fujiyanの添書き:「ブロードウェイ」よもやま話


(ブロードウェイ=「Great White Way」)

1800年代後半にシアターは、ブロードウェイを北上し1900年頃にタイムズ・スクエア周辺に辿り着いたことは、本編でお伝えした通りですが、このシアターの北上とともに、電気による街灯の北上がほぼ一致していることに気がつきました。ご存知トーマス・エディソン(1847-1931)は、1879年に白熱電球を発明します。それまでの灯は、ガスあるいはアーク灯でしたが、電気による街灯が1880年にブロードウェイの14Stから26Stに出来ます。1881年にエディソンはウォール街周辺に火力発電所を完成させ、翌年から操業を開始します。1895年にブロードウェイの街灯は42Stまで辿り着きます。この街灯の並びを称して「Great White Way」(大きな白い道)と呼んだそうで、今でもブロードウェイのことをそう呼ぶ文章もあります。

 「決して眠らない街」 - the city that never sleeps. (New York, New York)の誕生ですね。



(「ティン・パン・アレイ Tin Pan Alley」)

1880年頃から、ブロードウェイのシアターでの演目に、音楽が頻繁に登場し始めます。それで、演奏者や楽曲を提供する「音楽会社」が28Streetの6Aveとブロードウェイの間に現れ、その通りは「ティン・パン・アレイ Tin Pan Alley」と呼ばれました。「アレイ」は「横丁」のことで、「ティン・パン」は「錫の鍋」というわけです。ある新聞記者が、この通りで多くのピアノが鳴り響き、その騒音状態を、まるで錫の鍋をいっせいに叩いたようである、と思い、ここを「ティン・パン・アレイ」を名づけました。しかし、「ティン・パン」は恐らく「擬音」も兼ねているのでは、と思われますので、日本訳で「チンドン横丁」でどうでしょうか?(笑)

再度「発明王」エディソンの登場です。
エディソンが1877年に蓄音機を発明しますが金属製の円筒に記録するもので、「音楽」を録音、販売とするには、チョット不便すぎますね。1888年に硬質ゴムによる録音が発明され、翌年米コロンビアレコードが設立されます。しかし、この頃の音楽会社は、まだレコードでの収入ではなく、作詞家、作曲家そして音楽演奏者をサラリーマンとして雇用、依頼を受けて作詞、作曲を行い、演奏者を「演芸」巡業に随行させ、そして楽譜販売、というビジネスをしていました。

特に、「ボードビリアン」達はその演目に音楽を取り入れ、かつ当人オリジナルの「持ち歌」を歌うようになります。「持ち歌」が大流行すると「流行歌」になる、つまり「ヒット曲」となりお金になる。それまでは、「楽曲の人気」と「歌手の人気」はそれまで別のものでしたが、それらがリンクした、日本で言う「歌謡曲」の誕生ですね。

さて1910年頃までの楽曲は、「ヨーロッパ風」か「フォークソング」というところでしたが、ジャズの先祖であるラグタイムなどを取り入れた、「アメリカ独自の新しい流行音楽」=「American Popular Music」、つまり「アメリカン・ポップス」が登場します。1920年代に入るとジャズ、ブルーズが成立、南部のジャズを引っさげてデューク・エリントンは1927年にハーレム入り。そしてラジオ放送がスタート、音楽は「お茶の間」に流れ込んできました。レコードの材質も改良が続き、1925年に電気録音が始まり、それまで不可能であったビング・クロスビーの「ささやく」歌も録音可能、ここで音楽産業に「レコード販売」ビジネスが現れます。
一方、第一次世界大戦勃発の1914年、米国作曲家作詞家出版者協会(ASCAP)が設立されており、著作権が保護されるようになったことも、注視すべきでしょう。

「ティン・パン・アレイ」=音楽産業会社が密集する通り、は1900年頃シアターの北上に伴い28Streetからタイムズ・スクエア周辺に移り、今では特に存在しません。その終わりは1950年代と言われていますが、その終わりをもたらしたのはエルビス・プレスリー(1954年デビュー)とも解釈できます。それまでのヒット歌手、例えばビング・クロスビー、フランク・シナトラも、ジョークのセンスも含めた多彩な才能をもつ芸達者であり、いわゆる広義の「ボードビリアン」でした。しかしプレスリーは「歌う」だけの「芸人」?であり、その曲の売り込み方も現在で言う「マス・セ―ル」(メディアへの露出、宣伝)を行います。彼の登場は、色々な意味で非常に革新的だったのですが、「流行歌」の売り方をしても革新的だったわけですね。ちなみにプレスリーも後年は映画に出演し、最後はラスベガスでショーを行う「ボードビリアン」系になりますが、これは厳しい言い方ですが、ポップス歌手としては単に「落ち目」になったためです。エルビス以降、歌うだけの「芸人」?が続々と登場し、現在に至ります。

