2005年に観た映画です

作品名 ポイント
アメノナカノ青空 見習いカメラマンと女子高生。そして女子高生の母。

見習いカメラマンを演じるキム・レウォンが自然なのだ。
イケメンでなく、いい加減だけれど適度に好青年。
この普通さが大事なのだ。態度も良くて、イケメンがこんなことをしたら、胡散臭くて誰もが信用しないだろう。
最初の出会いもいい加減だが、なんとなく優しい。そして最後に嘘が分かった時点で、見ている人は誰もいい加減な彼を恨まず、皆温かい涙を流したくなるだろう。
これも総て演じるキム・レウォンが適度に好青年なせいだ。

キム・レウォンの事は「どこかぴっりっとしない顔だ」と思っていたが、こののんびりした感じがこの映画にぴったりだった。ちょっとだけ見直す。

原題の...ingも映画の雰囲気を表わしていていいタイトルなのに、ちょっと残念だ。
SAYURI 貧しさ故漁村から花街に売られる千代。少女千代から芸者さゆりとなり、運命の男会長と、一途な男延さんの愛情を受けるが、戦争という時代の波に飲み込まれるさゆり。どうするさゆり・・・
「100字以下で映画の説明をせよ」と言われたらこんな風に紹介できるファンタジー映画だと思うのだが、見ている間中「これはどんな風に楽しむのか?」「これは果たして・・・」などと色々な疑問が浮かぶ映画だった。

前半の初桃演じるコン・リー対豆葉演じるミシェル・ヨーは、色っぽい、艶っぽいというより、どうみても極道の姐さん対決にしか見えず、思わず男らしいという形容詞をおくりたいような迫力があった。
千代がさゆりとなり、チャン・ツィイーがさゆりを演じる後半部分は「オオーJAPAN」という形容詞を送りたいような、欧米人が思い浮かべる亜細亜浪漫満載の場面が次々と繰り広げられるのでびっくりしてしまった。

チャン・ツィイーが傘を持ち雪が舞う中踊る場面では、辻村ジュサブローの人形劇を思い出してしまったり、お披露目が無事成功し皆の喝采を浴びる場面では@アジエンスのCMソングが流れるのではないかと思った私に、この映画の感想を語る資格はないのかもしれない。

ただ観客の殆どが、芸者遊びの演目のなかに混浴で温泉を楽しむなどということがあるのかと、疑問を感じたのではないか?
まぁこの映画が正しい時代考証に基づいていない映画なことは、十分承知だが、それでも結構「あらあら」と思ってしまう場面が多数あり。あらあらとおもいながらも結構笑ってしまったので、そういう意味では結構楽しく見ることは出来た。

最後のナレーションにも結構笑ってしまった。
「男の愛を手に入れても、それは男の2分の1。(多分奥さんがいるからということなのだろう)それが芸者の宿命なのです・・・」こんな意味のナレーションが流れるのだが、確かに欧米の男性から見たらこんなに夢のような出来事はファンタジーに違いないのだろう。多分。

チャン・ツィイーがとても綺麗に撮られているのに比べ、工藤夕貴のかぼちゃぶりが非常にかわいそうだった。(相撲の場面で舞の海が出演しているのに驚く。決め手ははたきこみだ)
ブレイキング・ニュース 非常に男らしい映画なのに、主役がケリー・チャンというのが何とも不思議な映画だ。ケリー・チャンが常に眉をひそめ、冷静ながらもキンキンとした声で喋るちょっと癇に障る現場指揮官なのを不満に思いつつも、誰も止められないという不甲斐無い一面を持った映画でもある。

CID(重犯罪特捜班)の警官二人がアパートの中で犯人グループと対立する現場の場面、ケリー・チャンが離れたところで事件をショーに仕立て上げようと画策する場面、この二つの場面が交互に映し出される映像は飽きることがない。逆に現場でのやり取りの緊張感や、台風の目に入り込んだかのような一瞬心和む場面などが逆に際立つことになったと思う。
ケリー・チャンが2時間弱眉間に皺を寄せていたのも無駄でなかったと思う。
リッチー・レン演じる銀行強盗のリーダーとアパートに逃げ込んでいた殺し屋との、薄っすらと友情を感じさせるやり取りの描き方も面白かった。

まるで香港版「踊る大捜査線」というキャッチフレーズだが、あれと比べるとは、ちょっとこの映画に失礼だろう。
ビック・スウィンドル! 最近の映画は無料のチラシに随分手の込んだものが多いが、この映画もその一つで、A6サイズの折りたたみ式のチラシには、登場人物相関図、役柄、クライムサスペンスをめぐる12のポイントなどを簡単に図解でしてしていて、なかなか手の込んだつくりになっている。

原題が@犯罪の再構成というように、映画の後半、何気ない一言を手がかりに映画が再構成されるのは当然だし、裏切りと復讐、変装が重要なキーワードになるストーリーも面白い。
前半部分、パク・シニャン演じる詐欺師が投資詐欺の第一人者キム先生と組もうとする導入部分もかなり自然だった。
ここが成功しているからこそ、最後まで見ることが出来るのだが、残念ながらパク・シニャンを魅力を堪能するにはいたらず。パク・シニャンの中に男の色気などを感じることが出来る人は、この映画を私より1.5倍は楽しんでいることだろう。
5人の詐欺師の話で、それぞれ演技が上手いのはわかるが、なんとなく画面に華が足りないような気がしたのだが、(ファムファタールとしてのヨム・ジョンアも少し弱いような気がした。箪笥のときの方がおどろおどろしく妖艶な感じがしたのだが・・・)私の単純な嗜好の問題だけだろう。

そんな個人的な趣味嗜好の部分を除けば、裏切りと復讐が混ざり合う罠は、なかなか面白いかもしれない。
トンケの蒼い空 喧嘩は強いくせに何故か真っ直ぐ立つことが出来ず、どこかいつもふらふらしている若者チョルミン。高校も中退し、父親のポケットから小銭をくすめ、母親のいない男所帯で家事を暇つぶしのようにしながら、毎日をなんとなく過ごしている。

このチョルミン、情け無い奴だけれど父親に友人の父親を助けるようにかけあったりする仲間思いなところもあり。本当にほんのちょっとだけれど・・・そのちょっとの良さだけで最後まで話をつなげようとするのに、ちょっと無理も感じるが、父親役のチャ・イックンもなかなか味のある警官そして父親なので、だれることなく見ることが出来た。

いい男代表のように考えられているチョン・ウソンのはずなのに、この映画ではとうとう最後まで緑色のジャージを着、ずるずると歩く姿しか見せない。
何故見た目のいい俳優は、皆一度は自分の容貌を否定して演技だけで勝負したいものなのか?見た目の良さも立派な実力のはずなのに、なんと勿体ないことをと思う。
でもこの情け無い男を美男子チョン・ウソンがやるからこそ、映画を2時間楽しむことが出来るというのも事実で、なかなかそのあたりの匙加減は難しいのだろう。

チョン・ウソンが結局最後まで訛り全開で(テグと釜山の中間地点という設定だから釜山訛りと思っていのだろうか?)、あっちへふらふらこっちへふらふらしている。똥개(トンケ)というあだ名を字幕では野良犬と訳していたが、똥(トン)は糞という意味だからもっと泥臭い呼び名なのだろう。確かに똥개らしく最後まで真っ直ぐ歩くことはないのだ。
チョン・ウソンの格好良さを期待し過ぎるとがっかりするかもしれないが、家族ドラマとしてみるなら、結構楽しめるかもしれない。

監督のクァク・キョンテクは今イ・ジョンジェとチャン・ドンゴンが出演している台風の監督だ。チョン・ウソンの野良犬ぶりを見て、二人の男優の演技も楽しみになってきた。
同じ月をみている 「エミという一人の女性を守りたい」思いは同じはずなのに、全く別の方法でその思いを貫こうとする鉄矢とドン。

物語の主人公は窪塚洋介演じる鉄矢であるが、物語をひっぱっていくのは、エディソン・チャン演じるドンの心に秘めた思いだ。
物質的に恵まれなかったドンは、悲しみや怒りを抑えつつ、いつも一歩引いて行動しているようだが、結局は自分が出来ることをやり抜こうとする。その思いがこの物語の総てだ。

人は生まれながらにして平等だというのは嘘だと思う。背の低い人間もいれば運動神経の悪い人間もいる。お金に恵まれた家庭に育つものもいれば、貧しい家に育ち満足な教育も受けられないものもいる。お金があっても幸せを感じられない者もいるだろうし、お金が無くても毎日楽しく過ごせる者もいる。皆それぞれ環境も違えば考え方も違う。人は平等などではない。
それを分かった上で、平等でありたいと思う気持ちを持つことが大事なのだと思う。自分に出来ることを、自分のやり方でやり抜こうとするその気持ちや行動は誰にも邪魔されてはいけないはずだ。
香港人のエディソン・チャンにとって、ドンを演じることは、台詞も少なく(それゆえに言葉の問題に気をとられることも少ない)短く刈り込んだ頭髪、くたびれたTシャツ姿とかなり挑戦的な役柄だったと思う。
今まで見た香港映画の中の彼は、なんとなくふわふわした感じで好感が持てなったのだが、先日見たベルベット・レイン、そしてこの@同じ月を見ているとチャレンジ精神が旺盛なのは良くわかった。
彼についてなんの予備知識もなく、この映画を見たなら、もっと絶賛したかもしれない。残念ながら今までの映画の印象からマイナス地点からの出発で非常に彼には分が悪い。それでもかなり頑張ったという気持ちを感じたことは確かだ。

あと忘れてはいけないのは、山本太郎の存在だろう。唐突に出てきたように思ったのだが、いい役だった。窪塚洋介より印象的だったかもしれない。
スリータイムズ 1966年の高雄、1911年の遊郭、2005年の台北 3つの時代、3つの土地を描いたオムニバス映画。

物語としては、理想と現実の狭間で揺れ、結局は自分の愛する女を救えない、辮髪姿の凛々しいチャン・チェンを見ることが出来る1911年の部分が面白かった。
チャン・チェンが遊郭を訪れる度、スー・チー演じる芸妓がお湯でチャン・チェンの手を洗う姿が何度も何度も映し出される。外の世界を切り離すようなその行為が、妾として受け入れてもらうことの出来ない芸妓に許される数少ない行為の一つなのだろう。(遊郭が舞台ではあるが、直接的な場面は一つもなく唯一愛情を感じられ場面だった。)凛々しくありながらも、女性一人も救えないチャン・チェンの愚かさが感じられ、この1911年はなかなか面白かったと思う。

2005年の部分は、病弱なヒロインのせいもあるだろうが、健康的な感じが一つもせず、見ている側まで疲れ、傷つく必要があるのではと思うような展開でちょっと疲れる。確かにこれを最初に見せられたら、2時間という上映時間中ずっとどこか疲れた気持ちで過ごさなくてはいけなかったかもしれない。これを最後にするというのは賢明な選択だったと思う。
この2005年のヒロインが癒される日がくるのか(否 本人に癒される気があるのかも不明だが・・・)分からないが、無理に明るさなどを求めようとしないのも、それはそれで潔いと思う。

上映後に監督候考賢(ホウ・シャオシェン)の話が聞けたのだが、映画製作にはお金の苦労とストレスが付き物らしいことが良くわかる。
2005年のバージョンは、主演のスー・チーとチャン・チェンの息が合わず(話の内容も重苦しかったせいもあるのだろう)時間もお金もかかったこと。
1911年のバージョンは12日間で撮影したが、台詞回しの問題で結局サイレントになったこと、1966年のバージョンは撮影監督リー・ピンピンのスケジュールの関係で6日間で撮り上げたことなどを、企画が通らずお金が集められなかったことと一緒に語っていたが、ハリウッドの大作以外は、皆こんなお金と時間に関する苦労話が尽きないのだろう。

それが本当に最高の時だったというより、思い出の中にあるからこそ美しい。
上映後、観客からの質問に答える場面でこんな風な言葉を使って、最好的時光のことを説明していたのが印象的だった。
パープル・バタフライ しつこいくらいに雨の降る1930年の上海が舞台の映画だ。
日本の支配下になろうとしている中国で出会う日本人の男と中国人の女性。時代の大きな流れが、自分たちの気持ちだけでは行動出来ない二人の選択肢をどんどん狭め、一つの流れがどんどん違う大きな流れを作っていく。
そしてそんな時代の流れなど一つも関係なかったはずの男性も、ただ上着を間違えてしまった、ただそれだけのことで自分の意思とは関係なしに大きな時代の流れに飲まれていってしまう。
日本人の男伊丹と中国人女性シンシアは満州で会った時も、そして上海で再会した後も口数は少ない。思いのたけを沢山の言葉で語るわけでもなく、街中で二人歩く時も手を絡めるわけでもなし、視線を合わせるわけでもない。そんな二人の雰囲気に見ている側も誰が何を企み、そしてどんな風に時代の波に飲まれていくのか次第に分からなくなってくるのだ。

