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今回は、シアター・ディストリクト Theater Districtを散歩します。ミュージカルなどのパフォーマンスの「聖地」ですが、実は建築なども見るべきものが多いです。 地図中の青の星印まで、地下鉄N,R,Q,Wでやってきて57Streetで下車。すぐに(1) カーネギー・ホールです。57Stと58Stの間で(2)ゴージャスなアパートを拝見。その後は、ブロードウェイまで西(地図では上)にいきましょう。今回は、ブロードウェイを行ったり来たりしながら、南(地図では左)に下るようにします。 56Stで早速、左(地図では下)へ。6Aveで逆戻り。55St側(地図では左)から(3)「ムーア」式建築を鑑賞します
(4)第二次世界大戦前後のコメディ・ミュージカルの中心地、(5)元シアターの教会、(6)その昔は、馬の取引所だったシアターがあります。 50Stまで来たら、再度ブロードウェイを外れて、6Aveへ。(7)「演芸の殿堂」です。ここからは、ブロードウェイを挟んで6Aveと8Aveの間の通りをジグザグに歩いて、シアターを訪ねていきます。(8)俳優のためのカソリック教会とその向かいのシアターを見て、49Stで逆戻り。(9)神殿のようなシアターです。 ブロードウェイに戻ると(11) 割安当日券の販売所の辺りからは、外見を拝見だけの(10),(12)-(23)シアター三昧(笑)。ウーン、贅沢!!(笑)。 44Stから42Stまでは、(25)タイムズ・スクエアの中心地。(24)第二次世界大戦前に周囲を見下ろした高層ビルも見えます。42Stで最後に(26)ビッグヒットが掛かっているシアターを拝見したら、緑の星印の地下鉄駅でお散歩終了です。
マンハッタンの発達の歴史は、島南の端である「ローワー・マンハッタン」から北へと広がってくるのわけですが、それはシアターの歴史も同様で、現在のタイムズ・スクエア周辺がその中心となるまでには、アメリカ独立後からおよそ120年程度の年月が必要でした。 1732年にシアター開設の記録はあるものの、マンハッタンで商業演劇の始まりはアメリカ独立後の1800年頃からと言えそうです。当時は、「ローワー・マンハッタン」はビジネス街であり、かつ中高所得層の町でした。一方、「ローワー・イースト・サイド」は低所得層の町で往時ではマンハッタンの「ミッドタウン」であり、それより北は、まあ、「田舎」でした。 (1800年頃-1800年代後半:ローワー・マンハッタンからユニオン・スクエアまで) まず、「ローワー・マンハッタン」のBroadway沿いにシアターが1800年頃から出来始めます。代表格は現在のシティーホール傍のPark Theater(1798-1848)。遅れること20年ほどで、「ローワー・イースト・サイド」のThe Bowery沿いにシアターが出来始めます。代表格はBowery Theater(1826-1929)です。 アメリカでの初期演劇は、ろくな俳優もいなかったためでしょうかイギリスから俳優を呼んで興行するというものでした。日本で言う「外タレ=外人タレント」ですね(笑)。ヒロインの「薄幸の女性」、ヒーローの「タフな男性」、そして「悪役」が登場、という単純な「勧善懲悪」劇(例えれば「水戸黄門」(笑))と、「シェークスピア」劇、の二通りだったそうです。「勧善懲悪」劇は、「ローワー・イースト・サイド」=The Bowery界隈の低所得者向け、「シェークスピア」劇は「ローワー・マンハッタン」のブロードウェイで中高所得層向け、という感じだったようですね。 その後、この二つの通り沿いにシアター設立が北上していきます。Broadwayは1800年代前半に「SoHo」へ到達、さらに北上。The Boweryは、1850年頃「イースト・ビレッジ」の「Astor Place」に到達。 その頃の1849年5月10日、アメリカ国産初?のスタア俳優Edwin Forrestを酷評した、英国人俳優のWilliam MacreadyがAstor Place Opera House(1847-53)でハムレットを演じていたのですが、Forrestのファンが乱入しMacreadyのファンと大喧嘩、その後劇場の外で大騒ぎとなる「アスター・プレイスの暴動 Astor Place Riots」が発生し、数が文献により違うのですが30人前後の死亡者が出ました。これは、熱狂的ファンの暴走という要素に加えて、 * 主に中高所得層=英国風=高級?=舶来指向?=シェークスピア劇?=Broadway沿い * 主に低所得層=米国風=低級?=愛国主義?=勧善懲悪劇?=The Bowery沿い という対立の図式が背景にあったようです。 さてその後ですが、マンハッタンの地図をご覧戴くと判りますが、The BoweryとBroadwayの2つの通りは、14StreetのUnion Squareで合流しブロードウェイとなります。まさにそれと同様にシアターの北上も1870年Union Square周辺で合流し、ブロードウェイを北上していきます。 (1800年代末−1920年代:タイムズ・スクエア周辺に到達、全盛へ) ![]() 大変長らくお待たせしました、42丁目のタイムズ・スクエアが近づいてきましたね(笑)。 一番手はメトロポリタンオペラ(39-40Street:1880-1965)ですが、時期としては早い。タイムズ・スクエア周辺へのシアター進出の一番手は、そのメトロポリタンオペラの真向かいに出来たEmpire Theatre(1893:現在の42StのEmpireは別の建物。)とされています。それ以降1900年代に入り、タイムズ・スクエアを中心とするエリアがショービジネスの中心となり、それは現在まで「シアター・ディストリクト」として続きます。1800年代後半から1900年台前半は、鉄道、地下鉄などの交通機関の発展期ですが、この「シアター・ディストリクト」はペン・ステーションとグランド・セントラル駅からほぼ同距離の徒歩圏内であり、また1904年から地下鉄も通り始めます。それまでシアターは近所の人々が徒歩でやってくるものでしたが、交通機関により遠いところからも往来可能となり、タイムズ・スクエアは至極便利と言うわけですね。 ここで、タイムズ・スクエアを中心とした「ショー・ビジネス」エリアを称する「ブロードウェイ」は、第一次世界大戦(1914-19年)後の好景気もあいまって、1920年代に全盛を迎えます。 さて、ここで「シアター」の整理を。 「シアター」を直訳すれば「演芸場」ですね。往時のブロードウェイにどういう種類の「演芸」があったかというとまずは、通常の「芝居」。そして「ボードビル」=芸達者が行う、お笑い、演技、歌、ダンスなど総合娯楽ショー。そして、「(コメディ)芝居」+「音楽」+「ダンス」を組み合わせた「オペラッタ」。 さて「ミュージカル」ですが、その「元祖」は1927年に上演された「ショーボート Show Boat」(Ziegfeld Theatre:今もZiegfeldは54Stの6-7Aveの間に映画館として存在しますが、場所が違いますし建替えです。)とされています。それまでも「オペラッタ」がありましたが、これは「ミュージカル」とは別物とされているようです。その違いは「アメリカ的要素」の有無のようです。「舞台がアメリカか否か」「アメリカの過去あるいは現在の世相反映の有無」、「アメリカ風音楽の有無」であったようです。「ショーボート」はアメリカを舞台とし、「アメリカ風音楽」に歌と踊りと演技が組み合わされたアメリカ文化としての「ミュージカル」の元祖とされています。 (詳しくは、fujiyanの添書き:「ブロードウェイ」よもやま話の「ミュージカル」:アメリカ独自の文化の誕生、をご覧下さい。) (1930年頃-第二次世界大戦まで:ブロードウェイの凋落 トーキーと大不況) 全ての「演芸」は1920年代に全盛を迎えますが、その栄華は短いものでした。1926−27年に、トーキー(有声映画)が出現して観客の足が「ライブ」から遠のき、そして1929年から始まる大不況時代は、ブロードウェイに深刻な翳りをもたらします。また俳優、芸人達は、西のハリウッドで映画に出演するため、ブロードウェイを去っていきます。(映画による大衆娯楽演劇への打撃は、日本でも、まあ、あったようですね。)一方、不況と貧富の差の拡大から、ブロードウェイの芝居も「社会的」「左翼的」な内容になりますが、これはまあ、どの国でもお決まりでした。 第二次世界大戦中は、戦時中の国々ではこれまたお決まりの(笑)、戦意高揚の芝居がありましたが1920年代の全盛と比べると見る影もありません。「芝居」は低調。そして「ボードビル」は壊滅状態となります。その中で孤軍奮闘していた分野がコメディタッチの「ミュージカル」でした。映像では味わうことの出来ない魅力、というところでしょうね。今でもそうかもしれません。 ![]() 彼は、正規の音楽教育はまったく受けていませんが、欧州風音楽、ユダヤ音楽、ラグタイムやジャズなどをミックスしたリズム、メロディを生み出し、1910年ごろから戦後にかけて登場した、「アメリカ独自の音楽」いわゆる「アメリカン・ポップス」の創造者の一人となります。ジャズ・ミュージシャンに「ラブソディ・イン・ブルー」(1924)を提供、ピアノとオーケストラのための「パリのアメリカ人」(1928)、ミュージカルの「Funny Face」(1927)、「Porgy and Bess」(1935)などその活躍は多岐に渡りましたが、1937年惜しくも早世しました。 (「ティン・パン・アレイ」につきましては、fujiyanの添書き:「ブロードウェイ」よもやま話の「ティン・パン・アレイ Tin Pan Alley」を、ご参照ください。) さて、「ミュージカル」の奮闘は続きます。 (第二次世界大戦-1960年代:「ミュージカル」の全盛) ![]() まず、1943年にアメリカのカウボーイと農夫を描いた「オクラホマ! Oklahoma!」(St. James Theatre)がヒット。