fujiyanの添書き:独立戦争とNY。そして「南北対立」へ。 1775年、マサチューセッツ州ボストン近郊を舞台に、宗主国イギリスの増税など圧制に耐えかねた人々が英駐在軍に戦いを挑み、その後独立軍最高司令官となった「ジョージ・ワシントン」とともに、1776年3月ボストンから英軍をカナダ英植民地へと駆逐、それが同年7月4日の「独立宣言」につながります。 <ニューヨークの戦い(1776年9月−10月):英軍完勝> イギリスは本格攻勢として、カナダ植民地からNY侵攻を試みます。 ワシントンは英軍の意図を読み、ボストンからNYに駆けつけ、防衛体制に入りました。 「ヘッセン(旧ドイツの封建国家)人傭兵」を含む英軍は、海路でカナダ植民地から南下、難なく「スタテン島」に上陸。そして「ナロー(狭い)海峡」を渡り、「ロング・アイランド」の一部である「ブルックリン」へと渡り、1776年8月27日、「ロング・アイランドの戦い」により、ワシントンの防衛線は崩壊し敗北、米軍は夜間に「マンハッタン」へと撤退します。 9月15日「キップス・ベイ」を防衛する米軍を蹴散らし、マンハッタン島へ渡河した英軍は翌日、現在の「モーニングサイド・ハイツ」で米軍に一敗します。 米軍は「ワシントン・ハイツ」の「フォート・ワシントン」を基地とし、ハドソン川対岸のニュージャージー州にある「フォート・リー」とともに、防衛線を引きました。 英軍はその後現ブロンクスに上陸しますが、ワシントンも北上し、「ホワイト・プレインズの戦い」となります。 米軍は何とか退けたものの、実は英軍の意図は、当時事実上の首都であった「ペンシルバニア州フィラデルフィア」侵攻にあると読んだワシントンは、先回りすべく「ハドソン川」を渡り「ニュージャージー州」経由で南下を始めます。ワシントンは、「フォート・ワシントン」「フォート・リー」に籠もる米軍に撤退を指示しますが、両基地とも行動が遅れ英軍に制圧され、多くの捕虜が出てしまいました。 ワシントン率いる米軍は、ニュージャージーを通り抜け、「デラウェア川」を渡り「ペンシルバニア州」へと撤退、「フィラデルフィア」の防衛に備えます。英軍は追撃、ニュージャージーの諸都市を落とし、デラウェア川の東岸の町「トレントン」まで到達した時点で冬が到来、そこで冬営となりました。 <ワシントンの反攻:デラウェア渡河> ニューヨーク周辺での一連の敗北により絶望感が漂う中、ワシントンはその打開のため反撃に出ます。1776年12月厳冬の中、デラウェア川をニューヨーク方面へ再渡河し、ニュージャージー州のトレントンに冬営していた「ヘッセン人傭兵」を蹴散らし(「トレントンの戦い」)、そしてプリンストンなどニュージャージーの諸都市を占拠します。希望の光が見えてきました。 ちなみに反撃へと向かう「デラウェア川を渡るワシントン」の絵が、NY「メトロポリタン美術館」に展示されています。非常に巨大なカンバスですので、行ったことのある方々には、まず間違いなく目に入ったことでしょう。 ワシントンは、NYを奪還したいと思っていたようですが、手持ちの戦力が許しません。NY駐屯の英軍がその後、船で南へとむかい上陸、北上して「フィラデルフィア」へと侵攻した時、ワシントンは南下、戦闘(「ジャーマンタウンの戦い」)したこともありましたが、基本的にマンハッタン島を取り囲むエリア、つまり現在のウェストチェスター郡、ニュージャージー州、あるいはコネチカット州近郊に、数年のあいだ留まることになります。 <ニューヨークは「反独立派」の拠点> ワシントンがニューヨーク奪還に進めなかった大きな理由の一つが、NYが「反独立」派の拠点であったことです。 「アメリカの歴史」(集英社文庫)によりますと、イギリス国王に忠誠を誓う「国王派」(Royalists)または「王党派」(Tories)は、NYでは50%を占めていたそうです。 またハドソン川を挟んで対岸のニュージャージー州でも、「国王派」というわけではありませんが「中立派」あるいは「日和見派」が当初多かったようです。