特に仲村トオル演じる伊丹の気持ちがなかなかつかみどころがない。時代の流れに逆らうのか、それともチャン・ツィイー演じる中国人女性との愛に生きるのか。彼の行き着くところがどこなのかはっきりしないにも関わらず、非常に凛とした雰囲気が漂っている。自分の意思などなく時代の流れに巻き込まれる若者を演じるリュウ・イェが非常に猫背で戸惑っている姿とは対照的だ。

雨が降り続く上海の街をオレンジ色の照明で映し出すカメラも綺麗だった。
イエスタディ、ワンスモア アンディ・ラウとサミー・チェン ゴールデンコンビによるラブコメディかと思ったのだが、二人が突然離婚し何故かお互いに騙しあうようになる前半はどうもしっくりこない。サミー・チェンはどうして突然アンディ・ラウが離婚を切り出したのか分からない。更に離婚を切り出したくせに、何かと自分の後をつけてくるようなアンディの態度。
そんなラブコメの定番のような流れでありながら、決してテンポが悪いわけではないのにどこか歯切れの悪さが残る。監督は一体何を撮りたいのか?そんな事を考えているうちに、悪ふざけの一つの思っていたあるエピソードによって明かされる一つの秘密。
えっ!ラブコメではなかったのか?この展開があったから前半がどうも今ひとつ意味深だったのか?(こんな急な展開は韓国ドラマだけかと思っていたのに・・・)サミーの歌うエンディングテーマはそんな映画の展開とぴったりの歌詞ではあったが、後半の展開にはどうも?が残る。

競馬場のバルコニー席はお洒落だった。競馬に興味はないが一度くらいVIP席には行ってみたいものだ。
愛していると、もう一度 第18回東京国際映画祭「アジアの風」部門で鑑賞。

観る前にアンディファンの友人に「どんな映画?」と尋ねると「なんだか夏の香りみたいなストーリーで・・・」という返事が返ってきた。
韓国ドラマの夏の香りを観ていないという友人だが、恋人の心臓が別の女性に移植されというストーリーを知っているので、「この映画も、交通事故で死んだアンディの奥さんの心臓が別の女性に移植され、何年後かにその女性にめぐり合うとう話で・・夏の香りに似てますよね?」というではないか。
確かに導入部のストーリーは良く似ている。心臓の鼓動が聞こえてくる様子もかなり似ている。しかし1時間30分程の映画は、全く違う解釈で話が進んでいくのだ。

妻の心臓を移植された女性は、拒否反応で死を迎えようとしている。妻を亡くした男は、亡くなる前、妻に優しく出来なかったことを悔やみ、今死に向かっている女性のそばに寄り添おうとする。
夏の香りのように心臓が移植されたことによって、自分の気持ちが心臓に左右されるのではという葛藤はなく、男はただただ彼女が残していった心臓の最後を静かに見届けようとしているのだ。見届けることによって、6年経っても受け入れることが出来なかった妻の死を受け入れようとする。

20話続くドラマとは違い、90分程の映画はテンポよく進んでいくから比較することに意味はないかもしれないが、心臓の鼓動が聞こえるスクリーンを見ながら少しだけ夏の香りのことを思い出した。
女は男の未来だ 監督のホン・サンスはヨーロッパでも高い評価を得ている監督だという。
(多分こんな紹介の仕方をされるということは、本国でより海外での評価が高いということなのだろう。)
大学時代の先輩、後輩そして二人の間に思い出として残っている一人の女性。
学生時代の面影もない、生活に疲れた風情の二人の男が、なぜか7年後、水商売をしている思い出の女性に会いに行く。彼女を前に思い出を語るつもりなのか、過去を清算するつもりなのか、見ている者にはまったくわからない。酒の匂いと煙草の匂いのする時間が流れているのが見えるだけだ。

思い出の女は再会した夜、二人の男と寝たかもしれないし、寝ていないかもしれない。そして大学で教鞭を取る後輩の男は、女子学生に手を出しても特に罪悪感などを感じている風でもない。ホテルに行った事が噂になることを心配しているが、さほど慌てている風でもない。
7年後、彼女に会ったからといって何かが変わるわけでもなく、映画はすっと消えていくように終わっていく。
男たち二人は過去と現在をぐるぐる回っているだけのようだが、彼女は過去に囚われている風でもない。過去に囚われていないこと、そのことが未来とイコールといことなのか?

*****
他の映画を見たかったのだが、時間がちょっと合わなかったので急遽この映画をみることにしたのだが、終映後、先輩役のキム・テウの舞台挨拶があった。ジーンズにジャケット姿のキム・テウは、小さな声でボソボソと恥ずかしそうに話す男性で、映画での雰囲気とは随分違っていた。7年間の違いを出すために、1ヶ月で10キロ以上体重調整した話もしていたが、そんな話をしているときも静かに語っていたし、映画館に足を運んでくれてありがとうございます。と挨拶の言葉も静かな感じだった。彼の口からホン・サンス監督の撮影方法について直接聞けたのは興味深かった。
俳優にすべてを任せているような映画に思えるが、何テイクも重ね、細かいところまで演出を施し、台詞一つ変えることは許されないのだという。
一見撮りっぱなしのように思える映画なのに、そんな風にこだわっているところが、ヨーロッパの観客に満足を与える所以なのか。
******
私は正直よく判らなかった。ユ・ジテに爽やかさのかけらもなかったのは、監督の演出のせいだったのだろうか。
恋愛は狂気の沙汰だ 第18回東京国際映画祭「アジアの風」部門で鑑賞。

プサンの街でテレクラの話し相手のバイトをする子持ちの女性が、ホステスになりだんだんとしかし確実に自分の足で歩いていく姿が、とても現実的に語られていく。毎日の生活の中でだんだんと変わっていく主婦の姿に、同じ女性としてある意味衝撃を受けるが、(客と寝ることが出来ず、職を失いそうになる場面など、カマトトぶるつもりはないがやはりどんな顔をしてスクリーンを見つめればいいのかちょっと戸惑う。)仕事の中でちょっとした心の揺れを感じ、その揺れがあっさりと消えていく場面も、やはりどんな顔をしてスクリーンを見つめればいいのか戸惑ってしまった。
主婦を演じるチョン・ミソンはちょっと平凡な感じがするが、ホステスで生きていくことを決心したかのようなラストの歌のシーンでは、表情が一変していたので関心する。

場面転換のたび、一瞬黒くなる画面は心の闇のつもりなのだろうか?あまり多用されるのでちょっと気になったが、反対に時々映し出されるプサンの夜景が随分と息抜きになっていたことに見終わった後気がついた。

「おまえの勝手にしやがれ」のオ・ソックン監督による作品のインターナショナル・プレミア上映だ。
とこんな風に書くといかにも詳しいようだが、チケット発売日の朝に事情があって並べず、昼過ぎに購入出来る作品でめぼしいものはこの映画くらいだったのだ。
(当然見たい作品はあっという間に売り切れているのだ)
ベルベット・レイン カメラが斜め下から脇から、そして浮遊した視線で登場人物や夜の街に降る雨を映し出していく。
製作総指揮も務めるアンディ・ラウ演じるホンと、ジャッキー・チュン演じるレフティはテーブルを挟みある一定の距離と緊張感をもって遠くから映し出される。片やショーン・ユーとエディソン・チャンは夜の街を右に行ったかと思えば左を向くという、行き先がまだふらふらと定まらない、チンピラの若者二人で、カメラもおなじように横から斜め下からそして浮遊した視線で徐々に近づいてく二人を映し出している。

香港ノワールが好きで、男たちの挽歌が好きで、香港映画を楽しむようになった私にとって、アンディ・ラウとジャッキー・チュンが黒社会映画でボスを演じるようになったのを見るのはとても感慨深い。更になんとなくいつもふらふらと視線の定まらない感じのエディソン・チャンがどこか情けないチンピラを演じているのを見るのも大変感慨深い。
ウォン・カーワイの映画で見られるクリストファー・ドイルのようなカメラワークほど気取ってはいない。でも予測のつかない角度から登場人物を追い、道に叩きつけられるように降る雨が横から下から映し出されていくクライマックスシーンはぞくぞくするほど格好いいのだ。

アンディ・ラウの長髪があんなに格好いいとは思わなかった。
銃を手にするショーン・ユーが見せる横顔も素敵だった。
エディソン・チャンもちょっとだけ見直した。(ちょっとだけだが)

音楽がレオン・ライのプロディーサーも務めるマーク・ロイなのもファンとしては嬉しい。
私の頭の中の消しゴム 若年性アルツハイマーに侵され、27歳という若さでありながら愛した記憶も愛した相手の事も忘れていく女性スジン。
全部忘れてしまうのなら、一緒に過ごした事さえ思い出せなくなるのなら、これ以上一緒にいても仕方ない。別れましょうというスジンに「俺が君の代わりに全部覚えているから」といい記憶を残す手がかりになればと、家中にメモを残す夫チョルス。

彼女のちょっとした物忘れから二人は出会い、結婚。前半の幸せな雰囲気から一転して、後半には入ると彼女の記憶はどんどんと消えていく。

記憶は消えても心は消えないはずだと信じたい。信じてはいても、自分のことを以前の恋人と思う妻を見ていると、どうしていいのか、あわからなくなってくる夫の辛さ。事実を本人に告げる医師に殴りかかろうとする夫と、「記憶がなくなることへの準備が必要だ」と悲しそうに告げる医師。

妻を守り自分が全部覚えているからと、泣きながらも愛する道を歩こうとする夫。
以前から韓国の歌には「君を自由にしてあげる。僕が全部覚えているから、君は新しい道を生きて」という内容の歌が多いように思っていたのだが、それをこんな風にチョン・ウソンという俳優の姿で再現されると、涙も止まらなくなってしまう。
消えてしまうものに涙を流しながらも、勇気を持って向かっていこうとする姿に、見ている者も涙を流すしかなくなってしまうのだ。
セブンソード 1600年代の中国、荒れた世を静めようと出された武術禁止を逆手にとって暗躍していく一団に立ち向かう七人の剣士。
ツイ・ハークが監督した武侠物らしく@HEROや@LOVERSのような華麗さを前面に打ち出す画面作りではなく、どこまでも地平線が続く中国の大地を生かした壮大な絵の作り方が印象的だった。剣の動きを前面に押し出し、ワイヤーワークを最小限にしたのも、同じ武侠物として話題を呼んだ2作とはちょっと違ったつくりになっている。
なんといってもツイ・ハークなのだ。そんな気取った画面作りよりも、やはり底辺に流れるのは戦隊ヒーロー物を思わせる悪に立ち向かっていく七人の剣士をどこまで面白く描いていくことの方が大事に決まっているのである。

久しぶりの武侠物故、あれも撮りたい、このエピソードも入れたい、とやりたいことがたくさんあったに違いない。
韓国から呼んだキム・ソヨンの場面はライティングの印象さえ他の場面とガラッと違えて綺麗に撮りたいと思ったに違いない。ちょっとほろっとさせる場面も撮りたいと子供とレオン・ライ演じる剣士の心の交流を描こうとしたり、戦うためには愛馬も見捨てなくてはいけない若者の心の葛藤を描いてみたり。
愛と剣についての対比も描きたいと、悪に身を委ねつつも、愛を探しあぐねどこか寂しさを隠し持つ男と、愛を知り戦うことの意味を再発見する男と戦わせて見たり。

編集を重ねつつ2時間半の作品に仕上げたのだと思う。誰にでもエピソードがあるという話を映画らしくまとめたかったのだと思う。そうしないと一つの悪を倒しても、次の敵はまた現れるというただの戦隊ヒーロー物になってしまう物語だからだ。しかし場面転換の度に映し出される馬で疾走する七人の剣士の姿を見ながら、ここで翌週へ続くというテロップが流れるのではないかとおもうようなつくりは、(連続テレビドラマだったら、20話は簡単に作れるだろう)やっぱり少し無理があるように思った。

