以下の添書きは11000文字程度です。いつもながら、長くてゴメンナサイ!!


FUJIYANの添書き:「NY地下鉄の歴史」

この「マンハッタンを歩く」では、「高架式鉄道が走っていました」、とか「地下鉄が通って発展しました」云々ということを、多くのエリア散策でfujiyanは「書き散らかして」(笑)きました。

「ブルックリン」をはじめ「ブロンクス」「クィーンズ」(そして「スタテン島」)は、1898年「拡大ニューヨーク」発足でマンハッタン文化圏、経済圏に参入したわけですが、各地区を結ぶ「地下鉄」の発達なしには「拡大ニューヨーク」の発展はなかったでしょうから、「ブルックリン散歩」を機会にまとめてみたい、と思います。


高架式鉄道
(1902年頃)
地下鉄開通前の高架式鉄道網
<マンハッタン内部の高架式鉄道>

詳しい開通年は、こちらをご覧いただければと思いますが、「9アベニュー線」建設の1871年から始まった、マンハッタンの内部での「高架式鉄道」は、1901-2年頃には、「蒸気」機関車から「電化」となっていて、路線は左の図のように、「2」「3」「6」そして「9」アベニューを、南北に、「マンハッタン」を走っていました。「3アベニュー線」は、北からハーレム・リバーを渡って、お隣「ブロンクス」まで到達しています。

さて、一般的に「NYの地下鉄」と言いますと、「地下」を走る鉄道と、「高架」を走る鉄道、の二種類を実は指していまして、「Rapid Transit」=「高速交通」と言うのが正しいようです。地表を走らないで(中長距離電車と違って)頻繁に停車駅がある鉄道、と申し上げましょう。従いましてここにあげた、マンハッタン内を通る「高架式鉄道」は、現在では全廃されていますが、「高速交通」の一種です。

しかし、簡略化のために、この稿では「地下鉄」と表記させていただきます。ご興味のある方は、現在の、NY「高速交通」網の高架部分リストをご覧下さい。

<NYの「地下」を走った第一号は、1870年>

フェアで展示された仕組みNYの「地下」を実際に走った第一号は、事業として地下鉄が初開業した1904年よりはるかに前の1870年でした。化学雑誌編集者・発明家のアルフレッド・ビーチ(Alfred Ely Beach:1826-96)は、1867年にマンハッタンで開催されたフェアで、「チューブ」に「客車」を置き、巨大な扇風機による圧縮空気でそれを動かすという、英国ロンドン市が試みていた郵便などを送るための圧縮空気チューブ網を大掛かりにしたものを展示し、大好評を得ました。当時はまだ蒸気機関車の時代でしたので、煤煙のないこのシステムは拍手喝采をあびたというわけですね。

自信を得たビーチは、このしくみの地下「チューブ車」をマンハッタンに走らせようとします。 しかし、彼に大きな障害が現れました。NYを支配する政治マシーン「タマニー協会」のボス、ウィリアム・ツィードです。彼は当時建設の途上にあった高架式鉄道会社と癒着し、利益を狙っていました。地下鉄第一号そこで、ビーチは「郵便配達チューブ」の実験と偽って(笑)、ローワー・マンハッタンの「シティー・ホール」傍であるブロードウェイの、ワレン・ストリートとマレー・ストリートの1ブロック間に、1870年2月、地下「チューブ車」を走らせます。一乗車25セントの、いわば遊園地の「アトラクション」みたいな感じだったようですが、これがまた大好評。1年で、延べ40万人!!。

そこでビーチはNY州政府に、この一ブロックのラインを、北のセントラル・パークまで延長する事業の申請を行いました。しかしウィリアム・ツィードは再度邪魔に入り、否認し続けるよう工作しました。1871年末、ツィードが汚職で逮捕され、その後政治的な力を失いましたので、1873年にようやくビーチへ認可がでましたが、同年、金融恐慌により経済が悪化、ビーチの地下鉄事業は夢と終わってしまい、彼の地下「チューブ車」は人々の記憶から忘れられてしまいました。


