人類の新創世期へⅠ
~新たな文明の起源に向けて~ [2013年]
以下は、2012年12月~2013年10月 個人ブログとSNSに投稿した記事を抜粋再編成したものです。

<1> 「価値の移動」の原理の中で、無い筈の異質なものが生まれ殖え続けている
不均等な競争や不公正な損得の構図の中で、人々はせずに済む苦労を強いられている。公利に機能しない社会で、いったい誰が利を得ているか?
人々は世界金融資本が築いた市場原理の錬金術に取り込まれてきた。経済論者ばかりを千人集めたとて、人々がその呪縛から解かれる筈がない。


覇権・戦争・貧困、エネルギーや社会保障の問題、宗教の影響力さえも、そして財界・マスコミや政治・行政のスタンスの弊害も、全ての根っこはここにある。

世の理は難儀と疑わぬ者が本当に世の中を生き辛く面倒にしてしまう。
信奉それ自体は純粋でも、導く者なる存在がそれを怪しい形に変える。
とりまく世界は、ある種「邪教的」な空気に充ち満ちているかのよう。


為政者達のマッチポンプなコメディーも、その世界の中の話。

黒板に書かれた事だけをただ憶えれば上手く世渡りできて、少しでも疑問を抱いてしまったら不器用な「はみ出し者」に。
誰かにお膳立てされたカタログから選びさえすれば済み、生き方さえも多勢に倣うだけ。それは宗教的盲信に似ている。

そこに新たな創造はあるか、魂の喜びはあるか…

「銭」と「札」とは素性が違う。お札は清まらない。

紙のお金の正体は銀行屋に掴まされた借金証書。
保有原資とは無関係な数字だけのただの「お刷」。
利子のため成長の名で増やし続ける務を強いる。
(対個人・法人に限らず、政府に対しても同様)

※銀行屋=紙幣の発行権を持つ各国の中央銀行

巧みに奪われた「イメージする力」を取り戻そう。
彼らにとって不都合な真実として明かされる筈。

「徳」を捨てて「得」を拾うご時世では、
大壊劫と弥勒降臨も実にご都合解釈。

決して存在の否定などではなくて、
人類には別な選択肢もあるのに…

経済はモノによる支配、宗教は隔離を生んだ。
そんなものの奴隷になる以前に人類は生きてた。

ヒトが人間として生きてこられたのは、
「分かち合う」という智慧を持っていたから。

「生産なき富の獲得」や「根拠なき労働対価」、
それは他者からの搾取と独占に他ならない。

ただ生きる為だけでお金が要りすぎる現実。

毎度おカネ様で思考停止、夢が叶わんゾウ!
世の中「カネーじゃ」、ガネーシャお手上げ?

目に見え手で触れられるものだけが世の全てではないけど、
目の前にはっきりと見えるのに、手が届かないものもある。

底抜けに愉快で 限りなく優しく どこかしら切なく懐かしい…
それは微かで甘美な記憶の中、誰もが無垢な本能で辿る世界。

天界の絵姿の投影、それは「アクエリアスの憧憬」か。

この肉体という小宇宙の中に到達点はない。肉体宇宙をも包含する絶対的大宇宙そのものが帰還すべき場所であり、すべてのエネルギー源である。私たちは既にそこに在るのだが、肉体を超えたところにあるその意識は深い眠りについている。

かつて、その肉体の殻を破った時に知るであろう世界をいつもどこかで垣間見ていたような気がする。それは生命を感じることであり、絶対であり 永遠であり、美しい波動の衝撃でもあった。そこに秘められた「存在の本質」を覚えたのだ。

人がいつまでも成長を続ける子供のままではいられないように、
この社会もまた次に在るフェーズを受け入れなければならない。

調和ある進化のために、真に成熟した世が具現化されるべく…

護るべきものを見誤ってしまえば、
互いの心根を枯らし合う事となる。

手放す事は決して失う事ではなく、
偽りの価値にしがみつくは虚しい。

「創造」 は不確かなものから始まる。
「感動と共鳴」 の連鎖が未来を築く。

忘れて久しい情念は 再び得難くも、
恐れ忌避すべきは 「イメージの死」


<2> 健全な社会参加を望む誰もが自然に活かし合える全く新しい世の仕組みを
必然でない「よい知らせ」なぞ、いくら待っても来ない。
それが必然であるべきものと信じたくても…

あなたがそこに生きている事は事実だけれど、
あなたが見ているのは必ずしも真実ではない。
それに気付いた時に本当の現実は見えてくる。

皆が乞い願う神は幻想でも、疫病神や貧乏神は世に実在する。
人類を超えた救世主の出現を待つ愚かさこそ、奴等の思う壺。

アナタの人生はアナタのためにある。
ただ、世界はアナタだけのものじゃない。

人類最大かつ巧妙なフィクション、それは「市場経済社会」。
そこの住民を強いられる事で、僕らは現実を錯覚する。

しかしてやがて、祭りは終わる…

人知れず花咲くも、人知りて其に意を生ず。

学校は 「智慧」を授けてはくれないけれど、「現実」は見せてくれる。
それで 多くの人達は 「馬鹿見る正直者」にはならずに済むのかも…

それは 「本質」を学ぶ事とは違う。

住む世界の違う人からの同情や助言、それは「ありがた迷惑」でしかない。

(同じ境遇の者同士では、傷の舐め合いにしかならないけどね)

「成長」といえば 今は誰もが「経済」の事としか捉えない。
「有れば有ったで良い」と「無いと本当に困る」の曖昧さ…

「もっと多く・大きく・複雑に」だけが人類の進化なのか?

世界中が同じ問題で行き詰まってる。
もう進んでも解決しないと判ってる。
けど誰も歩き方を変えようとしない。

つまらない人間と淋しい大人にはなりたくなかった。
今は生きる事がただの苦痛としか思えない時がある。

既得権者の利害の天秤と環流無き税、
施し発想の社会制度は魂の翼を奪う。

人類は20世紀に思考停止しているか、
感動と創造を棄てる事は死に等しい。

「右肩上がり」前提の社会、それは破綻したフィクション。
「富の集中」構造はなおざりで、「富の再配分」はおざなり。

全てが「経済」でしか語られない。人間はひどく不自由だ。

過ぎし日の 虚しき想いは黄昏に 人を忘れし人の街かな
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by Yaman (imatsukui)