は膨大なものでしたが、石油業界を席巻していった当時から行っていれば、これほどまでには叩かれなかったろう、と言われています。つまり社会貢献事業は世間を欺くための道具である、と判断されてしまったわけです。 1901年「鉄鋼王」カーネギーが本業を売却し、実質上の引退を宣言した鮮やかさが、ロックフェラーにはありませんでした。 「noblesse oblige」(ノブレス・オブリージュ)、つまり、社会的に上位に居る人間は、目に見えない責任を負う、を実践するのは、なるべく早いほうが良いようですね。
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