<事業化「地下鉄」第一号、1904年開通>

1902年開通時は実線。
延長は点線。
1904開通から1905年まで
「地下を走る」鉄道の「事業化」第一号は、1904年10月27日にマンハッタンで開通しました。右の図の赤い実線のように、現在の4-5-6ラインに相当する「シティー・ホール」から「グランド・セントラル駅(42St)」までマンハッタンの東側を走り、90度左折して(笑)42Stを現在のSライン(シャトル)にそって「タイムズ・スクエア」に至り、現在の1ラインを145Stまでマンハッタン西側を走る、という、今から見るとそうとう変則のルートでした。

そのルートは右の図の、赤い実線で示しています。図中の、うっすらとした実線は既存の高架式鉄道網で、「地下鉄」ルートはこれらとの競合をしない意図で作られたと推測できますよね。

その後の発展を、赤い点線で示しました。早くも同年11月23日に西側の路線は二つに枝わかれし(現2-3ライン)「ハーレム」に到達、翌1905年に川を「ブロンクス」へと渡ります。また現1ラインもワシントン・ハイツを北上、マンハッタンの北端から川を渡りブロンクスに1907年に到達。一方の東側の現4-5-6もマンハッタン南端へ1905年延長され、1908年に川を渡ってブルックリンに入りました。
<2つの民間地下鉄会社−「IRT」と「BMT」>

さてNYの「地下鉄」は現在、「MTA」(Metropolitan Transit Authority)、日本語でいうと、まあ「都市交通公団」が運営しています。正確には「MTA」傘下の、「NYC TA」(New York City Transit Agency)ですが、便宜上、「MTA」ということにしておきますね。さてこの「MTA」の「地下鉄」網は、1953年に3つの「組織」が合併して出来たものなんです。

「一つ目」は、上記「地下鉄」第一号の「IRT」Interborough Rapid Transit)。
日本語では「行政区間高速交通」、かな?
大富豪の企業家「オーガスト・ベルモント二世」が中心となって1902年創設した民間会社です。「IRT」はマンハッタン内の「独占」を目指し、マンハッタンの「高架式鉄道」全路線を1903年買収、翌1904年に地下鉄開業にこぎつけました。

「二つ目」は「BRT」Brooklyn Rapid Transit)。
1896年設立。日本語ですと、「ブルックリン高速交通」というところですね。
のちの1923年に「BMT」Brooklyn-Manhattan Transit)と名前を変えます。「ブルックリン−マンハッタン交通」、という感じでしょうか。

「BRT」ブルックリン内の路線網(1913年頃)
1913年以前の「BRT」
「BRT」はブルックリン内部の「高架式鉄道」会社、「路面鉄道」会社が大連合したもので、マンハッタンへの地下鉄乗り入れを虎視耽々と狙っているところでした。「ブルックリン」が「小ニューヨーク」である「マンハッタン」と合併し1898年「拡大ニューヨーク」となる近未来を睨んで作られた会社でしょう。

当時の路線網は右の図の通りです。「ブルックリン橋」、「ウィリアムズバーグ橋」の上を渡ってマンハッタンに至っていまして、おそらく「ケーブルカー」だったと思われます。また両橋の、ブルックリン側の川のたもとへの「支線」もありまして、そこからフェリーに乗って「マンハッタン」へ渡ることも出来たようです。


さて現在「MTA」となった、「三つ目」である「IND」は、後ほど登場します


<Dual Contracts : 「IRT」「BRT」二社による地下鉄網建設>

地下鉄初登場の翌1905年、「NY市」は地下鉄路線の延長など新計画を発表し、「建設」、そして「操業権」の「入札」を実施しようとします。建設費用は「NY市」持ちで建設させ、路線操業権をリースする、ということだったらしいですね。

