fujiyanの添書き:「社会改革」−テネメントから公共住宅へ

やってしまいました.....。以下の添書きは約14,000文字です。
いつもながら、長くてゴメンナサイ!!

アメリカ独立戦争が終結してから、20世紀に入るまでの移民史を簡単にまとめますと。。。

マンハッタン地図19世紀に入り、アイルランド系ら「北欧」系、ドイツ系ら「西欧」系の、
  - 「旧移民」(Old Immigration)世代、
そして1880年頃からは民族的変化があり、
   イタリア系ら「南欧」系、
       ユダヤ系を多く含むロシア系、ポーランド系など、「東欧」系の、
  - 「新移民」(New Immigration)世代、
となります。

移民たちの大多数は貧しく、都市部では貧困層住居エリア、一般名詞として「ゲットー」あるいは「スラム」に入り、そこを出て豊かな生活を送ることを夢に見て、一所懸命に働きます。

マンハッタンの貧困層エリアですが、19世紀前半は現在の「サウス・ストリート・シーポート」「チャイナタウン」「リトル・イタリー」「イースト・ビレッジ」を含む、マンハッタン島の南東全体を呼称する、「ローワー・イースト・サイド」。(正確に記すると、南から始まったマンハッタン島の開発は、19世紀半ばにようやく40Stまで到達したところでしたので、当時は単に、「イースト・サイド」と呼ばれていました。)

19世紀半ばから西側の、「ヘルズ・キッチン」と、「チェルシー」「グリニッジ・ビレッジ」のハドソン川沿い、が加わります。

今回の散歩エリアは、貧民層エリアの、変な言い方ですが、伝統的「中核」にあたります。さて彼らが住んでいたのはどういう「建物」だったでしょうか?

−「テネメント・ハウス」(tenement house)、略して「テネメント」(tenement)。
意訳すると「貧民アパート」でしょうか?ある法廷で、述べられた「定義」をご紹介しましょう。



<19世紀初頭:テネメントの誕生−「一戸建て住居」からの改造>
「地上から4-6階建ての煉瓦作りのビルで、一階に商店がある場合が多く、その商店が酒屋の場合には、住民の便宜と日曜規制(筆者注:酒類販売禁止)逃れのため、横に入り口がある。各階に四家族が占め、一つないしは二つの暗いクローゼットが寝室として使われ、12フィート(3.66メートル)×10フィート(3.05メートル)のリビングルーム。階段は建物の中心にありほとんど常に暗く、直接換気は不可能で、各家族は仕切りによって分離している。多くの場合、敷地の裏手には三階建ての別棟が占め、それは各階に二家族が居る。」
(Jacob Riis "How the Other Half Lives?"より)
テネメントの変化:改造段階
裏手の「別棟」は一家族用の間取りに見えますが、右の画像の(番号3)ですね。

この間取り図1、2、3は、「テネメント誕生の歴史」を語っています。
(番号1)は、アメリカ独立前に建てられた、
一世帯向けの「一戸建て」住居。
それが、独立後の移民の増加に伴い、(番号2)のように、各階二世帯向け「賃貸用」に改築される。
移民の増加に対応し、各階四世帯向けに改造され、さらに裏庭に「別棟」が建ち、(番号3)へ。

これが19世紀初頭までの「テネメント」でした。

ちなみに「寝室」である「クローゼット」ですが、現在では「押し入れ」と日本語では訳すところでしょうが、元来は「close(囲い)」+「et(小さな)」から、「窓が無い小部屋」というところでしょうか?

マンハッタンでは、ほとんどの建物同士はぴったりと隣り合っていまして、道と裏庭に面している部分には外への窓がありますが、横にはないんです。窓が無いので外気との換気ができず、また光りも射さない寝室。いったんウィルス性の病気が発生すると大変ですし、実際19世紀を通じてマンハッタンの貧困層エリアではコレラなどの伝染病が断続的に発生していました。



<19世紀半ば:収益目的でテネメントは「新築」。初の規制へ。>

「PBS」のサイトから、テネメントの別定義を。
「大家の「実現夢」であり、店子の「悪夢」。
可能な限り最小のスペースに、可能な限り最大の人数の間借り人を詰め込むもの。」
新築テネメント」「旧移民」世代である、アイルランド系ら「北欧」系、ドイツ系などの「西欧系」の移民が、1820、30年代から急増し、これを収益機会とみた人々が、貧困層向け住居「テネメント」を、「改造」ではなく「新築」します。

