樂の音その1

樂の音その1



クラッシックの聴き方
05/1/13

新聞の書評の中にこんなのがあった。

「観客は一人ずつ椅子に縛り付けられ、ステージに向かった姿勢を強いられ、飲食はもちろん、しゃべっても立ち上がっても歩きまわっても眠ってもいけない、途中で拍手をしてもいけない、終わったら拍手をしなければいけないなどと、開いたままの目や耳に注ぎ込まれる芸術に黙って耐えている」(クラッシックの)コンサートってなんだ?
たとえば、
 「最近200年のヨーロッパ音楽の習慣にすぎない」音の構造や奏法が音楽のすべてと思われているのは何故?

そうなんだよね。それでも、私は、ノリの良いリズムなら身体のどこかが踊っているし、「あれ?ここ音が変?」と言うときには首を傾げるし、もちろん眠るときも多い。かつて娘が私の合唱を聞きに来てくれた時に、こう言ってくれたんだ。「贅沢な眠りができたよ」 チケット代を考えたら、確かにそのとおり。金額だけじゃぁなくて、心安らかに眠れるのなら、それが本当の「贅沢」かもしれないね。チケット代を払ったのなら、その席で何をしようが、自分の自由じゃないかな。音楽を邪魔しない限り。

それどころか、演奏者に応援を送ることもできる。昔はすごかったんだって。口笛吹いたり靴を踏み鳴らしたり、自分のひいきの歌手が出てきたらもちろん応援、で、そのライバルが出てきたらブーイングをして徹底的に演奏の邪魔をしたんだって。今は、皆さんマナーが良いようで、結構なことなのかもしれない。

そうなると、高橋さんの言うようにガマンするっきゃないという状態も困ったもんだね。私もね、この間、恋しい男を一目見たくてコンサートに行ったけど、動機が不純だったせいもあってやたら音がうるさくて、耳をふさいでいたけど我慢できずに、途中放棄しちゃった。もちろんマナーに気をつけて、曲間にそっと出たけどね。これも自腹を切っているからできる「自由」です。

合唱をしている人は気前が良いのか、経済的に優位な人が多いのか、チケットを売らずに配る人が多い。もらったチケットでは、途中で帰ったり、眠りこけたりはなかなかできないわね。それほどいい音楽でなくても、万来の拍手が起きるのも、そのせいかしら?それとも、音楽そのものがわかっていないから?

ひいらぎの前回の練習では「酔う」という言葉の講義があった。もっと音楽に酔いしれて歌いなさい、という指揮者からのメッセージらしい。うむ、、なるほど。確かに。「音の暴力」の演奏のどこがいやだったかというと、何の感情も伝わらなかったから。私が「スタバト」を歌った時、悲痛な叫び、激しい、深い、静かな怒り、痛切な祈りがここにあると思ったものだけれど、その片鱗さえも感じられなかった。意味のない音楽は、騒音に過ぎないとあらためて思ったものだ。

歌っている人の表情がいつも気になる。良く消化しているときには、リラックスして、豊かになる。輝いてすら見えるときがある。友だちが、歌っているときのりっちゃんが一番きれい、って言ってくれるとすごくうれしい。合唱団全体がそんな雰囲気の時は最高に楽しい。だから、合唱が止められないんだね。

聴くだけでなく、ぜひ演奏している人の表情を見てください。それだけで楽しくなっちゃう時もある。暖かい演奏、心の躍動する演奏を聴けると、「生きている」ことが実感できるよ。

クラッシック音楽って、上品なものとの印象ってない?上品でも良いんだけれど、お上品ではないよ。かしこまった音楽ではない。むしろ、その当時の人たちの情熱が身近に感じられる。特に3拍子のリズムでは、愛する人とのダンス、心の揺れ、酒場での喧騒たる雰囲気、仲間との会話、そして、神への祈り・・・これはまた今度書くね。長くなりそうだから・・・

1月16日に歌う「テ・デウム」これがまたいい曲なんだ。まったく違う音楽が一緒くたになっていてそれがまたぴったりはまっているとでも言うか。ドヴォちゃん、すてき!! 歌詞は宗教曲だから、ひたすら神を称えているだけなんだけどね。行間から、強烈に発光しているのは、人間賛歌だと思うよ。エネルギーにあふれている。合唱指揮者も「手ごたえあり」といっていたくらいだから。お聞き逃しのないように、ぜひ、聴きにいらしてください。んー天気の悪いのが気になるけど・・・

今日のお話は、聴く側だって、もっと自己表現しても良いんじゃないかい?歌う側はもっとだよという提言です。ではでは、またおしゃべりに付き合ってくださいな。






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