推敲についてのこだわり
推敲とは?
唐の詩人の故事が語源、その真髄は?
出典は『唐詩紀事(40)』。唐の詩人賈島(かとう)が「僧推月下門(僧は推す 月下の門)」の句を得たが、「推(おす)」を改めて「敲(たたく)」にしようかと迷って韓愈に問い、「敲」の字に決めたという故事(岩波書店『広辞苑』)。以来、詩文の字句、また文章を練ることの代名詞となり、国語の授業の中でこの故事を聞いた人も多いことでしょう。
ただここで見過ごされているのが、迷ったときに他の人の考えを聞いたということ。
私たちは、何か作品を書くというとき、もうこれでよいというところまで一人で四苦八苦するものだと思っていないでしょうか。人によっては、これは自分の文体、自分の独創だから、と、他の人の意見に対し、聞く耳を持たない場合さえあります。
しかし、どんな文章も芸術も、それが成立するのは受け取り手がいてのことです。特に印刷されて多くの人の目にとまるものであれば、独りよがりなものは困りものです。
推敲は、最初の読者との出会いの体験です。
そして、その相互的なやりとりの中で、思いや考えが十全にかつ適切に述べられるよう、文章を完成させていく作業です。
(昨今「傾聴」が大事といわれますが、編集者はいわば「傾読」のプロ。文章の完成度がアップするばかりでなく、考えが深まったり整理されたり、ご自身にも必ず発見があります。)
書き言葉と話し言葉
言葉は時代とともに変わるもの、されど……
話すときというのは通常、相手が目の前にいるので、聞き手に伝わる情報のうち「言葉」によるものは30%ほどだとか。表情、身振り、口調、声色など様々なものが、言葉を補っています。しばしば「論理」さえ、場の勢いや語順、ちょっとした単語の選び方で異なって伝わり、「黒を白と言い含める」事も成立してしまいます。同時にその場で訂正できるのも「話し言葉」ならではのこと。あまり「文章」にこだわる必要はありません。
これに対し、書き言葉の場合は全く事情が異なります。誰が、どんなときに、どんな気分で読むか、全くわかりません。話すときのような補助的な伝達手段がほとんどないと言って良いでしょう。ですから複雑なことを説明したり、微妙な思いや考えを的確に表現したりするのは大変難しいことです。
にもかかわらず、近年、小学校などの作文の時間に、「話すように書けば良い」という指導がまかり通ってきたため、書き言葉としての日本語の練習が、大変不足していると感じます。いわゆる明治時代の「言文一致」と「話し言葉と書き言葉」の「文章としての問題」が混同されたのでしょうか、どの国の言葉にもある書き言葉の特性が、日本語では大変軽んじられています。
(このような状況下、書き言葉を大切にしたいと考えて推敲舎を立ち上げました。)
書いた人の思いや考えが伝えたい相手にきちんと届くように、書き言葉の的確さと洗練を目指しています。