(番号4)がさらに悪化して(番号5)へ。通称で、「railroad」(列車型)
連結された列車のように部屋が並んでいる、ということですね。

上述のように、これら「テネメント」は建物同士が隣り合っていましたので、裏庭(YARD)または道に面していない横の部屋には窓がありません。

各階の16部屋のうち、窓が無く日が射さなくて換気ができない12部屋。
またトイレですが、裏庭に屋外便所がありますが、全住民に一つの「汲み取り」式。火事の際の避難設備もほとんどありませんでした。

これらの住居に積め込まれた、移民を中心とするNYの貧困層は暴動を度々起こすようになりまして、日本の「米騒動」と類似した、小麦粉倉庫を襲撃した1837年の「小麦粉暴動」(Flour Riot)が最も大規模でした。

アイルランド系は「大飢饉」(1845)から、ドイツ系移民は「三月革命」(1848)の混乱から、米移民がさらに急増。 1857年に「カソリック−アイルランド系」ギャング、「デッド・ラビッツ」と、プロテスタント系ギャングの「バワリー・ボーイズ」との大乱闘があり、当局は、NYのスラム街である、現在の「チャイナタウン」周辺、通称「ファイブ・ポインツ」を中心とする「ローワー・イースト・サイド」の実態調査を行い、衝撃的な実態が報告されたものの、これは調査止まりでした。

その後「南北戦争」(1861−65)中に、アメリカ史上最大の暴動である、「徴兵暴動」(1863年)が発生し、貧民層の住環境対策が真剣に検討され、1867年全米で最初の建築規制である「テネメント・ハウス法」(Tenement House Act)が制定されました。

「火災避難設備」義務、窓の無い部屋には隣室に通じるドアの上に換気兼明かり取り用の「小窓」の設置、「住民20名につき一つの便所」、そしてその「下水道への接続」、などが定められました。現在でもNYを歩いていると、失礼ながら安っぽい建物の正面に、2階あたりまで降りてきている鉄製の外階段が見受けられますが、これはこの時定められた規制の伝統を引き継いでいます。

ちなみに当時は政治団体「タマニー協会」の初代ボス「ウィリアム・ツィード」の全盛期です。貧困層の票を狙った良く言えば彼らへの厚生事業であり、画期的ではありますが、大家の負担がさほど大きくはないところも、「政治」的調整が効いていますね。



<19世紀末:1879年のテネメント法改正−「ダンベル」型登場>

1879年に「テネメント・ハウス法」が改正され、それ以降の新築では、すべての部屋に直接屋外から光が射しこみ換気できる窓の設置を、義務づけます。ちなみに1879年以降のこの法律に基づいて作られた物を、通称「old‐law」(旧法)テネメントと呼び、それ以前の物は「pre‐law」(法以前)と呼ばれています。

ダンベル型テネメント改正法に適い、強欲大家も納得する賃貸スペースを持つ建築デザインのコンテストが行われ、その優秀作品が若干変更された間取図が右です。部屋面積については、「NY市百科事典」の記述から転載しました。
右図の下の広い「2LDK」?は、各27.5平方メートル、上部の狭い「1LDK」?は、各22.5平方メートル。

並んだダンベル型テネメント(模型)道あるいは裏庭に面していない部分を少し「抉って」空間を作り、そこに窓を設置すれば、光と換気が得られるというもの。見た目から「ダンベル」型(dumb‐bell)と呼ばれました。これらが並んだ場合の模型がこちら。上から見ると、唇をうっすら開けたような「隙間」が「空気口」(Air Shaft)というわけ。

「空気口」は非常に狭く、そこに開けられた窓からは直接の日光は射さない。住民たちはあまりマナーがよろしくなく、ゴミを裏庭あるいは道路に頻繁に投げ捨てていたようですが、この空気口にも捨てており、放置されたゴミは悪臭を放つ。

挙げ句の果てには、外の便所まで行くのがおっくうで、空気口に大小便をする住民も。
また当時の浴槽は、部屋にバスタブを置いて、そこにお湯を汲んで来る、というものでしたが、テネメント全体で一つあるかないか、という状態。

ちなみにその、テネメントで唯一のバスタブが、なんと空気口に捨てられている、というのが左の写真です。

これが、ユダヤ系を大いに含む、ロシア、ポーランド系など「東欧」系、イタリア系などの「南欧」系らの、「新移民」世代が急増し始める、1880年頃の「最新」テネメントでした。

高架式鉄道網
高架式鉄道網
これら「ダンベル」型テネメントは、当時開通し始めた、マンハッタン東側の「高架式鉄道」にそって、北上し、「3アベニュー線」より東側のマンハッタン全域、つまり「スタイバサント・スクエア」「キップス・ベイ」「タートル・ベイ」「ヨークビル」そして「イースト・ハーレム」、に数多く建てられるようになりました。

