このごろ思うこと パート16

☆娘の結婚  (2005年12月)

 「年内にけじめをつけたいので、12月29日(孫の8才の誕生日)に結婚式を挙げようと2人で決めたのだけどどうかしら」と言われたのが、11月はじめでした。そう遠くない時期にはと思っていたのですが、急な話にびっくりしました。娘と孫は既にヒデさんのお宅に伺い、ご両親から受け入れていただいたそうです。

 私の主人は一人っ子で、両親に山口家を立派に継いで行かなければならないという教育を受けて育っているので、娘や孫に将来は山口家を継いで行って欲しいと思っていました。ですから、娘に好きな人が出来て、結婚するかも知れないと私が話したとき、ムッとして、そんな話は聞きたくないと一蹴されてしまいました。

 娘にその話をすると、「私がちゃんと話すから大丈夫」と自信満々です。今まで何度も主人の度肝を抜くようなことを決断し、その度に父親を説得して来た自信です。1つ目が、公務員を辞めて、津留の元でサポートしていた私の仕事を手伝うという選択。2つ目がシングルマザーとして子供を産む事を決心したとき。3つ目が自分が納得できる子供の小学校入学のため家を出て、学校の近くに引っ越すということ。そして4つ目が今回の結婚のことです。

 私達夫婦は子供達が幼少の頃から性格の不一致で、家の中が居たたまれない雰囲気だったうえに、父親が自分の意見を押し通し、妻や子供を自分の持ち物の様に支配したがる人だったため、娘は父親に対する恐怖感から、男性不審に陥り、恋愛はしても結婚して、男性と同居するなんて考えられないと常々言っていましたので、私はずーっと娘と孫と一緒に生活できるものと考えていました。

 そんな娘がソウルメイトとめぐり合い、出あって3回目にプロポーズされたそうです。それ以前に娘は自分の恐れと向き合い、浄化を続けていました。そして本当に欲しいものを宇宙にお願いしていたようです。その中にパートナーも含まれていたのでしょう。

 11月4日に娘は父親に話しました。そしてヒデさんが6日に挨拶に見えました。話が終わった後、ヒデさんの希望で山口家のお墓に一緒にお参りに行きました。主人はヒデさんのお人柄を認め、O・Kサインがでました。その時、まるでジェットコースターのような今後の2人の、いや孫も含め3人のこれからの予定を聞かされましたが、まだ2人が報告していないので、ここに書く事はやめます。

 その後、結婚式の会場や招待状の製作、2人は色々な問題を一つずつ楽しみながら、進めています。そして11月27日の大安の日にヒデさんとご両親が来宅され、両家顔合わせを無事済ませました。

 3次元的に言えば、2人はまだ仕事をしていません。これから2人で自分達の本当にやりたいことを見つけ出す人生の旅立ちです。そのことに正直なところ始めは抵抗がありました。私はセッションの中では、「働かなくても生きていけます。働かなくては生きていけないという恐れをじっと見つめましょう。そこにある古い価値観を見つけてください。自分にイヤな事をさせない勇気を持ってください。その道が宇宙の大きな流れに乗っているのでしたら、必ずそういう生き方が出来るでしょう。もし、どうしてもうまくいかない時、それはあなたの選んだ道は本当にその道ですか?というメッセージだと受け止めて下さい」と言っています。

 ご質問に対する答えは、いつも自分自身に向けて答えています。私は2人を信じることにしました。ソウルメイトだとお互いに認識しあっている2人ですから、きっと素晴らしい人生を歩んでくれるでしょう。3人の行く末を楽しみに見守るつもりです。

 私自身なかなか踏み出せない道です。でもすべての人はみな違う体験を計画してきています。葛藤の中にあってそれを感じつくす事と、自分の今いる場所を「ここが私の魂の進化のために一番いい場所だ」と受け入れる事と、自分が握っている固い価値観を外す事はまったく同じ事なのです。外すことがなかなか難しいときは、どうぞ受け入れてください。それがいいことだと受け入れるだけで、悪いことがいいことに変ります。

 私の母親は慈母観音のような温かい人で、怒った顔を見た事がありません。叱られたこともありません。私が苦しいとき、一緒に苦しんでくれました。10代の頃、友人のお宅に泊まるとウソをついて外泊し、それがバレているのを知らず家へ帰った時でさえ、温かく「お帰りなさい」と迎えてくれました。(後日、友人にバレていると聞かされました。)この時の母の想いはどうだったのでしょう。ただただ私を信じてくれようとしたのか、帰ってきたことで、そんな嘘つきの私を許してくれたのでしょうか? これは今でも分かりません・・・。