が、「IRT」は、最初の地下鉄会社である自社は今後すべての新路線操業を「独占」する権利が在るとNY市に強固に主張、NY市は「独占」は認めなかったものの優先的に多くの計画路線への権利を「IRT」に渡し、少数の「操業権」を競争入札にかけ他の会社が落札しました。で、「IRT」は落札したその会社を「買収」しました。

しかし「マンハッタン」進出を狙っている「ブルックリン」の「BRT」は、会社が大きすぎて買収できない。また世間は当時、「独占」企業に対して批判的なムードが流れている。そこで、「IRT」は、「BRT」そして「NY市」に話を持ち込みます。今後の新路線建設は「入札」を止めて「三者利益」になるようにしようよ、というわけですね。
 ・「NY市」は、「IRT」「BRT」が提出した「新路線・複々線化計画」を認可。
 ・「操業権」は二社のみに与える。
 ・莫大な建設費は、「NY市」と、「IRT」「BRT」の各社で相応に負担。
 ・「IRT」「BRT」は最低利益を得たのちに「NY市」への「リース料」を支払う、
       つまり、ある一定以上の利益が無ければ、NY市にリース料は支払わない。
これは「Dual Contracts」=「二重契約」と呼ばれ、1913年に結ばれました。


「IRT」1920年での拡張。延長路線は点線。
「IRT」1920年頃まで
−「IRT」は「ブロンクス」中心

「IRT」は、マンハッタン西側の「タイムズ・スクエア」から南は7アベニュー地下(1917,18)を延長、現1-2-3ライン、そしてマンハッタン東側の路線はグランド・セントラル駅から北にむけてレキシントン・アベニュー地下(1918)の現4-5-6ライン、となっていきます。南北に走る両ラインを、42Stで現Sライン、すなわち現シャトルが東西に繋ぎ、「H字」と呼ばれました。

「ブルックリン」では、「BMT」が優先ということでしょうが、「アトランティック・アベニュー沿い」のみでそこから広がる(現4-5ライン1908年、現2-3ライン1919年、にブルックリン到達。延長工事が1922年まで)にとどまりました。

その代わり「ブロンクス」では数が多く、西から「ジェローム・アベニュー」沿い(現4ライン1917、延長1918)、「ホワイト・プレインズ・ロード」(現2ライン1905、延長1917-18)、そして「ペルハム・ベイ・パーク」まで(現6ライン1918、延長1919-20)の「高架式鉄道」を繋げていきます。

ちなみに「IRT」管轄の高架式鉄道「9アベニュー」線は、その北端から東へと伸びて1918年にブロンクスへと、たどりつき「ジェローム線」と接続します。

「ブロンクス」ではこの「地下鉄」そして「高架式鉄道」開通により、住宅用不動産開発が急速に進んだようですね。ちなみに「ブロンクス」の「ヤンキー・スタジアム」の建設は1921年から始まり、「こけら落とし」は1923年です。


−「BRT」は「ブルックリン」中心

「BRT」はブルックリン(そしてクィーンズ)とマンハッタンを繋ぐことになり、マンハッタン内部で南北の「軸」を作り、 その「軸」の北と南の端から一本づつ 「イースト・リバー」を隔てたお隣ブルックリンそして(クィーンズ)に繋ぐ「線」をのばすという、いわばカタカナの「コの字」型路線(東西を考慮すると「コ」を左右対象に逆にしたものになりますが)でした。 そしてブルックリン、クィーンズ内では、既存そして新設のBRT内「高架式鉄道」に接続していく、というシステムです。
「BRT」1920年まで。一部は高架式鉄道の既路線。
1920年代の「BMT」

マンハッタン内部では、南北に「ブロードウェイ」(現N-Rライン,1917-20)で長く、そして「ナッソー・ストリート」(現J-M-Zライン1913)で短く、二本を走らせました。