ドニー・イェンのアクションはやはり素晴らしかった。本人は韓国語に苦労していたようだが、このアクションを披露するためには、すこしの苦労は仕方の無いことかもしれない。
レオン・ライファンとしては出演作に武侠物を選んだのはすこし不思議だったのだが、がんばっていたと思う。しかし剣を扱いながらも眼光鋭いドニー・イェンに比べレオン・ライはやはり印象が薄かった。広大な平野や風が舞う大地の中で、剣と剣がぶつかり合う力の場面の中で、埋もれてしまいがちな彼の存在感が、ファンとしてはやはり少し寂しかった。
キム・ソヨンはいい役だったと思う。捕らわれの身でありながら、アレだけ綺麗に撮ってもらえるとは女優冥利に尽きるだろう。
頭文字D 毎朝家業の豆腐屋を手伝うことで、類まれな運転技術を身につけた高校生。
日本の群馬を舞台にした物語、香港、台湾の俳優つくった映画を吹き替えの日本語で楽しむという、ねじれ現象で映画を鑑賞。高校生を主人公にした映画でありながら、音楽が妙にお洒落だったり、出演する日本人は鈴木杏を除けば皆エキストラとなんとも不思議な映画だった。私は香港映画が好きなので、チャップマン・トゥーだのアンソニー・ウォンの怪演や、ショーン・ユー、エディソン・チャンの香港若者スターの共演も楽しんだが、原作の漫画が好きで足を運んだファンはどんな感じでこの映画を楽しんだのだろうか?
ほぼ満員の劇場は原作に興味があり足を運んだ観客が殆どのようで、別に誰が出演していようとそんなに関係がないようだったが、天才高校生の父親を演じるアンソニー・ウォンが時々見せる妙な表情には笑い声が起こっていた。

肘をつきながら運転するジェイ・チョウの無表情な雰囲気は高校生とは思えず、
(あの表情だけみるとまるで達観した修行僧のようではないか)
初々しさが足りないようにも思うが、運転技術に自信のある様子は伝わってくる。恋人を演じる鈴木杏が、普通のどこにでもいるちょっときれいな女子高生になってしまっており、美少女だった面影がなくなってしまったのにはびっくりする。あの凛々しい感じはどこにいってしまったのか。
アバウト・ラブ 東京・台北・上海での恋物語 オムニバス。

どの話も恋が始まる前(もしかしたら気づかずに恋も始まらないかもしれない)のふわふわした感覚や、言葉の通じないもどかしさが共通点なのだが、面白かったのは台北バージョンだった。他の2作は街も主役の一人として、街の雰囲気が物語りの重要なポイントなのだが、この台北バージョンではふられた事実が飲み込めないアスーと北京語があまりよく分かっていない鉄ちゃんのやり取りが中心のため、それこそどこの街角で交わされてもいいような会話がずっと続くだけなのだ。もう一度やり直したいアスーに、別れた恋人の言葉伝えようとする鉄ちゃん。優しさからか言葉をオブラートに包もうとしているのか、それとも本当に意味が分からなかったのかははっきりしないが、アスーを気遣う気持ちは見ているほうにも伝わっている。ちょっと前までは他人だった相手に見せる気遣いが、胸にしみてくる。

エルメスこと伊藤美咲が出演する東京の物語は、伊藤美咲演じるアーティストの説明口調のナレーションが気になった。短い物語故、背景を説明する必要はあるのだろうが、一々説明されるとちょっと興ざめの感がある。
大杉漣が店のオーナーとして出演していたのは、ファンとしてちょっと嬉しかった。
四月の雪 出張に出かけたと思っていた妻が不倫相手と交通事故を起こしたと知った男と、その男の妻。
男ペ・ヨンジュンと女ソン・イェジンの物語は、街に雪が残る三月に始まり、そしてなごり雪が降る四月へと続いていく。
お互いの伴侶と同じような道を進んでいく二人を、非常に淡々と追い続ける映画で、観終わった後でも答えはない映画なのだが、結構面白く観られたので自分で驚く。ペ・ヨンジュンのファンでなく(勿論この映画を観終わった後でもファンではない)更に終わり方も非常にあっけない。それでも時間を返せと思わなかったし、嫌な気分にもならなかったのは、説明口調でない物語の語り口が自分の波長にあったのかもしれない。もっと言うなら不倫映画は生々しくなく、そして修羅場と思われる場面は限り無くすくないほうがいいと思っているせいかもしれない。そんなものいちいち見せられたらたまったものではない。

事故のせいでお互いの伴侶の裏切りを知り、意識の戻らない二人を病院で見守りつつ、段々と近づいていく二人が、お互いに弱みを見せ、その後あまりにもあっけなく身体の関係を持つようになる。同じ裏切り行為に傷ついたはずなのになどという葛藤は殆ど見せず、お互いが抱く不安も必要以上にしつこく描かず、ただこうならずには収まりがつかなかったのだろうという淡々とした描き方。
ソン・イェジンが鏡に映った自分の下着姿を見つめる場面、そしてペ・ヨンジュンと寝た後に「私どうかしちゃったみたい」とつぶやかせるあたりに、女性を美化せずあるがままを描こうとする監督のスタイルが見えるような気がする。

私は面白く観たが、「だからなんなんだ?」と退屈に思う人もいるはずだ。特に男性は「何がヨン様だ。悩んだふりをして自分も結局同じことをしやがって。」と思う人も多いだろうし、ヨン様ファンの女性も、台詞の少ないヨン様の姿に、女性に対する熱い思いを口にしないヨン様の姿に、不完全燃焼の思いを抱くかもしれない。

私もなんでこんなに淡々とした映画を面白く感じたのか不思議なのだが、逆にヨン様に熱い思いを抱かず、ソン・イェジン演じる人妻の目線で、そして世の中なんて案外こんなものだよな~と醒めた目線で観たほうが楽しめる映画なのかもしれない。しかしこの映画を人に薦めるにはちょっと勇気が必要だ。「こんな淡々とした面白くない映画薦めるなんて。時間を返して欲しい」そんな批判を受ける可能性も非常に高いからだ。
黄山ヶ原
シネマコリア2005で鑑賞
660年高句麗、新羅、百済の三国時代を舞台にした歴史コメディとでもいったらいいのか。韓国の風習、歴史を様々な形から笑いを中心に描いているので、基礎知識を持ち合わせていない私がどこまで理解しているかは分からないが、笑いの中のつぼが同じようなところでは、やはり笑ってしまった。
百済のケベク将軍(演パク・チュンフン)は、様々な機転を利かし少ない兵ではあっても新羅との戦いに勝利を収めていくが、最後には圧倒的な兵力の差によって敗れていく。
やらなければ、やられる、やられないためにはやり返す、国を治めるという言葉がそんな行為と同義語のような時代の話である。自分の出身と何も関係のない私にとってはどちらの国に肩入れしてみるような話ではないのだが、判官贔屓とでもいうのだろうか。ついつい百済に肩入れしながら見てしまった。主演のパク・チョンフンに対して、顔の大きい俳優という認識しかなく、どこがいいのだろうと思っていたのだが、この映画を見て随分印象が変わったせいも一因だろう。顔が大きいのは事実だし、好みもあるかもしれないが、魅せる演技をする人だということは分かった。顔だけで判断してはいけないということを改めて感じる。やはり動く姿を確認してから判断をしなければ。
「強いものが勝つのでなく、勝ち残ったものが強いのだ」
勝ちにこだわる韓国気質をこんな台詞感じたりしたながら、言葉の壁を感じたりしながらも結構楽しめた。

ポソン
私にとっては緑色がまぶしい茶畑が広がる綺麗な土地という印象しかない地名だが、どうやら韓国では口が上手い(汚い)土地としても有名らしい。
大したことではないが、自分の知っている事柄を思い出させる話が出てくるというのは、楽しい。きっともっと歴史だの文化背景が分かれば更に楽しめる映画なのだろう。
霊 リョン 記憶を失くした女子大生ジウォンは兵役帰りの同級生ジュノだけには心を開いているのだが、記憶を失くした自分をリセットするために留学を決める。しかし時期を同じくして女子高時代の同級生が水のない場所で溺死するという事件が次々起こり、自分も何故か水に関わる夢を見るようになるという、キム・ハヌル主演のホラー映画。しかしホラー映画としてではなく、前半はある事件をきっかけに記憶を失くしてしまった彼女の自分探しの旅という見方をしても楽しめるかもしれない。実際映画として骨太な作品にするなら、そういう風にしたほうが絶対見ごたえがあると思うのだが、この映画の目指すところは、そんなものではなくあくまでホラー映画だから、自分探しの旅だけでは終わらないのだ。

事件の謎が解けたと思いほっとしたのもつかの間、その後にやっぱり衝撃の事実が付いて回るのだ。
キム・ハヌルが時々思い出す、記憶の中の自分の残酷さに慄く場面は、若干わざとらしさが目立つ。記憶の中の自分はいつも口角をまげ、同級生を憎憎しげに見つめるばかりなのだが、やり過ぎの感が強い。記憶を失った現在も人を寄せ付けない冷たい雰囲気があるのだから、それと同じような感じでも良かったのではないか。
実際キム・ハヌルはコメディ作品でないと、人の話を聞かず我が道を進もうとする感じ(良い言い方をするなら意思が強いとでもいうのだろうか)があることに改めて気が付く。さっぱりした容姿故しつこい感じはしないが、案外冷たい表情を見せる時があるのだ。そこをもっと生かした方がより恐さも増したと思う。

共演の映画初出演のリュウ・ジンはもう一ひねりあったら役柄だったら良かったのにと思う。ただのいい人で終わるのでは物足りないし、勿体無かったと思う。
スター・ランナー 台湾のグループF4のメンバーヴァネス・ウー主演のアクションアイドル映画。不倫の恋を断ち切るために韓国からやってきて、香港で韓国語の教師をする女性とアジア格闘技大会での優勝を夢見る青年が恋に落ちるというただそれだけの物語なのだが、同じF4メンバーの映画@マジック・キッチン、@スカイ・オブ・ラブを見たがこの映画が見ている間は一番面白かった。
キム・ヒョンジュ演じる韓国人の女性は年下の学生との恋に戸惑いをみせるものの、相手の青年はそんなことなんとも思っていないのだ。壁が無いのに壁を作り出し、恋に悩む韓国ドラマとは大違い、非常に暢気なアイドル映画なのだが、見ている間楽しむだけなら、小難しいことを語るより肩の力の抜けたこんな映画が一番だ。
ただそれだけの映画でもあるので、心に残った場面は?心に残った台詞はと言われると回答に困る。
キム・ヒョンジュが同じ韓国人女優のソン・イェジンにそっくりだったこと、キム・ヒョンジュがヴァネス・ウーに教える韓国語が「チェソヌル タ ヘヤデ」(最善を尽くさなくちゃ~頑張っての意)だったことぐらいしか思い出せないのだ。
アイランド 自分が誰かの身代わりだったら、自分の信じる人生が偽物だったらという近未来映画。約20年後の世界は不思議な中途半端な未来のイメージを感じさせ、それが面白いともいえるが、上映時間の2時間20分程の時間を長く感じてしまったのも確かだ。
偽りの世界から逃げ出した時の砂漠の場面、最後の砂漠の場面どちらも空の青さが非常に印象に残るし、二役を演じるユアン・マクレガーも芸達者なところを見せるが、それ以上何かあるかというと難しい。
しかし後半逃げ惑う場面は、これでもかと畳み掛けてくるし、贅沢だし、アクションシーンやカーチェイスが好きな私にとってはいい気分転換になった。

追跡隊を率いるローレントを演じるのジャイモン・フンスーがなかなか良かった。
スカイ・オブ・ラブ 韓国映画@リメンバー・ミーの舞台を上海に置き換えた完全リメイク作品なのだが、完全という言葉に本当に偽りがない。しかしエピソードも場面割も台詞も同じようにしていても、韓国版の方がキム・ハヌル演じる過去に生きる女性の決断によりスポットが当たっているように感じられ、反対にこのスカイ・オブ・ラブの方はケン・チュウ演じるジャーフェイにもかなり重きが置かれて描かれている。

韓国版は、好きな人の香りをいつも感じながら生きていくと決心するキム・ハヌルの20年後の姿がキチンと描かれ、ユ・ジテ演じる青年が「元気そうでしたね」とキチンと伝える場面が描かれているが、中国バージョンの方は20年後の女性の後ろ姿しか写さない。肩を落とし覇気なく歩く姿は惨めな感じさえ残す。

自分の一言が一人の女性の一生を左右してしまったことに、慄く現在の青年。韓国の青年は無線機を壊そうとするも、人生はそんな風に流れていくもんだと諭されることによって思いとどまり、かたや中国の青年は空き地に無線機を投げ捨て振り返ろうともしないのだ。

しかしこんなにそっくりに作っていながらも、最後の5分の描き方で残す印象がこんなにも違うとは本当に面白い。
中国版のタイトルは@愛、断了線で韓国版のオリジナルタイトルは同感だ。
このタイトルからも最後の描き方に対する姿勢がなんとなく想像できる。
どちらが好きかは好みの問題だろう。
Dear フランキー 夫の暴力から逃れる為に、父親の暴力から難聴になった息子と母親を連れてスコットランド中を逃げる若い母親リジー。父親はリジー親子のことを忘れた訳ではなく、家族は行く先々に伸びてくる夫の捜索に脅えながら一箇所に落ち着くとこなく、転々と住所を変えているのだ。

