このごろ思うこと パート4

☆娘の入院
  (1998年6月)

 「娘さんの症状ですが、今がピークで、点滴により肝機能の数値が順調に下がればいいのですが、今以上に上がると難しい場合もありますので、そのことを承知しておいて下さい」。5月29日、私は医師にそう言われました。
 一週間以上、胃痛・はきけを訴え、ほとんどものが食べられずふらふらになりながら、それでも生後4ヶ月の我が子に母乳をあげるため頑張っていた娘が、目がまっ黄色になっているのに気づき病院へ行ったところ、急性肝炎で即入院だと言われたのです。

  診察室ですぐに点滴が始まり、肝機能検査の結果、緊急事態に対処するため設備の整った大病院への移送が決定されました。孫を抱いて一緒に救急車へ乗り込みましたが、点滴をしながらベッドに横たわっている母親を見つめる孫の目は理解の限度を超え凍りついていました。

 入院手続きを済ませ、個室で治療を受けている娘を残し、私はお腹を空かせて泣く孫とタクシーに乗って家へ帰りました。母乳だけで育った孫はこれまで哺乳びんをまったく受け付けなかったので、何とか通院で治せればとのんきに考えていた私は、突然起きたことがまだ受け入れられず涙があふれて止まりませんでした。

 どうしても哺乳びんからミルクを飲んでくれず、声の限りに泣き叫ぶ孫を抱いて途方に暮れている私を見て、主人が知り合いの小児科の先生に電話をかけてくれ、事情を話し助言を求めました。ミルクを飲まないならスプーンで一匙一匙、根気よく果汁や砂糖水を飲ませて脱水症状を起こさないよう気をつけてあげて下さいという答えを聞き、何が何でもミルクを飲ませなければという私の偏った考えがふっとニュートラルに戻りました。

 私の肩の力が抜けたのが孫に通じたのでしょう、マグカップの吸い口から砂糖湯を飲んで、朝までぐっすりと寝てくれたのでした。

 私は一睡もしないで、この現実は一体何を私に気づけと言っているのだろうかと、内側を見続けました。娘が公務員を辞め、私のところで働きだしてからの娘と私の関係性が心に浮かびました。妊娠、出産、子育て、それを共に体験し、楽しみも喜びもたくさん分かち合ってきたのに、私の心の奧の奧に被害者意識があるのに気がついて愕然としました。

 「仕事が忙しいのにほどんど仕事をしてくれない」「こんな事なら他の人を雇えば良かった」という思い。そして今回体調が悪いと寝ていた彼女を、レポートの締切、発送と忙しさにかまけて、いたわってあげられなかったこと。「この子と一緒に鏡に映ったら、顔が黄色い気がしたんだけど」という娘の顔をじっくり見ることもせず「赤ん坊のピンク色の肌と比べたら、大人は誰だって黄色く見えるんじゃない」と一笑にふしてしまったこと。どんなに苦しかったろうと自分を責め、涙を流して浄化し、もう被害者意識はいらないとクリアリングしました。

 今度は子供の頃からの彼女との関係性がどんどん思い出されてきて、彼女の心を傷つけたことをひとつひとつ見つめて、謝り、クリアリングし続けました。そして何の条件もつけず、ただ生きていてくれるだけでどんなに嬉しいか気づかされました。無条件の愛を学ばされたのです。この事をわからせてくれるために、彼女は病気を演じてくれたのです。

 翌朝、私がもう無理にミルクを飲まなくても離乳食を始めればいいと思ったら、初めて哺乳びんからミルクを飲んでくれました。これはママのおっぱいじゃないと泣きながら・・・。そしてその日一日泣きながらミルクを飲み、次の日からはもう泣かずに喜んでミルクを飲むようになりました。

 次に見つめさせられたのが仕事のことです。好きで天職だと思ってやっていたつもりなのに、締切に追われ無理を重ね、ねばならないの心でやっていた事に気づきました。「もうこうなったらいつでも事務所を締めて、レポートだけを作ろう。これをきっかけにいい加減に仕事をするということを学ぼう」とニュートラルに戻ったら、今回のことをお聞きになった会員の方がボランティアを申し出てくださり、毎日どなたかがお手伝いに来て下さっています。

 入院した次の日、「娘が死ぬかも知れない」と地方へ行っている津留のパートナーに電話した時、「気づいて欲しい事があって宇宙が今回の事を起こしたので、それさえ気づけばきっと治るから」と励ましてくれました。その事は娘には言わなかったのですが、その日病院へいくと娘が「見つめなければならない事があったのに辛いので、子育てに忙しいと自分に言い訳して見て見ぬ振りをしていたら宇宙にこの子を取りあげられて見つめざるを得ない状況へ追い込まれちゃった。そしてやっと見つめることが出来た」と話してくれました。それから5000以上あった肝機能の数値がみるみる下がり始めました。

 入院は最低一ヶ月だと言われています。有り余る自分だけの時間のプレゼントで自分をじっくり見つめ、リフレッシュして戻ってきてくれることでしょう。私はベビーシッターさんの手を借りながら、代理ママと仕事に励んでいます。今回のことは、もう私は大丈夫だという思い上がりに対し「まだまだですよ。ゆっくり人間として感情を楽しみ、味わって下さい」とのメッセージだと受け取りました。

