日本でも「花の五番街」なんて、言われていることもありますが、NYの「五番街」=5th Avenueはファッショナブルな通りの代名詞となっていますが、19世紀半ばからの、こここ「マレー・ヒル」がその始まりと言うことが出来るのではないかと思っています。 本編でも書きましたが、現在の「マレー・ヒル」の南東端である、33-34St/5Aveの土地には、NYのシンボルである、エンパイア・ステート・ビルディングがそびえ立っていますが、19世紀前半には、NY不動産王として名高いアスター一族のものでした。 <華麗なる一族−アスター家> アスター家初代は、ジョン・ジェイコブ・アスター(John Jacob Astor:1763-1848)。 ドイツのウォルドルフ(Waldorf)という場所に生まれロンドンで楽器商人。 アメリカのバルティモアに渡りその後NYへ。そこで毛皮商人となり、英国植民地であったカナダから、密貿易?で毛皮を輸入したのが財の始まり。 その後、1800年前後におけるフランス革命-ナポレオン戦争当時、海上封鎖にも関わらず、自分の中国系店員を「中国の貴公子」とでっちあげ、「貴公子を本国に送り届けたい」と米政府から許可を受け、中国貿易でさらに財を築きました。 得た富は、NY特にマンハッタンの不動産投資に注ぎ、その後貿易業から撤退、不動産業に注力し、巨額の財を築きます。彼の不動産投資は独特でした。彼は土地を購入するだけで、デベロッパー=開発、をせず、日本でも最近導入された「定期借地」=契約期間(通常は数十年に渡る長期)が終了したら土地が地主に帰ってくる、を採用しました。土地が帰ってくる数十年後には、その土地の値段が桁外れに高くなっていたのはご想像の通りです。1837年の経済パニック時にも、値段の暴落した土地を買いあさります。またこの当時での不動産の大物は、自分自身の資金調達のために銀行家も兼ねていたのが通例でしたが、彼は銀行業務に手を出さず、大預金者として銀行を支配する側に回りました。 彼の死に望んでの言葉; 「もし人生がやり直せたら、そして私の今の知識と投資するお金があったなら、 マンハッタン島1フィート残らず買っていたろうに。。。。」 (そりゃ、そうだよねぇ(笑)。) ジョンには多くの息子、娘が居ました。長男アスター二世は、幼少の頃の転落事故により、残念ながら精神に異常をきたし、アスター家は次男「ウィリアム・バックハウス・アスター」 (William Backhouse Astor 1792-1875)が相続しました。 ちなみに、この「バックハウス」は、言葉が示すとおり「裏の家」。初代ジョンは、次男はまさに「裏の家」=「予備」と思っていたようでして、ジョンの、良く言えば「お家大事」の厳格さを、悪く言えば家中心の「非情さ」を示すものとされています。 二代目「ウィリアム・バックハウス」は初代に勝るとも劣らない商売人であり、またタマニー協会のボス、ウィリアム・ツィード(添書き「アイルランド系移民とタマニー協会」参照)とつるみ、彼の不正政治時代に、水道整備の補助金水増し請求をも行い、さらに財を積んでいきます。一方、二代目「ウィリアム・バックハウス」は三人の息子、三人の娘を名家と婚姻させ、アスター家の社会的地位向上を果たします。 本家は、米南部の名家の娘と結婚した長男の、
