Part I
ギャングの故郷 「ファイブ・ポインツ」
Part III
「その後のギャング」 「映画宣伝から」


Part II :アメリカ史上最大の暴動 「徴兵暴動」


<南北戦争勃発:(1861)>

1850年代に、政治論争のテーマは、急増する「新移民」への取り扱いから、「奴隷制度」の是非、となってきました。1854年2月に奴隷制反対を掲げる「共和党」が誕生。また州昇格を控えていた「カンザス」では、住民投票により州昇格に際して「奴隷制」の是非を選択することが可能なため、南部、北部ともに票数確保のための住民を大量に送り込み、1854年からの数年間、通称「流血のカンザス」と呼ばれる、奴隷制への賛成派、反対派の暴力衝突が相次ぎました。

「民主党」の中でも、北部を中心とした反対派、南部を中心とした賛成派の対立が深まり、1860年の大統領選挙で南北に分裂、「漁夫の利」を得て共和党リンカーン大統領が誕生し、南部奴隷制州は連邦離脱を始め、1861年南北戦争が勃発します。

ちなみに、反「新移民」主義運動の末路ですが、「ネイティブ・アメリカン」(Know-Nothing)党は、1855年に全国大会を開いたものの南部党員が主導権を握り、党の方針として「反移民」とともに「奴隷制」支持を盛り込み、「新移民」に反対なものの「奴隷制」に対しては嫌悪感を持つ北部の人々が離脱していき、「ネイティブ・アメリカン」党は瓦解。その一部は「共和党」に合流します。


<徴兵暴動:Draft Riots(1863)>

さてNYの白人貧困層(主にアイルランド系)は、「奴隷制廃止」に反対な人々が多かったようです。
ストレートに言うと、反「黒人」。

白人の中で最下層扱いを受けていた彼らは、「黒人」と手を取り合っていくより、自分たちは白人で「優位」ということを選択しました。その裏側には、単純労働の機会を自由黒人に奪われてしまうという憎しみがあり、NYでは黒人あるいは「奴隷制廃止主義者」への襲撃は少なからずそれまで起こっていました。世論を二分した奴隷制ですが、「北部」に位置しながらもNY市の白人貧困層とそれを率いる政治家は、南北分裂した「民主党」の「南部」側に考えが近いということが出来ます。
ちなみに南北戦争勃発前、NYの「中高所得層」は、南部で産出された「綿花」の加工業、それに関わる国内外輸送や貿易金融などに携わる「商工業者」が多く、彼らは経済上の理由から「南部シンパ」であったと言われております。大統領選挙中の1860年にNY市に遊説に訪れたリンカーンは、ここでは所得層の上下に関係なく「南部寄り」ということで、多少ビビッていたそうです(笑)が、その際に行った、「イースト・ビレッジ」「クーパー・ユニオン」での演説は非常に有名なものとなりました。
しかし南北戦争が長期化するにつれ、綿花関連産業に代わる、石油、鉄鋼あるいは兵器産業などが北部では発達し成長し始めたため、NYの中高所得層からの南部への同情は、急速に薄れていったそうです。
「南北戦争」(1861-65)中、リンカーン大統領は南部軍のペンシルバニア州侵攻を撃退した1862年9月に「仮」の、そして翌1863年1月1日「正式」となる、「奴隷開放宣言」。

同年3月に成立した「徴兵令」に基づき、その夏に北部軍の徴兵割り当てがNY市に来ました。しかし、徴兵は抽選(Draft)ですが、300ドルを収める(あるいは人を雇って代理兵役)と免除となるので、貧困層に不満がありました。
そして1863年7月13日の月曜日、住民が爆発し「徴兵暴動:Draft Riots」が発生します。

この暴動に立ち向かったのは、NY「民主党」政権から警察権を取り上げたNY「共和党」政権が作った「メトロポリアン警察」だったわけですし、1862年からはNY市長と大統領(リンカーン)が「共和党」でしたので、これらを貶めてやろう、という策謀があったと推測する向きも多いようです。また7月3日に南北戦争最大の決戦「ゲティスバーグの戦い」で北軍が勝利、マンハッタンには駐屯軍隊も少なく、これを機会に暴動を起こし、北軍の追撃を止めさせようという、南軍シンパの謀略という説もあります。

