Part II
アメリカ史上最大の暴動 「徴兵暴動」
Part III
「その後のギャング」 「映画宣伝から」


Part I :ギャングの故郷「ファイブ・ポインツ」


「チャイナタウン」が今回の散歩エリアの小さな一角に成立したのは1880年頃ですが、 今回のお散歩エリア程度の広さに成長するのは、本編でも書きましたように、第二次世界大戦後です。
地図

その前はどうだったかというと、まずはイタリア人居住区「リトル・イタリー」の一部。さらにその前は。。。。

NY最悪のスラム街、通称「ファイブ・ポインツ Five Points」

「スラム街」といわれた「ファイブ・ポインツ」地区は、「キャナルCanal」、「バクスターBaxter」、「ワースWorth」、そして「バワリー通りThe Bowery」に囲まれた、まさに今回のお散歩エリアです。


<「ファイブ・ポインツ」のギャング誕生>

「ファイブ・ポインツ」とは、地図中の緑で書かれている、「コロンバス公園」の左端の辺りでした。
「ワースWorth」(旧名Anthony)、「バクスターBaxter」(旧名Orange)、「マルベリーMulberry」の三つのストリートに、現在では進路が公園で途絶えた「モスコMosco」(旧名Cross、その後Park)、そして消滅した「リトルウォーターLittle Water」の二つのストリートを加えた、「五つ」のストリート通りの交差「点」、という意味です。そして通りが交差して出来た三角州は通称「パラダイス・スクエア」

1798年のコレクト池の風景そもそもは、現在のコロンバス公園の西(地図では上)を中心に、「コレクト」(Collect)と呼ばれた大きな池があり周辺は湿地地帯でした。オランダ、イギリスの統治を経て、アメリカ独立までは「飲用水」池であり、またピクニックや釣りで休日はにぎわったそうです。そしてキャナル・ストリートに沿って運河が掘削されました。

独立後NYは移民により人口が増加し、18世紀末から、池は生活下水で汚染されます。19世紀に入りヨーロッパでのナポレオン戦争のため海上封鎖となり、アメリカ経済が不況となったため、「公共事業」、すなわち失業者への労働提供の必要もあり、行政当局が埋め立てを開始し1813年には現在のセンター・ストリートが通るのを最後に「コレクト」池は消滅しました。

その後住居が建ちましたが、不完全な埋め立てのため地盤が沈下し建物が傾き、またもともと湿地帯でウィルス性の病気が発生しやすく、お金に余裕のある人は転出していきます。結局、このエリアに住み着いたのは、黒人開放奴隷や主としてアイルランド系の貧民層

ファイブ・ポインツ1820年頃から「パラダイス・スクエア」を中心に「グロッサリー」(青果店)を看板にした「もぐり酒場」が次々と誕生し、中所得層以下の人々の「歓楽街」、まさに「パラダイス」となりました。

右の絵は、1827年の「ファイブ・ポインツ」です。画像クリックで大きな画像へとリンクしてあります。建物には「グロッサリー」、「酒」(Liquors)の看板。二階の窓から顔を出している女性は「ホステス」あるいは売春婦。通りでは喧嘩が四つ、うち一つは十数人が集まる大喧嘩。

そして、お気に入りの「もぐり酒場」を根城として「ギャング」が生まれていきました。「フォーティー・シーブズ」(Forty-Thieves 四十人の盗賊)を呼ばれたギャング団が最初だそうです。「ギャング」団たちがそれぞれの「もぐり酒場」を根城として乱立、支配権を争って抗争を繰り返していきますが、優位にたったのが「デッド・ラビッツ」団(Dead Rabbits:死んだウサギ)でした。

ここで移民史をひも解きますと、移民の主力は、19世紀初頭までは主として「イギリス」とその植民地からでしたが、19世紀前半から、「アイルランド系」そして「ドイツ系」となります。「アイルランド系」移民は、「ファイブ・ポインツ」などハウスタン・ストリート周辺より南側に、「ドイツ系」移民は、ハウスタン・ストリート周辺より北側に居住しました。大変失礼ながらストレートに言うと、ドイツ系と比しますと、アイルランド系は低い扱いを受けていました。

