日暮里富士見坂が有している価値の共有

現行法・制度においては眺望保全という視点が、原則的には考慮されていない。このため、その枠を乗り越えるには眺望の価値について、納得できるかたちでの合意形成が前提となる。眺望保全が一般の景観保全や環境保全と異なる点は、保全によって制限(経済的不利益)を受ける当事者(地域)と、直接的利益を受ける当事者(地域)が離れている場合が多いことである。
 従って、ある特定の地域からの眺望が、その地域のみならず、それ以外の広汎な人々にとっても有益な公共的価値を担っていることか了解されなくてはならない。
 では、都心部において富士見坂の名称を持つ坂のうち、唯一現在も富士山を眺望できる日暮里富士見坂の価値は、どのようなものだろうか。これまでの第I部およひ第II部での調査・考察から、日暮里富士見坂はかけがえの無い場所性を備えていることが明らかとなった。その場所性とは以下のような点に要約することができよう。

<日暮里富士見坂からの眺望の場所性(=価値)>

原風景・・・・・・ 江戸・東京における欠くことのできない風景として、また地域における風景認識の確かな拠り所として
広域性・・・・・・ その風景が、閉じられた狭い地域だけのものではなく、広範囲の多数の人々に愛されている
歴史性・・・・・・ 草創期の江戸における都市計画の原点であり、その後連綿と江戸・東京と不即不離の関係を有してきた富士山の歴史的価値
文化性・・・・・・ 人々を絶えず魅了し続け、詩歌や絵画に数多く登場するように、愛着や表現、ひいては信仰心の対象としての富士山
自然景観・・・・・・ 万人に感動を与える自然景観としての美しさ
希少性・・・・・・ 都心部でこうした諸価値を担っている唯一の存在になっていること

最後に挙げた希少性については、さらに次の点に留意しておかなくてはならない。つまり日暮里の富士見坂は、現在の調査段階では“富士見坂”に限らず、都心部で地上から(直接に地面の上に立って)富士山が見える、唯一の場所になっている可能性が極めて高いことである。
 富士山は高層・超高層ビルからも見えるか、地面からの眺めとは次のように異なっている。
 即ち、建物は私的所有物であることが多く、気軽に立ち入ることはできない。これは公共的な建物であっても管理上の問題から同様の場合が多い。子供が遊ぴながら、或いは老人が散歩の折り、ふと立ち止まって眺め入ることが出来るような目常的なものとは、性質が異なる。
 また、エレベーターによって眺望点まで運ぱれるというプロセスは、地上から遠く切り離された感覚を与え、上っても窓のガラス等により遮蔽されるため、風や音は聞こえず、特定の場所に居るというよりは、どこに居るのか解らない不特定の抽象的な印象になりがちである。実際そこからの景色はよく似ている。
 さらに建物は、一定の時期が来て更新の際、敷地や用途、高さ等が大幅に変化する場含が殆どで、そこからの風景自体がそもそも永続性・恒常性を欠いている。つまり建物からの眺めは、根本的に地域に定着することはなく、どれほど時が経過しても、地域の入々に共有されるような日常的に安定した風景=原風景とはなり得ないのである。
 このような面を改めて認識すれぱ、東京が高密化するほど日暮里の富士見坂はいっそう貴重なものとして受け止められることになろう。


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