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今回のお散歩コースは、いったん寂れてしまった旧工場地帯が中心です。鉄道・道路が高架になって人気(ひとけ)があまりない場所や、青空駐車場等により建物の間が死角になりがちな空間などが多くありますので、ご注意を。
「ヘルズ・キッチン Hell's Kitchen」の散歩です。1800年代半ばから、ニューヨークは産業拡大期を迎えますが、ここ「ヘルズ・キッチン」がそのメイン・エリアでした。工場とそこで働く労働者の町でした。

地図中の青の星印まで、地下鉄でやってきて34Streetで下車。そのまま34Streetを西(地図では上)に歩きますと(1)巨大なコンベンション・センターがあります。38Streetで東(地図では下)に戻る途中に、(2)鉄道が下を走るのが見えます。9Aveと10Aveの間に、Dyer Avがあり左折(地図では右)します。このDyre Aveは、いわばリンカーン・トンネルと繋がって車の流れをさばく道、で(3) 8Aveのポート・オーソリティ・バス・ターミナルとリンカーン・トンネルを繋ぐ役目もあるようです。

左が南 ← → 右が北
お散歩距離約7KM(除建物等内部距離)
Hell's Kitchen

41Streetで右折し、9Aveを左折(地図では右)する途中で(4)ホームレスのシェルターがあります。

42Streetから北(地図では右)のs9-10 Aveの間は、ヘルズ・キッチンのいわば中心地。

47Streetで左折。チョット古めの、正直言って煤けたような住居が並びます。その一角に(5)高名なメディア人の元住居があります。

47Streetを更に西へ行き、ハドソン川まででますと、(6)航空母艦が展示されています。

そして48Streetで再度東(地図では下)へと向かいます。(7)馬小屋や、(8)共同庭園が見えます。

「ヘルズ・キッチン」のメインストリートとも言うべき、9Aveを歩きますが、チョット50-51Streetで10Aveに寄り道します。近隣住民の方々が集う場所である、(9)図書館(11)教会を拝見です。

再度9Aveに戻ったら、ヘルズ・キッチンの再開発の目玉、(12)ワールドワイド・プラザが見えます。

9Aveを北(地図では右)に歩き続けると、(13)映画館跡(14)細長い建物(15)教会を改造したシアター(16)撮影スタジオ、そして(17)大型元高級?アパートを見て、お散歩終了です。




今回の添書きは、無茶苦茶長いです(約7100文字!)。fujiyanの、簡潔に書くことの出来ない能力不足です、ゴメンなさい。しかも最後に、別ページの添書きまであります。「オイ、イイカゲンにしろ!」というゲストの皆様の声が聞こえそうです。重ねて、ゴメンなさい。
「Hell's Kitchen ヘルズ・キッチン」は、南は34Street、西はハドソン・リバー、東は8th Avenue、そして北は59Streetとされています。

「アイルランド系移民の街」(ご参考:お散歩「SoHo」の添書き「アイルランド系移民とタマニー教会」)であった、と言われています。確かにアイルランド系移民が大多数であったようですが、他の白人系であるドイツ系やイタリア系の住民もいましたし、黒人系も、ヒスパニック系も住んでいました。アイルランド系移民の居住の特徴は「職住接近」、つまり仕事をする場所のすぐそばに住む、ということで特に民族のコミュニティを形成するという傾向はなく、マンハッタンの内部でもバラバラに住んでいました。ここは、後述する、1800年代半ばからのニューヨークのインフラ整備そして産業黎明期においての工場地帯であったので職が多く、多くの「労働者階級」?という「民族」が住んでいて、その最大多数がアイルランド系であった、と解釈すべきだと思います。