その後、彼らは快進撃を続け、「南太平洋 South Pacific」(1949 Majestic Theatre)/「王様と私 The King and I」(1951 St. James Theatre)/「サウンド・オブ・ミュージック Sound of Music」(1959 Lunt-Fontanne Theatre)。疎いfujiyanにも、さすがに映画などで親しみのある作品ばかりですねぇ。 また他の人々の作品で、「コメディ」タッチという、戦前からの流れの「ミュージカル」としては、「アニーよ銃をとれ Annie Get Your Gun」(1946 Imperial Theatre)/「ハロー・ドリー! Hello, Dolly!」(1963 St. James Theatre)。 ここにブロードウェイは復活し、「ブロードウェイといえばミュージカル」が確立します。 また、新しい試みと新鮮さのある、オリジナリティ溢れる数々のミュージカルが誕生します。 「マイ・フェア・レディ My Fair Lady」(1956 Mark Hellinger Theatre:現Times Square Church)は、英国労働党の源流とも言うべきバーナード・ショーの、シニカルなコメディで「恋に落ちれば貴族も貧民も皆同じ」というコンセプトを、レトロなオペラッタ風味で演出して大ヒット。 「ウエストサイド物語 West Side Story」(1957 Winter Garden Theatre)は、クラシック界の大御所レナード・バーンスタインの音楽に、「ヘルズ・キッチン」の不良少年ギャング団という社会問題も盛り込む斬新さ。 1960年代に入り時代が「退廃」的?になると、「キャバレー Cabaret」(1966 Broadhurst Theatre)は1930年代の退廃したベルリンのムードを醸し出し、「ヘアー Hair」(1968 Biltmore Theatre)は、ロックとヌードをその中に盛り込むなど、ブロードウェイはそのオリジナリティをふんだんに発揮、ブロードウェイ・ミュージカルは興行的にも文化的にも全盛を迎えます。 (1970年代−:オリジナリティ不足によるリバイバル、輸入。そして制作費高騰) 1970年代後半に入ると、ブロードウェイのオリジナリティの不足に懸念の声が上がり始めます。 大きな理由は、拡大するスペクタクル指向による制作費高騰を抱えながらも「固く」商売をしたい興行側の意向が強く、ワン・パターン化された内容となってしまう一方で、新しい若い才能はミュージカルを古臭い陳腐とみなして敬遠していく、という悪循環が発生したのが大きな理由のようです。「シカゴ Chicago」(1975 Richard Rodgers Theatre)のような斬新な作品や、「コーラス・ライン Chorus Line」(1975 Sam S. Shubert Theatre)のように、スペクタクルさを抑えて人種などの社会問題を取り入れたミュージカルも生まれたものの、ブロードウェイには独自開発能力が低下していきます。結局、リバイバル上演が多発、一方で斬新さは英国など欧州からの輸入( 「キャッツ Cats」(1982 Winter Garden Theatre)/「オペラ座の怪人 The Phantom at The Opera」(1988 Majestic Theatre)) することになっていきます。他国でヒットを確認してからNYのブロードウェイで上演するので、商売として「固い」ということは大いに認めるところですが、 ブロードウェイから文化としての進取の精神が消えていくことを意味するように思えます。 1990年代に入ると、アメリカは好景気もあいまってブロードウェイは好調でした。しかし、あいかわらずブロードウェイのオリジナリティ不足に対する懸念は大きく残っています。Winter Garden Theatreは、長く「キャッツ Cats」の「ホームグラウンド」?で、「キャッツ」は上述したように欧州からの「輸入品」でした。同じ劇場で上演が始まった「Mamma Mia!」も「輸入品」です。2001年10月19日付けNY Timesで、その観劇批評を読みましたが、褒めてはいるものの「既に大ヒットが約束された」というコメントに、fujiyanは少くない皮肉を感じます。 ![]() この稿を書いている時点では、昨年から懸念されていたアメリカの景気失速に加えて、2001年9月11日、ワールドトレードセンターへのテロ攻撃が発生、ブロードウェイでは閉鎖に追い込まれているミュージカルもあります。客足は戻ってきたものの、これは、直接的に言えばジュリアニ市長を始めとする「お金をNYで使おう」という呼びかけにニューヨーカーが答えているという、「意地」と「義侠」に支えられている部分もあり、先行きは不透明です。 頑張れブロードウェイ! 踏ん張れニューヨーク!
I Love NY more than ever..... とエールを送ります! さらにご興味のある方は、以下をクリック! fujiyanの添書き:「ブロードウェイ」よもやま話
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