 末期がんの床にあっても私には下の世話をさせず、「ちょっと外へ出ていて」と言って付き添いさんに介助してもらっていました。1987年の年末、あと2、3日でしょうと医者に言われ、このまま九州にいると主人にも了解を取っていたのに、「お正月に主婦がいないと大変でしょ。子供達も寂しがっているわよ。私の事はいいからお帰り」と私の事を第一に思ってくれ、その上、旅費の心配までしてくれたのでした。そして「また来るね」という私の約束が守られたのは母が危篤の時でした。私が着くのを待ってくれていたのでしょうか、一晩病室につき添い、その朝天国へ旅立ちました。

 結婚してからは1年に1週間ほどしか会えなかった母、でも実家に母がいるということが、私の心のよりどころでした。いつでも帰るところがあるという安心感・・・。いつでもその胸の中にとびこんでいける私の原点でした。

 最近あまり思い出しもしなかった母のやさしさを、今日道を歩きながら突然思い出し、涙があふれてきました。ああ、私はこんなにも愛されていたんだと・・・。次から次へ母からもらった愛を見せられました。まさに無条件の愛です。これは私へのメッセージだとわかりました。

 娘から結婚すると聞かされて以来、娘が遠くへ行ってしまうような、取り残された子犬のような心細さを感じ続けていた私に、「母親の愛とは遠くから見守ることですよ。そしてイザ助けを求めて来たときはつべこべ言わず、出来る限りのサポートをしてあげることですよ。」と母が教えに来てくれたと確信しています。

 母のように、常に微笑んでいる母性には程遠いけど、私なりの母性を創造して行きたいなと感じた今日、このごろでした。




☆娘の結婚A  (2006年1月)

 
12月29日の午前8時ごろ、娘の結婚式会場へ向かう電車の窓から外をを見ていた娘が、「あっ富士山だ!」と言いました。彼女には富士山センサーがあるらしく、いつも娘から教えてもらいます。(市川からも富士山は見えるのですが、よほどいいお天気のときしか見えません)

 結婚後しばらくの間ニュージーランドで暮らすと聞かされていましたが、式の日取りが決まった後で、ニュージーランドのオープンチケットが1月2日しかなく、その後はかなり先になるからと、2日の出発を決めた時点で、ジェットコースターに乗ったのような日々が始まりました。

 パスポートを新しい名前で申請するために、12月2日に入籍と孫との養子縁組をおこないました。それからパスポートの申請(入籍が書類として有効になるのに1週間かかるそうです)、今住んでいる部屋の解約手続き、孫の二学期の終了を待っての引越しの下準備、23日に2人が主催したるーえさんの講演会の準備、実行。26日の引越し、それら一つ一つを「今・ここ」に意識をあわせ、あせることなく楽しんで進んでいく二人は宇宙の流れを信頼し、ゆったりお任せしているようでした。

 るーえさんのお話会のメインテーマも「今・ここ」に全てがあり、並行宇宙も、過去生も「今・ここ」にあるのだから、今に意識を合わせさえすれば恐れ、不安はなく、どこへでも意識を飛ばしてメッセージを受け取ることが出来るという内容でした。

 私の娘への手助けは孫を預かり、孫と共に楽しむこと。クリスマスイブは孫のパパとしばしのお別れのお食事会でした。パパもいっぱいの愛情を注ぎ、送り出してくれました。

 孫が通っている学校は深い理解をしてくださり、外国へ行って様々な体験をすることと、学校へ通う事は同じくらい価値のあることだと受け入れていただき、メールのやり取りで家庭学習をすることになりました。「少しだけお別れ会」も開いて下さり、校長先生をはじめ諸先生、クラスメートの寄せ書きや写真をはった素晴らしい1冊を下さいました。いつでも戻っていける場所があり、孫は安心して旅立つことが出来ます。

 武蔵野の風情を残している閑静な場所にある、隠れ家風のフレンチレストランを借り切って人前結婚式と披露宴をすると2人で決め、細かい内容まで相談して決定したようです。お天気が良ければ日本庭園でということでしたが、小春日和の中、庭園で結婚式が執り行われました。

 2人で選んだCDや、生のアメイジングレイスの歌声が場面場面を盛り上げ、選んだドレスが庭園での動きに美しさを増し、娘は今まで私が見た最高の美しさでした。満ち足りた幸せ感がこうも人を美しくするのだと、胸が一杯になりました。どうぞこの幸せを持ち続けられますようにと祈るばかりです。孫も可憐にリングガールをつとめました。