さて、消滅してしまった「ティン・パン・アレイ」ですが、音楽産業に従事する人々への総称として、現在でもその表現は使われて残っています。

- 参考サイト -
記録音楽の歴史
録音技術史と、時代背景や流行する音楽とシンクロさせて述べておられます。



(「ミュージカル」:アメリカ独自の文化の誕生)

アメリカは、「ミュージカル」はアメリカ独自の文化である、と強く主張しています。
5番街のいわゆる「ミュージアム・マイル」にニューヨーク市博物館に、昔のミュージカルの衣装などを展示した「ブロードウェイ」コーナーがあるのですが、そこの立て札がそう主張していたので、そういうことにしましょう。(笑)

「ミュージカル」の定義の一つは、「スペクタクル=豪華絢爛」なパフォーマンスと考えることも出来そうです。「スペクタクル」というと近年では、セットの豪華さや場面転換の早変り、などに集約されますが、そもそもは、大人数による「ダンス」だったようです。ミュージカルの元祖は1927年の「ショーボート」とされていますが、その約60年前の1866年に、ある偶然から「スペクタクル」な「ミュージカル」の原型が誕生しました。

その年、パリからバレエ団が、バレエを踊るために(変な言い方ですね(笑))NYへ招かれたのですが、彼らが大西洋を渡っている間に出演する予定だった場所が火事になってしまいました。バレエ団への給与も含めて財政的に困った主催者は「Niblo's Garden Theatre」(1822-46、1849-95:SoHoのブロードウェイ沿い)で「The Black Crook 」というメロドラマを上映予定であった他の興行主のところへ相談に行きます。相談された興行主は、このメロドラマを音楽とバレエのついた豪華なショーに内容を変更することを決意し、オーケストラの音楽と、バレエ団扮する100人以上のジプシーが踊りを披露、熱狂的に受け入れられ、16ヶ月のロングランとなったそうで、以降、この形式を模倣した演劇がチョコチョコ上演されたようです。

さて、ミュージカルの別の定義は「アメリカ的要素」の存在です。こちらが「正統派」なようです。その理由ですが「ニューヨーク市博物館」の立て札がそう言ってたのでそういうことにしましょう(笑)。

すでに欧州で確立された、音楽が流れる舞台パフォーマンスとしては、音楽とダンスが一体となった「バレエ」、音楽が主でドラマがある「オペラ」そして、(主としてコミカルな)ドラマと音楽、そして少しばかりかもしれませんがダンスが一体となっているのが「オペラッタ」、と、fujiyanはここで定義しますがご賛同いただけますでしょうか?(ウーン、苦しいか?(笑))

「オペラッタ」と「ミュージカル」はよく似ています。欧州人に、「ミュージカル」ってやつは欧州の「オペラッタ」であってアメリカ文化ではなく欧州文化だよ、と言われて、むきになって反論するアメリカ人、という情景もfujiyanには思い浮かぶのですが(笑)。

その違いですが、「ミュージカル」と見なされるためには、ドラマ、ダンス、そして音楽が一体となっているのは当然ですが、どうも「アメリカ的要素」が入っている必要があるようです。ここで言う、アメリカ的要素とは「アメリカ音楽」を用い、「舞台設定がアメリカで、昔あるいは現代の世相の反映」のようです。

さてまずは「アメリカ音楽」です。1800年頃からすでに、権威在る大きなシアターには、上演前そして幕間に観客を楽しませるために、オーケストラが常在していたそうで、一部にはドラマ中にもオーケストラの演奏と歌を挿入する実績はあったようです。音楽は我々が「クラシック」と呼ぶ「欧州的音楽」でした。上記の「ティン・パン・アレイ」でも述べましたように、1910年頃になりますと、ラグタイムやジャズ風の「アメリカ音楽」が出来始めます。

一方「舞台設定と世相の反映」です。音楽、ダンスの有無は関係なく、1800年頃からしばらくは、舞台設定は、城、宮廷などヨーロッパを連想させる場所や、名もない「ある」町、だったそうです。まあ、独立戦争が終わったばかりで、アメリカのどこが芝居の舞台設定に適しているか、どころでは無かったんでしょうねぇ。しかし、1800年代の後半から、アメリカの都市、あるいは下町を舞台設定とした演劇も多く現れ、人種問題などの世相をテーマとするお芝居が現れます。