一方、今回のお散歩エリア周辺では、法改正前の「テネメント」(pre-law)が従前通り使われていた、という次第です。

19世紀半ばの北欧、西欧系の「旧移民」世代は、貧困エリアに住みながらも一所懸命働き、商工業者として成功する少数の人々を除くと、資金の目処が立った時点で、西方へと拡大するアメリカ領土=「ニュー・フロンティア」、の安価な公有地払い下げ=農地、を求めて旅立つことが、彼らの「アメリカン・ドリーム」でした。

時代は下って19世紀末の「新移民」世代の時代には、1890年代に「ニュー・フロンティア」が消滅、つまり安価な公有地払い下げによる農地の獲得は終了します。
農地を獲得して貧困エリアから脱出、という「旧移民」世代が持っていた「ドリーム」=西方への旅立ちは無くなり、彼らには都市労働者の職しかありませんでした。
当時、産業は大型化し、大きな労働需要が発生していましたが、あくまでも長時間・低賃金。都市部に集中した移民は脱出するあてもなく、都市部貧困層住居エリアの人口密度は急上昇していきます。

テネメントの裏「ダンベル型」は別名、「ダブル=デッカー」(Double‐Decker)。「二階建てバス」としてお馴染みですが、ここでの意味は「同じ面積で人数が二倍」、つまり「人口密度二倍」

貧民層住居に、高層化の素材、技術に対して費用を払う大家は居ませんでしたので、同じ高さ=同じ面積、で二倍の人々を詰め込む、ということですね。

NYの「テネメント・ハウス委員会」(Tenement House Commission)は、1894年に、「ダンベルに、各階に四家族が住んでいて、5階建てに18から20家族、およそ100人が住んでいるが150人以上の場合もあり、中央の部屋は薄暗く、換気は悪い」(Jacob Riis "The Battle with the Slum")、と報告しています。

裁縫が手作業の頃上述したように各階に四戸で、広いほうの二戸は各27.5平方メートル、狭い二戸は、各22.5平方メートル。
ですから各階居住面積は、総計で105平方メートル。

100人÷5階=各階に20人。家具が一切無いとして一人当たり
105平方メートル÷20人=5.25平方メートル。

一人当たり3平方メートル程度だったろうという記述を、よく見かけました。建物あたり「150人」としますと、150÷5階=各階30人。
105平方メートル÷30人=3.5平方メートル。

NYでは「縫製産業」(garment)が勃興した時代ですが、移民たちはその狭い住居内での縫製、あるいは煙草を巻くなどの単純労働を、長時間行いました。その後、産業の大型化=ミシンの発達、もあり、多くのミシンが並んだ「工場」へと出勤するようになりますが、労働時間は一日14時間半程度とだったとか。

一般的な呼称として、これら劣悪長時間労働をしている場所を、住居内でも工場でも「スウェットショップ Sweatshop」と言います。良い意味で使われる場合もありますが、直訳して「汗の作業場」、意訳では「タコ部屋」ですね。



ジェイコブ・リース<How the Other Half Lives?:社会改革運動。
      1901年のテネメント法改正と、交通発達による住宅供給>


その現実に対して、心有る人々が社会改革運動を行いましたが、最も影響を与えたうちの一人が「ジェイコブ・リース」(Jacob Riis:1849-1914)でした。
彼はデンマーク生まれの移民で、マスコミでの仕事を見つける前に実際に貧民街に住んでいたこともありす。

リースは1890年に「How the Other Half Lives?」というドキュメンタリー本を発表し、世に衝撃を与えます。「別の半分はどのように生きているのか?」。
「別の半分」、つまり「貧民層」ですね。住居問題を中心として、過酷な労働環境、木賃宿、浮浪児そして犯罪の温床への警鐘などを含む、スラム街の現実を紹介し世に問います。

特に画期的だったのは添えられた写真。マグネシウム粉末を焚く「ストロボ」が当時開発され、薄暗い貧民街の内実が写真撮影できるようになり、文章とともに出版されました。リースは、写真を「スライド」にして地域集会へと携え、学校、教会などの白い壁に映し出し、人々への訴えを繰り返していきます。

リースが撮影し、彼の著作物に掲載されたものを含み、彼がスライドとして人々の前に映し出したであろう写真を、以下リンクでいくつかご紹介します。

<出所 カルフォルニア大学デイビス分校の「ヒストリー・プロジェクト」
下水道の格子角で眠る三人の少年 紙製のバラ作りを内職する家族
ボロ布拾いのイタリア系親子の家 道でギャンブルに興じる子供たち
ユダヤ系の幼年学校 テネメントの裏手
スラムの窓の子供 ローワーイーストの波止場の
下のギャングたち
安息日に備えるユダヤ系労働者