以下、「The Gangs of New York」(ハーバード・アズベリー著)、サイト「Virtual New York City」(City University of New York作成)、そして「アメリカの歴史」(集英社文庫)の3点を主として、他の参考文献、サイトも参照しながらまとめてみました。日付、場所などが相違した場合には、fujiyanの主観で最も正しいと思われたものを採用。
地図は、「Virtual New York City」を参考にして作成。地図中の数字には当該サイト内に掲載されている、当時の新聞記事のイラストをリンクしました。


1825年のアメリカ中部の「五大湖」とNYを結ぶ「エリー運河」開通後、NYは産業拡大時代を迎え、マンハッタン西側のハドソン川沿いに、港湾業、加工業などが現れ、NYに来た移民たちの「低賃金労働者」が居住、働いていました。
暴動初日の7月13日、「The Gangs of New York」によりますと、マンハッタンの南である「ファイブ・ポインツ」辺りから、マンハッタンの西側である「チェルシー」あるいは「ヘルズ・キッチン」という工業エリアに扇動者が行き、労働者を誘って三々五々と北のセントラル・パーク周辺へと向かい(下図中の緑色点線ルート)、そこで「組織化」されたようなイメージが描かれています。すなわち、「ギャング」たちが仕組んだことを、「示唆」しているわけですね。

<7月13日月曜日>
46St/3Aveの徴兵事務所内で、消防33分署のメンバーが、リーダー格が徴兵されたのに不満を漏らしている外側に、数千の人々が集まり一発の銃声をきっかけに襲撃が始まりました。救援に向かった警官隊は暴徒に蹴散らされ(1)事務所は炎上。その後暴動側は南下し、警察本部へと進撃しましたが、これは撃退されました。

南下中に暴動者たちは東西に広がり、(2)黒人孤児院が襲撃され、大多数は避難したのですが、逃げ遅れてベッドの下に隠れた少女が見つかり殺害され、略奪、放火。同様の光景が、「ファイブ・ポインツ」地区からも別途暴動が発生したため、マンハッタンのあちらこちらで発生。

徴兵暴動−一日目目に入る(3)黒人は全て襲撃の対象。男性の暴徒が黒人を殴り、刃物で傷をつけ、電柱あるいは木に吊るし、女性の暴徒は黒人の傷に油を注いで火をつけ踊りまくる、という図。また黒人を雇っていた店は襲撃され、黒人を匿おうとした人々も暴行を受けていきます。

暴動の一派は、武器を手に入れようと21St /2Aveの兵器庫を襲撃、必死の攻防戦が続きまして、いったんは暴徒側に陥落。警官隊が奪回に現れ(4)兵器庫は炎上、中に閉じ込められた暴徒に大きな被害がでます。

市長を含む共和党の政治家、「奴隷制廃止」主義者の住居、建物が襲撃されます。共和党支持者で奴隷制反対の、「ホーラス・グリーリー」率いる、(5)「トリビューン紙」社は特に標的となり、この日の深夜から翌日にかけて四回の攻撃を受けますが、海兵隊の援助もあり撃退。

午後からは、傷痍軍人、志願してきたNY市民による「義勇軍」が結成され警察を援助に入ります。手勢の少ない警察側は、「市議会」(シティ・ホール)など公共物を重点防御点とし、そしてセントラル・パークの「アーセナル」などの「兵器庫」を防衛しつつ、そこから警察本部に武器、弾薬を転送。マンハッタンの南のガバナーズ島、そして川向こうのブルックリンには海軍工場があり、どちらにも多量の兵器があったようですが、戦艦が集結し、いざというときは砲撃する準備が整いました。


<7月14日火曜日>
暴動は続きます。夜明けとともに(6)妻子を守ろうとした黒人の殺害から再開。700人を超える黒人たちが警察本部に避難します。西側ヘルズ・キッチン内ストリート30番代の9アベニュー、そして東側1アベニューのストリートで10番代に早朝からバリケードが築かれます。
徴兵暴動2日目
そして「略奪」も再開。現在ではミッドタウンにありますが、当時ダウンタウンに在った(8)名門紳士服店「ブルックス・ブラザーズ」が襲撃にあいます。

昨日のうちに武器、弾薬の搬送が終了しなかった 22St/2Aveの(7)兵器工場で攻防戦。いったんは暴徒側の手に落ち、警察側が奪回します。

また暴徒側が、ゲティスバーグなどからの軍隊がNYに入るのを遅らせるためと思われますが、鉄道の枕木や通信網、そして(9)42Stのフェリー乗り場などを破壊していきます。