さてギャング・エリアとしての「ファイブ・ポインツ」は、北側の「マルベリー・ベンド」(Mulberry Bend)まで拡大。Bendとは「折れ曲がり」。上記地図をご覧頂くと、マルベリー・ストリートがベイヤード・ストリートあたりで曲がっていますね、そのあたりです。さらに北側へと時代を経て拡大してきます。



「ファイブ・ポインツ」地区と「バワリー」地区<「バワリー」地区ギャング>

ギャング抗争に明け暮れる「ファイブ・ポインツ」は人々の「歓楽街」としての地位が下がり、その西の「バワリー通り」(The Bowery)が、その立場を強くしました。1826年、現在のマンハッタン・ブリッジの辺りに、シェークスピアが上演される「バワリー・シアター」が出来て、その並びに、他のシアター、そしてドイツ系経営の、数百人収容可能な、「ビア・ホール」が、出来て行ったそうです。

やがてこの「ビア・ホール」に低所得者層が通うようになり、「民度」?が変貌、「流血のスリラー劇」である、通称「バワリー芝居」というスタイルが、「バワリー・シアター」を含み多くのシアターで上演されるようになりました。高級感ある「シアター」は、マンハッタンの北へと移動していきます。

「バワリー地区」は変貌し、「ファイブ・ポインツ」と同様に、(飲み物が粗悪な「ウィスキー」になっていった)「ビア・ホール」を根城として、多くのギャング団が現れました。その中で最も勢力があったのが「バワリー・ボーイズ」(Bowery Boys)。「Bowery B'hoys」(バワリー・ブホイズ)とも言われていましたが、これは、アズベリー著「The Gangs of New York」によると「人種の根源(racial origin)を示す」とありますので、これは「アイルランド系」であることを意味している模様です。この本には、「訛り」を述べて、民族を察しさせようとしている部分があって、弱りました(苦笑)。

「デッド・ラビッツ」など東の「ファイブ・ポインツ」のギャング団たちと、「バワリー・ボーイズ」など西の「バワリー」地区のギャング団たちは衝突し、抗争を繰り返します。



<「悪徳の都」ニューヨーク:「政治」「消防」「警察」そして「ギャング」は「一体」>

民主党系の政治団体「タマニー協会」(Tammany Hall)がギャング団に目を付けました。1830年代、集票力、そして選挙当日の投票所への襲撃や嫌がらせ、そして暴力を、ギャング団に期待します。政治家は「溜まり場」として酒場を経営し、タダで飲ませたり、そこに用心棒として勤めさせたりしました。

また「就職」斡旋としては「消防士」
当時の消防団は「ボランティア」制でした。たいてい政治家、資産家がスポンサーについていました。もちろん純粋に社会貢献をしつつ勇気を示したい、という「消防士」も多かったんでしょうが、やがて「消防士」はタマニー協会を通じて政治家になるための「第一歩」となりました。鉄火場での統率力を証明する、という訳ですね。

そして消防団が「ギャング」の隠れ蓑になっていきます。政治家が「私兵」として面倒をみていた当初のギャングたちは、荒っぽくて喧嘩っ早く、強盗、窃盗、あるいは殺人を行うこともあったんでしょうが、総じて「犯罪専門家」ではなかったようですが、次第に「専門家」となっていき、ギャングが逮捕された場合には、政治家が圧力を掛けて釈放させる、という「貸し借り」関係となりました。
消防団は「ギャング」も含めて荒っぽい人達だったようで、火事場の先着を巡って喧嘩が絶えなかったそうですが、日本の江戸時代でも「一番乗り」を巡って争っていたのと同じですね。

で、治安が悪化していくNYですが、ここでチョット、「NY警察史」を。

アメリカ独立後そうとうの年月の間、「警察」は「夜回り」だけの「バイト」みたいなものでした。その「バイト代」も安くて「警察」一本じゃ食べていけず、「警官」は昼間に別の仕事をし、居眠り続出だったとか(苦笑)。また収賄も横行。というわけでロンドン警視庁を真似して、1845年常勤専任の「自治警察」(Municipal Police)をNY市は組織します。しかし当然、政治家による、人事介入そして縁故就職の斡旋対象となりました。

