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「人間という名の細胞」 (おまけ)                    2004.9.18


ウソって何だろう?


そもそも人間以外の全ての動物はウソをつくことが出来ない。

もちろん、ウソをつく動物として特異的に変異してしまった人間も

本来はウソをついていなかったので、根本的にウソが嫌いな生き物である。

だから自分がウソをつくと、とても嫌な気分になる。


誰もいない状況なら大丈夫と、自分の心にウソをついて盗みを行えば、

とりあえず物欲は満足する。

そして、誰も見ていないから、盗んだり、誰も知らないからウソをついても

全然平気だと考える。

ところがである。 いつも必ず見ている人がいるのである。

実は、他人が見ていなくても、いつも自分が見ているのである。


自分の心にウソをつくような行為を繰り返していると、

当然、自分自身が信じられなくなる。

そんな人は他人も信じられなくなるので、この世がとても悪い世の中に写り、

自ら苦しい世界を作り出して暮らし、自ら不幸な人生を選んでいるのである。


ほとんどの人は知らないが、この世の中にはウソのない世界が存在している。

それはいわゆる、統合失調症と呼ばれる病的な妄想の世界で、

その世界での考え方は、自分が考えたこと全てが本当になってしまう。

病的な妄想の考え方には理性的な判断や常識が介在する余地が無く、

全て自分の都合に合わせて解釈し、理解したことは全て本当のことになり、

ウソであるという可能性を判断する余裕がない。


この統合失調症の発病率は1%で、100人のうち1人は発病する

発病率の高いポピュラーな病気である。

統合失調症の発症原因は今のところ解明されていないが、

普段何気なくウソをついていて平気な顔をしていても、

深層心理にある無意識の記憶の中にウソをついた時の葛藤の記憶が

蓄積されることが、この精神的混乱を引き起こす

ひとつの大きな要因ではないか、と僕は考えている。




話は一変するが、この世に現実に悪魔はいるだろうか?

実際に悪魔を見た人はいるだろうか?

もし、アナタが 「悪魔をこの目で見た」 とか 「天使と出逢った」

「私は神様だ」 などという発言をしたら、現代社会ではどのように思われるだろう。

現代の日本でその様な発言をしたら、たちまち統合失調症と診断されてしまう。


ところがである。

過去の偉人で、「悪魔に出逢い、悪魔からの誘惑を退いた」 ことを公言している

超有名な男を、僕が知っている限りでは2人いる。 

そんな戯言みたいな発言をしていても、その男達はとても信頼され

信仰の対象にさえなっている。

そう、その男達とは誰もが知っている
「イエス・キリスト」「釈迦」 である。


新約聖書に記されている 「マタイの福音書/荒れ野での試み」 には

「イエスは霊に導かれ荒れ野の地に行かれた。それは悪魔に

試みられるためであった」
と明記されている。

世界中でキリスト教や仏教を信仰する人はとても多い。

だが、新約聖書には 「イエスは悪魔と出逢った」 と確かに記されている。

また、釈迦の逸話にも 「悪魔と出逢って悟りを開いた」 と語り継がれている。


しかし、イエスや釈迦が実際に悪魔と出逢ったことは、

現代的な考え方では矛盾が生じる。

悪魔に出逢ったという事実に対し、現代的に考えられることは

 1.新約聖書や仏教の言い伝えがそもそもウソ?

 2.この世には本当に悪魔がいる?

 3.それとも悪魔とは、妄想で現れた超リアルな虚像?

の3つである。

他には、誰かが着ぐるみを着て現れた、とかのテレビ受けしそうなネタくらいだろう。


1と解釈した場合、キリスト教や仏教の信者は一体何を信じてきたのだろう、

という結果になり、社会的に受け入れられないだろう。


2の場合、この世に悪魔がいるとゆうことになるが、

そもそも聖なる書物が存在の解らない悪魔を引き合いに出すだろうか? 