心配で自宅を見に行った義勇軍の「ブライアン大佐」は、家族が無事に避難したのを確認して本部に戻る途中、(10)暴徒によってなぶり殺しに、文字通りに遭ってしまいました。


徴兵暴動−三日目<7月15日水曜日>
黒人の殺害が続きました。現在のペン・ステーションの辺り、(11)32St / 7Aveで黒人が木に吊るされているのを知った義勇軍が到着し、暴徒たちと衝突します。(12)襲い掛かる暴徒に対して野戦砲が火を噴き、ようやく鎮圧することができました。
一方、1アベニューのバリケードの攻防戦で警察側は敗北します。

その午後からはペンシルバニア州ゲティスバーグから正規兵なども続々と到着、三日にわたる攻防戦で疲れ果てた警官隊に交代します。現在のミッドタウン・イーストに二部隊、マンハッタン北端に一部隊、そして「シティ・ホール」に一部隊という具合に配置しまして、暴動を「ヘルズ・キッチン」そして「ファイブ・ポインツ」「バワリー」地区という、「工業エリア」「低所得者層住居エリア」に閉じ込めることに成功。武装した軍隊が街を行進し威嚇、バリケード突破を行っていきます。

翌木曜日から戦場慣れ?した軍隊が対処していき、この暴動もようやく下火となり、カソリック教会のヒューズ大司教が金曜日の午後に自宅前に集まった人々に「講話」。
週末には暴動は完全に終了したようです。



1992年にロサンジェルスでの「黒人暴動」は、黒人逮捕での警察の暴力をきっかけに当初は「白人向け」に発生したものですが、途中からは略奪そして主として韓国系移民の店への襲撃へと変化していきました。この現象と「徴兵暴動」−当初は「金持ち優遇徴兵制度反対」から、略奪、黒人襲撃へと変化−は類似しているなぁ、とfujiyanは思った次第です。

「徴兵暴動」の解釈ですが、「低所得者層特にアイルランド系移民たちの差別への爆発」という見方と、「単なるギャング、アウトローたちの騒ぎであり、何の主義主張もない」、という二つの見方があります。

「The Gangs of New York」は後者であり、NYタイムズの記事を引用しつつ、暴徒の4分の3は徴兵対象になっていない少年であり、思想は無く、単なる「犯罪者」たちである、としています。一方サイト「Virtual New York City」は、当時のメディア等はその主義主張により見方が偏っている、としています。つまり「民主党」=「奴隷制保持」、「共和党」=「奴隷制反対」という立場により相違している、ということですね。同サイトでは、リンクしたイラストで暴動者の顔を「動物」のように描いているのは共和党支持のメディア、と添書きしていました。

−カソリック教会「ヒューズ大司教」による金曜日の「講話」ついて。
 「The Gang of New York」では新聞記事のコメントを引用し、暴動の最中には沈黙、ほぼ終了した金曜日になって何の意味もない「説教」を行った、としています。
 一方、「アメリカの歴史」(集英社文庫)によると、暴動の最中に(ヒューズ大司教ではないのですが)カソリックの神父さん達は暴動を静めようと努力した、としています。また同「アメリカの歴史」は、1861年つまり南北戦争勃発の年、ヒューズ大司教は、カソリック信者は「死を賭して戦うこともいとわない」が「奴隷制廃止のために戦うのは」まっぴらごめんだ、とアメリカ陸軍省に対して申し入れたが、その後リンカーン大統領の非公式使節として北部の立場を説明しに欧州に派遣された、とあります。
(ちなみに、「ヒューズ大司教」は、ミッドタウンの「セント・パトリック(新)大聖堂」の建設を開始し、また現フォーダム大学の前身であるカソリック系学校を設立した人です。)

−「消防士」たちについて。
 「アメリカの歴史」(集英社文庫)によりますと、「消防士」たちは必死に消火作業にあたった、そして「Virtual New York City」は暴動の始まりに徴兵事務所で抗議していた33分署の消防士もそれ以降は消火活動を行ったとしていますが、
 「The Gang of New York」では消防士は暴動に参加しているか、消火作業に行くのが歯がゆいほど遅かったと、されています。

ちなみに「ボランティア消防団」ですが、南北戦争が終了した1865年から、行政が雇用し組織した「公的消防団」へと、様々なあつれきを起こしながらも移行していきました。