父親の事も暴力の事も知らず、父親は船乗りだという母の言葉を信じ、私書箱行きの手紙を書き続けるフランキー。
偽の父親として現れるストレンジャー(演ジェラルド・バトラー)のお土産の熱帯魚図鑑に喜び抱きつくフランキーだが、ただお土産に感謝しただけでなく、自分の手紙を読んで熱帯魚図鑑を欲していることを知り、買って来てくれたその気持ちが嬉しくて喜んで抱きついたのだ。偽の父親なのに、手紙を読み、何に興味があるのか知ってくれたことが嬉しかったのだ。
母親に対してもとても素直だ。心を開こうと積極的ではないけれど、母親のやさしさを十分に感じとろうとする感じが静かに従っている。母親の愛情は頑なかも知れないけれど、愛情を注ぐその気持ちは子どもに十分に伝わっているのだ。
100%愛情を注ぐことが全てではないけれど、まっすぐに愛情を注げば相手に伝わる。そんなことを信じたくなる映画だ。

役柄故、口数は少ないがストレンジャーを演じたジェラルド・バトラーの無骨なやさしさが伝わってきた。
マルチュク青春通り 1963年生まれの監督が自分の青春時代である1978年を舞台にした映画なのだが、同じ時代日本で、中学、高校生活を送った私には、自分の高校時代と比較するという別の楽しさもありなかなか面白かった。

登校の際、正門の前で「忠誠」と大きく叫び学校へ入っていく学生、体罰が普通に行われる授業、そして風紀委員が学校を見回る様子、軍事政権下にあった韓国ならではのちょっとした描写にははっとさせられるし、ブルース・リーが人気があったという描写も私にとっては小学校時代の思い出だ。オリビア・ハッセーの映画も中学生だった頃リバイバルで人気があったものだ。同じ時代だったはずなのに、ちょっとした時間差があるのが、今となっては信じられない気がするが、それが進んで来た道のちょっとした違いなのだろう。
ディスコの様子も随分違うが、(同じ頃日本ではYMOに代表されるテクノブームが始まった頃のはずだ)それでも通学中に知り合う様子や、日曜日にデートする様子などは同じだなとしみじみしてしまった。

私の中学、高校時代も荒れる学校と呼ばれた時代で、校内暴力があったが(全校集会の際野次が飛んでいたような気がする。生徒指導の若い教師が壇上で泣いていたこともあったりした)有り余るエネルギー故、勢力争いが起こる学校の様子は、日本のそんなものとは比較にならず、もっと肉体的な暴力と直接結びついているので、行き場のな焦燥感の強さが余計胸に迫ってくる。
恋する神父 恋をしてはならないはずの神父が恋に落ちた!?というキャッチフレーズそのままの映画。信者の結婚式に歌で祝福する場面は可愛いが、それ以外は主演のクォン・サンウを愛でるだけの映画。それはそれで成功しているだろう。相手役のハ・ジウォンも元気さだけで勝負しておりいつもと同じだ。
マジック・キッチン 香港でプライベートレストランを経営する女性とアシスタントの若い青年との恋物語。上手くいきそうな二人の前に女性の昔の恋人が出現してという大変分かりやすい物語だ。
サミー・チェン演じる女性シェフがブリジット・ジョーンズのようになにをやっても上手くいかない女性なら、ジェリー・イェン演じる若いアシスタントが女性を慕う姿に若者らしい一途さが感じられたのかもしれないが、レストラン経営者としてそこそこ成功している女性なのだ。更に心が揺れる昔の恋人もそこそこ格好がいい。どうしようもない昔の彼だけれど忘れられないのという切なさもない。
なんとなく成功している女性が、なんとなく幸せでなく、なんとなく素敵な若い男性となんとなく素敵な昔の彼の間でどうしようと揺れ動く話なのだ。
「いいじゃないどっちもそこそこ素敵なんだから。好きな方選べば。」とそんな感想を持ってしまう雰囲気だけのラブコメディだ。

日本のテレビ番組「料理の鉄人」に出演するという設定が物語のクライマックスなのだが、、この番組の場面が非常に嘘っぽいく安っぽいので、笑ってしまった。

女性シェフの友人にニコラ・チャン、マギー・Q、ニコラ・チャンの恋人にマイケル・ウォン、女性シェフの仕事からインスピレーションを得る脚本家にアンソニー・ウォン、女性シェフを口説く実業家にウィリアム・ソーとカメオ出演も含めて顔ぶれは豪華なはずなのに、中途半端な雰囲気だけの映画になってしまっているのが残念だった。ジェリー・イェンのことももっと魅力的に描けただろうに、かすってしまっているだけなので、非常に残念だ。

ジェリー・イェンが歌うエンディング曲「想要愛妳」の作詞はビビアン・スーだ。サンディ・ラムにも詩を提供しているし、日本で活躍していた頃のバラエティ色はすっかり無くなってしまったのだろうか。
宇宙戦争 電磁波による嵐(稲妻)に襲われる街から逃げ出す親子。
離婚した母親と一緒に暮らしている息子と娘は一緒にいる父親(トム・クルーズ)を信用していないのだが、そんなことは関係なく宇宙人達は地球に攻撃を仕掛けてくる。
何のために攻撃されているかも分からず、どこに逃げていいかもわからずただただ移動する人間。ある時は飛び交う宇宙船から、そしてある時は突然地下から攻撃を受けるのだ。どこに逃げれば安全ということはなく、人間に出来ることはただ移動し続けることだけなのだ。
地下室のある家に逃げ込む娘(ダコタ・ファニング)と父を襲う宇宙人の姿は、昔私が見たテレビ番組に出ていたそれと殆ど同じで、非常に古典的なスタイルだ。大きな姿見で宇宙人を撃退するところなど、見方によればコントとも思えるような場面なのだが、パニックに陥っている親子にはそんな余裕など一つもない。パニックの怖さを思い知ると同時にパニックに陥ることの虚しさも感じたりする。

どんな結末が待っているのか思ったら・・・・最後はなんと。スピルバーグには申し訳ないが、私はちょっと笑ってしまった。現に知人は「サイテー」と一言吐き捨てるように言っていたようだし、好みの別れる結末だろう。
ただあれ以外の結末を考えろと言われても何も思いつかない。
結末が大事なのではなく、逃げ惑うプロセスを考え楽しむ映画なのだろう。
マラソン 息子を心配するあまり溺愛する母親の態度をみかね「息子さんがあなたから離れなれないのではなくて、あなたが離れられないだけ。息子さんが走りたいのでなくて、あなたが走らせたいだけ。ペース配分も出来なければマラソンなど無理だ。」と正直に話す息子のコーチに「あなたがコーチなんだからあなたが息子に教えてよ」という場面がある。
世界で一番強い人種は、韓国のおばさん(アジュマ)というらしいが、その一端をこの台詞に垣間見たような気がした。
コーチの言葉から自分が無理にやらせているだけではということに気づきながらも、それでもなおコーチに「あなたがコーチなんだからあなたが息子に教えてよ」といわずにはおれないその強さ。母親の不安は嫌というほうど見ているものに伝わって来ているからこそ、こんな強い言葉が余計胸をつく。

感情のコントロールが上手く出来ないといわれる自閉症であるにも関わらず、母親の気持ちを敏感に感じ取り、「疲れてない」といい続ける息子の優しさもじわじわ伝わってくる。

映画のモデルである実在のペ・ヒョンジンは19歳でフルマラソンに出場し、2時間台で完走したのだという。
性格の悪い人でも1回、割りと鈍い人でも2回、普通にいい人は3回以上泣く。という宣伝文句だが、私の隣の女性も何度も目頭を押さえていた。私が何回泣いたかは恥かしいので秘密だ。
ワンナイト・イン・モンコック 貧しい故郷から香港へやってきた出稼ぎ娼婦と、同じように本土から香港へやってきた殺し屋。香る港である大都会香港だが、言葉も違う本土からやってきた貧乏人に優しい街であるはずがない。
クリスマスのイルミネーションが光る香港の街で、知り合ったばかり、行きずりの相手であるはずの娼婦タンタンに「小さな不幸に慣れちゃいけない」と語る殺し屋だが、彼自身の小さな不幸は、どんどん大きな不幸を生んでいき、いつかいい日がくると思って、つつましく暮らそうと夢見ることさえ叶わないのだから、切な過ぎる。

本土から来た若者二人、ダニエル・ウーとセシリア・チャン(赤のコートと紫のブーツという、職業を絵に描いたような服装で金を稼ぎまくる姿が痛々しく切ない)のだもいいが、過去の出来事から逃れることの出来ない刑事役のアレックッス・フォンもなかなかいいし、対照的にやる気満々の若手刑事役のアンソン・リョンも結構いいのだ。特にアンソン・リョンは香港のテレビシリーズ「カンフー・サッカー」にも出演しているはずだから、次世代@華流スター一押しのスターになるのだろう。
マイ・ブラザー 日本の芸能番組ではここ何日か「若貴兄弟騒動」ともいう兄弟喧嘩が毎日取り上げられているが、その時期にこういう映画を観るとはなんとも不思議な感じだ。
いつみても永遠の弟という雰囲気がするウォンビンの、弟としての気楽さや、弟であるが故の辛さを熱く演じる姿を見ることができるこの映画は、弟としての役柄の集大成とでもいえるものだろう。

血の繋がった兄弟が一緒に過ごす時間が、羨望と親しさが混ざったどれだけ濃厚な時間なのか。お互いへの思いの中にある、口には出さない思いやりが、特に相手を思いやっていることを表に出せないウォンビンの幼さ故の優しさが、(恋人と別れるのはただただ兄ソンヒョンの為なのに、そんな素振もみせず、多くを語らないのがなかなかいい)結構胸に詰まる。
日本人には解り辛い時代設定も、(恐らく80年代前半の設定なのだろうが・・・)兄弟が肩を寄せ合って生きていくことを母親が熱望するという設定にぴったりくる。
ウォンビンがいつ弟から大人の男性になるのか、それとも永遠に弟の香りがする俳優のままでいくのか、除隊後のウォンビンの今後の俳優活動に興味を湧かせる作品にもなっていると思う。
イン・ザ・プール プールで泳ぐには全身の力を抜き、水に身をゆだねることが必要だろう。泳力は必要だが、肩の力は抜く必要がある。とりあえず溺れず、他のコースに割り込まず、自分の力で50メートルほど泳げればいいのだ。力があれば、休まずターンをして泳ぎ続ければよいし、泳法が間違っていようとも溺れず人に迷惑をかけなければいいのだ。
松尾スズキ演じる精神科医@伊良部一郎は泳法は間違っているかもしれないが、とりあえず溺れずになんとかプールの中を行き来している雰囲気だった。しぶきをあげ過ぎて、隣のコースに迷惑をかけているかもしれないが、その迷惑も相手が溺れるほどでもないようなものだ。
その程度の迷惑なら、その程度の困難なら、まぁそんなに気にするほどでもないのかもしれない。勿論泳法が間違っているばかりに、今日は良くても明日は溺れるかもしれないし、明日は他人に迷惑もかけるかもしれない。そんな境界線があやふやな雰囲気もあるが、それはそうなった時に考えればいいのだ。今から心配しても始まらない。今日のところはそんな風に行きましょうよ・・・とまぁ そんな風に暢気に思える映画だ。

なんとも妙な病気のオダギリジョーがなかなか良かった。
そして松尾スズキの笑い方が(特に目元と口許の締りの無さが)昔の知人にそっくりでびっくりしてしまった。後半は映画よりもそのことが気になって仕方がなかった。
クローサー 本当の事を総て話す必要はない。
真実は決して正しいことではない。そして人が真実を思っていることと現実はイコールではない。
人の気持ちは言葉にした時点で、嘘になるときもある。
誰かを好きになるには、その人のことを嫌いになる瞬間を恐れてはいけない。
人は多分同じ間違いを何度も繰り返す。
誰かの恋の始まりは誰かの恋の終わりでもある。恋の始まりと終わりが断続的に続く。断続的な映画の語り口に影響されて、感想まで箇条書きになってしまった。

この箇条書きと箇条書きの間にある間、この間を次の恋への助走と考えるのか、それとも次の恋への諦めと考えるのか、この間をどんな風に感じるかがこの映画の面白さかもしれない。

