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「人間という名の細胞」 (おまけ Pert2)                2004.9.24



イエスと釈迦は超リアルな妄想の中で悪魔に出逢い、

そして悪魔からの誘惑を退け、欲望を捨てて普段の生活に戻った。

悪魔という名の試練を受けたことがない人にとって、

誘惑に打ち勝ち欲望を捨てたからといって
「一体何の役に立つのか?」

「なぜ、そんな経験を積んだことで聖なる人なのか?」
と、疑問に思うだろう。


その答えを探る鍵は、新約聖書と日本の昔話(おとぎ話)にある。

新約聖書の文章は比喩が多用されているが、

実は日本の昔話にも比喩で表現されている作品が実に多い。

ある昔話では、悪魔との遭遇体験をまったく別の話に作り替えた作品がある。

そんな代表的な昔話の1つが誰でも知っている
「おむすびころりん」


おむすびころりんの話は、正直者のおじいさんがネズミの穴に落ち、

宴の振る舞いを受け、帰り際に2つの宝箱を差し出される。

欲望の少ない正直者のおじいさんは、小さい方の宝箱を受け取ることにする。

選んだ小さな宝箱には金銀財宝が入っていた。

一方、その話を聞きつけた強欲で嘘つきな隣のおじいさんは

自らネズミの穴に落ち、そして宝物の選択では欲望むき出しに大きな宝箱を選ぶ。

欲にかられて選んだ大きな宝箱の中からは、宝物ではなくお化けが出てきた、

という話である。


この喩え話を僕的に解釈すると、
「暗い穴の中に落ちた」 という行動は、

心が荒廃している精神的な混乱状態を喩えで示していて、

聖書で言うところの
「荒れ野の地=精神が混乱している状態」 と同じ

精神状態を別の言葉で表現したものと考える。


ネズミは聖書で言うところの悪魔的存在であり、おじいさんは穴の中で

宴を振る舞われ、欲望をさんざん見せつけられる。

そして最後に究極の選択を迫られ、欲望を試されるのである。

この話は、新約聖書で僕が先に示した
「悪魔(欲望)の誘惑」 と同じ構図である。

欲望に打ち勝つと宝物が得られ、欲に溺れると恐怖という妄想に

苦しめられ続けるという、そんな結末の喩え話であると僕は考える。


昔話が精神世界での出来事を喩えとして表現している、と仮定しよう。

昔話には重要なアイテムとして、よく宝箱が登場する。

昔話が精神世界のお話だとすると、もちろん精神世界から持ち帰ってきた

宝箱は金銀財宝などではない。

その宝が何かというと、欲を捨てたことで見返りとして得られる宝物である。


それは精神世界での過酷な経験で得た人間の深層心理を知ることで

今まで見えなかったことが見えるようになる、人の心を心の目で見る


第三の目
と呼ばれる特殊な感性や感受性である。


人間の深層心理を理解することで

人は何のために行動するのか?

人は何のために生きているのか? 