「ヘルズ・キッチン=地獄の台所」という、あまりイメージが良くない名称ですが、その由来は後述します。現在では、エリアの住民の方々はイメージアップをしようと、「クリントン Clinton」という、政治家の名前(元大統領とは別人)で、エリアにある公園の名前でもある呼称にしようと努力なさっておられるようですが、どうも定着しないようです。また、ここを舞台設定とした「ウェスト・サイド物語」からでしょうか、「ウェスト・サイド West Side」とか、はたまた「ミッドタウン・ウェスト Midtown West」とも呼ばれており、エリアの名前が一定しません。

当該エリア、そして北のアッパー・ウェスト・サイドモーニングサイドハイツの一部を含むマンハッタン西側エリアは、オランダ統治時代から独立戦争を経て、小川も流れていた牧草地の豊富な羊飼いのエリアで、「花の谷」という意味のオランダ語の「Bloenendael」つまり英語で「ブルーミングデール Bloomingdale」と呼ばれている広大なエリアでした。(ちなみに、セントラルパークの西側のSheep Meadowと呼ばれる場所は、羊を放牧していた跡です。)



(1800年代半ば:ニューヨークのインフラ整備と産業拡大期)

ニューヨーク市、州は、1800年代半ばから、インフラ整備が進み始めます。
:エリー運河
マンハッタンの西側を流れるハドソン川を北に遡るとニューヨーク州の州都「オルバニー Albany」に辿り着きます。このオルバニーから西に向け、ナイアガラの滝の南に位置する「エリー湖」までの運河が1825年に開通しました(地図上の直線距離で420KM)。マンハッタンと5大湖が結ばれ、ニューヨークは物流の中心地となり、これは素晴らしい経済効果をニューヨーク州そして市に与えます。

:鉄 道
北米東海岸地図マンハッタンから、ハドソン川沿いに「オルバニー」(の対岸の町Lesselaer)までの鉄道「ハドソン・リバー鉄道 Hudson River Railroad」が1851年に開通します。(地図上の直線距離約215KM)
この鉄道は、マンハッタンでは西側を通り、現在の30Streetと10-11Avenueに「Hudson River Railroad駅」が出来ます(写真(2))。(この駅は後に、現在のペン・ステーションへと移動、また会社は、幾つかの被買収を経て現在「アムトラック」となっています。)

「オルバニー」とエリー湖畔の町「バッファロー」までは、7つの鉄道会社が1853年に合同した「ニューヨーク・セントラル鉄道 New York Central Railroad」が「エリー運河」沿いに西に走っており、鉄道によりマンハッタンからデトロイトあるいはシカゴなどのアメリカ中部まで行くことが出来るようになりました。後日、「ハドソン・リバー鉄道」と「ニューヨーク・セントラル」は1869年に合併します。

一方、ペンシルバニア州境をかすめるようにエリー湖へと繋がる、「ニューヨーク&エリー鉄道 New York & Erie Railroad」も1851年に開通しました。

また、マンハッタンを南北に繋ぐ「Els:Elevated Railways 高架式鉄道」が9Avenue沿いに、ダウンタウンから1871年に30Streetまで到達、1878年には59Street、1880年には155Streetまで伸びていきます。ちなみに、「ヘルズ・キッチン」の9Avenue角地にある古いアパートの入り口が、アベニュー沿いにはなくて、横のストリート沿いにあるのは、そのためだそうです。
高架式鉄道の歴史をまとめてみました。また、1920年時点の高架式鉄道網をこちらでどうぞ。

:用 水 路
ニューヨーク市北の郊外「ウェストチェスター Westchester」の山間部「Croton」という所から、水をマンハッタンに供給する用水路(地図上での直線距離約60KM)が1842年に出来ました。お散歩コース「グリニッジ・ビレッジ(中央)」でご案内しましたように、マンハッタンのダウンタウンで1800年代前半から断続的に疫病が発生し、飲み水汚染の危険が常にありました。その対策です。
170Stあたりの「ハイ・ブリッジ High Bridge」で、ハーレムリバーを渡ってマンハッタンに入り、西側の10Ave、9Aveを経て、セントラルパークで一旦貯められ(夏の無料コンサートで有名な現在のグレート・ローン Great Lawn周辺)、再度ミッドタウン42Streetの、現在の公立図書館とブライアント公園の場所に送られ、そこで各場所に供給されるシステムとなりました。