カップルでこの映画を観ても、笑う気にはなれないだろうと思う。言葉の影にある間、その間に隠された嘘を考えてしまい、口数少なくなるはずだ。

クライブ・オーウェン演じる皮膚科の医者が見せる一目ぼれ、嫉妬、未練、ナタリー・ポートマンが見せる誘惑、心変わりは良く分かるような気がする。
反対にあまり現実味をおびて感じられなかったのは、ジュード・ロウ演じるダンが見せる一目ぼれ、心変わり、未練だろうか。
真夜中の弥次さん喜多さん 「うすっぺらな江戸は嫌だ。お伊勢さんに行けばリヤルな世界が見つかるはず」と他力本願な思いから、伊勢を目指し旅を始める弥次さん喜多さん。お互いを愛する以外はなんの努力もしない二人が、愛とリヤルを探すためだけ旅する姿が非常にばかばかしい。しかしばかばかしければばかばかしいほど、「愛してるぜ」という言葉がリヤルになってくるから不思議だ。入れ替わり立ち代り色々な人が出てくるが、この大勢の出演者も結局は二人のリヤルな恋愛のためだけにいるとしか思えない。どこまでいっても二人のことだけを考える、自分たちのことだけを考えるある意味とても自分勝手な映画だ。しかしその自分勝手さがこの映画の面白さなのだろうし、自分勝手であればあるほど「愛してるぜ」という言葉が真実味を帯びてくるのだ。

中村七之助の痩せた感じがどうも気になってしまい、今ひとつしっくりこなかった。(これは私の好みの問題で七之助自身の問題ではないのだが・・)
そのかわりといってはなんだが、長瀬智也演じる弥次さんの妻を演じる小池栄子が天晴れだったと思う。夜中に米を研ぐ場面の殺気だった雰囲気は、自分勝手な弥次さん喜多さんを震え上がらせるには、余りある迫力だった。

キャラクターとしては生瀬勝久の瓦版男と喜び組、何人も何人も出てくる荒川良々がが面白かった。
最後の恋のはじめ方 ジュリア・ロバーツ、ジュード・ロウのクローサーを観ようと思っていたのだが、時間が合わずやむなくウィル・スミス主演のラブコメディを観ることになってしまった。期待していなかったせいかもしれないが、なかなか可愛らしい映画だった。ウィル・スミスのデート・コンサルタントという職業は非常に嘘っぽいのだが、ケヴィン・ジェームス演じるダサい会計コンサルタントの話がなかなか泣かせるのだ。いい人なんだけど、なんとなくスマートでなく、やることなすことどうも決まらない。「でも姿がかわいいの」と、美人セレブの彼女が言っていたが、観ている私もこのエピソードに心が温かくなったからこそ、この映画を楽しめたのだ。

映画の冒頭ウィル・スミス演じるデート・コンサルタントが「意思伝達の60%がボディ・ランゲージで声の感じが30%、つまり会話の90%は言葉じゃない」と話しているのを聞き、バラエティ番組で石田純一が「最初のデートは特に言葉は必要ない。彼女の話を聞けばいいだけ。喋ることといったら『そうなんだ。それで。ふーん』それで十分だ」と話していたのを思い出した。さすが石田純一だ。恋愛の奥義は万国共通らしい。

エリス島の移民博物館やフルトン・フィッシュ・マーケットのデートシーンはなかなかお洒落だった。
ザ・インタープリター だれる場面がなく、どこまでも緊張感の続くサスペンス映画で、ラブシーンらしきものは殆どない。それにも関わらず恋愛映画としても楽しめる作品になっているのが凄い。直接的な感情を溢れさせる場面がなくとも、最初は相手の事など理解しようともしなかった二人が、それぞれが失ったものを相手に示すことによって自分を理解して貰おうし、そして相手のことも理解しあおうとする。自分の感情を表す時の態度が大人であればあるほど、二人の感じる喪失感の大きさが感じられるし、感情を制御できず、一瞬みせる心の揺れが余計に切なさを感じさせる。
自分の感情を垂れ流しにするだけの恋愛映画より、よほど二人の心の動きが切なく感じられる。
これがサスペンス映画でありながら、恋愛映画としても楽しむことが出来る理由だろう。
ただ,、恋愛映画を予想していくと期待はずれかもしれない。あくまでもサスペンスとして楽しみながらも、二人のわずかな心の動きを楽しむのがいいだろう。

過去をなくし国連で通訳(インタープリター)をする女性、妻を事故でなくしたシークレットサービス。如何考えても接点などなさそうな二人が事件によって少しずつ近づいていく様子が、サスペンスとは思えないほど綺麗に撮影されているNYの様子と一緒に進んでいく。
最後のシーンなどは一番好きなNYのシーンになりそうだし、ニコール・キッドマンの出演作品の中でも一番好きな作品になりそうである。
スカーレットレター 観終わった後、知らず知らずのうちに全身に力が入っていたことに気が付く。
最後の30分程息をつめて画面を見つめていたせいだろう。
正視するのが辛い場面が続いていたが、それでも目をそらすことが出来なかったというのが、正しいかもしれない。
観終わった後の息苦しさは、映画の場面に影響されたせいだけでなく、映画の内容そのものに余り救いがないせいかもしれない。

美人の妻そして愛人どちらにも愛しているという言葉を囁く刑事キフン。愛の言葉を囁く瞬間に嘘をついているつもりはないのだろう。しかし幸せな家庭、職場での地位、綺麗な愛人。全部手に入れこれ以上望むものはないはずなのに、人は手に入れれば更にそれ以上のものが欲しくなるらしい。そして手に入れてしまうと、今度は手放さなくてはいけないものも生まれてくる。欲望と転落は背中合わせだ。欲望を手に入れた瞬間から、手に入れたものを手放す瞬間がひたひたと迫ってくる。手に入れたものを離さないようにと、すがる切なさと懇願する寂しさ。何に救いを求めたらいいのか。


ハン・ソッキュ、イ・ウンジュともに熱演。しかし熱演であればあるほど切なくなってくる。暫くはイ・ウンジュの泣き声が耳から離れることがないような気がする。
やさしくキスをして イスラム系移民二世のDJカシムとアイルランド人の音楽教師ロシーン。一緒にいてとても楽だからと普通に始まったはずの二人の仲なのに、あっという間に二人だけの問題でなくなり、またそれが誰の言い分も理解出来れば出来るほど、切なくなってくる。
家族の絆も勿論大事だし、自分の信じる宗教も大事だ。どちらが劣っている訳でもなく、ただ違いがあるというだけだ。違いを理解し合おうとする二人だが、理解し合おうとすればするほど、辛さも増してくる。誰かを悪者にすれば、楽かもしれないが、誰も悪者に出来ない。皆が幸せになる方法を選ぼうとしても、余計辛さが増すという悪循環だ。
愛が全てを解決するなどということを簡単に口に出来ないからこそ、劇中に流れる歌Ae Fond Kiss「やさしくキスをして そしてさよなら・・・」という歌詞が、美しく切ないメロディが観終わった後心にしみてくる。
人生の逆転
(韓流
シネマフェスティバル2005)
キム・スンウ、ハ・ジウォン主演のコメディ。
キム・スンウの魅力を語るまでにはいかないが、2時間楽しい時間を過ごせて感謝。
Shall we Dance? 日本版の竹中直人と渡辺えり子のコンビより、ハリウッド版のスタンリー・トゥッチとリサ・アン・ウォルターのコンビの方が何倍も良かったと思う。大げさなやり取りにも余裕があったような気がする。日本版は無法地帯を連想させる竹中直人のやり過ぎばかり気になってしまい、物語はどうでもよくなってしまっている場面が多かったような気がするのだ。更に草刈民代の立ち姿は綺麗であっても、台詞はどうかと思ったことも、ジェニファー・ロペスの堂々とした態度を見て思い出した。役所広司がしがないサラリーマンだったから、ラストシーンのダンスをただの鼠色の背広で踊ったからとかそんな理由ではなく、ハリウッド版の方が優雅な余裕のある話に思えた。リチャード・ギアが赤いバラを持ってデーパートを訪れる場面は、観ている方が恥かしい場面だったが・・・・こんなに幸せなはずなのに、何故幸せと思えないのかと思い悩む姿や、自分が何を望むのかと思い悩む姿、が描かれるハリウッド版の方が厚みのある物語になっていたように思う。

ラストシーンのジェニファー・ロペスが着るオレンジ色のドレスの胸元のデザインに惚れ惚れしながら、そんなことを考えた。
バッド・エデュケーション 悲しくも妖しい過去。そしてその過去に隠された罠を、わざわざばらしにきたとしか思えない唐突な美少年の出現。
何が本当なのか、今更本当のことが分かってどうなるのか。そう思いながらも、更に思いもよらぬ展開にびっくりすることになる。
ああ見慣れていないせいだろうか。これ以上上手く感想が書けない。
愛の神、エロス 若き仕立て屋の恋→ウォン・カーワイ監督
ペンローズの悩み→スティーブン・ソダーバーグ
危険な道筋→ミケランジェロ・アントニオーニ

スティーブン・ソダーバーグの作品は何が面白いのか私には分からなかった。何を描きたいのかも分からなかった。面白くない上、深層心理が分からないとレッテルを貼られたようで、観ながらかなりがっかりした。

ミケランジェロ・アントニオーニの作品も然りだ。若い女性が住む塔の屋上から望むトスカーナの色は、息を呑むほど美しく神々しい。若い女性の均整の取れた一糸まとわぬ姿は確かに美しい。男性からみたらエロティックな感情も持つのであろうか。ただ私は美しいとは思ったがそれ以上どうだという感じは持たなかった。エロスという言葉を語るなら、あのトスカーナ地方の自然の方がよほどぴったりだったのではないかと思う。

ウォン・カーワイの作品が一番私の考えるエロスというイメージに近かったような気がする。(というより、やはり東洋人の連想するエロスに一番近いのはウォン・カーワイの作品だろう)触れそうで触れない、一線を越えられそうで超えられない思い。秘めた思いや叶わぬ思いが、一番切なく妖しい思いを連想させるのだ。窓もない湿気の多い香港の場末のホテルで交わされる言葉「もうこの手しか残っていない・・・」最後に交わす言葉がこんな言葉であろうとは。ホテルの廊下を薄暗い照らす照明、仕立て屋の中の薄暗い照明、そんな中で登場人物が浮かび上がってくるクリストファー・ドイルの撮影もいいのだ。

日一日追うごとに、下腹に薄くまとわりつくように迫ってくる老いの影。それを振り払うかのように更に強気に振舞う姿。散り際の華の妖しい香りを感じさせるコン・リーの貫禄も、凄いを通りこして殺気さえ感じさせる。
氷雨 一緒に見た友人は主演イ・ソンジェの落ち着いた雰囲気(ある意味無表情ともとれる)を観、「ソン・スンホン(宋承憲)の若さに負けている・・・」と評していたが、逆にいうとそれこそこの映画の描きたかったことだともいえるのではないだろうか。

イ・ソンジェ演じるジョンヒョンに大人の魅力を感じひかれる女子大生(キム・ハヌル演じるキョンミン)。キョンミンの幼馴染で大学の野球部に所属するウソン。
三人の間に横たわる大きな時間の壁。
キョンミンもジョンヒョンも「もっと前に出会っていたら・・・」などという言葉で自分たちの仲を語ったりしなかったはずだ。
だからこそ、どうすることも出来ないジョンヒョンの胸の内を見透かすかのように「あなたは帰るところがあるからいい・・・別れましょう」と冷たく言い放つキョンミンに、ジョンヒョンが思わず手を上げたような気がする。「もっと前に出会っていたら・・・」「あなたは帰るところがあるからいい・・・別れましょう」そんな陳腐な言葉で自分たちの関係を語りたくなかったからだろう。
もっと前に出会っていたウソンにも、幼馴染という形で時間の壁が立ちはだかる。いつまでも男性として見てもらえない時間の壁。