(John Jacob Astor III 1822-90) が継ぎ、 次男である ・「ウィリアム・アスター」 (William Astor 1830-92) (当初は「ウィリアム・バックハウス・アスター・ジュニア」(William Backhouse Astor Jr.)という名前でしたが、後に「バックハウス」と「ジュニア」を捨て、単に「ウィリアム」と改名。この改名ですが、「バックハウス」(裏の家=予備)と「ジュニア」という名に対して、彼が不満を持っていたと推測されているようです。) は、NYの富豪Schermerhorn家の ・「キャロライン・ウェブスター」(Caroline Webster 1830-1908) と結婚します。 ここで、チョット混乱しますが、 ・長男「三世」の息子は、アスター家発祥地の名から「ウィリアム・ウォルドルフ・アスター」。 ・次男「ウィリアム」と妻「キャロライン」の息子が、「ジョン・ジェイコブ・アスター四世」。 <キャロライン・アスター:NY社交界のリーダー> さて、現在の「エンパイア・ステート・ビル」の立つ33−34St/5Aveの大きな敷地には、アスター一族が家族別に邸宅を建ており、年代は不明なんですが19世紀の後半、おそらく1850年代には、南側(33St)は「ジョン・ジェイコブ三世」の、そして北側(34St)にはその弟夫婦「ウィリアム・アスター」と「キャロライン」が、庭を挟んで隣り合わせに邸宅を持っていたようです。 弟夫婦「ウィリアム・アスター」と「キャロライン」は、当時のファッショナブルなNY社交界の一角を占め、特に「キャロライン」はNY社交界の「リーダー」であり、夫婦の周りにNYの名士が集い、「キャロライン」は友人である「名士」を400名選び、通称「The 400」と呼ばれるNYの「名士会」を作り、邸宅に招いていました。 (この人数制限ってヤツが、「名士心」をくすぐるんでしょうなぁ(笑)、日本でもありそうな感じ(苦笑)。) キャロラインが「名士会」を作ったこの「マレー・ヒル」には、取り巻き?の「上流」階級の転居が進みます。また現在のパーク・アベニューには、ハーレム125Stからダウンタウンまで鉄道が走っていたのですが、1852年から32-40Stの鉄道は地下に潜る工事が始まりました。1854年にはこのあたりから南は蒸気機関車が禁止となり馬によって地下のトンネルで車両を引っ張る、ということで住宅環境としても良くなり、19世紀末の「マレー・ヒル」は、NYの富裕層が居住するエリアとなりました。「花の5番街」の始まりです。 そして「マレー・ヒル」には、アスター一族の他にも、NYの「名家」たちが居住しました。 以下、幾つかご紹介します。
<ファッショナブルな「マレー・ヒル」の「終わり」の「始まり」:「ウォルドルフ-アストリア」誕生> さて、現在ではエンパイア・ステート・ビルディングがある33-34St/5Aveの土地に戻りましょう。
(fujiyanの推測に過ぎませんが、本来アスター「本家」であるはずの甥「ウィリアム・ウォルドルフ」は「アスター四世」を名乗れず、次男夫婦の子が「四世」を名乗っているところに、チョットその不和の遠因を感じますねぇ。次男の嫁である、「キャロライン」の実家はNYの大富豪でしたので、この命名は「家格」に基づく「取引」かなぁ。。?で、「実家」と「NY名士会」を誇る「キャロライン」が、「本家」「長男」である「ウィリアム・ウォルドルフ」と対立、というところでは。。。?ウーン、本家長男と小姑???) 「マレー・ヒル」は中高所得層の住宅地でしたので、そこにいきなり商業目的のホテルが誕生したのは、想像を超える出来事であり、キャロラインのみならず、いわゆる名士は皆ビックリしたようです。キャロラインは、そうとう腹を立てたようですが忍耐しました。「ウォルドルフ」ホテル開業の1893年、キャロラインは「アッパー・イースト・サイド」へと転居(5番街沿い65St、現在の「テンプル・エマニュエル」の地)し、その残りの人生をそこで過ごしていきます。キャロラインが転出したここ「マレー・ヒル」の邸宅は、キャロラインの息子である「ジョン・ジェイコブ・アスター四世」が「アストリア Astoria」ホテルとして改築しました(1897)。 その後、この二つのホテルは繋ぎ合わされて、出来たホテルの名は、 ・「ウォルドルフ-アストリア Waldolf=Astoria」 「アストリア」は「アスター」を気取って発音したものですが、「ウォルドルフ」はアスター家初代が生まれたドイツの町の名前です。