人の一生とは何ぞや? などが見えてくる。

全ての思考を深層心理に照らし合わせた基準で物事が考えられるようになり、

人間の行動原理や心理・行動パターン、真理に基づいて物事を考えたり、

正しい判断を下すことが出来る
智慧(ちえ)と呼ばれる才能が開花する。


さらに、智慧を持つことで物事の善悪の見極めが行え、

結果として神話などを書いたり、演説などで真理を説いて人々を導いたり、

また、第三の目が開いた人のためにと、喩え話を使って後生に

メッセージを残すなどの古来から伝わる特別な意思伝達法などの

特別な能力が備わる。


また、個人や大衆の行動パターンや心理、社会情勢などの流れを読むことを

得意とするので、その能力を利用して名声を得ようとすることは、

普通の人より難しいことではないと考えられる。


だが、宝物を受け取るような人は、そもそも欲望が少なく、

名声などほしがらないため、あえて世に出ようはせず、

与えられた能力を他人の救済のために使おうとする方向に向かう。


さらに、欲望を試されたことが「残酷な天使のテーゼ」であると理解し、

さらにそれが神意であることを知ったならば、自ずと神の意志に従うようになる。

まさにそんな生き方こそが、かけがえのない 「人生の宝物」 なのである。




それでは欲望に打ち勝ち、第三の目が開き、神の真意を知ったイエスと釈迦は

どの様に考え、どのような行動を起こしたのだろう。


イエスと釈迦が活躍していた時代は二千年以上も前のことである。

その時代は物資的に恵まれず、科学や医学が発展しておらず、

過酷な生活や病気などに苦しみ、人間はとても弱い存在であった。

そんな厳しい環境の中でイエスと釈迦はまったく違う方法を選んだ、

と僕は考えている。


まず、釈迦の場合、苦しい現状を受け入れること、

欲望や執着を捨てることこそが幸せに生きていく最善の方法であると説き、

外の世界が変わるのを待つのではなく、自分の内(心)を変えなさい、と教えた。


釈迦が悟りで得た真理を人々に伝導した根本的な思想を推測すると

「苦しみとは、自分の気持ちが苦しいと思っているから苦しい。

 ほしいと思うからほしい。 苦しいと思わなくなるような、

 ほしいと思わなくなるような気持ちに自分を変えれば、全ての悩みが消える」


と言ったところであろうか。

何も望まない無我の境地が悟りであり、人々の苦難に対する心の痛みを和らげ、

人の心の内を1人ずつ変え、やがては社会全体の意識を変えて

世の中を良くしようと布教活動を行ったのが釈迦のとった行動であろう。

釈迦は、当時の厳しい生活環境にあって、即効性の現実的な対応を選択したのである。


そもそも仏教とは 「人を悟りに導くための教え」 であって、

現代仏教が行っているお葬式や法事でお経をあげたり、お寺やお墓を管理し

ランク付けされた高額な戒名料などで利益を上げて

立派なお寺を建て見栄えを競い、拝観料を取るのがお坊さんの本来の仕事ではない。


お坊さんは人を悟りに導く仕事をしたいと思っているのかも知れないが、

現実は悟りを開こうなどとお寺にやってくる人はいないのも事実だろう。

可哀想と言えば可哀想であるが、ある意味割り切っているのかも知れない。

もしかして、割り切ることを悟りだと勘違いしてたりして。

死者の弔いをするようになったのは江戸時代における幕府の政策的な背景が

関与してきたためであるが、地位と欲にすがる現代のお坊さんを見て、

お釈迦様はさぞやビックリし、大笑いしていることだろう。


一方、新約聖書のイエスの場合、当時のことよりも未来に目を向けていたと考えている。

イエスは、未来に向けた科学や医療の発展のために人間の欲望を利用した。

欲望こそが科学技術の発展を促す最大のエネルギーであることを悟っていた。


新約聖書の喩えを正確に解釈出来ずに、正義と悪という対立関係による

競争原理的な解釈を受け入れたことで、その原動力が社会の発展を促した。

そんな思想を受け入れたキリスト教を教義とした国は発展し、

物質的に豊かになり、医療や産業が発展した。


イエスの未来予想図には、いくら世の中が発展しても人間に欲望がある限り、

いずれ欲望の制御が出来なくなる時が来て、その欲望が抑えられないと

地球を壊滅させてしまうことも、最初から解っていたと思われる。


イエスの場合は、釈迦が行った1人1人の心(内の世界)を変えて

社会全体の意識を変えるという方法ではなく、

外の世界である社会全体を変える方法を選択し、未来の発展に託して

未来社会を豊かに変えようとしたのがイエス(聖書)の真意であると思われる。


第三の目が開いた人達にとっては、聖書に記されていることは

現代で解釈されている内容とはまったく違ったことが書いてあることに気付く。

そのことは、喩えで表現されている記述を解読することで理解できる。

そもそも聖書には、
なぜ喩えの表現が多用されているのか?

という大きな疑問がある。

科学の発展や、人を正しい方へと導くだけであれば、

解釈が困難な喩えでの表現などを使う必要はない。


その理由を僕なりに推測すると、未来予想図を描いていたイエスは、

科学が発展し、物質的に豊かになる地球の未来が来ることを信じ、

そんな未来で第三の目が開いた人のために喩えで表記し、

未来の智慧者が解読するよう聖書に託したのであろう。

それこそが、聖書に喩え話が多用されている最大の理由である、

と僕は考えている。


聖書には、キリスト(救世主)の再臨が預言されているが、

キリストの再臨とはイエスの意志を受け継いで、

聖書に記されている喩えの真実を解き明かす者こそが

キリストの復活の時である、と僕は考えている。

そして、その者は新約聖書の真実と、イエスの意志を明らかにすることで

聖書に記された敵の概念を一掃し、悪魔という呪縛を解き放ち、

人間による欲望でのこれ以上の破壊活動を止めるよう説くのであろう。


だが、しかし現実的に考えると、到底理解が得られそうもない聖書の

独自解釈をした者を、キリスト教会やクリスチャンがキリストの再臨として

認める可能性はまったくないと考えるのが妥当であろう。


しかし、それでも聖書に書かれている再臨の救世主は、時代と情勢を見据えながら、

今こそイエスの真意が叶っている時期だと判断したならば、

その時に第三の目が開いている者が地球と人類を守るために、

何時かは仕方なく名乗りを上げるのであろう、と僕は考えている。


その再臨の救世主が現れ認められる方法は、全ては神の経綸により行われ、

それこそ、「神のみぞ知る」と言ったところなのであろう。




続き → おまけエッセイ Part3 




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