リース達の声は多くの人々に届きました。その一人がのちに、あまりにも行き過ぎた大資本の力を、政府が制御するという意味で、最初の改革派大統領となる「セオドア・ルーズベルト」です。そして「robber baron」(追い剥ぎ男爵)と呼ばれた当時の大資本家たちは、世論から高まる非難の声もあり?、慈善事業へと乗り出しました。
マルベリー・ベンド
「ファイブ・ポインツ」地区の「マルベリー・ベンド

リースは、「How the Other-」の中で、現在の「チャイナタウン」周辺、当時の通称「ファイブ・ポインツ」地区(Five Points)の中の、「マルベリー・ベンド」(Mulberry Bend)を、右の写真を添えて「最も危険な地域」と描きました。
その主張に答え、1894年に周辺のスラムは取り壊され、「マルベリー公園」、1911年に「コロンバス公園」と改名されました。

ちなみにファイブ・ポインツ」のギャング達を扱った映画、「ギャング・オブ・ニューヨーク」の原作の表紙は、リースの撮影した写真に後で色付けしたものです。

リースは「How the Other-」の続編とも言うべき、「The Battle with The Slum」(1902年:「スラムとの戦い」ですかね?)を出版。このページに引用した写真およびテネメント見取り図は、「How the Other-」および「The Battle with-」の二編が出所です。

1901年に「New-Law」(新法)と呼ばれる「テネメント法改正」が行われ、窓が面する庭の広さなどの建築規制、そして各世帯につき一つ以上の水洗トイレの設置、そして上水が家庭内に直接引けることなどが義務づけられ、以降、「ダンベル」型の新築は違法となりました。

この法律に基づく設計コンテストが実施され、上位入選したデザイン達は「モデル・テネメント」と呼ばれました。そのうちの一つの見取り図が左の画像。一言で言えば、ダンベル型での「抉れた」部分が大きくなっています。これが横に並んだら、広い「内庭」が出来るわけ。このデザインで実際に建設されたものを、「ヨークビル」散歩でご紹介しています。

1901年法改正で最重要だったのは、それ以前の建物に改修を強制する力が備わったことです。それ以前は、人手不足もあいまって調査できず、また大家は無視して改修しないケースも多かったようですが、「テネメント・ハウジング部」(Tenement Housing Department)が強制調査を行います。
今回で特に義務づけられた、裏庭の「下水溜め」の1903年1月1日までの撤去、を無視した大家をテストケースとして連邦最高裁まで争い(大家は憲法18条に保証された「財産権」の侵害を主張)、勝訴しました。

この「1901年改正テネメント法」は、その後、全米の主要都市が採用していくモデルとなっていきます。

この法改正は劇的な住環境の改善を呼びましたが、副作用がありました。大家に設備投資させつつ、人工密度を低下させたわけですから、家賃が上がってしまったんです。結局、同じ家賃レベルで良好な住環境を達成するには、通勤可能圏が広がり住宅供給が増加することが必要となりますよね。

地下鉄開業直後の発達
地下鉄開業
1904年に地下鉄開業「モーニングサイド・ハイツ」「ハーレム」「ワシントン・ハイツ」が結ばれ、マンハッタン全域が通勤可能圏となります。
そして地下鉄はマンハッタン島から川を渡り、「ブルックリン」「クィーンズ」そして「ブロンクス」へと通勤圏を拡大していきました。

住宅供給が活発となっていくことにより、マンハッタン内部の貧困層エリアの人口密度は低下します。特に、今回のお散歩エリアでは3分の1程度にまで下落した、と書かれた資料もありました。

この「1901年のテネメント法」は、1929年に「Multiple Dwelling Law」(「集合住居法」かな?)として通常の「アパート」を含む規制と統合され、現在に至っています。



<19世紀末から20世紀初頭:「社会改革」の広がり>

一方で、他の社会改革への取り組みも始まりました。

まずは「細菌学研究」
 野口英世も後年に研究することになる「ロックフェラー研究所」(1901年)など、私的、公的な研究機関が設立される一方、牛乳の低温殺菌(1912年)が開発、実施されるなどの成果がありました。

そして「公衆浴場」
 従前から、「イースト・リバー」あるいは「ハドソン川」沿いに、少なくない数の「水浴び場」が設置されていたそうですが、一年を通じて使用できるわけではありませんね。「屋内公衆浴場」も作られたこともあったそうですが、資金が続かず閉鎖されていました。
 1895年NY州が、14時間オープンで温冷水完備の「屋内公衆浴場」設立を、各自治体の判断で可能、具体的にはその費用見合いの課税権を付与し、NY市では1901年を第一号として1914年までに、マンハッタンに17ヶ所、ブルックリンに7ヶ所、ブロンクスとクィーンズに1ヶ所づつ、貧困移民層エリアを中心に公衆浴場が作られました。その一つを、「キップス・ベイ」散歩でご紹介しています。
 1901年改正で、各世帯に水道水がひかれるようになり公衆浴場へ通う人々の数は減り始めますが、アスレティック・ジム、水泳プールなどが併設され、そして1929年からの大不況時代に再度活躍。第二次世界大戦後、これら公衆浴場はやがて他の目的に改造されたりして、閉鎖されていきます。