「ウォルドルフ-アストリア」はNY最大のホテルであり、上流階級の中心であることは「キャロライン」が居た当時から引き継がれました。ただし、この二つのホテルが繋ぎ合わせるのには、一つ条件がありまして、「キャロライン」未亡人が望めば、いつでも「アストリア」ホテル側への連絡通路に壁を作って遮断しても良い、というものでした(笑)。 (NY Timesのサイト中に、1900年頃のマンハッタンの写真を集めたページがありますが、その中に往時の「ウォドルフ−アストリア」の写真があります。 ホテルはこの場所での「エンパイア・ステート・ビル」建設に伴い、1929年に取り壊されました。現在、二代目「ウォルドルフ-アストリア」ホテルは移転し、49-50St/Park-Lex Aveで開業しています。 (蛇足ながらちなみに、「キャロライン」の息子、「ジョン・ジェイコブ・アスター四世」は1912年、大西洋横断豪華客船「タイタニック号」に乗りあわせてしまい、亡くなりました。) 20世紀に入ると、「マレー・ヒル」の5番街沿いは「ウォルドルフ-アストリア」ホテルから始まった商業化が進んでいきます。「レディス・マイル」散歩でご案内したとおり、富裕層の北上転居を追いかけて、有名高級ショップが「マレー・ヒル」に店舗移動(写真11、12)してきました。 (この「レディス・マイル」あるいは「ヘラルド・スクエア」周辺から「マレー・ヒル」5番街周辺 への高級店舗の移動は、「ファースト・ジャンプ」と呼ばれるようです。) 一方、キャロラインが1893年に「アッパー・イースト・サイド」に引っ越したことで、キャロラインの後を追うように取り巻きの富裕層たちの、「アッパー・イースト・サイド」や「ミッドタウン」の北部への転居が始まりました。1910年、20年代に入って5th Ave沿いの富裕層北上は更に進み、名家は「アッパー・イースト・サイド」へ転居、中高所得層はそれを追いかけて行きます。「マレー・ヒル」は、5番街沿いには「エンパイア・ステート・ビル」など、そしてパーク・アベニュー沿いにもビルが建ち始め、いわゆる「ビジネス・エリア」となっていきました。 また中高所得層の「マレー・ヒル」退去にワンテンポ(10-20年程度?)遅れて、高級店の一部は、ここ「マレー・ヒル」から、「アッパー・イースト・サイド」あるいは「ミッドタウン」北部に転居した富裕層を追いかけて、「ミッドタウン」へと店舗移動をします。 (この「マレー・ヒル」から「ミッドタウン」への高級店の移転は、「セカンド・ジャンプ」 と呼ばれているそうです。) 散歩本編でも書きましたように、「マレー・ヒル」の、上流階級居住の「ファッショナブル」な地位は、20世紀を挟んだ1920年代まで、というところでしょうか?その後は「エンパイア・ステート・ビル」を始めとする高層ビル群の「ビジネス・エリア」の街となっていきます。 ここ「マレー・ヒル」のみならず、「SoHo」あるいは「レディス・マイル」散歩でも書いていますが、マンハッタンを「富裕層居住区」が北上し、その後「(高級)商業エリア」となり、そして「ビジネス・エリア」となっていく、というパターンが、ブロードウェイ沿いから始まり、5thアベニュー(5番街)沿いに繰り返されていますが、これの繰り返しに終わりをもたらしたのは、1916-17年成立の「ゾーニング Zoning」法(日本語で言えば、「都市計画法」)ではないかと、fujiyanは思っています。この「ゾーニング」については、今後掲載予定(と言ってもいつになるか不明なんですが(苦笑))の「ミッドタウン」散歩で、皆様の迷惑も顧みず(笑)、書いてみたいな、と思っています。
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