06.06.17(SAT) 小田代原から戦場ヶ原 日光


 ”日光の千手ヶ浜のクリンソウが丁度いいかもしれない”と、久し振りに明日は晴れそうな天気予報に、少し歩けるところを探していた妻が言う。クリンソウを見てから小田代原から戦場ヶ原のお馴染みのコースを歩けば、梅雨の鬱陶しさからも少しは開放されるかも知れない。ということで奥日光へ出かけることにした。


 コース:赤沼車庫10:10⇒千手ヶ浜10:50→クリンソウ群落11:05-11:25→千手ヶ浜11:30-12:10⇒小田代原12:30→泉門池13:10→赤沼車庫14:20 (所要時間4時間10分)   ⇒はバス乗車

 久し振りに晴れた土曜日とあって赤沼駐車場は一杯で入れない。バスの発着場は千手ヶ浜へ行く人で長蛇の列。車は石楠花橋入口付近の少し広い路側に置いて赤沼車庫まで歩く。バスは2台ずつ運行していてそれほど待たされなかった。ただし千手ヶ浜までギュウ詰めで立ちんぼ。
日光中禅寺湖 千手ヶ浜
暑くなく寒くなく虫もほとんど居ない、居心地のいいところでした。


 生活が不規則になって久し振りの早起きに少しボケていたのだろう、沼田ICにおりるつもりで赤城SAに飛び込んでしまい、ショックを受ける。あきれ返る妻の目が本気で心配している(ヤバイヨ、ホント)。国道120号はそれほど混んでいたわけではないが、片品村の分岐から尾瀬に入る車が多かった。
 金精峠から一気に下って奥日光に入るとさすがに人出が多いのが分かる。千手ヶ浜へ入る専用バスの発着場、赤沼車庫は乗る人で長蛇の列、駐車場も勿論一杯で入れない。石楠花橋入り口近くの路上に車を置いて赤沼バス停まで歩いて戻る。ここを歩くのは歩道もなく交通量が多く怖い。


 バスは超満員で2台一緒に出発。石楠花橋、小田代原(数人降りる人が居た)、西ノ湖入口(ここでも降りる人が居た。ただし帰りに乗るときは必ず千手ヶ浜から乗ってくださいと注意されていた。)に停車し、終点千手ヶ浜に着く。
 バス停近くにもクリンソウの小さな群落があったが、とにかく人の後について中禅寺湖の湖岸、千手ヶ浜に出る。千手ヶ浜は広々した湖面の向こうに男体山が聳え、緑の山々に囲まれた、車の喧騒から隔絶された別世界である。丁度立ち木観音の方から観光客を運んできた観光船が岸壁を離れる所で、デッキに並んだ中学生くらいの子供達が盛んに手を振っていた。
 湖岸の整備されたハイキングコースを5分ほど歩くと、開けた沢沿いの大木の森の中に、鹿よけネットに囲まれたクリンソウの群生地に着く。ネットは雰囲気を壊すが、広いし中に入れるので、クリンソウを楽しむ分にはさほど邪魔にはならない。バスの中で心配したほど人がごった返しているようなこともない。
 
千手ヶ浜のクリンソウ


 居心地のいい千手ヶ浜の湖畔でゆっくり食事をして、また満員のバスに押し込まれて、弓張峠の細い道に恐怖を感じながら小田代原へ。確かに千手ヶ浜で旗を立てたツアー客の大集団ともすれ違ったが、バスが着くごとに決まった人数の人を千手ヶ浜に運び込み、同時に運び出していれば、千手ヶ浜がそれほど人であふれることもない道理である。


小田代原のホサキシモツケの群落 泉門池付近の大木の森


 小田代原から泉門池経由で戦場ヶ原を湯川沿いに下り赤沼に戻る。先回、何時来たのか忘れたが、来る度に道は手入れされ変化してゆく。特に泉門池は変わった。明るくなり休憩するベンチは増え土留めは作られたが、被っていたベールは剥ぎ取られ、なぜか水位は下り、かって近づけなかった泉門に、好奇心に駆られた若者達が、苔むしていた岩を踏み石にして渡り、覗き込み、当たり前のように崖に作られた踏み跡を登ってハイキングコースに戻ってゆく。やがてここにも土留めが必要になるだろう。