霊として悪魔が存在しているとの考え方もあるが、新約聖書の中には

「敵を愛せ、迫害する者のために祈りなさい」 と記されている。

新約聖書での悪魔が霊的な存在の悪を示しているのなら、

新約聖書の「敵を愛せよ」の記述によると


「敵(悪)を愛し、悪魔のために祈りなさい」
とイエスが言っていることになり、

これでは矛盾が生じ、それこそイエスは、悪に導く悪魔の仲間的な存在

になってしまう。


3の解釈が現実的にあり得る、一番可能性の高い解釈であろう。

しかし、現代で 「悪魔に出逢った」 などと発言すると、

先述したとおり、現代では統合失調症として診断されてしまう。

しかし、二千年前はこんな体験を病気として扱っておらず、当然病名すらもなく、

ごく普通の人ととして、ごく普通の体験として扱われていたのだろう。

だが、このとおり解釈すると、現代では日本人の感覚でいうところの

「危ない人」 をキリスト教徒や仏教徒は頑なに信じ、そして信仰している、

ということになる。

そう、死んだときにお坊さんにお経をあげてもらう予定の、
アナタもである。


悪魔と出逢った事実とは何なのか? を僕なりに推測すると、

イエスや釈迦が出逢った悪魔とは、3番目の

「一時的な現実的な妄想体験で、悪魔と遭遇し試された」と

解釈するのが正しいと思う。

では、新約聖書の中で表現されている「悪魔」とは何であろう? 

そもそも、新約聖書の記述は喩えで書かれている記述がとても多く、

もちろん記されている悪魔も何らかの喩えであると解釈する。


そして、文面から推測すると、
悪魔とは 「欲望」 以外の何ものでもない。

荒れ野の地とは、荒れ果てた野原に行った訳ではなく、

「心が吹き荒れている荒廃している精神状態」を示している。

そんな精神状態にある中だからこそ妄想が出現し、

悪魔的な考えである、全てを支配したいという欲望が脳裏に現れ、

その誘惑を退けることにより、妄想の世界から脱出してくるのである。

すなわち、
自分の欲望を捨てることこそが神意であり、悟りなのである。

もしこの時、イエスや釈迦が悪魔の誘惑に負けて、世界を支配出来るという

欲望を受け取り悪魔に魂を売ったならば、今現在、聖人としての

イエスや釈迦は現代思想の中心として存在していなかっただろう。


すなわち、イエスや釈迦の悪魔に試みられたという体験とは、

現代でいうところの病的な妄想状態に一時的に陥り、

超現実的なウソのない妄想の世界で欲望を捨て、どんな欲望にも負けない

強い精神力を持った聖なる人、と僕は解釈した。


もし、アナタが新約聖書を読む機会があるのなら、一度 「悪魔」 という言葉を

「欲望」という言葉に置き換えて読んでもらうと、もしかしたら僕の解釈を

少しは納得してもらえるかも知れない。


統合失調症のウソのない世界への移行とは、

人間の心の原点に還るようなものであり、

そこはまさしくエデンの園のような神聖なる世界でもある。

ウソのない神聖な世界で欲望を捨て、ウソで汚れてしまった自分の心を省み

残酷な試練に打ち勝てば、その人はイエスの洗礼を受けたかのように

心が清められて現実の世界へと戻ってくる。

しかし、この世界で欲望という名の誘惑に負けてしまうと、

虚像の欲望で満たされながら永遠に暮らすことになる可能性もある。

普段からウソを平気でついていたり、欲望がとても強い人は、

いざという時に迷いが生じ、虚像の世界の住人になる可能性が高くなる。


そんなウソのない世界が存在することを知っている人は、

実はとても優しいを心を持ち、素直で、争い事が嫌いな人である場合が多い。

穏和な性格であるため、ストレスを他人に向けて発散することが出来ず

内にため込むため、その反動が大きくて

発病という形をとることになってしまうのであろう。

だが、言い換えれば、そんな人は神聖なる人格を備えていて、

そして神聖なる者として選ばれた人、であるとも言える。

その経験とは、一言で言うならば、それは「残酷な、天使のテーゼ」なのだから。




最後に、もし次の世があり、そこが心だけの世界であるのならば、

エデンの園のような神聖なる精神世界こそが次の世の様な場所なのであろう。

だとすると、この世での生命活動が終わり、

最後の審判で次の世を自らが選ぶのだとすれば、

欲望の強さと、ウソによる心の汚れ具合が査定の基準になるのかも知れない。

さて、アナタが次に暮らす世界とは、一体どんな場所なのでしょう?




続き → おまけエッセイ Part2





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