fujiyanの添書き:「チェルシー」は「サンタ」像の発祥地 ニューヨークの「クリスマス」と言えば、ロックフェラー・センターのクリスマス・ツリーが有名ですね。今回の添書きでは、そのクリスマス・ツリーよりも、恐らく日本人になじみの深いキャラクターが、NY「チェルシー」が発祥であることをご案内したいと思います。 「クリスマス」といえば、「サンタ・クロース」。 その「イメージ像」は「チェルシー」で19世紀前半に誕生しました。 <「サンタ」のイメージが、「クレメント・ムーア」の詩に登場> 散歩本文でご紹介したように、「チェルシー」の大地主であり、それを本格的に住宅開発したのは、 「クレメント・クラーク・ムーア」(Clement Clark Moore 1779-1863)です。彼は神学者そして文筆家でして、その子供たちのために、オランダの伝承とそのお祭りを元として詠んだ、「聖ニコラスの来訪」(A Visit from St. Nicholas)という詩が、1823年12月に新聞に掲載されました。 (注:作者は、別人、あるいは、オランダ語からムーアが英語に翻訳したという説も。) その詩「聖ニコラスの来訪」の全文と、fujiyanによる拙訳を、こちらをクリックして別ページでご覧いただけます。詩の中で「聖ニコラス」は、 ・八頭の「トナカイ」が牽くソリで空を飛び、 ・屋根の上に到着し、「煙突」から屋内へ侵入(?)、 ・毛皮ですっぽり包まれた「太った」体型を持ち、 ・雪のように白いヒゲをたくわえ、パイプを咥え、 ・「背負った包み」から「おもちゃ」を出して「靴下」に詰め込む、 と、描写されていますね。 「聖ニコラス」は英語で「セント・ニコラス」。オランダ語では「シンタ・クラース」。 オランダ語の「シンタ・クラース」が、英語で訛って、「サンタ・クロース」。 そうです、クリスマス・イブの夜にプレゼントを配る「サンタさん」のイメージは、ムーアの詩で全米に広まることになりました。従いまして、ムーアが居住した「チェルシー」は、現在の「サンタさん」の「イメージ像」の発祥の地でもあり、それは時代を経て日本にも渡来したことになりますね。 実際の「聖ニコラス」(270-343)ですが、裕福な家に生まれ、その財産で多くの恵まれない人々に施しを行ってきたそうです。近所の貧しい靴職人の娘である三姉妹一人一人が結婚式をあげるたびにに、夜更けにこっそりと費用援助をその家に放り込んでいったことが、現在の「サンタ・クロース」に通じるものがあったとか。 ちなみに彼は、325年の「ニケア公会議」で、キリストは、「父」たる「神」であり、「子」である「キリスト」であり、そして「精霊」である、という、「三位一体」(トリニティ Trinity)を確立するために奔走した一人であり、キリスト教の教義基盤確立に非常に多大に貢献した、というわけですね。 「聖ニコラスの日」は12月6日。オランダ、そしてその周辺の国々ではその日に子供たちにプレゼントを贈る習慣があったそうで、ニューヨークのオランダ系の人々がお祝いしていました。ちなみに、現在でも欧州の一部の地域では、12月6日にプレゼントをする習慣が残っているとか。 <「サンタ」のイメージは、「南北戦争」でデビュー?> さてムーアの詩に、「文章」で述べられたサンタの「イメージ像」ですが、それを元に様々な絵、イラストが描かれました。しかし、サンタの、最も権威ある?「ビジュアル・イメージ」は、実は「南北戦争」中(1861-65)にNYから登場したんです。 NYの雑誌「ハーパーズ・ウィークリー」(Harper's Weekly)が南北戦争中の1863年1月3日号で、「軍キャンプでのサンタ・クロース」(Santa Claus in Camp)と題したイラストを掲載しました。「ハーパーズ・ウィークリー」は共和党=リンカーン大統領シンパであり、当然ながら北軍支持。 サンタ・クロースが、駐屯中の「北軍」の兵士たちを「慰問」に訪れ、プレゼントを配るという図。右の画像がそれで、画面右手に腰掛けているのがサンタ・クロースですね。クリックすると大きな画像(約1Mバイト)がご覧いただけますが、fujiyanにはヒゲをわくわえた、小太りの小さなおじいさん、としか見えません(苦笑)。 イラストの作者は、共和党支持者の風刺漫画家「トーマス・ナスト」(Thomas Nast)。