また「低年齢者問題」への取り組み。
 例えば州の公聴会に呼ばれた12歳の子供は、年齢15歳という偽りの証明書を25セントで医者から買い、縫製産業に就いていた事例などが報告され、糾弾されました。

一方、「労働環境」
 衣服製造業に従事する人々は、ピークの季節には朝7時半から夜の9時まで、残業代、夕食代なしで働かされていたそうです。1900年「International Ladies' Garment Workers Union」(ILGWU 「国際婦人服裁縫労働組合」というところでしょうか?)が結成され、処遇改善を要求していき、1909年から翌年にかけて3万人が参加する大規模ストライキも行われたものの、効果は微小であったようです。

しかし1911年、「グリニッジ・ビレッジ」にあった、ブラウス工場の「トライアングル社火災」により、避難設備の不備から145名ものユダヤ系を中心とした女性労働者たちが命を失ったのをきっかけに、社会改革運動が大きくなりました。火災用設備のみならず、トイレなどの労働環境、そして女性の週54労働時間上限などの、日本で言う「労働基準法」も制定されました。そして裁縫産業用を含み工業機械などの技術革新が進み、その生産性の向上から労働時間短縮などが達成されていきます。

火災そしてその時代の労働環境などをまとめた、コーネル大学のサイトです。
「スウェットショップとストライキ」、そして「トライアングル社火災」などの写真が掲載されています。ショッキングな画像もありますこと了承ください。


<激動の時代:両大戦と大不況、「社会主義」運動、「修正資本主義」へ>

ここからは少しく激動の時代を迎えます。

貧困層対策としての「社会改革運動」は、「社会主義運動」、そして「革命運動」へと変化(その主義の方々にとっては「歴史的必然」で「発展」)していき、全米でストライキが頻発します。
NYの「ローワー・イースト・サイド」にも様々な「Union組合」が成立し、ストライキが多発、アメリカの社会主義思想の中心となっていきました。

1914年、ここ「ローワー・イースト・サイド」を地盤として、ユダヤ系「メイヤー・ロンドン」(Meyer London)が初のNY選出の「アメリカ社会党」候補として連邦下院に当選、1916年、20年と再選されます。
こちらをクリックしますと、彼の当選を政治漫画としたものがご覧いただけます。「イディッシュ語」(ヘブライ語とスラブ語がミックスした東欧系ユダヤ人の文字)で、ロンドンが「はじめまして」、合衆国の象徴「アンクル・サム」が、「まったく新しいユダヤ系だな。気に入った」という会話が書かれているそうです。

「第一次世界大戦」(1914)がもたらした急激なインフレにより、NY市の家賃は急上昇しました。
1920年、ハイラン(Hylan)NY市長は州議会で、
  「もしも社会主義者の議会を作りたくなければ、その第一の原因を取り除かなければならない。
  それは投機に走る大家たちだ。」

と演説し、大家の「便乗値上げ」を阻止することを提唱。戦慄した州議会はわずか3時間で初の「家賃調整法」を制定しました。家賃引き上げの場合、店子が裁判所に訴えれば、大家はその引き上げ額が適正であることを裁判所に証明する義務を負わせたものです。ただし適正かどうかは判事の主観に委ねられ、またあまりにも多くの訴訟があったので審議が長引き、効力は疑問視されました。

この「家賃調整法」は、ある基準の集合住宅については、第三者である公的理事会が定めた引き上げ率以上に家賃の引き上げを禁じるという形式に変化して、現在まで続いています。

1921年、24年と「移民法」が改正され、「北欧・西欧系」諸国に多く、「東欧・南欧系」諸国に少なく、上限移民数を割り当てたもの。当時の民族差別の達成とともに、後者の諸国では社会主義者が多いと見なされていたため、「革命分子」のアメリカ入国数を押さえる目的もありました。一方これによって、貧困移民の数が制限されたため、工業労働者の賃金が上昇したという効果がありました。
この「国別割当方式」が無くなるのは、1965年の移民法改正です。

しかし1929年の株式大暴落をきっかけに「大不況時代」へと突入、空室が続出、家賃は急落。街はホームレスで溢れ、住宅「環境」問題を飛び越えて、「貧困住宅に入るお金すらない」という「失業問題」となり、「社会主義運動」が激化。「神の見えざる手」により自律的に回復する、としたフーバー大統領(1929-33)のもと、「自由放任」経済は上向きません。