この頃は「政治」と「消防団」と「警察」、そして「ギャング団」の垣根は低い、事によると「一体」というのがニューヨークでした。従って、19世紀のNYは「悪徳の都」、と呼ばれる場合も多いです。


<政治対決とギャング抗争の激化:アイルランド移民の急増−「ネイティブ・アメリカンズ」党>

さてアメリカでは、1830年代から急増する移民、特に「アイルランド系」への態度を巡って政治対立が表面化しました。急増する移民たちに対して、「アメリカ生まれ」、つまり先に先祖が米移民したという「既得権」を主張する一派が生まれ、「ネイティブ・アメリカン」党(あるいは”Know-Nothing”党)と呼ばれます。
(注:現在では、「ネイティブ・アメリカン」とは「アメリカ原住民」、つまり日本人が「インディアン」を呼ぶ人々のことを指します。)

宗教も大きな理由でした。当時の急増する「アイルランド系」移民の大多数は「カソリック」であり、それ以前の移民たちはアイルランド系も含み「プロテスタント」。極端な主義者から見れば、「カソリック」移民はローマ法王を「君主独裁者」とする「宗教国家」の「臣民」であり、大量に移民してきてアメリカを法王に献上しようとしている、という解釈。

「アイルランド系移民」そして「カソリック」への憎悪は暴力ともなりますが、それはNYでも例外ではなく、「SoHo/リトル・イタリー」散歩でご紹介した、アイルランド系移民のカソリック教会である「(オールド・)セント・パトリック聖堂」への襲撃が1836年に起こっています。

さて1840年代、特に1845年アイルランドでの「大飢饉」を契機としてアイルランド系移民がさらに増加し、それに反感を持つ「ネイティブ・アメリカン」党が勢力を拡大、民主党系の「タマニー協会」も分裂します。

「タマニー協会」にはそれまで「民族意識」はあまりなかったようです。低所得者層を背景にした政治団体で、たまたま低所得者層に「アイルランド系」が多かったという次第で、共通していた「イデオロギー」は「反イギリス」だけ。

「イギリス的」なものが「高級」とされたこの時代、「ファイブ・ポインツ」や「バワリー」地区は低級で貧民層のエリア。高級なシアターは、これらの地区から北に離れていき、その一つがアスター・プレースにある「アスター・プレース・オペラ・ハウス」(1847-53)でした。

そこで「イギリス的」で「高級」なシェークスピア劇を演じていた、イギリス人俳優「ウィリアム・C・マクリディ」は、アメリカ人俳優「エドウィン・フォレスト」の間でいざこざがありました。「タマニー協会」の有力政治家の一人、「”キャプテン”・アイゼイア・ラインダース」("Captain" Issiah Rynders)は、「イギリス」の象徴としてマクレディを攻撃する、1849年の「アスター・プレースの暴動」を「ギャング」を使って先導した、と言われています。ご興味のある方は、「シアター・ディストリクト散歩」本文をご参照下さい。
ちなみに「”キャプテン”・ラインダース」は、元大統領セオドア・ルーズベルトの書物によると「イギリス系」です。

その後「タマニー協会」では、急増加する移民を手厚く面倒を見て、政治力を拡大していく派閥が勢力を伸ばし始めました。

移民たちは、まずはNY港に到着し、大多数はアメリカの他地方へと旅立っていきますが、NYに留まった移民たちは、アメリカに知人が居らずそして他地方へ職を求めて移動する旅費が無いという、言い方は悪いですが、貧困層中の貧困層でした。特に「アイルランド系」移民のほとんどが農民でしたので、都会であるNYで職を求めるのが難しい。そういう彼らを、まさに「桟橋まで出迎え」て職、住居を斡旋し、選挙の際にはタマニー協会系候補に投票させるわけですね。ちなみに、1845年に創設されたNY市自治警察は、1855年で1100人の警察官のうち、300名がアイルランド系となりました。