イ・ソンジェの持つ落ち着いた雰囲気、そしてソン・スンホン(宋承憲)の持つ若さ、そして二人の男性と異なる時間を過ごしたキム・ハヌル。
キョンミンを中心に回る三人の時間は、時計とともにウソンと歩むかに見えるのに、また遠くへ行ってしまう。結局誰の時間も交わることなく、時間と思いは雪山の中へ消えていってしまうのだ。
PTU 組織犯罪課のサァが非番の夜に無くした拳銃を一緒に探すPTU(香港国際警察特殊機動部隊)の面々。
車上嵐を捜査するPTUメンバーと殺人事件を捜査する特捜課CID。
この晩だけでなく、どの晩もどの昼もこのようにいくつもの事件が起き、重なる事件もあり、時間が交差するだけで終わるものもあるはずだ。
ある一晩の出来事が、1年365日のなかのある晩の出来事が、無くなったと思われる拳銃を中心に進んでいくのは面白い。
特にPTUの隊長ホーが組織犯罪課の刑事 サァを庇い、彼の拳銃を探し出そうとする姿に、以前ホー自身が同じような目にあったとき、サァが庇ってくれたのか、そうでなければ、何か重大な弱みでも握られているのではないかなどと勘ぐりたくなってしまった。勿論そんな事は映画の中では語られないが、そんなことも連想させる二人の仲のよさにびっくりする。
最後の出来事もその日の最後ではあっても、毎日続く一つの出来事の終わり方でしかない。
そんな雰囲気が結構気に入った。
おまけ)
今度香港を訪れる時はレモンコーヒーに挑戦してみたい。
甘い人生 ふと間がさしたのだろうか。7年もつかえた上司から、若い愛人が浮気をしていたら処分しろと命令を受けていたにも関わらず、何故か助けてしまうビョンホン演じるホテルの総支配人ソヌ。
宣伝文句には
「愛を知らない男の、命を賭けた選択」「壮絶な愛」「究極の純愛」という言葉が使われているが、 シン・ミナ演じる愛人ヒスがチェロを奏でる姿に心が揺れたばかりに、暴力の復讐の連鎖から抜け出せなくなった男の壮絶な戦いの映画だったのではないだろうか。
部下の裏切りを許せず、力で押さえつけようとし、落としどころが見つからない上司。たった一度の心の揺れのせで行く場所がないからと、スーツの下の白いワイシャツが赤かと見間違える程までソヌが一人戦い続ける意味はどこにあるのか。
一瞬の心の揺れ、もしかしたらこの先確かな愛情に変わっていったかもしれない心の揺れは、暴力によってねじ伏せられ、復讐が復讐を呼び、暴力が暴力を呼び、何のために戦いは始まったのか、なんのために復讐が始まったのか、この暴力と復讐の行き着く先はどこなのか、誰にも分からぬまま進み、あきれるほどの数の銃弾が画面の中を飛び交うのだ。

英語タイトルの「a Bittersweet Life 」の方が原題(タルコマン インセン)の雰囲気を伝えているかもしれない。タルコマダは情緒的に甘ったるい、甘美であるというニュアンスのようだ。
辞書には例題で
タルコマン マルロ ユーホカダ(甘い言葉で誘惑する)こんな文章が載っていた。
一瞬の心の揺れは壮絶な愛を呼び覚まそうとしたが、暴力の前に力尽きていく。しかし恋は始まる前の心の揺れが一番甘酸っぱいかもしれない。
そう考えるなら彼女に会ってしまったこの何日間かはソヌにとってまさしく「甘い人生」だったのかもしれない。
英語完全征服 職場から選ばれ英会話を習いに行くことになる眼鏡姿のさえない女性公務員ヨンジュと、口の上手さでは誰にも負けそうもない婦人靴販売員の男性のムンス。
普段は冴えないユンジュがムンスにだけは積極的な前半は、ありきたりの展開だが、話が面白くなってくるのは、お調子者の婦人靴販売員ムンスが、ヨンジュのことを気の置けない女性と思い、そしてムンスが何故英会話を3ヶ月でマスターしようかとしているかうっすらと分かってきてからだ。
チャン・ヒョク演じるムンスのことを女たらしというのは彼の母親だけで、実際は店にくるお客さんのことをお姫様扱いするだけの、お調子者なだけの普通の男性なのがいい。
冴えないヨンジュのことも迷惑がりながらも、嫌っている風ではないのが見ていて可愛らしく思える理由だ。
発音練習ばかりしているネイティブスピーカーの女性教師に「私は早く喋れるようになりたいの。発音練習なんてどうでもいい」と言い切るアジュンマの姿に韓国らしさが垣間見える。
日本なら内心早く会話練習をしたいと思っても、相手の目の前では黙っており、基本が大事なのは分かっているけれどといいながら、陰で愚痴をこぼすだろう。目の前で言い切るほど日本人は心が開けていないようだ。
インファナル・アフェアⅢ 「低体温の二人。黎明(レオン・ライ)と陳道明」
アンディ・ラウと梁朝偉(トニー・レオン)が高体温を思わせる男を演じているのとは対照的な二人である。自己コントロール力に長けている人間を、より沸点を低く描くことで前者二人との対比をより強調させたかったに違いない。二人とも映画のなかではかなり印象的である。
ただ陳道明演じる沈澄に比べ、黎明(レオン・ライ)が演じる楊は役柄そのものの広がりが少ないので見せ場は少ないが、佇まいはとても印象的である。公開前はまるでモデルのように立っているだけと評されていた黎明(レオン・ライ)であったが、彼の演技そのものが問題なのではなく、そのように描かれるべくしてある役だし、要求されたことを忠実にやっているという感じであった。

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2003年の冬に香港でこの映画を観た時はこんな感想を書いている。
英語字幕で観たこと、ファンであるレオン・ライを贔屓目で見てはいけないとの思いから、随分落ち着いて書こうとしていることに、自分で書いておきながらびっくりする。
今日新宿ミラノ座で主演のアンディ・ラウをゲストに迎えたスーパー・プレミアでこの映画を改めて観て、レオン・ライと陳道明のことをもっと熱く語ってもよかったのだと改めて確認する。
亡き友を偲び屋上で二人が語り合う場面の二人の立ち姿の美しさは、又観たい場面のひとつだ。
もちろん この映画での主役はトニー・レオンとアンディ・ラウであることに違いないが、このパートⅢの成功はこの二人なくしては有り得なかっただろう。
コンスタンティン 映画の中でこんなに喫煙シーンが出てくる映画をみたのは久しぶりだった。
更に宣伝では新しいタイプのヒーローと宣伝しているが、ヒーローというより、ジョン・コンスタンティン映画という風に称したほうがいいかもしれない。「ジョン・コンスタンティン・・・・」耳元でキアヌ・リーブスにこんな風に名乗られたりしたら、囁かれたりしたら地獄へ落ちてもいいと思う女性がいるかもしれない。そんな軽口をいいたくなるくらい、キアヌ・リーブスは素敵だった。
世捨て人のような生活をしながらも医師に命乞いをし、しかしタバコを吸うことを止めようとはしない。荒れた生活をしながらも、天国へ行くことを望むジコチューのような男でありながら、その身勝手さはちっとも気にならない。太陽の反対側にいる月のようでありながら、太陽の光によってだけ輝いているというわけでもない。月でありながら自らも淡い光を放っている感じだ。しかしそのどっちつかずの曖昧な行動も、やはり新しいタイプのヒーローにふさわしいのだろうか。
コースト・ガード
(韓流
シネマフェスティバル2005)
チャン・ドンゴンの白眼が暗闇の中で浮かび上がる。
もし白目を黒くするすべがあったらそれさえも行ったのではないだろうか。スパイを見つけ出すことに執着する男の、愛国心の強さが人より少しだけ強かったばかりに起こる悲劇。
帰る場所がなくなったのは、自分のせいか。それともたまたま運が悪かっただけなのか分からないまま、故郷の町にも軍隊の中にも居場所がなくなってしまう。
帰る場所がなくなってしまった人が行き着く先はどこなのか。
時計の針を戻す術などない人はどのように歩いていったらいいのか。
帰る場所、戻る時間を探そうとする人に手を差し伸べる人はいないのか。

帰る場所のない人を切り捨てる人間の冷たさ。しかしおそらく自分もそのようにしてしまうだろうと思う自分の情けなさ。人の人生は簡単に歯車が狂う。たとえ発端はちょっとした自分のおろかさからであっても、人はそのおろかさに助けの手も差し伸べない。

主人公の男の考え方も痛いし、演じるチャン・ドンゴンの演技も痛い。ようするにチャン・ドンゴンの存在そのものが痛点を鋭くついてくる感じなのだ。
木浦(モッポ)は港だ
(韓流
シネマフェスティバル2005)
麻薬捜査のために組織に潜入する頭はいいが体力の付いていかない刑事(チョ・ジェヒョン)と、潜入される側の組織のボス(チャ・インピョ)の暢気なコメディだ。
「香港映画のパロディがあるらしい」見る前に友人から聞き、気にしながらの鑑賞だったのだが、聞いていたことによってより楽しめるものとなった。
(見る前に知っていたとしても気にならない程度だ)
組織に潜入するという設定は友は風の彼方に (1986) (龍虎風雲)のチョウ・ユンファとダニー・リーそのままだし、刑事の上司とチャ・インピョの恋話はチョウ・ユンファとレスリー・チャン、チェリー・チェンの出る狼たちの絆の男女三人組の愛を連想させなくもない。(これちょっとこじつけ過ぎか)
決闘シーンでチャ・インピョ 彼の着ている白いコートの裾さばきが男たちの挽歌のユンファを模したものなのは一目瞭然だ。
更にチョ・ジェヒョンとチャ・インピョが教会から決闘場所へ向かうのも、ジョン・ウーの映画を彷彿とさせるシーンだ。しかしこのどれをとってもそのままの設定ではないので、かなりの香港映画好きでも気をつけていないと気が付かないものだろう。
勿論そんなこと一つも知らなくても全然問題のない暢気なコメディだが、こんなことでも気が付けば更に楽しく見られる。

しかしドックフードねたに始まる一連のねたはなくても十分に楽しい映画のように思えるのだが。
チョ・ジェヒョン演じる刑事が頭脳明晰という設定なのだが、ちっともそんな風に見えないし、チャ・インピョの訛りがひどく一つも強面に見えないのだが、それも許される暢気なコメディだ。
サマリア

贖罪とは、善行を積んだりして犯した罪を償うことのはずだ。チェヨンが亡くなったことへの罪滅ぼしのように、彼女が寝た男性と寝、そしてお金を返そうとするユジン。罪滅ぼしであるならただ単にお金を返すだけでもよかったはずだ。お金に手をつけず、二人で行こうとしたヨーロッパに足を踏み入れず、そしてお金を返し、チュヨンへの思いを持ちながらも、表面上は何事もなかったかのように普通に暮らすことも出来たはずだ。しかし男と寝、そしてお金を返すことを選ぶユジン。チュニョンがしたことと同じことをすることによって、罪の意識が少しでも薄れることを望んだのか。しかし彼女の贖罪が又別の犯罪を生んでいくとは、自分のしたことは結局自分の許に戻ってくるということなのか。

物語の後半の流れは、父親だからこその悲しい物語だが、父親だからこその純粋さも感じる。これが母親だったら、母親は娘の姿に女を感じることによって、別の行動を起こしたような気がする。見つめるだけでなく、もっと直接的に娘の行動に踏み込んでいこうとしたのではないか。しかし父親はただ黙って見つめ、自動車の運転を彼女に教え、最後まで結局何も言わずにいる。
全てを語ろうとしても語れぬまま残るものはあり、語りつくしたと思ってもそれで終わりではない。明日は普通に続いていくのだ。何も言わずにいることが逆に明日に繋がることなのかもしれない。

恋の風景 恋人の遺した一枚の絵と同じ場所を探しに、香港から一人チンタオにやってくる若い女性。チンタオを舞台にしたしっとりとした物語だ。
昼間は日の光で明るく、そして夜は必要なだけの灯りで生活する毎日。
毎日が飛ぶように慌しく過ぎ去っていく香港でなく、大きな出来事もなく毎日が流れていく場所でなら、自然に気持ちが落ち着くのを待つことが出来るような気がする。忙しさのせいで寂しさを感じなくなったことを、気持ちの整理がついたことを混同することなどなく。本当に気持ちの整理がついて、悲しいことは悲しいと感じ、それでも新しい喜びを又感じたいと思うこと。、気持ちの整理をつけて、恋人が残してくれた風景を美しいと思う気持ちを感じることが出来るようになること。
こんな気持ちの変化がゆっくりとオレンジ色の光の中(昼間の自然光もオレンジがかっているし、夜は蛍光灯の白っぽい灯りでなくオレンジの薄い光なのだ)静かに語られていく。

カリーナ演じるマンの心の動きが自然に観ているほうにも伝わってくる。演技がわざとらしくなく、自然なせいだろう。。イーキン・チェンのふわふわとした押し強くない雰囲気も設定にあっていて、リィウ・イエと比較しても、とても分かりやすい。

チンタオ(青島)というとビールしか思いつかなかった自分の単純さに呆れる。でもチンタオの落ち着いた雰囲気にすっかり魅了されてしまった。私が最後に思い浮かべる風景はどんな風景だろう。私がいつも心に描く風景はどんな風景だろう。何も思いつかない。ゆっくりそんなことを考えるためにもチンタオを訪れたいとかなり真剣に考えてしまった。
ブリジット・ジョーンズの日記
きれそうなわたしの12ヶ月
観終わった後に、目の下のしわが気になるくらい笑ってしまった。
レニー・ゼルウィガーの衣装も妙だし、弁護士を演じるコリン・ファースの生真面目ぶりもちょっとうっとうしいし、何よりも一番面白かったのはヒュー・グランド演じる女好きが、セラピーを受けても相変わらずだということだ。
でもそこがヒュー・グランド演じるダニエルのいいところだ。そんなに簡単に女好きが直るはずなどない。でもその憎めないところがまたいいのだ。