1935-40年マンハッタンを
中心とした公共住宅建設
「フランクリン・D・ルーズベルト」(任期1933-45)が大統領となり、「社会主義政治だ」と一部の人々にののしられた、公共事業による雇用推進などの政府による経済介入、いわゆる「ニュー・ディール政策」がスタートしました。

NYでは改革派「ラガーディア」NY市長(任期1934-45)もと、低所得者環境改善も兼ねた、「公園設備工事」や(運動と同時に「入浴」という衛生面も兼ねて)「プール」などの公共事業をもたらします。

政府による「所得再分配」と「経済介入」という、現代まで続く、いわゆる「修正資本主義」の誕生です。

ラガーディアNY政権は、「ニューヨーク市住宅局」(New York City Housing Authority)を作り、全米初の全額公的補助の低所得者層向け「公共住宅」(Public Housing)、通称「プロジェクト」(project)である、126戸の「ファースト・ハウスFirst Houses」(1935)を、現在の「イースト・ビレッジ」の、アベニューA/3st(右図の青丸)に、24棟のテネメントを撤去して建設。

一方、連邦レベルでは1937年に「住宅法 Housing Act」、別名として議員の名を採った「ワグナー=スティーガル法」が成立。連邦政府から地方政府に貸付金を供給、「スラム撤去」と「低所得者向け公共住宅供給」を結び付けたこの法は、民間住宅産業から大反対されますが、撤去したスラムの住居戸数と同じ戸数だけを新築された建物が持つ、つまり総供給戸数を変えないこと、そして入居者の収入上限を極めて低く設定したことにより、民間住宅産業への影響を押さえるように定められました。従って、完成した住居の環境は良好なものの、戸数が増やすものではありません。

NY市では、このワグナー=スティーガル法などを活用して、1941年末までに、13ヶ所、17,000戸の公共住宅が供給されました。

公共住宅建設その2
1960年までの、マンハッタンを
中心とした公共住宅建設
第二次世界大戦中から、「メトロポリタン生命」はNY市と協力した実験的プログラムで、「スタイバサント・パーク」エリアのイースト・リバー沿い=14stから23stの、通称「ガス・ハウス・ディストリクト」のスラム群を撤去し、大型住宅群である、「ピーター・クーパー・ビレッジ」そして「スタイバサント・タウン」を建築していましたが、1946年の完成とともに、大戦からの退役軍人を優先として、低家賃での入居を受け付けます。

大戦後、1937年のそれを発展させ、住宅関連を包括した「住宅法」が1949年に成立。「スラム撤去」そして「公共住宅」の戸数増加を狙うものでした。NY市ではそれに基づき、積極的にスラム撤去に取り組み、結果、「ローワー・イースト・サイド」のイースト・リバー沿いは、ほとんど全部といっていいほど「公共住宅」となりました。

これら公共住宅の名称に、社会改革に貢献した人々の名前も付けられました。その中に「ジェイコブ・リース」の名があり、左の図の赤丸に位置しています。


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こうした社会改革運動と、「ニュー・ディール」が生み出した貧富格差是正の「所得再分配」、「公共投資」など政府が経済介入をする「修正資本主義」は、アメリカのみならず世界に広がります。

それは日本も例外ではなく、第二次世界大戦後マッカーサー率いる占領軍のブレーンたち、通称「ニュー・ディーラー」によって持ち込まれ、「財閥解体」「農地解放」などの貧富格差の「再分配」、都市部で税金を集めて地方に分配すると言う「シャウプ税制」という「再分配」、そして行政主導の「公共投資」が始まり、日本の人々の生活まで豊かになりましたとさ、「メデタシ、メデタシ」、と言いたいところなんですが。。。

ここまでは、「白人社会改革史」と解釈すべきとされているようでして、ゲストの皆さんの迷惑を省みず(苦笑)、続きを書いてみます。



<スラム撤去と公共住宅、高速道路建設は、有色人種の貧困層強制転居>

「公共住宅」は「低家賃」「低所得者向け」とここまで記載してきましたが、当初の「公共住宅」は「中所得者向け」と書かれているサイト、資料も多く、fujiyanは少なからず混乱しました。

推測としては、第二次世界大戦とその後の「アメリカの一人勝ち」好景気が続く中、「白人」の所得レベルは全体としてかなり上昇したことと、「有色人種」全般の所得水準からは公共住宅の家賃は高すぎる、ということでしょうね。ちなみに、NYでは、1920年頃、差別のキツイ南部から北部へと移動する黒人の人々を吸収した「ハーレム」が黒人居住区として確立、1950年頃からはラテン系のプエルトリコ系の人々が急増します。