彼は南北戦争後、民主党シンパの政治マシーン「タマニー協会」の「ウィリアム・”ボス”・ツィード」の不正を風刺漫画で暴き痛烈に批判、その失脚のきっかけを作った一人でもあります。詳しくは「アイルランド系移民とタマニー協会」をご参照ください。 さて一方でナストは、南北戦争後も「ハーパーズ・ウィークリー」誌上でサンタ・クロースを度々描き、好評を得ました。 左の画像は、「Merry Old Santa Claus」と題した1881年1月のイラスト。右は「caught」という題のイラストです。日本語では、「捕まえた」、というところでしょうか?1881年12月掲載。 他のイラストレーターも、サンタ・クロースの絵を書いていたようですが、こうしてナストの描く「イメージ像」が、広く世間に受け入れられていったようです。 さて、サンタ・クロースの衣服の「色」ですが、現在では「赤」となっていますね。しかし、ナストのイラストは掲載当時には「モノクロ」。上述の「クレメント・ムーア」の詩でも、衣服の色は述べられていません。他のイラストレーターのカラー作品でも、青、赤、などなど色とりどりだったようです。で、「赤」と決定?した理由ですが、これまたナストのイラストが発祥のようです。 ナストの、サンタ・クロースを含む過去に発表されたクリスマスのイラストを、一冊の本にまとめた「Thomas Nast's CHIRISTMAS DRAWINGS」(「トーマス・ナストのクリスマス画集」というところでしょうか?)が、1890年に出版されました。その画集内のイラストは66点で、カラーは6点。 上に掲載した1881年1月「Merry Old Santa Claus」は着色されて、右の画像のように表紙になりました。ご覧の通り服の色は「赤」。現在のイメージのような、極彩色の「赤」ではなく、「ワインレッド」ですが、これでサンタ・クロースの衣服は「赤」であることになったようです。 ちなみに、「サンタ・クロース」のモデルである「聖ニコラス」は、現在で言うカソリックの「司祭」でした。「司祭」の服は、季節、時期に応じて使い分けるのだそうですが、聖霊(「三位一体」としては死後のキリストでもあるわけですが)が弟子達に「降臨」した時期には赤い服を着る慣わしなので、サンタの服の色は「赤」で適切、とも考えられているようですね。 <サンタのイメージは人間的に-「コカコーラ」の広告> トーマス・ナストの描くサンタは小柄な「妖精」のイメージ。変な言い方ですが「人間離れ」してますよね。それが現在の、等身大というか、やや大柄な「人間的」なイメージにしたのは、清涼飲料水会社「コカコーラ」でした。ここからは非常に有名な話ですし、サンタのイメージ像作成の歴史はここでNYを離れますので、以下簡略に(笑)。 「コカコーラ」社はクリスマス・シーズンの宣伝として、1920年代に、サンタを「イメージ・キャラクター」として使用しましたが、これはトーマス・ナストの「妖精」風スタイルを継承していました。 1930年にも「コカコーラ」はサンタを起用しましたが、若干人間的なイメージが混入したところ好評。 で、翌1931年、シカゴのイラストレーター、ハッドン・サンドブロム(Haddon Sundblom)に、さらに人間的なサンタ像を描くように依頼しました。彼が生み出したサンタのビジュアル・イメージが大好評になります。サンドブロムはその後35年に渡り描き続け、コカコーラの世界進出とともに全世界に彼のサンタ像が広がりました。 さて現在の日本では、「サンタ・クロース」は北極に住んでいる、おじいさんということになっており、「聖ニコラス」とは独立した「生い立ち」になっていますが、これは北欧に伝わる、「サンタ・クロース」と似たエピソードを持つ民話、神話を、おそらく20世紀前半に、アメリカ生まれの「サンタ・クロース」像と「合体」したのだそうです。 こうして現在の「サンタ」は、「ビジュアル・イメージ」は「アメリカ」産、その「エピソード」は「アメリカ」産と「北欧」産の合同、という「キャラクター」となり、現在に至っているというわけですね。 本文中でもご紹介しましたが、クレメント・クラーク・ムーアの詩、
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