ちなみに、この用水路には複合効果がありました。外部から供給される「上水」に頼り「井戸水」を汲み上げなくなったためマンハッタンの地下水位が上がり、大きな家の地下室が水浸しになりました。現在までのfujiyanの理解ですが、道路、上下水道などの敷設に必要な資金は、行政側と「受益者負担」つまりその恩恵を受ける人々、の双方が支払うことになっていたようです。地下水位が上がって困った「地下室」を持っている人々は、アパートのオナーも含めてある程度の富裕層に決まってますね。従って、対策としての「下水」道の敷設が始まり順調に進みました。
用水路に使われた「High Bridge」は「ワシントンハイツ南」に現存します。訪ねてみたかったんですが、橋のあるHigh Bridge Parkの治安は最低の部類に入るらしいので、断念しました。

用水路、鉄道敷設に従事する労働者が集まってきたため、「ヘルズ・キッチン」は労働供給が豊富なエリアとなります。そして、船、鉄道で物流が活発になります。
流通業が興り倉庫が出来上がり、船、鉄道で運ばれた原材料を加工すべく醸造所、屠殺場、れんがなどの工場が出来始めます。「グリニッジ・ビレッジ」の西側、「チェルシー」西側、そしてここ「ヘルズ・キッチン」などハドソン川沿いのマンハッタン西側が、流通、工場エリアとなります。NYの産業拡大期です。

多くの移民がこのエリアに職を求めて更に転入してきました。多数派はアイルランド系移民、でしたが、人種に関係なく多くの移民が労働者としてこのエリアに転居してきました。そして、工場や屠殺場などの間に、Tenement(貧困集合住宅)が作られ、労働者が住んでいるというエリアで、衛生環境は決して良いものではなかったようです。またたいへん失礼ながら、屠殺場や工場の廃棄物など、周辺を漂う臭いもひどかったそうです。



(南北戦争と徴兵暴動:Draft Riots)

南北戦争当時(1861-65)には、エリアの住民は35万人程度までになり、その大多数はアイルランド系貧困労働者でした。(写真(11))はその当時の彼らのためのカソリック教会でした。その南北戦争中、このエリアも巻き込んで3日間に渡る「徴兵暴動(Draft Riots)」が、1863年に発生します。

徴兵される人間は抽選(Draft)なのですが、300ドルを収める(あるいは他の人を雇って替わりに兵役に行かせる)と免除となるというもので、もともと貧困層に不満があったわけですね。原因ですが、「ある日の抽選名簿のトップが46Stの10Aveの住民で、このエリアの住民を意図的に選んだ作為への疑い」という説と、「エリアに住んでいた消防士が、消防士は抽選外だろう、と思っていたのに徴兵されたのに憤慨」という説を見ました。

1863年7月13日の月曜日、いずれにせよ貧困白人であったアイルランド系住民が爆発、徴兵事務所の攻撃から始まり、暴動がマンハッタンのあちらこちらに発生、商店を襲撃・略奪、警察署などへの攻撃。そして黒人系住民への暴力、殺人。

「ヘルズ・キッチン」は、暴動の「本部」?の一つでした。9Ave沿いに28−49Stに跨る暴動者の長いバリケードが作られます。最後にはペンシルバニアのゲティスバーグに集結していた北軍の軍隊が鎮圧に向かい、皮肉にも全員がアイルランド系で構成された、NYをその起源に持つ「第69分隊」がそのバリケードを突破することになりました。(と言うか、わざとアイルランド系分隊を選んで攻撃させたんでしょうね。)