1949年住宅法改定に内在した問題があると言われています。「住宅建設促進」として、三つの「タイトル Title」、条項、がありました。
−「タイトル3 Title III」は、低所得者向けの公共住宅建設。
−「タイトル2 Title II」は、持ち家促進。日本で言うと「住宅金融公庫」による低利ローンですかね。

そして「問題」となる「タイトル1 Title I」
それは、「Slum Clearance」(スラム撤廃)または「Urban Renewal」(都市再開発)。

「タイトル1」は、「スラム撤去」し「都市再開発」により、周辺の不動産価格が上昇、そして「建設」による雇用、消費などが「景気刺激」になることが主目的で、連邦政府が4分の3の補助金を出すと言うもの。しかしスラム撤去後に建設されるものは、「primarily residential」、つまり「主として居住用」と書いてあるだけで曖昧であったようですし、住居が建てられてたとしても低所得者向けである必要は特になかったようです。また、スラム撤去を行って「さら地」となった場所は、民間に払下げることも可能でした。

アメリカの多くの大都市では、「タイトル1」でのスラム撤去を積極推進しましたが、「タイトル3」である低所得者向け公共住宅建設には消極的であったとされています。結局スラム街の、有色人種を中心とした貧困層は「タイトル1」を適用されたプロジェクトでは追い出されてしまうだけ。この「タイトル1」を読んだ、ある有識者は「Slum Clearance」(スラム撤去)ではなく「Negro Clearance」(黒人撤去:不当な英単語ご容赦、そういう時代でした)だと、思ったそうです。

その後の、1954年の住宅法改正で、スラムから転居する人々への補助として、転居先建物の修繕、そして転居先の公共住宅新築促進が盛り込まれました。で、結局どうなったかというと。。。。

ダウンタウンのビジネスエリアや中所得層以上の住宅エリアの周辺にあるスラム街を撤去。住んでいた貧民層は、有色人種が集まるエリアの、新築あるいは既存の「公共住宅」へと「強制」転居させるというシステムが加速。強烈な言葉をあえて使えば、「アパルトヘイト(人種隔離政策)」。
(ただし、たとえ有色人種エリアに強制入居されたとしても、スラム街より、はるかに衛生的で良好な環境になったので、当時としては目をつぶるべきであった、という考え方もあります。)

NY市内での「タイトル1」活用例としては、現在の「チェルシー」に1962年竣工された、「ペン・ステーション・サウス」という大団地群ですが、これは上述の、「国際婦人服裁縫労働組合」(International Ladies' Garment Workers Union)の手によるものです。もちろん、半世紀という時代が違っているとはいえ、貧困と劣悪な労働環境に苦しんだ彼らの住宅プロジェクトですから、白人層の中では中所得あるいは低所得といってもよいのではないかと思います。

他の「タイトル1」の例は、「アッパー・ウェスト・サイド」南端、映画「ウェスト・サイド物語」のロケ地であったスラム街を撤去して建設された、「リンカーン・センター」。このプロジェクトは実は「リンカーン・センター」のみでは無くその周辺も含まれており、「フォーダム大学マンハッタン校」や、「主として居住用」条項を満たすための「アパート」も建てられています。7000戸の低所得者住居が取り壊され、4400戸の新アパートが建ち、うち4000戸は高級アパート。こちらは中高所得者層向け住居。

「タイトル1」は撤去場所の住民の転居あっせんを人間的に行うこと、という条件が入っていました。で、「ペン・ステーション・サウス」などは「転居事務所」を設置し十分なケアを行ったようですが、転居あっせんをイイカゲンにしていた他のプロジェクトも少なからずあり、後に社会問題となったケースもあります。

また転居先としてあっせんされた公共住宅そのものも、貧困層中の貧困層には家賃は高すぎたようで、例えばハーレムの「公共住宅」は、「黒人」の「中所得層向け」だったようです。つまり貧困層中の貧困層は、他の「スラム」を探し出して飛び込む、というわけで、マンハッタンですと「アッパー・ウェスト・サイド」の90Stから北側だったようです。

公共住宅分布図右の図はマンハッタンを中心とした、1988年までに建設された「公共住宅」を円で示し、下地の茶色系統は1960年代での「黒人人口」を表しているもので色が濃いほど人口が多いというもの。(「ラテン系」人口は含まれていません。)

この「都市再開発」による「スラム撤去」は、1956年の「高速道路法」(Highway Act:国からの補助金制度)と結びつき、さらに加速していきました。

一方、隔離された黒人、ラテン系らが集まった公共住宅とそのエリアでは、建物自体もメインテナンスの手抜きなどで劣化したこともあり、住民の意識もすさんで、大変残念なことに犯罪の温床ともなっていきます。