N-R部分は、「ブロードウェイ」の北はでトンネルで「クィーンズ」に入り(1920)、アストリア方面とフラッシング方面の高架式鉄道に接続します。
「ブロードウェイ」の南からは、トンネル(1920)でブルックリンへ入り、「コニー・アイランド」などの南側に、向けて枝分かれしていきます。

「ナッソー・ストリート」では、北は「ウィリアムズバーグ・ブリッジ」を渡って(現J-M-Z 1908)、南では「マンハッタン・ブリッジ」(現Qラインの一部1915年)を通ってブルックリンに入り、4アベニューを南へ向かい枝分かれしていく路線(現N-RWMライン 1916,17)と東南に向かう路線(Qライン1919,20)は既存の高架式鉄道を挟んで接続。

図の中で、うっすらと出ているのは、「BRT」の既存路線で、これらと新路線と直接、間接に繋いでいるのがお分かりいただけますよね。なお、「BRT」既存路線と、色付きの実線が重なっている部分は複々線化あるいは新たに「地下を走る鉄道」を通したところです。

ちなみに、1912年、「BRT」のシティーホール周辺での工事(おそらく現N-Rのルート)中に、忘れられていたアルフレッド・ビーチの「地下鉄」トンネルに偶然にもぶつかり、そこではビーチが使った車両がほとんど無傷で発掘されたそうです。
さらにちなみに、このビーチのトンネルは映画「ゴーストバスターズII」で、スライムが流れる川、として取り上げられたそうです。


−「クィーンズ」は「IRT」「BRT」の両社で「共同運営」

こうして、「IRT」は「ブロンクス」、「BRT」は「ブルックリン」、という具合に「分担」されたわけですが、「クィーンズ」については両社の「共同運営」という形に落ち着きました。クィーンズの「メイン・ターミナル」として「クィーンズボロ・プラザ」駅に、マンハッタンから三路線が接続し、クィーンズ内部を二路線が走ります。

マンハッタンからの「IRT」路線は、
 ・高架式鉄道「2アベニュー線」の「支線」(図中黒線表示。1917)が「クィーンズボロ・ブリッジ」を渡り、
 ・現在の「7ライン」(1915-16)に相当する、「42St-グランド・セントラル」駅から川を潜り、
二路線が「クィーンズボロ・プラザ」駅に接続。
1920年、クィーンズの地下鉄網
クィーンズでの「IRT」「BRT」

一方、「BRT」の現N-Rラインが、マンハッタンから川の下のトンネルをくぐり、「クィーンズボロ・プラザ」駅に接続(1920)します。

そして「クィーンズボロ・プラザ」駅からクィーンズ奥への二路線は、
 ・「コロナ」方面(1917、「フラッシング」へ1925-28に延長。
   現7ライン)と、
 ・「アストリア」方面(1917。現Nライン)、
です。この2路線は「IRT」と「BMT」で「jointly operated」、つまり二社の「共同運営+相互乗入れ」になっていました。

ちなみに、「IRT」管轄の、マンハッタンのグランド・セントラル駅から川をくぐるトンネル(図中の紫色の点線で川を越えるところ)について。これは「スタンウェイ・トンネル」と呼ばれています。

ピアノ製作で有名な「スタンウェイ」社は、ドイツ系移民の初代「ヘンリー・スタンウェイ」が1853年にマンハッタンに設立。その後、五男の「ウィリアム」はなかなかの商売上手で、スタンウェイ・ピアノのブランドイメージを確立し事業拡大、1870年代にクィーンズ北西端、現在の「アストリア」の北側に広大な土地を購入、ピアノ工場とその周りに町並みを作り上げ、「スタンウェイ」と呼ばれることになるエリアを作り出しました。

ウィリアムはピアノ工場経営と同時に、「クィーンズボロ・プラザ」駅のあるエリア、通称「ロング・アイランド・シティ」の路面電車会社も経営していました。彼はクィーンズとマンハッタン、特に「グランド・セントラル」駅との接続を考え、1892年に「スタンウェイ」と後年呼ばれるトンネルの掘削を始めました。しかし爆発事故などで御難続き、半年で工事が停止になります。