湯川の流れ 戦場ヶ原のワタスゲ


 泉門池から赤沼の湯川沿いの道はさすがにハイカーが多くほぼ行列状態。歩く人の年代も限りなく幅が広いし国籍も多様である。釣り人も多い。昔ここで水に入ってルアーフィッシングをする人を最初に見たとき、なかなか絵になってると思ったものだ。しかし行く度に増え、最近はここで釣り人の姿を見ると何か不愉快になるから困ったものだ。流れる水も透明感が失われ濁っている。橋の上から魚の影を追う楽しみも奪われてしまった気がする。。


赤沼への分岐の休憩所の鹿 ズミも終わりやっと花に遇えた。


 なんだか老いぼれの愚痴ばかりになってしまった。そんなことはないよ。奥日光はスケールも大きいし懐も深い。ただ歩くだけでも梅雨の憂さも浮世の憂さもとんで行くし、多様な人たちが、多様な楽しみ方を、自分の価値観で楽しんで当然だ。今度マルバダケブキが咲いたらまた千手ヶ浜に行ってみよう。その時はもう少し人の少ない負荷のかかる道を歩こう。ハンゴウソウやキオンや、帰化植物で迷惑もの扱いのオオハンゴウソウが森の下を黄色一色に染め上げているかもしれない。


 帰りは道の駅、片品の「花咲の湯」に寄ってきた。温泉で汗を流して妻は生ビールでご機嫌、私は一口ご相伴だけ、夕食も済ませてしまい極楽を決め込む(妻が)。
 花咲の湯はシルクスクリーンの小暮真望さんのギャラリーがあって、たまに覗くのが楽しみだ。とても常人の感覚では付いていけそうもない、緻密な計算と精細さを、その道一筋に極めようとされているのだろう。絵を見るたびに恐れ入って帰ってくる。立派な芸術だと思うが、きり絵もそうだがどちらかと言えばこれはやはり職人技の世界に近いと言っていいのだろうか。

 先日盗作で芸術選奨を取り消された作家も、芸大を出でイタリアで長いこと模写で修行したと言うから、デッサンや彩色といった職人技では絶対的な自信(プライド)があったんだろうね、きっと。自分にないスギ氏の感覚的な世界にどこか惹かれたのが堕落の始まりかな、何か分かる気がするなあ。ルーブルには写真以前に傑出した職人技で描かれた絵が沢山並んでいるのに、写真以後は職人技は何となく評価が低いんだよね。そうりゃあそうだよ、職人技の評価が最も高い時に描かれたルーブルに掛けてある絵と比較されちゃうんだからね。それ以後アートは評価基準が曖昧になって混迷(飛躍?)している?。個性とか感覚とか屁理屈とかオリジナリティが尊重されている。だからそれ以後すべての画家がおよそ考えられることはやりつくしてきた。成功した印象派以後ピカソまでは何とかきた。さてその後どうする?。芸大を出てプロの芸術家としてカッコいい人生を夢見ている画家さんにとっては辛いだろうね。才能を評価されて更に訓練を積んだプロとしてのプライドは絶対でも、何をやっても先人の亜流の匂いを消すことが出来ない(消えるほど理解されないしね)。訓練が確かで職人技が出来ていれば開き直って居座っても、まあ通用するかも知れないけど、他人の絵をそっくり頂いちゃうのは駄目だよね。
 それにしても芸術選奨とか東郷美術館大賞、面目丸つぶれだね。「かって差し上げた賞にも責任がもてません。その責任とってやめます。」というのが潔いんだけど、きっと賞というのは芸術地獄で苦悶する画家さんを天国に引き上げる蜘蛛の糸なんだね。(画商さんには?)だから賞はどこか胡散臭いところがあったとしても必要なんだね。でも先に貰って天国に安らいで居る受賞者の名誉のためにも、それを信じている我々のためにもあまりぼろを出して欲しくないな。


 歩いて憂さ晴らしはいいけど、書いて憂さ晴らしは良くないね。そう言えば花咲の湯の外の物産品売り場で小さなツボミの付いたレンゲショウマを売っていた。一株400円、ほんとにあのレンゲショウマが家の庭にも咲くのかな。




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