ちなみに南北戦争の、「天王山の戦い」とも言うべき激戦「ゲティスバーグの戦い」は1863年7月1日から3日、北軍の勝利に終わり、これを境に南軍は衰弱していくわけですが、その10日後に徴兵暴動が起こり、北軍は追撃することが出来ず、一気に戦争を終了させる機会を失い戦争が長引いてしまった、とされています。更に、この徴兵暴動は、「ゲティスバーグの戦い」での南軍敗北を受けて、反黒人、奴隷制度支持者で南軍シンパの人々が、組織的に行ったのではないか?、という考えもあるようです。

さて死者は2,000人から20,000人、と言われていますが、記録としては105名というところだったようです。戦争そのものならいざ知らず、大砲なども登場したようですが確かに暴動とその鎮圧で、千あるいは万単位で死亡するといことは、チョットなさそうな気がfujiyanはしています。しかしながら、映画化された「ギャング・オブ・ニューヨーク」の原作などでは、非常に激しい戦闘状態が描かれておりまして、数千人規模の死亡もある得るのかな、という感じもいたします。

さて、南北戦争が終了した後、「ヘルズ・キッチン」の南部分(地図では左)に「戦争孤児」が集まり群れをなします。もともと失礼ながら低所得労働者層の街ということで、あまり環境の良い場所ではありませんでしたが、大変残念なことに、彼らは不良化そしてその一部はギャング化していきます。(第二次世界大戦が終了した日本でも、「戦争孤児」が多く出来てしまい、一部はギャング化したのは同様でしたよね。)



(「ヘルズ・キッチン」の誕生:最も危険で不潔なエリア)

1800年代後半から、このエリアには青少年も含めてギャング団が、現れます。基本的に白人系で、当初、オランダ系ギャングが支配するなど特に人種的な特徴はありませんでしたが、住民の多数を占めるアイルランド系が自然と多かったようです。また別途、黒人系ギャング団も存在していたそうです。船荷の揚げ降ろし、屠殺業などの利権をめぐった争いがギャング団とリンクします。
「ヘルズ・キッチン」のギャング達は、形、事業?を変えて存続し、実はホント最近の1990年代まで存在していたそうです。1960年代からこのエリアを仕切ったアイルランド系ギャング「Westies」(「西者」団ですかね)は、最後はお決まりの?麻薬関連にその収入を求めていったのですが、国をあげての麻薬そして組織犯罪取締りの強化と、組織の内部抗争によりようやく瓦解したそうです。
(ちなみに、この「Westies」の最後のボスは、アイルランド系などの伝統的?人種ではなくユーゴスラビア系だったそうで、検察・警察が伝統的?人種の大物をすべて抑えたので安心していていたため、組織が存続しているのに気がつくのが遅れたというエピソードがあるそうです。)

エリアにはスラム化がした場所が多く出来ていき、1870年頃にはハドソン川を往来する多くの船員達がこのエリアで強盗に遭い(一説にはわずが数年間で17,000件が発生)、「米国大陸で最も危険なエリア」とメディアに呼ばれるようになりました。

さて、「ヘルズ・キッチン=地獄の台所」、という名称が使われた最古の記録は、1881年 9月 22日NYタイムズだそうです。その記事は、「おそらく(NY)市で最低、そして最も不潔」であると表現しています。

この「ヘルズ・キッチン」と呼ばれた理由は、ハッキリしないのですが、3つの説があるようです。
  • ドイツ系レストランの名前が第一の説。
  • アイルランド系ギャング団の名前が第二の説。
しかし、
  • ベテランと新人の警官の会話からという第三の説、
が真偽はともかくとして、一番「親しまれて」いるようです。
若い警官がヘルズ・キッチン内部の分署に配属となりました。
ベテランの警官が、周辺の犯罪状況と心構えを訓示します。
若い警官は、ため息混じりにつぶやきます。
「ここは犯罪の巣窟だ。まるで地獄(hell)の様に熱い(hot)犯罪エリアだ。」
ベテランの警官は、答えます。
「若いの、地獄はここと比べりゃ気候は穏やかさ。地獄の中でも、
最も熱い場所(hottest)、そうさな、地獄の台所(Hell's Kitchen)みたいなもんさ。」

