じゅんじろう 歴史資料館

ここではじゅんじろうの歴史や資料等を展示しています。
この歴史は常に増えつづけます。


:HABA−HABA時代:

1996年 4月
【出会い】
豊田潤二郎 東洋大学へ入学。
軟式野球サークル《LEGENDS》に入る。
そこに先輩として在籍していた現在の相方 岩崎逸人と出会う。
ここからコンビ結成までの2年間はサークルの先輩後輩として過ごす。



1998年 3月
【あほう】
豊田潤二郎、3年へ進級失敗、留年・・・。

4月
【結成】
コンビ結成。しかしこの時のコンビ名は読み方はハバハバだが、
綴りは元々の意味の《hubba-hubba》だった。
コンビ結成直後ネタ見せに行き、
渋谷にある吉本の劇場《渋谷公園通り劇場》の
”渋谷新人計画ビッグバン”というライブに出演することになる。
(この時はまだフリーの芸人。)

4月7日
【初舞台】
hubba-hubba初舞台。合格。
当時のHABA-HABAはブラックネタを好み、
この時のネタも、神戸の首切り事件の犯人の酒鬼薔薇(さかきばら)が
タレントになって活躍していく・・・というネタでした。
渋谷新人計画【ビッグバン】時代。
5月
【改名】
コンビ名が正しく読まれにくい事からローマ字で
現在の《HABA-HABA》に改名。

9月
【トントン拍子】
ゴングショー形式で5週勝ち抜くと上のライブに行けるというこのライブで、
トントンと早いペースで合格し、4週勝ちぬく。

10月
【解散】
5週勝ち抜きのかかった出演日に
岩崎(当時4年生)の野球サークル最後の合宿がカブる。
豊田の期待を裏切り、岩崎サークルの方に行くと言い出す。
この不参加だった出演日を最後に 渋谷公園通り劇場の閉鎖決定。
と同時に4週勝ち抜き意味なし・・・。

さらに岩崎とのお笑いの世界への意気込みの違いを感じ
HABA-HABAは無期限活動休止に。ほとんど解散。
(この活動停止理由は今も相方は知らないだろう・・・。)

【HABA-HABA、わずか半年の命・・・】


2000年 4月
【再結成】
お笑いへの未練捨てきれず 1年半ぶりにHABA-HABA活動再開。
(この時すでに岩崎は大学卒業に失敗し大学を中退している)

無名のライブやLamama新人コント大会に出演したり
ネタ見せに行くが、依然事務所所属はしない。
所属にあまり興味がない。
(この時点でHABA−HABAが客前の舞台に立ったのは結成以来わずか10数回。)


9月
【TV】
TBSのTOKIOの番組【ガチンコ!】の
《ガチンコ漫才道》という企画に一般視聴者として応募。
オーディションを経て塾生に選ばれる。


12月
【出会い2】
ガチンコ漫才道終了。決勝大会のあとの打ち上げの席で
大阪吉本の人(某超有名芸人の元マネージャー)と席が隣になり、
事務所に所属してない事を伝えると
『もし、吉本に入る気があれば連絡して』と名刺をもらう。

しかし、連絡せず。

2001年4月
【フリーの限界・・・】
マイナーなライブに出たり、Lamama新人コント大会などに出演。
同時にフリーでの活動の難しさを感じ、事務所所属のためのネタ見せにも参加。
しかし、漫才ではなくコントを期待する事務所の多さにウンザリ。

5月
【吉本】
結局、東京で漫才を喜んでくれる事務所は吉本で、
漫才をやりたいHABA−HABAには吉本が合うんじゃないかと
吉本での活動を決意。連絡を取る。
すぐに、東京吉本の人を紹介してもらいネタ見せ。
事務所が吉本に決まる。

6月
【不安】
新宿の”ルミネtheよしもと”の【5じ6じ】というライブの
”5じからバトル”というコーナーに出演。
このコーナーはゴングショー形式で5週勝ち抜くと・・・
ん?どっかで聞いたシステム。
そう、4週まで行ったあの”ビッグバン”と同じシステム。
まさか、また4週で相方が合宿に行くと言い出して、
活動停止に・・・。豊田に不安がよぎる。

8月
【苦悩】
ここまで一度も合格していない。
豊田、1分間で漫才をするという難しさに苦悩と怒りの日々・・・。

9月
【小樽】
一度も合格しないまま丸1ヶ月間北海道小樽へ出張(?)

10月
【合格】
帰ってから初の合格。

12月
【リーチ】
4週目勝ち抜き。

2002年1月31日
【ネタ組】
5週目チャレンジの日。
相方は合宿ではなくルミネにいた・・・
『合格』
ネタ組へ上がる。



2004年1月16日

【終止符】
HABA-HABA
解散。


2006年1月
豊田潤二郎小説家へ転向


秘密の小部屋

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