そして10年以上たった1904年、「IRT」が上述のスタンウェイの鉄道会社(の後身)を買収したこともあり、トンネル工事を再開。しかし工期を守ることが出来ず、その間に「IRT」が買収した鉄道会社本体は倒産、整理処分会社になり、またまた御難続き。
しかしトンネル工事は進み1907年にようやく完成、同年9月にマンハッタンとクィーンズを渡る「路面電車」の一路線として営業開始。しかし、クィーンズ側での接続が無く、独立してしまった、単なる川の渡し船、ならぬ渡し「鉄道」だったようで、採算も合わず営業停止。

1913年の「Double Contracts」にこのトンネルが盛り込まれ、「路面電車」ではなく「地下鉄」用に改修工事もなされ、1915年にトンネルは復活、現在に至っています。


<インフレによる経営悪化:「BRT」破産、「BMT」へ>

しかし「IRT」そして「BRT」ともに経営が悪化していきました。それは1913年「Dual Contracts」時にNY市に認めさせた、「運賃を5セントで49年間固定」するルールがもともとの原因です。

当時、「5セント」という運賃は十二分に収益のあるレベルだったようで、両社は「引き下げ」させられることをむしろ恐れていたようです。しかし、第一次世界大戦 (1914-1919)によって強烈なインフレが起き、目算はまったく逆になってしまいました。
「BMT」1920年代以降。点線は「BRT」の既路線
1920年代の「BMT」

世間は軍需特需と、その後のバブルとも言うべき「roaring twenties」(喧騒の20年代)である空前の景気を迎えているんですから、皮肉なものです。

特に「BRT」は、1918年のストライキ時に、組合に不参加でしたが経験の浅い運転手たちを使って運行を続けようとしました。その一人がカーブでのスピードの出しすぎによって現在のプロスペクト・パーク駅周辺のマルボーン・ストリート(Malbone Street )のトンネルに入るところでカーブを曲がりきれなくなり脱線、トンネル内で壁に激突、93名が死亡するという大事故を起こしてしまいました。その賠償金もあいまって債務超過となり、建設計画全部を完成する前に、1923年にいったん倒産してしまいます。
(ちなみに「マルボーン・ストリート」という名前はこの事故を連想させるということで、「エンパイア・ボールバード」と改名されました。)

再出発後「BMT」(Brooklyn-Manhattan Transit)と改名し、マンハッタンの14Stからブルックリンに向けて東に単純に直線に伸びる路線(現Lライン1924、延長1928,31)と、そしてブルックリンからトンネルを通って「ナッソー・ストリート」沿いを通ってチェンバーズ・ストリートまでの「ループ」を完成(現Mライン 1931)させた次第。また「IRT」も経営悪化を理由に、新路線建設をまったく行わないという状態が続き、1932年に債務超過となってしましました。


<市営地下鉄「IND」登場>

そこに、現在「MTA」となった第三番目の「組織」である「IND」Independent Subway System)が登場します。これは「NY市営」地下鉄で1925年に設立。

当時のNY市長であるジョン・ハイラン(John Hylan)は、経営悪化の2社の路線を補完しつつ、「運賃5セント」を維持可能なことを両社に「見せつける」ためには、「Independent」=「独立」した「公営地下鉄」が必要であると強固に主張、1921年に圧倒的な支持で再選されました。ちなみに彼は法律学校に通いながら「BMT」(当時「BRT」)の運転手として生計をたてていた頃、上司を危うく轢きそうになり1897年解雇されたので、「BMT」への恨みをはらすために熱心だったという説もあります(笑)。

「IRT」「BMT」がNY市管理となる1940年以前は実線、
その後は点線。
「IND」
マンハッタン内では、現B,D,Fが通る6アベニュー(1936,40)、そして現A,C,Eが通る8アベニュー(1932)の、南北に走る二筋を軸とします。