NYから南下しフィラデルフィアを防衛しようとした米軍が、途中のニュージャージー州に留まることが出来なかったのは、無関心な住民達のためだと、ワシントンが愚痴をこぼしていた手紙が残っています。しかしながら、独立軍撤退後にニュージャージー州の諸都市を占領した「ヘッセン人傭兵」が略奪を繰り返したため、ワシントンが反撃に出た際には住民たちは非常に協力的になったそうです。 ちなみに同「アメリカの歴史」は、アメリカ住民のうち、「日和見」あるいは「中立派」が50%、「独立派」が40%、そして「王党派」は10%ではなかったか、と推測しています。 上述の英軍フィラデルフィア侵攻では、実はフィラデルフィアはいったん占拠されました。しかしNYと違って周辺住民の反英ムードが取り巻いており、危険を感じた英軍はNYへと引き返した次第です。逆にNYが、英軍にとっていかに「心地良い」場所であったことがわかりますね。 一方、マンハッタンでは「愛国者」の「美談」が生まれました。エール大学を卒業してすぐに独立軍に身を投じ、NY周辺での戦闘が続く中、マンハッタンへとスパイ活動のため潜入した「ネイサン・ヘイル」(Nathan Hale 1756-76)が英軍に捕縛され処刑されました。彼の残した言葉、 "I only regret that I have but one life to give for my country." (祖国に対して捧げる命を一つしか持っていない事のみ、私は悔やむ。) は、「パトリオット」(patriot 愛国者、特に独立軍として戦ったアメリカの人々)の名言となっています。 「湊川の戦い」で足利軍に敗れた楠木正成一族が自決の際に言ったといわれる、「七生報国」のアメリカ版、というところでしょうかね?彼の銅像がシティ・ホール公園内にありますが、fujiyanがNY在住時は立ち入り禁止区域でした。 <「ヨークタウンの戦い」−フランス海軍合流、独立講和へ> フィラデルフィア在住の初期アメリカ知識人で、郵便の父、雷が電気であることを凧で証明したり、後に独立宣言書、憲法制定にも参加することになる「ベンジャミン・フランクリン」が、フランスと反英で結ぶため「ルイ十六世」の元へと派遣されます。素朴でウィットに富んだフランクリンはフランスの人々の心をつかみ、仏世論を親米へと誘導することに成功しました。1778年には早くもフランスは、アメリカ独立を承認し対英同盟を結びます。しかしなかなか主力部隊、特に「海軍」をアメリカ大陸に派遣してもらえない。 1778年からニュージャージー州周辺に駐屯を続けるワシントンは、物資、人的資源の不足、未熟な新兵の訓練、そして兵士の反乱などに悩みながら、決定打を放つタイミングを待って数回の越冬を重ね、苦労を続けていきます。 外交上の成果は、1780年にロシア女帝エカテリーナ二世が音頭をとった対英武装中立同盟を欧州各国に結ぶところまでこぎつけました。そして同年、ニューポートに仏陸軍部隊が派兵されましたが、ワシントンとしては、海軍による封鎖なしでは大攻勢に出ることが出来ません。 本格的な戦闘は、「北部戦線」と「南部戦線」の、NYの英軍と睨み合うワシントンの所在地を挟んで、南北の二箇所となりました。「北部戦線」では、カナダ植民地から陸路侵入してくる英軍を「サラトガの戦い」で退けます。一方の「南部戦線」は当時のアメリカの南端である「ジョージア州」の「サヴァナ」に海路向かった英軍が北上してくるわけですが、メル・ギブソン主演映画「パトリオット」で、「サウス・カロライナ州」の「チャールストン」陥落後から描かれていますね。南部戦線の英軍は「ノース・カロライナ州」を経て、「キングス・マウンテンの戦い」で米軍に一敗、その後「バージニア州」まで侵攻しますが、海沿いの町「ヨークタウン」にいったん集結します。 ようやく1781年フランスが艦隊をアメリカ大陸に派遣、そこでワシントンは戦略を練りました。 