その二つの流れ―「アメリカ音楽」、そして「アメリカを舞台設定とし、世相を反映」した芝居、が1920年代にどちらも完成の域に達し、その二つをミックスした1927年の「ショーボート Show Boat」が「ミュージカル」の「元祖」となりました。「ショーボート」はアメリカ南部を舞台とし、人種差別などの世相を盛り込んでいるようです。

アメリカ独自文化の「ミュージカル」は、シリアスな世相やテーマを盛り込んでおり、コメディ的なものは「オペラッタ」である、という相当大胆な?分類方法もあるようです。「コーラス・ライン」は、ゲイ問題、人種問題、整形美女問題?などの「世相」を見事に織り込んだものでしたね。

しかし、第二次世界大戦後、早くも「アメリカ的要素」という定義は崩れ始めたようです。場所は、東洋の王宮だったり、ロンドンの下町だったりしましたし、音楽も欧州風のメロディーだったり、逆に言えば形に捕らわれることなく自由奔放に作品が創作されます。それが1960年代の「ミュージカル」の全盛へと繋がるわけですね。

本編でも書きましたように、現在では欧州からの輸入作品の上演が多くなっており、「アメリカ独自の文化」という主張も、少なからず弱くなっているかもしれません。「ミュージカル」という言葉が消え「オペラッタ」と呼ばれるようになる日が来ることも、将来的には無いとは言えないような気がします。

- 参考サイト -
ニューヨーク市博物館
展示室3階にブロードウェイ・コーナーがあります。
また、サイト内に「Theater」コーナー があり、「The Black Crook 」の絵や
「オクラホマ」の写真を見ることが出来ます。



(仁義無き?戦い:「シアター・シンジケート」対「シュバート帝国」)

1900年頃からシアターはタイムズ・スクエア周辺に辿り着き、繁栄へと向かっていくわけですが、その頃、演出家、脚本家そして俳優などを押さえるBookingが無茶苦茶に乱れ始めました。そこで、1896年に「シアター・シンジケート Theatrical Syndicate」が、プロデゥーサー、ブッキング・エージェント、そしてシアター経営者を中心に組成されました。その後のこのシンジケートは1903年までには、全米の興行界を支配する寡占団体となり、その力は絶大なものでした。

Shubert Alleyそのシンジケートに対抗したのが、シュバートと(Shubert)三兄弟でした。1890年代末に、シラキュースSyracuseというニューヨーク州の北部でシアター・ビジネスを始めた彼らは、1900年にはニューヨーク市に進出、Herald Square Theatre (35St)、Casino Theatre (39St) Lyric Theatre (42St)で興行を行っていきます。当然「シアター・シンジケート」と対立することになりますが、「シンジケート」の支配下に無い「独立系 Independents」を結束させ、資金、俳優などの融通を図ります。

しかし1905年、ビジネスの実質上のヘッドであった次男Samが鉄道事故で死亡し、残された二人は、興行権を「シアター・シンジケート」に売却し、NYから撤退するのではないかと、世間では思っていました。しかし、「シンジケート」との契約などの交渉の席で、「死人との約束は尊重しない」という言葉を聞かされて兄弟は激怒、「シアター・シンジケート」との更なる対決を決意しビジネスを拡大します。ウーン、「口は災いのもと」!!(笑)。それ以降の抗争の場はブロードウェイではなく他の全米の都市、例えばボストンなどに移っていったようです。シュバート兄弟は1916年頃「シンジケート」を崩壊させ勝利、1920年代の末には「シュバート帝国 Shubert Empire」は全米で100を超えるシアターを所有し、その他興行面での彼らの持つ力により、アメリカのショービジネスに君臨します。。。。

と、ここまで調べてみたfujiyanですが、変だな?と気が付いたことがあります。

アメリカには、日本より遥かに厳しい「独占禁止法」があるわけで、これに抵触しないのかな、ということです。で、ネット検索してわかったのですが、この「シアター・ビジネス」は、野球などのスポーツと一緒で「独占禁止法」の対象外とみなされていたようですね。しかし1954年に連邦政府が独占禁止法を適用して介入、「シュバート帝国」は終わりを告げ、現在では20弱のシアターを保有するのみとなったようです。

The Antitrust Case Browserに、判例要旨があります。)



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