ブロンクスで「グランド・コンコース」を走る(1933)現B,Dライン、クィーンズで「クィーンズ・ブールバード」を走る(1933)現Eライン、ブルックリンでは「フルトン・ストリート」沿いの現A,Cライン(1933,36)。

そしてマンハッタンを経由しないでクィーンズとブルックリンを結ぶ「クロスタウン」(現在のGライン、1933,37)ができ、現Fラインとともに、南へとむかうことになります。

ちなみにこの現Gライン「クロスタウン」線の先、現Fラインは、現在でもゴワナス運河を渡っていく場所が高架式になっていますが、そこを除くと「IND」は全線が「地下」でした。
(注:現在Aラインがブルックリンで「高架式鉄道」に連結しJFK空港へ向かう路線がありますが、それは年月が流れた1958年のことです。)
<地下鉄は全てNY市が保有、「MTA」発足>

さてなんとか持ち直した「私鉄」2社が再度赤字転落になってしまい、1940年ラガーディア政権下の「NY市」は2社を買い取り、「NY市」が「独占」となりました。
(ちなみに同年、「IRT」はイースト・チェスター支線(現5ライン)を開通しています。)

「大不況時代」(1929-45?)中の1933年からNY市長になったラガーディア市長は、地下鉄建設に熱心でした。失業対策であると同時に、地下鉄を通すことによる不動産価格の上昇を狙います。ラガーディアは、「高架式鉄道」を廃止させるとその周辺の不動産価格のが上昇する、と考えていました。目玉はマンハッタン内部の「6アベニュー」。現在「ロックフェラーセンター」の一角を、高架式鉄道が横切っていたんですよね。多くの「高架式鉄道」を保有する「IRT」「BMT」ともにNY市の傘下に入りましたから、「高架式鉄道」の廃止はスムーズに行うことができますよね。

さて1941年からの第二次世界大戦により、NYは軍隊も含めた物資輸送の中心地となり、地下鉄は久方ぶりに黒字となりましたが、1945年終戦となると、再度収益が悪化、1948年運賃は倍の10セントにとうとう値上げされました。当然収入が増えますが不十分でした。

で、1953年、「MTA」(Metropolitan Transit Authority)という別組織を設立、地下鉄事業は全部移管され、運賃は15セントに値上げし、以降は頻繁に値上げが続きます。
「IRT」、「BMT」、「IND」の三路線をつなぐような工事が進み、ブルックリンのボロボロになった「高架式鉄道」を「LIRR」(Long Island Railroad:ロング・アイランド鉄道)から買い取り、改修工事し現Aラインに1958年接続させ、J「FK空港」まで路線を拡張。

一方、多くの高架式鉄道はその姿を隠していきました。
ブルックリンでは、現在の高架「道路」へと姿を変えたものもあるそうです。
また「IRT」が経営していた、このページ冒頭でご紹介した「高架式鉄道」たちですが、マンハッタン内部では1956年に姿を消しました。最後まで走っていたのは、ブロンクス内部を南北にはしる旧「3アベニュー線」の一部で、8ラインと表記されていました。こちらに1972年のオフィシャルマップのスキャンがありまして、8ラインがあるのがご覧いただけます。しかし1973年(か74年?)には8ラインも姿を消しました。

1972年に地下鉄「2アベニュー新路線」工事に入りましたが、1975年にNY市財政危機により中断。
(アー、それでマンハッタン東側には一路線しかなくて混雑しているわけね。ようやくわかった(苦笑))。

一方、人々は、汚く治安の悪いNY中心部から郊外への転居していき、「モータリゼーション」もあいまって、彼らの「足」は自動車ということになり、乗客数は「目安」である年間「10億人」を切ってしまいました。