スラムとは言え、住人達によって自然と作り上げられた町並みを破壊して無機質な大型ビルが立ち並ぶという、「公共住宅」独特のデザインも別の意味で問題となりました。

当時、「スラム撤去」の対象となりかけた「グリニッジ・ビレッジ」に住んでいた、「ジェーン・ジェイコブズ Jane Jacobs」が1961年に著した「THE DEATH AND LIFE OF GREAT AMERICAN CITIES アメリカ大都市の死と生」が理論的主軸となった、 「人間らしい温かみのある街」保護運動がおこります。

fujiyanも住居そのものに入ったことはありませんが、「公共住宅」の敷地内を歩いたことが何回かあります。非常に無機質なものでして、写真を撮影する気がおこりません(笑)。デザインもすさんだ住民の気持ちをさらに悪化させる、という論点です。

1960年代からは黒人公民権運動の時代。これら「スラム撤去」と「公共住宅」建設はその攻撃対象の一つ。公共住宅の建設は、人種隔離の象徴、そして人間味のない建物を押し付けるとされ、ハーレムに建設中だったものが襲撃されるなどの事件が起こります。

こうした運動により、ニクソン政権下の1973年、新規の公共住宅建設に緊急中止宣言が出されました。
翌74年に住宅法が改定され、低所得者層に直接家賃援助を行う制度、通称「セクション8」が導入されます。「公共住居」の場合ですと、入居先場所の選択権はほぼ無いわけですが、「直接的家賃補助」でしたら、規定の範囲内ではあるものの黒人ら貧困層は自分たちで場所、住居を選択する自由が確保できるというわけです。

また図を再度見ていただくとおわかりいただけると思いますが、1975年以降の黒丸の大きさが、縮小していますよね。つまり、「大型建築」ではなく、「街」にフィットする小ぶりの建築となっていったわけです。


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最後に、「ニューヨーク市住宅局」New York City Housing Authorityのサイトから、「公民権」運動を経た2002年11月現在での、公共住宅に関するデータを幾つかご紹介して、この稿を終わりにします。

・公共住宅はNY全体で、
  「345個所」で「181,155戸」(NY市の総賃貸戸数の9%)、
          (ちなみにマンハッタンでは「103個所」で「54,374戸」。)
  「推定174,195世帯/418,810人」(NY市総人口の6.6%)が公共住宅に入居。
・入居者の平均世帯収入は「15,685ドル」、平均支払い家賃は「月302ドル」。
・入居者は、51.6%が「黒人系」、
    43.5%がプエルトリコ系ら「ラテン系」、「アジア系」、そしていわゆる「インディアン」等、
    4.9%が「白人系」。

そして上記の直接的家賃補助制度「セクション8」に基づいた賃貸は、
  貸主の数は「26,700」、「82,216戸」で約「214,000人」が入居しています。

公共住宅と「セクション8」を合わせた数字では、
  NY市の、賃貸総戸数で「12.6%」、総人口で「9.2%」に相当します。



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−参照サイト−
- ローワー・イースト・サイド・テネメント博物館 -
今回の散歩でもご紹介した、テネメントを保存、公開している博物館。
1901年のテネメント法改正のページがあります。
「百科事典」と名付けられたPDFファイルは、NY貧困層と移民問題全般の資料集。
また、「Code City」と言うページ(イントラアクティブ)は、公共住宅関連の
資料が多く、またこの稿の地図の出所です。
- 「How the Other Half Lives?」 -
- 「The Battle with the Slum」-
ジェイコブ・リースのドキュメンタリー。
この稿の主要参考文献であり、写真、見取り図などの出所です。
- Fannie Mae Foundation -
1938年設立の「連邦抵当金庫.」(Federal National Mortgage Association)、
通称、「ファニメ」(FNMA -> Fannie Mae)関連の財団。住宅関連の出版物で、
1949年の住宅法改正を特集しています。
「ファニメ」は、日本でいえば「住宅金融公庫」。現在では、民営化されています。
- 「ヒストリー・プロジェクト」 -
文中でもご紹介しましたが、ジェイコブ・リース写真のほか、
アメリカ史を紹介する画像が多数あります。
- ニューヨーク市住宅局-
PDFファイルで、NY市の公共住宅全リストがあります。
また、現況の簡単なデータの出所。
- ニューヨーク市家賃ガイドライン理事会 -
「家賃調整法」に基づき適正家賃の上下動率を決定する機関。
家賃調整法の歴史があります。




2003/3/1 「タイトル1」の例として「リンカーンセンター」を追加、「転居あっせん」のコメント。


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