02.03.20(WED) 王城山 吾妻
3/6日に行きそこなった王城山に再トライ。里山と言うにはやや険しいが林集落の人々にとっては昔から親しまれた山なのだろう。登山道も整備され3/6日に登った菅峰よりずっと安心して登れる山である。
コース:林集落[御塚]11:00→五合目[傘木]12:05→山頂12:50(昼食)→林集落[御塚]14:50 (所要時間3時間50分)
山頂直下の八合目中棚尾根から直登ルートと左に巻いて山頂に出るルートがあるが、より安全なはずの巻き道ルートは崩壊していた。
標準コースタイム 林集落から往復3時間25分
駐車場:集落内に置ける所はない。林の[御塚]の前庭を使わせてもらったが使って良いのかどうか確認はしていない。御塚の前の林道は拡幅工事中で路側に置いても邪魔にはならない広さはある。トイレはない。
4合目と5合目の間の尾根から見た王城山
王城山山頂 1123m
菅峰の尾根の向こうの浅間山
川原湯方向
林集落?
山頂と展望
王城山入り口の案内は目立つものが3箇所もあったので間違いようはないが、入り口を過ぎてすぐの三差路を”カタクリ祭り”の派手な看板に誘われて左に入ってしまったのが間違いで、左手の尾根まで登ったが王城山側へ向かいそうな道は無くやむなく引き返した。戻ってみると三差路の右側に目立たないが小ぶりな石板製の標識がちゃんとある。登る前に勉強するのはいいが予め勝手なイメージを作ってしまうとあるものも見えない。不注意であった(大反省)。あとは間違いようのない一本道である。
石板製の標識は各合目ごとに設置されていて五合目傘木、六合目炮碌岩、七合目船窪といったそれぞれの特徴を現す名前が付いている。修験道のような山岳信仰に基く大迎な名前はおなじみだが、いかにも里山らしい、いい名前が残っていることが、この山と地元の人達との関係を表しているように思う。。
ちなみに炮碌とは割れやすい素焼きの土鍋や皿のようなもののことだそうで、その場所にはそのような色をした岩脈の露頭が有る。炮碌は昔は一般的な庶民の生活雑器として使われ、炮碌岩と言うだけでその場所が鮮明にイメージできた時代があったのだろう。
この時期こんなマイナーな山(ごめんなさい)に登る人は誰も居ないと決め込んで登っていたら、何と八合目の中棚尾根で休憩している15〜6人の団体さんに追着いた。ビックリですねえ、もう。男女ほぼ同数で珍しく年齢的にもバラエティのある人達である。挨拶をして恐る恐る端っこで休んでいた人に何処から来たのか聞いてみると池袋某デパートの山岳部とのことであった。四万周辺なんかも良く歩くとのこと。ご苦労さまです。べた雪の菅峰と違って南向きの王城山に雪は無かった。
七合目・船窪の標識
林集落の東端に「御塚」と言う塚があり長野原町の指定文化財である事を示す高札が立っている。この高札の内容は私のようなよそ者で郷土史を知らない者には理解できない。この塚が浦野家二代目の次男村信の墓で、それを沼田城主真田伊賀守が命じて造らせたと書かれている。浦野家は武田信玄から吾妻と倉渕の所領を受けているから武田家滅亡後は真田の庇護を受けていたと言うことだろうか。
「御塚」の裾の浦野家の墓石の前の福寿草の花、兵どもが夢のあと。