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「人間という名の細胞」 (おまけ Pert3)                2004.9.28



欲望って一体何だろう?

人が生きている証として、どうしても欲望は必要なものだ。

欲望がなければ、食べることも、寝ることも、生きている意味もなくなる。

欲望がない状態は、即ち死を意味しているのだろう。


イエスにしろ、釈迦にしろ、超リアルな悪魔遭遇体験によって試され、

誘惑に負けずに欲望を振り切ったが、それでも欲望はある。

イエスや釈迦は 「欲望を捨てた」 とこれまでエッセイで書いてきたが、

もちろん全ての欲を捨てたわけではない。

そもそも、イエスや釈迦が本心から誓った、「世の中を平和に導こう」

という強い意志も、欲望以外の何ものでもない。


イエスや釈迦が捨てた欲望とは
「私利私欲」 である。

私利私欲とは、自分を中心に物事を捉える欲望で、

いわゆる自己中心的な考え方である。

イエスや釈迦を動かす欲望の根底には常に神が存在し、

そして神のために、人のためにと物事を考え行動を起こす。

私利私欲を捨てることで欲望の正体を知り、

「欲望とは何か?」 を理解することが真理であり、悟りなのであろう。


では、欲望の正体とは何だろう。

実は、欲というものは、いくら満たされても満足することが出来ないものなのである。

むしろ、満たされれば満たされるほど求める気持ちは強くなり、欲望は無限に広がり始め、

執着心に縛られ失うことを恐れる、という悪循環に陥る。

求めることこそ苦難と葛藤の元凶なのである。

だが、残念なことに、欲望に固執している人はガン細胞と同じで、

自分の心をどんどん蝕んでいることにまったく気付かないでいるのである。


欲を断ち切るには求めないことが最善の方法であるが、

人は生まれながらにして欲によって生きているものだから、

欲望を断ち切ることはとても難しいのも現実である。

欲望に蝕まれ何らかの問題を抱えている場合は、私利私欲の考え方や

行動を見直し改め、そして他人のために行動を起こすことが最善の解決である。




最後に、僕の考える神とは何か? をここに書き残して

このエッセイを終わりにしたいと思う。


皆さんが考えている、信じている神様とは、どのようなものでしょう。

神社でしょうか? 教会でしょうか? それとも寺院でしょうか?

僕の崇拝している神とは、実は形が無く、どこにでも存在していて、

しかも外と内とに2つある。


1つは外にある神で、それは 「宇宙」 である。

空、海、大地、生き物、時間、空間、地球、月、太陽、森羅万象(宇宙)が神である。

私たち人間が生まれ、日々暮らし、喜び、悲しみ、唄い、踊り、食べて、眠って、

競い合い、愛し合い、落ち込み、輝き、

全ては宇宙があるからこそ私たちが存在しているのであって、

宇宙という存在が神以外の何ものでもない、と僕は思っている。


もう一つの神は自分の心の中にあり、それは信仰心である。

宇宙が神であると理解しても、生きていることに感謝しなくては、

まったくもって宇宙は神にはなり得ない。

宇宙こそが神であると本当に理解すると、私たちは

宇宙に生かされている存在であることに気付く。

宇宙という外界と、信仰心という内面の意識の両方が揃って初めて、

神の真意を知ることが出来ると考えている。


この外と内の2つを神とする考え方は、日と月の関係に似ている。

太陽から地球を眺めると、地球は月になる。

太陽は輝き、地球に光を与え、太陽の月(地球)はその光を受けて

豊かな実りを育み、そしてそこには人間が暮らしている。


人間の住む地球から見て外にある太陽がなければ、

人間の存在はなかっただろう。

また、内である地球が最初からなかったら、

やはり人間の存在はなかっただろう。

太陽と月(地球)のどちらか1つが無かったら人間は存在していない。

与える側(太陽)と受ける側(地球)、外と内が揃って初めて

神を意識することが出来る。


そんな私たちは人間は、地球と太陽から惜しみない恵みを頂いている。

しかも神の恵みは休み無く、いつでも無償で与えてくれている。

だが、残念なことに人間は神(自然)の恵みに対する感謝の気持ちを忘れてしまった。

そんな神の望みはただ一つ。

人間に感謝の気持ちを持ってもらうことだけなのだろう。





イエス・キリストはクリスチャンから神の子と呼ばれるが、

当のイエスは何を神としていたのだろう? 

当然、「我こそは神」などとは思ってもいないだろう。

僕の推測では、イエスが信仰していた神も、僕と同じ宇宙だと思う。


その理由は実に単純で、イエスの思想の原点は旧約聖書にあり、

マタイの福音書に記されていることを僕なりに解釈すると、

新約聖書はモーセやノアの物語の思想を受け継いでいるからである。

旧約聖書は、創世記の天地創造から始まる。

旧約聖書には天と地を創造したのは 「神である」 と

一番最初に明記されており、天地創造とはもちろん宇宙の始まりである。

宇宙を神として信仰していたイエスは、未来の人のためにと己を犠牲にした。


そんなイエスの真意は、思想(聖書の概念)という形で現在も生き続けている。

ノアが950年生きたように、イエスは既に2000年以上を生きているのである。

だが、これまでの歴史を省みると、人々は欲望に満ちた解釈によって

聖書を振りかざし、とても悲しいことだがイエスは未だに苦難の道を歩み続け、

時には十字架に張り付けられているのである。

第三の目を開いた者が正しい解釈によりイエスを苦難から救う時が来て、

その解釈が世に認められた時こそがイエスの再臨であり、

そしてイエスが初めて本物の救世主として認められ、永遠に生き続けるのであろう。


釈迦の場合は、この世で生きていることに感謝の心を持つこと、

心の内の信仰心こそが神(神意)であり、その根底にはやはり宇宙という

この世の存在が欠かせないと考えられる。

イエスも、釈迦も、神である宇宙と地球を人間の欲望から守るために、

人を正しい方向へ導くという活動を今でも行っている、天からの使いなのであろう。


イエスと釈迦を動かす欲望の原動力。

それは、神が与えてくれた時間と空間に対する感謝の心と、

一切の見返りを求めない神へのお礼なのであろう。



エッセイ 「人間という名の細胞」     おわり  

最後までのご拝読、ありがとうございました。 琥珀





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