独立軍の戦線をニューヨーク寄りに移動させ、敵側にNY侵攻のニセ情報を流し、フランス陸海軍とともにNYを奪還すると見せかけましたが、これは「騙し」でした。 南部戦線を北上してきた英軍が占拠する、「ヨークタウン」にフランス陸海軍そして独立軍を急行、集結させます。慌ててNYから出航した英海軍を、仏海軍はヨークタウン沖の通称「ケープズCapes」で撃破。海からの援護が無くなった「ヨークタウン」は1781年10月に陥落、イギリス側に大きな心理的ダメージを与えました。 とはいっても依然として南部の主力都市は英軍が占拠しており、NYはイギリスの牙城でした。ワシントンはヨークタウンの勝利後、南部の英軍主要拠点を攻撃して行きますが、フランス軍は「勅命」により帰国、アメリカ国内での兵力増強も少量でした。しかし英世論は、1776年に攻撃を本格化して5年が経っても終わりの見えない戦争に、倦み飽きてきました。 「ヨークタウンの戦い」から約一年後の1782年11月、パリで仮条約が結ばれ停戦、そして1783年9月3日、パリ講和条約が調印され、アメリカは独立しました。 1783年11月25日ワシントンが見守るなか、英軍がNYから撤退します。その船上には、NY居住の「王党派」の人々がたくさん乗っていました。彼らの一部はイギリス本国へ、そして多くの人々はカナダ英植民地へ向かいました。 12月4日マンハッタンの「フローレンス・タバーン」で、涙の独立軍解散式を行ったワシントンは19日にメリーランド州アナポリスに到着、そこで開催されていたアメリカ議会(憲法制定前の呼称は「大陸会議 Continental Congress」)に23日戦勝報告を行い、司令官辞任を申し出ます。 そしてクリスマス・イブを、バージニアの自宅で愛妻マーサとともに過ごそうと、馬上の人となりました。 <「連邦派」対「州権派」。そして「南北対立」の始まり。> 1788年アメリカ憲法が成立、ニューヨークが首都となりました。ワシントンは翌1789年にNYに戻り、「フェデラル・ホール」で初代大統領の就任式を行います。 彼の内閣は、「両輪」から成り立っていました。 −「財務長官」:アレクサンダー・ハミルトン。 −「国務長官」:トーマス・ジェファソン。 「アレクサンダー・ハミルトン」は、「国」=連邦政府の権限拡張、少数のエリートによる政治を目指す「連邦派」のリーダー。独立後の脆弱な戦後の負債を整理し、諸外国からのアメリカ経済への「信用」を確立したことをはじめ、商工業主義の代弁者であり、「北部」を代表する政治家。(ちなみに現在の「ハーレム」の一角に「ハミルトン・ハイツ」がありますが、ここは彼が住んでいた場所です。) 「トーマス・ジェファソン」は、各州の主権を重視する「州権派」のリーダー。バージニア州の「南部貴族」=「農園経営者」を中心とする農本主義の代弁者であり、「南部」を代表する政治家。憲法起草者として有名ですね。 「北部」、「南部」を代表する二人の上に成立したワシントン政権は、それなりに安定します。ちなみにワシントンは「南部貴族」でしたが考えとしては「連邦派」です。 この「両輪」による政治運営として、以下のエピソードがあります。 ハミルトンの提案した戦時負債の処理法−各州の負債を連邦政府が肩代わりする−を巡って、負債をほぼ完全に償却したバージニア州など南部が大反対の際、ハミルトンとジェファソンは話し合います。 ジェファソンは南部議員の一部に賛成票を負債処理法に投じさせるかわりに、ハミルトンは、南部側からの強い要望であるNYからの首都移転−1790年にフィラデルフィア、1800年に現在のワシントンD.C.−に対し北部議員の一部に賛成票を入れるように指示しました。 ジェファソンは後に、「大衆参加政治」を目指してアメリカ初の政党「民主党」を結成(当時の名称は「共和党」)し、悪い言い方をすればNYタマニー協会などの「政治マシーン」による「ドブ板選挙」により「連邦派」を打倒、第三代大統領となります。