 とても感情が出るようになり、喜びも感謝の気持ちも、辛ささえもいとおしく感じます。そして出来事に良いも悪いも無いのだと、ただ体験する為にここにいるのだと思います。
 いつもそばに孫がいます。天使のような笑顔とともに・・・。

          (「このごろ思うこと」ここまでは創世会レポート掲載分です)



☆津留さん肺癌になる  (2000年9月)

 津留が仕事場兼住まいの東京都世田谷区から、生まれ故郷の福岡に移り住んだのは1999年11月のことでした。福岡には講演会やグループセッションで月に一度は行っていたのですが、この年に見た蛍のあまりの美しさに魅せられ、福岡へ住むことを決めたようです。

 しかし移住してすぐにひどい風邪にかかり、病院へ行ったところ、レントゲン検査で末期の肺ガンだと宣告されました。それ以前1年間くらい、咳がひどく私は病院へいけばいいのにと心配していたのですが・・・。

 入院、治療をしても余命6ヶ月と言われた津留は、治療しない方を選択しました。そして痛み止めだけは使いながら普通に生活していました。2003年5月までは講演会や個人セッションを続けていましたが、その後は車椅子で自然の緑の中へ出かけたり、そして蛍はもちろん見に行ったそうです。

 片肺が全く機能していないため、脳が酸欠状態になり、ひらがながやっと書けるくらいになり、体も思うように動かなくなってきていましたが、夏には3才になる我が子と浮き輪で海に浮かび「体が軽く感じる、いい気持ちだ」と喜んでいたそうです。

 私は東京の事務所を閉め、自宅へ事務所を移しました。そして時々福岡へ津留に会いに行っていました。津留がガンとわかったころ、私の自我は「津留はガンにかかり、想いが現実を創るということを私たちに身を持って教えるのがシナリオなのだ」と思いこもうとしていました。しかし、3月の講演会のとき、「私にとって、生と死は全く同価値なのです。一枚のコインの表と裏のように同時に存在しているのです。死を宣告されたから、私の今の生は素晴らしく輝いて感じられます」という言葉が耳に入ってきてからは、「これから先のことは津留が今世、決めてきたシナリオなのだから、死も生もどちらでもいいんだ」と心から思えるようになりました。

 津留の病気をお知りになって心配してお電話を下さった方へも、「治っても治らなくてもそれは津留のシナリオですから」とお話しました。福岡では津留の小・中学校の時のお友達が悲壮なお顔でお見舞いにきてくださっても、本人や私やパートナーがあまりに明るいのでびっくりされたようです。

 しかし人間としての感情がないわけではありません。今まで弟のサポートをするのがライフワークだと思っていた私ですから、その弟が死んだら私は何をすればいいのだろうと先の不安で、今まで治っていた不安神経症が再発しました。今、この瞬間に生きるということが身についてきたと思っていたのに・・・、時間は一直線上にはないと知っているのに・・・。

 自我は変化を恐れます。今の幸せが永遠に続くと錯覚してしまいます。「今・この瞬間」の大安心の心の位置に、瞬間、瞬間、い続けることはまだまだできていませんでした。それはゆっくりやっていこう、あせらずに・・・。そしてせっかく人間として感情を味わうためにやってきたのだから、いっぱい心配し、いっぱい泣こうと思っているこのごろです。



☆津留さんの死  (2000年11月)

  10月17日津留が亡くなりました。最後のころの会話です。パートナーが「あちらへ戻ってもすぐに帰ってきてよ。そしてその人が津留さんだとわかるようにサインを決めておこうよ」といった時、「ウーン、それはできないな」・・・。
  うとうとしていてあちらとこちらを行ったり来たりしていたころ「すごいんだよ」、「何がすごいの?」、「ミラクルなんだ」、「どういうふうに?」、「こちらの言葉では表現できないよ」・・・。

  一連のことが終わったあと、心の整理ができないまま、精神世界と少し距離をおいて毎日毎日の日常生活に意識の焦点をあわせ、起きて来ることを人間として楽しむ生活をしています。
 孫は2才、来年から幼稚園です。娘はインターネットで幼稚園さがしをして、裸足で泥んこ遊びを奨励している幼稚園に決めたようです。幼子と一緒に生活していると本当に癒されます。虫や動物、お魚が大好きで、それらと人間に違いがないようです。美しいものをかってもらうと猫や犬に見せてお話しています。テレビで知らない虫や鳥をみると図鑑でしらべます。主人も孫の影響で少し角がとれたようです。

  「今、居るところがあなたの進化のための一番いいポジションなのです」という津留の言葉が聞こえます。「もう私の役目は終わったから、一足お先に帰ります。すべては自分の内側にあるのだから、自分のやり方で、速度で、一人で歩いていきなさい」と私には聞こえます。
 津留さん本当にありがとう。私の弟役、先生役を演じてくれて・・・。