音楽がこれでもかこれでもかと流れてきて、それを聞いているだけでも楽しい。特に決まったテーマがあるわけでもないようで、オープニングには007シリーズの「私を愛したスパイ」の主題歌まで流れていた。(でも結構これが懐かしく嬉しかった。)
きれそうな私の12ヶ月というが、誰でも結末は想像がつくだろう。でもそれでいいのだ。暢気に2時間楽しめれば。
バンジージャンプする 何に対して、何を持ってして運命というのか。誰が誰を好きなことが最終的に運命なのか。探し出してしまったことが、今の幸せに繋がらなくても、次の幸せに繋がればいいのか。幸せを求める気持ちはどこまで空回りしたら赦されるのか。行き着く先はどこなのか。
観終わっても「なぜ?答えはどこに」という気持ちはなくならないが、その疑問は映画に対するものというより、自分の心に尋ねたくなるような疑問だ。
2000年のイ・ビョンホンは、ファンでなくても一目置く格好の良さだった。そして2000年には居ないのに、そこにまるでいるかのようなイ・ウンジュの強い存在感に関心する。


ホン・スヒョンはサンドゥ、 学校へ行こう!でも可愛らしい感じで敵役を好演しているが、このこの映画でも印象的だった。
主人公二人の悲しみも勿論だが、オ・ヘジュ役のホン・スヒョンの初々しさが、彼女がこれから持ち続けるであろう悲しみも心に残る。
エターナル・サンシャイン 可愛らしい映画だった。ケイト・ウィンスレットも若々しかったし、今まであまり好きでなかったジム・キャリーの持つ品の無さが、一つも気にならなかった。彼の出演作品をこんなに好きになれる自分にびっくりする。
キルスティン・ダンストの役柄も可愛らしくてよかった。あのパートがあったからこそ、物語が更に楽しめるものになっていたのは確かだ。

遠い昔「思い出を汚すな」と言われたことがある。私の思い出でもあったはずなのに、いつの間にかそこから私を消し去り、自分だけの思い出に差し替えられていたことが悔しくて、涙の一つも流したような気がする。
ただ、時間が経った今、覚えていることといえば、涙を流した悲しみより、そんな風に言われながら、「こんな芝居がかったこというような人だったのか」。と首を傾げたことや、「結局 私今まで何を見ていたんだろう」と自分の間抜けさに腹が立ったことのほうが思い出される。

記憶を消そうとしたクレメンタインは冷たいだろうか。私は冷たいというより、向こう見ずだけれど勇気があると思った。忘れることによって憎んだりする気持ちを消そうとしただけなのだ。「忘却は赦すこと」と相手のことを憎んだりせずに済むのであれば、私も忘れことを選択するかもしれない。ただ自分で記憶を消していく時は、楽しい思い出を少しだけでも残すことが出来るけれど、何も残らないのは、なんと悲しいことだろう。
そして忘れようとし、忘れてたつもりになっていても、結局は又同じ道を歩んでしまうのが、、人の面白いところなのかも知れない。
ひとまず 走れ! 何度もVCDで観ている作品の事を改めて書き直すのは大変難しい。
映画館で観て、何か新しい発見があっただろうか?
「大きなスクリーンで見ると、ソン・スンホン(宋承憲)の眉毛はやっぱり立派だ。」そんなことぐらいしか思わなかった自分がかなり情けない。

VCDで観ている際にはイ・ボムスに感謝の気持などなかったのだが、今回改めて大きなスクリーンで見て、彼の出演していたことに感謝の気持ちで一杯だ。誰よりも一番走っていたイ・ボムスに感謝。
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VCD鑑賞時感想は次の通り

「イルタンティオ」
飛ぶ、跳ぶ、走る とりあえず着地の場所は考えず・・・・・

クイーンの「Don't Stop me now」をバックにかなり暢気に楽しく進んでいくコメディだ。
ソン・スンホン(宋承憲)、クォン・サンウ、キム・ヨンジュン演じる3人の高校生 始終タバコを吸い、車を乗り回しているとはいえかなり子どもっぽい。
(その子どもっぽさがこのコメディをテンポのあるものにしているのだが)思わぬことから転がり込んできたw21,370,000,000-を、喜んでいるかと思いきや、
洋服を買ったり、同級生にピザを振る舞ったり、スーパーでジャンクフードを買い込む位でかなり使い方がこじんまりしている。(笑)
ある意味かなり単純である。
何故上から男の死体とお金が落ちてきたか特に追及せず、お金を探しているものが居るなど一つも考えない暢気さ。
「跳ぶ、飛ぶそしてとりあえず走る、先のことは考えず、着地のことは考えず」
私も暢気なコメディが好きなので、この単純さを2時間ゆっくりと楽しんだ。

ソン・スンホン(宋承憲)ファンとしては、ソン・スンホン(宋承憲)のやりたい放題しほうだいのコメディぶりも楽しかった。相手役の女性が出演しなくても、
色男ぶりが推測されるのがこの映画のソン・スンホン(宋承憲)のいいところか。若い時にしか出来ないタイプのコメディ映画だからこそ見せる
悪戯の数々も、単純ではあるが、この映画にぴったりの暢気さである。一緒に観た友人は「もっと弾けてもよかったのでは?」といっていたが
、ファンとしてはあのくらいの弾け方くらいで充分だと思う。

全体に流れる単純さがこのコメディを若くて暢気な香りがある映画にしているのだが、裏を返せば、若さゆえの焦燥感などかけらもないのだ。
そんなこと一つも想像させる場面はなく、映画は最後まで着地の場所も考えず飛んでいってしまう。これが26歳という若い監督の映画である所以か。

イ・ボムス
3人の高校生を追う刑事をイ・ボムスが演じているのだが、先日観た@夢精期とは全然違い走る姿もなかなかだったし、
それなりにかっこよく撮られていたことにびっくりする。やっぱり上手な役者さんなのだ。
(注 残念ながら、クイーンの「Don't Stop me now」は版権の関係で日本上映時には使用されず)
香港国際警察 香港映画好きなことを嬉しく思いながら2時間を過ごす。
ハリウッド映画では観られない、香港映画だからこそ観られる成龍の姿と、成龍を盛り上げるべく頑張っている出演陣の心意気が伝わってきたのが嬉しかった。
アクション映画とといってもコミカルな印象の強かった成龍映画で、このゲーム感覚の事件に翻弄される成龍の姿はかなり異色だろう。久しぶりの香港映画をいつもの作風にしなかったことは、監督の陳木勝の影響が強いのか。
さすがにちょっと老けたなと思うが、成龍のアクションも健在だし、呉彦祖の悪役ぶりも板についている
。呉彦祖と尹子維のコンビが観られるのも嬉しい。楊采[女尼]が久しぶりなのも嬉しい。
伍佰のカメオ出演も嬉しいし、賭博の借金に悩む王傑の姿さえも嬉しい。
(成龍の歌う主題歌の作曲が王傑だったのも嬉しい)香港の夜景が観られるのも嬉しいし、コンベンションセンターの屋根で繰り広げられるアクションシーンも嬉しい。
とにかく、自分が香港映画好きだったことを改めて思い出させてくれたことが、とても嬉しかったのだ。
一つ位駄目だしするなら、謝霆鋒もかなりアクションを頑張ってのだから、蔡卓妍にもアクションをみせて欲しかったことくらいだろうか。
一つも映画の感想になっていないが、本当に久しぶりに、ただただ嬉しく映画を観、楽しい2時間を過ごすことが出来た。
ビヨンド the シー ボビー・ダーリンが誰かも解らない私に、この映画のことを語る資格はあるのだろうか。
踊り歌う姿は整然のボビー・ダーリンに生き写しなのだという。そこまでケビン・スペーシーをボビー・ダーリンに固執させたものはなんだったのか。それは私には解らないが、この映画ではボビー・ダーリンが舞台に賭けた情熱、残された時間を感じつつ歌を歌う姿が、ケビン・スペーシーという姿を借り40年後に蘇る。解ることは、ケビン・スペーシーがどれだけこの役を演じることを熱望していたかということだけだ。そしてボビー・ダーリンが舞台の上で歌うことに、どれだけの情熱を注いでいたかということだけだ。
セルラー 朝7時過ぎから夕方までを90分弱で描いている、この映画のテンポのよさにびっくりする。訳も分からず拉致される主婦ジェシカが、壊れかけの電話でかけた電話を偶然とってしまったがために事件に巻き込まれるライアン。何度も携帯電話を人に渡すチャンスがあったのに、結局は自分で助けに行こうとする。何度も危険な目にあいながらも助けることを諦めない。一瞬の判断で彼女をそして彼女の家族を助けようとする。何の面識もないはずなのに、軽薄さが災いして彼女に別れを告げられたはずなのに。別に助けなくてもいいのだ。ちょっと変ないたずら電話があっただけと思って見過ごしてしまってもいいのだ。軽薄な若い男性だったらむしろそうして当然の状況で、自分でも何故か解らずしかし何故か助けようとする。観ている側に軽薄な彼がどんどん頼もしくなっていく様が気持ちよく伝わってくるのだ。

最近は携帯電話で書いた小説コンテストがあるのだという。携帯という媒体の持つ性格から、若い人の応募が多いそうだが、思いのほか読み応えのあるものが多いのだという。携帯は相手に気持ちが伝わってこそ利用価値があるものだ。携帯という媒体の持つ特性をいかした人に伝わるものを持っている作品が数多くありびっくりするという話を新聞で読んだ。

この映画を観ながらこの話を思い出した。携帯電話、ビデオカメラという通信機器を使い、時間の流れと競争するかのような映画のスピード感が気持ちよく伝わってくるのだ。
ライアンを演じるクリス・エバンスも好印象だし、ちょっと疲れた感じはするがジェシカを演じるキム・ベーシンガーも良かった。大作にはないスピード感が気持ちいい映画だった。
大統領の理髪師 よく考えればかなり悲しい話なのに、見終わった後も苦しい感じは残らず、そして見ている間も思わずにやっと笑ってしまう。
別に辛さを笑いで誤魔化そうとしているわけでもなく、あの時代に生きていくにはああするしかなかったのだろうという感じが、肩に力を入れずに語られていくので、自然に笑ったりしてしまうのだろう。
時代に流されるつもりがなくても、時代の波に流されていってしまう人生が、観ている私にとっては歯がゆい部分もあるが、それさえも観終わってから気がついたこと。見ている間はそれさえも気にならなかった。
彼の価値観がいつも同じというのも、観ている側にとっては安心出来るものがある。大義名分などは関係なく理髪師ソン・ハンモが普通に家族を愛し、普通に子どもを慈しみ、普通に自分の仕事をこなす。そんな普通の人生さえも時代の流れに飲み込まれることによって、沢山の悲しみを生み出したりしてしまうのだ。

子どもを時代の波から守ろうとする映画というと、イタリア映画の「ライフ・イズ・ビューティフル」を思い出すが、(あの極限状況と比較することは無理のは承知の上で)あの映画に感じられる子どもを守る気持ちとは又違う、もう少し静かなユーモアが感じられて、こちらの映画の方が主人公の気持ちに共感しやすいものがあるような気がする。

私が知っている「クデ クサラン」はイ・スヨンがカバーしたバージョンだったので、1979年当時の場面で流れる「クデ クサラン」(その時その人)が普通の演歌だったのにびっくりする。時々テロップで流れる年代を確認しながら、その頃の日本と比べるのも一興か。今でこそ違いは感じないが、やはり隣国とはいえ歩んで来た道が違っていたことを思い知らされる。
オペラ座の怪人 「1950年代に作曲家として活躍できていたら」という1948年生まれのアンドリュー・ロイド・ウェーバーのインタビュー記事を読んで切ない思いになった。周りの状況に左右されることなく、自分の思うままに作曲をすれば全て受け入れられたであろうその時代に、活躍出来なかったことの無念さ。自分ではコントロールすることの出来ないその思いが、クリスティーヌに受け入れてもらうことの出来なかった愛に苦しむファントムの思いと、少しだけ重なって感じられたせいかもしれない。
オープニングのオークション場面から、クリスティーヌが音楽の天使と信じるファントムに連れられ地下の迷宮に連れて行かれる場面まで、流れるように感じられる音楽の力強さに吃驚してしまった。とりたてて音楽に興味もない私でさえ、ちょっと口を開けて画面を見つめてしまったのだから、音楽に興味がある人などにはあの瞬間は至福の時間だったに違いない。ファントムを演じるジェラルド・バトラーのどちらかというと力強い野太い声も、パトリック・ウィルソン演じる子爵の正当な感じとの比較がし易く、とても分かり易かった。