さて「アメリカ生まれ」、つまり先に先祖が米移民したという「既得権」を主張する派閥は、「ネイティブ・アメリカン」党に合流しましたが、実はその筆頭が「”キャプテン”・ラインダース」でした(彼はその後、再度タマニー協会に復帰します。)

特にNYでは移民にアメリカ入国後短期間で「選挙権」、「公職権」を与えるかどうかを巡って、「タマニー協会」「ネイティブ・アメリカン」の2党派は大きく争ったようです。当時の移民法では、帰化には五年間の米国居住が必要でしたが、「タマニー協会」は移民後短期間で選挙に参加させ、指導力のある者には公職を与えることが、政治力拡大につながる、という考え。「ネイティブ・アメリカン」党は反対。

「タマニー協会」そして「ネイティブ・アメリカン」党それぞれに、ギャング団が付き、暴力抗争が続きました。
「ファイブ・ポインツ」の「デッド・ラビッツ」は「タマニー協会」系、そして「バワリー」地区の「バワリー・ボーイズ」は「ネイティブ・アメリカン」系で、両者の抗争はさらに激化します。



<「政治」「警察」の乱闘、「ギャング」の乱闘>

1855年「タマニー協会」の「フェルナンド・ウッド」がNY市長に再選されるのですが、公金を自分の支持者にばら撒くという手法で政治力を発揮してきており、彼は「ネイティブ・アメリカン」党のみならず中立の市民からも不評でした。

その投票日には「タマニー協会」の「デッド・ラビッツ」らのギャング団と、「ネイティブ・アメリカン」党の「バワリー・ボーイズ」らのギャング団が投票場などで暴力行為を繰り広げ、総得票数が前回と比して非常に多い不可思議な現象がありつつも、ウッドが再選。
(ちなみにウッドは、元大統領セオドア・ルーズベルトによると「オランダ系」とか。)

その二年後の1857年、経済恐慌とウッドの不正政治もあいまってNY市は大混乱、警察は腐敗のどん底へ。「共和党NY」政府は、「民主党NY」にはもはや「警察」能力はないとし、「市」から独立したマンハッタン周辺を統括する「メトロポリタン警察」を組織し、「市」から警察権を取り上げようとしますが、ウッドは拒否。「NY」の「自治警察」は、「NY」設立の「メトロポリタン警察」に暴力で対抗し大乱闘、最後は「州兵」が出動して鎮圧。この後の数ヶ月間、二つの警察組織が存在するという事態になりました。

同1857年、「タマニー協会」の傘下で、ウッド市長を支持する「デッド・ラビッツ」ら「ファイブ・ポインツ」のギャングたちは、「ネイティブ・アメリカン」党傘下の「バワリー・ボーイズ」らが支配する「バワリー」地区に殴りこみをかけ大乱闘。これまた「州兵」が出動して鎮圧。これを「デッド・ラビッツの暴動」と言います。

ちなみに、これらギャング団の「天敵」の「州兵」ですが、最も活躍したのは「第七連隊」
現在では「アッパー・イースト・サイド」に位置していますが、当時はマンハッタンの南である「イースト・ビレッジ」に位置していました。

警察権を巡った法廷闘争でウッド市長は敗訴、NYの「メトロポリタン警察」が機能し始め、この騒ぎは終わりました。ウッドは「タマニー協会」から愛想を付かされ、自ら民主党の一派「モーツアルト協会」を設立し1859年にNY市長に返り咲きますが、その後はNY市政権から離れました。

ちなみに「NY市」のもとに、「警察」権が戻ってきたのは1870年。
さらにちなみに、その約30年後の1898年、「マンハッタン」一つであった「NY市」に、「ブルックリン」、「ブロンクス」、「クィーンズ」、そして「スタテン島」が合併した際に、現在の「ニューヨーク市警」(「NYPD」:New York City Police Department)が正式に誕生します。




Part I
ギャングの故郷
「ファイブ・ポインツ」
Part II
アメリカ史上最大の暴動
「徴兵暴動」
Part III
「その後のギャング」
「映画宣伝から」









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