1980年代に入ると地下鉄設備は老朽化し、治安も悪く、ホームレス、物乞い、グラフィティ(落書き)などで悪いイメージがこびりついてしまいました。そこで「MTA」は新路線の計画をいったん白紙に戻し、「既存路線の修理・維持」こそ利用客を増やす方法という考えから、そのための「5ヶ年計画」を二回、計10年を莫大な予算で実行し、乗客数の目安「10億人」と再度上回ることになります。

現在の路線図1989年に「ルーズベルト島内」に駅を持つ、マンハッタンとクィーンズを結ぶトンネルを経由したルートが新設され、1990年代に入る頃には、地下鉄の落書き「グラフィティGraffiti」もほぼ姿を消し、NY市の治安強化の取り組みとあいまって、人々が地下鉄に戻ってきました。


――

fujiyanは1986年に始めてNYを訪れたとき、地下鉄の汚さ、異臭、そして特に駅の照明の暗さにビックリしました。今から考えると、「MTA」の「修理・維持」五カ年計画の最中だったんですね。

当時は「地下鉄には昼も夜も危ないから乗るモンじゃない」とか言われておりましたが、1990年代からの好景気、そして治安の向上とともに地下鉄の環境は大きく向上しています。

さてここまでお読みいただいた方のうちで、NYに来られた方にはお分かりいただけると思いますが、NYの地下鉄路線の路線名には、
1,2,3,4,5,6,7」という数字表記のものと、
A,B,C,D,E,F,G,J,L,M,N,R,Q,W,Z」というアルファベット表記の2種類があり、前者の数字表記のものはは旧「IRT」路線を、後者のアルファベット表記のものは旧「BMT」+「IND」を、その起源に持つことを示しています。今でも社内アナウンスで「この駅では、IRTの・・・ライン、BMTの・・・ラインに乗り換えできます」、なんて流れることがありますね。

ちなみに、レールの幅がこの2種類で相違しているそうです。数字の路線の幅は、アルファベットの路線のそれと比して狭いんだそうですが、それは旧「IRT」と旧「BMT」の規格の違いから来ているそうです。
さらにちなみに、旧「IND」は設立当時から旧「BMT」の規格にあわせており、この二つは相互乗り入れが可能になっていました。従って、アルファベットの地下鉄のほうが、数字のそれよりも車幅が広くゆったりしていますね。

New York Subway Org」は、各ラインを詳細に写真とコメントで紹介されておられます。実は乗ったことがないラインも一杯ありまして、例えば、Lラインのブルックリン側終着駅とその一駅前は、地上レベルだとかわかったりすると、行ってみたいなぁ、とか思ったりしましたデス。「ぶらりNY地下鉄の旅」なんて、してみるのも面白いかもしれませんね。でも行った先の「治安」感覚がないから、ちょっと無理かなぁ?



−参照サイト−
- Metropolitan Transit Authority -
NY地下鉄の公式サイト。このページ最後の画像は、このサイト内の路線図を縮小したものです。
- American Experience | New York Under Ground
アメリカに「PBS」という、いわば「教育テレビ」局があるのですが、その局の、
NY地下鉄のドキュメンタリー。
- New York Subway Org -
恐らく最も充実したNY地下鉄データ等のサイトで、ビックリします。各路線の営業開始年表
から、現在の写真入りの解説、「Dual Contracts」、「スタンウェイ・トンネル」、
など資料の宝庫。このページ本文中からも、いくつかリンクさせて頂きました。
- New York City Subway System -
これもNY地下鉄のサイトです。こちらは「駅」開業史が細かくて便利。
- Brooklyn-Manhattan Transit -
ブルックリンの「BMT」に、特化した地下鉄サイト。
- Frederic Delaitre's Lost Subways / Beach Pneumatic Subway -
アルフレッド・ビーチの「NY地下鉄第一号」を地図など詳細に述べています。
写真の出所でもあります。







「マンハッタンを歩く」
のメニューへ
トップページへ