力強くて繊細な音楽が流れる中、画面は舞台を上からも下からも捉えたりするが、舞台ではどうだったのだろう。おそらく舞台ではあの圧倒的な存在感を持つ音楽が、正面からは見えないものも感じさせる力を持っていたに違いない。観客は音の力で表される場面に慄き、涙していたにていたに違いない。音楽の力強さを感じた2時間30分だった。
ボーン・スプレマシー ひとつも浮ついたところがないのにも関わらず、面白さを感じさせてくれる不思議なアクション映画だ。主役のボーンは劇中殆ど話さないのだが、記憶をなくしたCIAエージェントなのだからそれも当然だろう。彼が喋らずとも、観ている私たちはボーンが何故追いかけるのか、どこに行こうとしているのかを彼の身体の動きから感じることが出来る。記憶をなくしても身体が覚えていることの虚しさを感じ、彼が自分の歩いてきた道を辿ろうとする悲しみを同時に感じる。
悲しみを感じさせながらも、面白い映画になっているバランスの妙を感じさせる映画だ。
この映画でだけ格好良く見えるマット・デイモンにも関心する。哀愁を漂わせる背中は、どんな男性でも格好良く見せるものらしい。
きみに読む物語 想い出が少しずつきみからこぼれてゆく。だからきみが思い出すまでぼくは読む。

思い出すことが出来なくなっても、想い出はなくならない。綺麗だと思った時間、二人で過ごした時間 たとえ二度と思い出すことがなくても想い出はなくならない。そんなことを淡々と思わせてくれる映画だった。
綺麗な話だった思う。だからこそ青年期と老年期を行ったりきたりする展開は決まりきった感じで面白みに欠けたのではないかと思うし、ライアン・ゴズリングとジェームス・ガーナーの容貌があまりにも違うのが気になってしまった。ドラマのある話なのだから、もっとドラマを感じさせる編集があってもよかったような気がする。
湖の場面は綺麗で本当に息を呑むほどだった。だからこそ敢えて駄目出ししたい。


ジーナ・ローランズのグロリアが大好きだった。あの映画を見た頃は、行動は違っても、心意気だけはハードボイルドで行こうと思ったものだった。こういう映画で再び彼女を見ることになろうとは、口では上手く言えない不思議な感じだ。
パッチギ! 前売り券には
「世界は、愛で変えられる」という言葉が踊っている。

その言葉に嘘はないし大事なことも判るが、その言葉だけでは何も解決しないことも判っている。どんな出来事にも表があって裏があること、それを忘れていない映画だから、観ていて辛いこともキチンと受け止める気になるのだ。そして物事の表も裏も正直に描いていることが見ていて伝わってくるので、見終わった後に爽やかな気持ちになる。

「タンシエ ケ モッコシプスムニダ」 (あなたの犬を食べたいです)
こんな言葉がわかるようになったのも、韓国ドラマを見ていたおかげだ。
ドラマブームがどれだけお互いを知るのに役立っているか、首を傾げる人もいるだろうが、言葉が直接わかるということは、それだけ相手の事を考える機会も増えるということだ。
相手の事を考える機会が増えただけでも、韓国ドラマブーム(ヨン様ブームとでもいった方がいいのだろうか)は意義あるものだったと思う。

ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」が大好きだった。♪天国良いとこ一度はおいで!酒は美味いし、ねぇちゃんは綺麗だ!♪
レコードは買って貰えなかったので、ラジオから聴こえてくるのを一生懸命待ったり、テレビの歌番組を見ながら一緒に口ずさんだものだ。イムジン河を聴きながら、子どもの頃を懐かしく思い出した。
敗者復活戦
(日韓国交正常化
40周年記念韓国映画祭)
チャン・ドンゴン、キム・ヒソンと、立っているだけで見惚れる程綺麗な二人が、恋愛では敗者という全く現実味の無い設定だが、結構面白い映画だった。
見る前から結末も判るし、当たり前すぎて面白くないという人も居るだろうが、ラブコメディなのだから、落ち着いてゆっくり楽しめるにこしたことはない。
最後のオチはどうかと思うが、まぁラブコメディだし、うるさいことは言わないほうがいいのだろう。
チャン・ドンゴンは本当に何もしない立ち姿でも、格好よかった。
キム・ヒソンの口紅がちょっと時代を感じさせる。いくらフルメイクの好きな韓国女性でも、最近はあそこまでの化粧にはなかなかお目にかかれないような気がするのだが。
手紙
(日韓国交正常化
40周年記念韓国映画祭)
映画館であんなにも沢山の人が洟をすすっているのを聞いたのは初めてだ。
韓国で「催涙性メロ・ドラマ」と呼ばれているのだから、当然なのだろう。

ただ私にはどうしても主演のパク・シニャンの魅力が判らず、洟をすするまでには至らなかった。
そうはいっても、病気の時は、お互いに相手を思いやること、自分が相手にしてあげたいこと この二つがすれ違ってしまうことが一番辛い。その気持ちは十分に伝わってきたし、結婚後幾らも経たないうちに病気で別れなくてはいけない無念さなどは、とてもストレートな描き方なので、やはり胸にぐっとくる。
オーシャンズ12 洒脱という言葉を辞書で引くとこんな説明が出ていた。
俗っぽくなく、さっぱりしていること。あかぬけしていること。また、そのさま。
用例としては「―な味のある俳句」「軽妙―」とこんな感じで使うらしい。

これを踏まえて、この映画を一言で表すなら、こんな感じだろうか。

洒脱な味のある俳優 ジョージ・クルーニーが、気の置けない仲間を集め、大人の余裕を見せながら造った映画。 これ以上の説明は思いつかない。大人の男たちが真剣に、しかもおしゃれに遊べるとはなんと格好いいことだろう。

テレビドラマERにジョージ・クルーニーが出演していた頃は、子どもの頃の夢だった看護婦になるのを止めるのではなかったと真剣に思ったりしたものだ。馬鹿馬鹿しいが、まぁ要するにそれ位好きだったのである。ジョージ・クルーニーはちょっとという人はブラット・ピットを見ていてもいいし、それもちょっとという人はマット・デイモンを見ていてもいい。要するに女性なら誰がみてもはずれがないのだ。ヒットするはずだ。
ジュリア・ロバーツがスペシャルゲストと出演するバージョンは、お遊びの真骨頂ともいえるだろう。スペシャルゲストがまぁ嫌味な感じで、最高だった。彼のテレビドラマも好きで良く見ていたものだ。ジョウージ・クルーニーがERの頃と余り変わっていないのに比べ、彼の変わり方(貫禄が出たと言っておこう)は本当にびっくりする。
ネバーランド ピーター・パン症候群などと、大人になることを拒む代名詞のように使われることへの印象が強く、正直大人になってからは、あまり良い印象を持っていなかったのだ。
今回もヒーター・パン誕生の物語というより、ジョニー・ディップの出演作を観るという気持ちで映画館に足を運ぶ。

「子どもは嫌だ。大人は子どもを騙そうとする。皆嘘をつく」父親の死に触れ、信じることに虚しさを感じる三男ピーター。
母親を守ろうとジョニー・ディップ演ずる劇作家バリに対して、大人の顔を見せる長男。
子どもたちは、現実に向き合わなくてはいけないことで、子どもである自分から脱皮せざるを得ない。劇作家バリは4人の子どもたちが、子どもであることを十分に満喫できるように手助けし、信ずることに大切さを教え、決して急がせることなく、自然の流れで子どもたちが大人になるのを見守ろうとする。大人になることをせかせなくても、子どもは自分で学び自然と大人になっていくものなのだ。
そして子どもたちが大人になるために脱ぎ捨てていかなくてはいけない殻を、一つ一つ丁寧に集め、ピーター・パンという舞台劇を書き上げる劇作家バリ。
デイヴィス一家の4人の子どもたちは、死に向き合うことによって大人になる辛さを学んでいくのだろうが、バリ本人が本当に大人であることを望んだかどうかは、とても微妙だ。子どもでい続けることを選べないことがわかっていたからこそ、子どもたちに対して優しく接していたのではないだろうか。
私は、子どもたちのまっすぐな眼差しを観、信ずる気持ちなどほんのわずかしか持たない汚れている自分が恥ずかしくなったが、今更どうすることも出来ない。

子どもの頃、ピーターパンとダンボとどちらのディズニー絵本を買うか選べといわれ、ダンボを選んだことを思い出した。
ダンボは絵本が擦り切れるほど読み返した覚えがある。
あの時ピーターパンを選んでいたら、映画に関する感想も、もっと違ったものになったかも知れない。

ジョニー・ディップが良かった。劇作家ジェームス・バリには小児性愛者だったのではという噂が残っている。真偽の程はともかく、他の俳優が上手く演じれば、演じるほどその噂を裏付けるような映画になってしまっただろう。ジョニー・ディップの姿を借りることで、知的で繊細な劇作家ジェームス・バリーの一面を知ることが出来たのは幸いだった。

理由 場面が切り替るごとに映し出される東京の空。
子供の頃、夕焼けに染まる空は綺麗にも見えたし、雲に光が映る感じがちょっと恐ろしく見える時もあった。又私が綺麗と思う空でも、友人はちょっと怖いと感じているときもあったりした。同じ空でも見る人、見る時間、見る場所によっていくつもの空があるようだった。
この映画も、事件はひとつ起こった事はひとつのはずなのに、人、場所、時間によって様々な事件の顔が見えてくる。
ある人によっては、厄介ごとのひとつでしかなく、明日には忘れてしまうような事。ある人によっては、築き上げて来たものが一瞬に崩れ去るような事。またある人によっては、と登場人物の数だけ事件の顔があるのだ。

原作を読んでいたので、どんな風に映像として描くのか興味があったのだが、原作と同じつくりで映像化していながら、原作本を読んだ人も満足させるとはなかなか出来ることではない。原作を読んだ人は、自分の中で必ず映像化されたものを持っているはずだ。それに近いものを見せながら、けっしてあらすじだけを追ってはいない事に関心する。

宮部みゆきの本はこの「理由」と「火車」が好きだ。(残念ながら最近の作品は未読である)火車では関根彰子という女性を探す話でありながら、本人は一切登場せず、彼女を探す刑事の調査から関根彰子を焙り出すという形式で語られ、この理由は事件に関わった人々が語る言葉から、何故事件が起こったのかその理由が焙り出されていく。
面白いのは「火車」では関根彰子本人は登場しないにも関わらず、彼女の境遇(クレジットカード破産、そしてそれに続く彼女の人生)がこれでもかと焙り出されるのに、この「理由」ではあれだけの登場人物(107人だという)の口で事件が語られるにも関わらず、事件の渦中にいる八代祐司の姿は少しも見えてこないのだ。事件の全貌はわかっても、渦中にいる人物はぼんやりとしている。焙り出されることにない人物が渦中にいるということが、こんな事件を起こしても他人には顔の見えない人がいるということ。それがこの映画をよりリアルに感じさせてくれる理由だと思う。
世の中に人は沢山溢れているはずなのに、みな自分と関係ない人の顔は見ようともしないし、解ろうともしない。自分は助けて欲しいのに、他人は助けようとしない。勿論そんな中にも、助けようとする人はいるし、他人を思いやる心を持っている者もいる、これからの未来を感じさせる者もいる。しかし私にとっては、冷たい世の中の感じや、そんな世の中に対する警告が感じられる映画だった。
カンフーハッスル 私が感想を書くのにいつも苦労するのは、ジャッキー・チェンの映画だ。どの映画を観ても面白さに若干の違いこそあれ、それを言葉にしようとすると「2時間弱楽しませて貰って感謝」それが全てになってしまう。
いつもそれ以上のことが思いつかない。
これは私だけの問題で、勿論沢山語ることを感じる人もいるはずだ。
これに近いことがチャウ・シンチーの映画にもいえる。
勿論カンフー映画に対する尊敬の念は痛いほど伝わってくるし、言葉の要らない面白さ、ちょっとしたしぐさに感じる愛情など(キャンディー売りの少女への恋慕)は映画ならではの表現方法だといえるだろう。
登場人物がこれでもかというほど、見た目で笑えるのもシンチー映画らしい。
そしてブルース・リーに似た斧頭会組長や、豚小屋砦のマドンナもどきもには、キャスティングの妙も感じる。
しかしそんな細切れな感想を取りまとめる言葉は「2時間弱楽しませて貰って感謝」そんな単純な言葉しか思いつかないのだ。

斧頭会がやってくるまでは貧しいながらも平和な毎日だった「豚小屋砦」。この凄いネーミングの街が幸せだったのは、今書店に並んでいる森永卓郎の「所得半減」経済学昭和30年代に学ぶしあわせ術の論理と同じだろう。

最後の豚小屋砦で繰り広げられるシンチーと斧頭会との格闘シーンは、マトリックスのシーンそのものだった。アクションシーンでセルフカバーというのは、本家の余裕なのだろう。


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