これは「一般大衆」票により「少数エリート」政治を打倒したということから、「1800年の革命」と呼ばれました。 一方で、「猟官システム」(Spoils System)と呼ばれる、選挙努力をした者は「褒賞」として「公職」を要求する形式が整いました。「公職」に付いたものは「公金」をその傘下の人々に分配するという、汚職構造が出来上がり、NYタマニー協会はその典型的な例となります。 <「国権」対「州権」の争い:「奴隷制」の是非と「南北戦争」> アメリカは「国」と「州」の二重システム。「州」と聞くと、日本人には「都道府県」のようなものと思ってしまいますが、「州 State」は「国」あるいは「邦」に近く、例えば「National Guard」、日本語では「州兵」と訳されている「正規軍」を持っていまして、拙サイトの「マンハッタンを歩く」でも、NY州兵所縁の地をご紹介しています。 「国」(厳密には「国会」)の権限について「合衆国憲法」は、第一条第八節において具体的に述べた後、補足的表現で第十八項に「・・・必要にして適当な(necessary and proper)すべての法律を制定する」と述べています。この「必要にして適当な」、すなわち「国」と「州」の権限の「線引き」を巡って、 ・「北部」=「連邦派」=「国」の権限拡大、 ・「南部」=「州権派」=「州」の主権重視、 はその後も争いを続けます。 「南部」の農業主義者、そして「北部」では都市部の新移民を主体とする低所得者層を基盤とする「州権」尊重の政党=「民主党」の全盛が続く中、それと対立する政党として確立されたものはなかなか登場せず、「アンドリュー・ジャクソン」大統領(任期1829-37)で「民主党」はその絶頂と迎えます。「連邦派」がほぼ壊滅した後に、1834年「ホイッグ党」という「政党」が出来ましたが、これは「民主党でなない」人々がごった煮になった組織で、政権に就いたこともありますが長続きしませんでした。 1854年に「共和党」が結成され、掲げた「旗」=「奴隷制廃止」の下に、「反民主党」の人々である、旧「連邦派」、旧「ホイッグ党」、はては新しい移民を背景にした民主党を嫌った反移民政党「Know-Nothing」党までが集結し、「民主党」と政権を争う確かな基盤を持つ政党が出来ました。 「南北対立」の史上最大の争点−「州」によって相違していた「奴隷制」の是非、は既に長期間に渡り、それを巡って宗教界でも、大衆宗派である「メソジスト派」そして「バプティスト派」が1845年に、「長老派」が1861年に、「南北」分裂する事態も起きていました。 「民主党」内部でさえも1860年の大統領選挙で分裂するほどの頂点に達し、「漁夫の利」を得て共和党「リンカーン大統領」が誕生すると、南部の奴隷制州は「連邦離脱」を始め「南北戦争」が1861年勃発。北軍の、後に大統領(1869-77)となる「ユリシーズ・グラント」将軍が、南軍の「リー」将軍を降し1865年に終戦、「南北対立」は一応の決着を見ることになります。 しかし争点であったはずの「奴隷解放」は達成されたものの、ことによると陰湿な形で「黒人差別」は残ってしまいました。 「国」レベルでは、1863年「奴隷解放宣言」に引き続き、戦後は奴隷解放、黒人平等のために「国」の「憲法」が修正されました。 しかし、投票資格として税金あるいは事前登録などで黒人の選挙投票を阻害、あるいは教育や公共交通の人種分離などの差別法、通称「ジム・クロウ」(ミンストレル・ショーという、黒人を物まねして笑わせるショーの登場人物の名)など、「南部」の各州での差別法案が「州権」尊重のもとに定められ、リンカーン亡き後の「北部」はそれを黙認してしまいます。 その「差別」は約一世紀に渡って続き、1960年代から始まる「黒人公民権」運動により、ようやく終わりを迎えることになります。
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