1900年8月、このエリアで黒人が白人警官を殺害したのをきっかけに、白人による反黒人暴動が発生。警官は鎮圧に乗り気ではない、というよりむしろ暴動側に参加していたそうです。その影響もあって、その後エリアの黒人系の人々は「ハーレム」に移動していき、その後プエルトリコ系が転入してきました。白人とプエルトリカンという人種と、それに基づくギャング団の抗争は続いていき、ミュージカル「ウェスト・サイド物語」の舞台設定となります。


(1930年以降:大型プロジェクト)

大不況時代そして第二次世界大戦前後から、プロジェクト=公共住居や、大型プロジェクトが立案されます。スラム化した場所に、リンカーン・トンネル(1937)、ポート・オーソリティ・バス・ターミナル(1950)、「ヘルズ・キッチン」と「アッパー・ウェスト・サイド」の境であるリンカーン・センター(1959-)などが建設されていきます。

そして最近では(写真1)コンベンション・センター(写真12)ワールドワイド・プラザなどの大型建築によりヘルズ・キッチンの環境を改善していきます。また、このエリアには、テレビ・スタジオや大会社のビルなどもできていきます。そして、1990年代に上述したように犯罪組織もどうやら壊滅され、エリアは治安も含めて急速に改善が進んでいるようです。

しかしながら、マンハッタンの中核という、これだけの地の利を持ちながら、北の「アッパー・ウェスト・サイド」、南の「チェルシー」と比すると、なぜ華やかな発展を遂げないのが不思議がられているようです。


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fujiyanが考えるにおそらく、良くも悪くも「住民パワー」が旺盛のようですね。

参照サイトにも上げたHell's Kitchen On-Line にも、ヘルズ・キッチンでのスポーツ・スタジアム建設への反対運動や、改築・再開発運動への制限運動などが見受けられました。

fujiyanの手元に、「Public Housing」、別名「Project」と呼ばれる、日本でいう「公団住宅」、低家賃の公共機関が提供する住宅が点でしめされた分布地図(1991年まで)があります。失礼ながら低所得層の街といわれた、「ローワー・イースト・サイド」「イースト・ハーレム」「ハーレム」「アッパー・ウェスト・サイド」北側、そして「ワシントンハイツ」(南)(北)にはホントたくさんの点があります。しかし、「ヘルズ・キッチン」には、ほとんど、というか、二つ、しかもヘルズ・キッチンの北端で、中心部分にはまったくみあたりません。「大型建築のみで良し」と行政が思ったのか、「お上のする建替で住まいを出て行くなんぞは、ゴメンこうむる」と住民が思ったのでしょうか?恐らく双方とfujiyanは推察します。

写真(8)でご紹介した共同庭園は、付近の住民の方々が一体となったボランティアにより出来上がるなど、マンハッタンとは思えないほど隣近所の付き合いが良さそうです。確かに、fujiyanが散歩している最中にも老若男女問わず、アパートの前で集まって談笑していましたっけ。昔から住んでいる地元っ子には、「再開発」というのは、ただの迷惑なんでしょうね。これは日本の「下町」にもありそうなことです。

歴史的に見て、チョット「怖い」下町ですけどね(笑)。




さらにご興味のある方は、以下をクリック!

fujiyanの添え書き:実録ウェスト・サイド物語「ケープマン殺人事件」






2001/11/05 「Westies」のコメントを一部訂正。旧)ギャング団の総称 新)固有名詞
2002/09/22 鉄道地図を加え、それに関するコメントを一部変更。
2002/10/12 「ギャング・オブ・ニューヨーク」からのコメント、1900年反黒人暴動、追加。

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