争いを続けていた「ファイブ・ポインツ地区」そして「バワリー地区」のギャングたちは、暴動は仲良く?参加。政治家たちは警察に介入し続け、逮捕されたギャングたちは圧力で釈放、という次第。記録としては、死亡者は100名強程度。しかし、千名、二千名くらいだろう、という記事が多いです。実は、暴動後に精査しなかったみたいですね。

1863年1月にタマニー協会「会長」となり権力を掌握した、「”ボス”・ウィリアム・ツィード」(William M. "Boss" Tweed 1823-78)とリンカーン大統領の間に、暴動後「了解」ができたと言われています。リンカーンはNY市から自治権を取り上げる戒厳令を引くことはしないかわりに、ツィードは混乱無く次の「徴兵抽選」を行う、というものでした。実際、次の抽選は無風でした。

ツィードは、NY生まれ。ブルックリンの「Green-Wood Cemetery」という無宗派の墓地に眠っており、宗教は不明。スコットランド発祥のプロテスタントである「長老派」教会(Presbyterian)という説がサイトに多く登場しており、素直に考えれば「スコットランド系」あるいはプロテスタントである少数派の「アイルランド系」でしょう。人種的には、スコットランド人はアイルランド人と同じ「ケルト人」。「プロテスタント」の「アメリカ生まれ」という「ネイティブ・アメリカン」党的な要素と、「ケルト」人種という要素を兼ね備えた彼は、「カソリック」保護を行ったこともあり、ニューヨークの政治、ギャングを二分した「抗争」をまとめる「ボス」としてピッタリだったんだろうとfujiyanは推測します。ちなみに、彼は「ボランティア消防団」から政治の世界に入ってきた「叩き上げ」の政治家です。
そしてツィード率いる「タマニー協会」が、NY市のほとんど全ての政治系ギャング団を掌握します。

さて1870年そして翌71年、現在のチェルシーで、「プロテスタントのアイルランド系」の人々(通称、「オレンジメンOrangemen」)と「カソリックのアイルランド系」の人々が、暴力衝突となりました。1689年、英国王にしてオレンジ公のウィリアム三世が、その前年の「名誉革命」で追放された、カソリックのジェームス二世を盟主とする「フランス=アイルランド連合軍」をアイルランドの地で破った戦勝記念日パレードを「プロテスタント系」が行った際、「カソリック系」がまとわりついて嫌がらせを行い、乱闘となったもので、通称「オレンジ暴動Orange Riot」と呼ばれます。「タマニー協会」はカソリック系の人々を扇動したとして大きな非難を受けますが、これが「カソリック」、「反カソリック」の暴力衝突の(表面上の?)最後となりました。

その後、ツィードはあまりの腐敗に1871年失脚しました。

跡目を継いだのは、「ジョン・ケリー」(John Kelly 1822?-86)。彼は「ニューヨーク生まれ」のアイルランド系。1854年、カソリック教徒で唯一の下院議員となり、「ネイティブ・アメリカンズ」党("Know-Nothing"党)を国会で激しく攻撃しました。ケリーは1868年にツィードに抗議して「タマニー協会」を脱退しますが、その失脚後に「改革」派として復帰。それまでは一人一人の政治家が自営・自前で投票獲得と(ギャングを含む)後援者の介護を行っていましたが、「地区制」を敷きその担当者を決め、協会中央集権型の、洗練された「政治マシーン」へと変貌させていきます。
ちなみに彼は「カソリック」の「(オールド・)セント・パトリック聖堂」に葬られました。

タマニー協会あるいはアイルランド系移民にさらにご興味のある方は、下をクリックして、fujiyanの添書きをご覧下さい。
アイルランド系移民とタマニー協会


宣伝サイトを見ますと、映画「ギャング・オブ・ニューヨーク」の世界は、
年代的には、おそらくこのあたりまでこまでだと思われます



Part I
ギャングの故郷
「ファイブ・ポインツ」
Part II
アメリカ史上最大の暴動
「徴兵暴動」
Part III
「その後のギャング」
「映画宣伝から」



−参照サイト−
−Virtual New York City−
徴兵暴動を地図、そして新聞のイラストで紹介しています。
- History of the Fire Service -
NY消防の歴史です。
- History of Today's New York City Police Department -
New-York Historical SocietyのNY警察の歴史です。
-The Political Graveyard -
政治家の、「お墓」の場所のデータベース!便利。







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