 式に参加してくださった全ての方の受付での署名が、この結婚の立会人という形になり、それに新郎・新婦が署名し、さらに両家の父親が署名して一枚の結婚証明書になりました。式の最後はフェザーシャワーとシャボン玉シャワーで祝福しました。真っ白い羽に一枚一枚重りとしてビーズを通して心を込めて手作りしました。皆様に一握りづつ持っていただき、新郎と新婦が退場するときにまきました。白い羽が空に舞い、天使の祝福のようでした。

 披露宴ではウエディングケーキのカットのあと、孫が呼ばれ、バンドの方がハッピーバースデーの演奏をする中、誕生日のケーキが運ばれて来ました。会場の皆様が歌ってくださって、孫は満面の笑みでローソクを吹き消しました。

 この結婚式には、津留さんのパートナーだった方と津留さんの子の○○ちゃんも出席してくれました。○○ちゃんと孫は小さいとき一緒の家に住んでいたこともあり、また通う小学校も同じでとてもなかよしです。○○ちゃんはエネルギーの流れや人の気持ちがよく分かる子で、少し前から学校で会う孫の様子が今までと少し違うように感じ、気になっていたようです。

 それで披露宴で隣の席に座っていたので「大人には絶対言わないから何が悩みがあったら言って」と悩みを聞いてくれたそうです。そして家に帰って子供なりに考えたのでしょう、「ママ、家の住所を書いた封筒を10枚と便箋を用意して」と言ったそうです。そしてそれを持って次の日(30日)我が家に遊びに来てくれました。そして「何でも気持ちを書いて、封をしてのりで貼ってママに出してもらったら私のところに手紙が来るから、書いてね」と言って渡してくれたそうです。その日一日2人は楽しそうに遊び、どうしても別れがたくお泊りするというので、さすがに明日の大晦日の準備があるママは帰り、2人は一つの布団で夜中の3時まで遊び、眠りました。あまりのかわいさにデジカメで写真をとりました。

 明日、いよいよ出発です。私も「今・ここ」に意識を合わせ、寂しさに落ち込むのではなく、今を生き切ろうと思います。そしてベストシーズンのNZに遊びに行くぞ!2月12日のダンスの発表会が終わったら・・・。

 私は肝臓が悪く、定期的に検査をしているのですが、ここ半年ほど咳がでるので、弟のように肺癌になったらイヤだなと思いつつ先生にお話したら、すぐレントゲンをとりましょうと言われ、レントゲンが出来あがったら、なにか気になるモノが映っているのでCTを撮りましょうと言われ、病院の終わる28日にCTを撮りました。

 そして津留さんのパートナーと話しているとき、肺癌の末期の津留さんがすごく苦しんだので、肺癌だけにはなりたくないと思っていたのにと愚痴を言うと、次の日(31日)、○○ちゃんを迎えに来た時、軽く「山口さん、肺癌だけにはなりたくないという思いを取った方がいいかもしれませんよ」とアドバイスしてくれました。

 本当にそうだと思います。△△だけにはなりたくないという思いは、強い思いなのでそのエネルギーを引き寄せることになります。それ以来、5日の結果発表のことなど忘れ、今を楽しもう、もし何か病気ならその時考えればいいんだからと吹っ切れました。

 起きてくる事は皆メッセージ、そして今している体験はしたほうがいいからと自分の意思でしていると思えたら問題なんて何にも無いですよね。そしてその体験のなかにあって人間として苦しみ、のた打ち回り、喜びに歓喜し、怒り、嫉妬し、また楽しみ、穏やかだったり、あせったり、ありとあらゆる感情を体験する。それが肉体を持つということ。おおいに人間をやりましょう。そう思うこのごろです。




☆意識の焦点  (2006年2月)


 1月2日、娘達一家はしばらくの間ニュージーランドで生活する為、成田空港を出発しました。成田空港までヒデさんのお母様と私が見送りに行きました。孫は行きたい気持ちと、私や身近な人と離れ離れになって知らないところへ行く不安で心が揺れているようでした。見えなくなるまで手を振り続けている孫に愛しさがわいて来ます。「たくさん、かけがえのない体験をしてくるのよ、会いにいくからね」と、私も手を振り続けました。

 昨年の11月、娘から12月中に結婚式を挙げ、1月にNZへ行くと聞かされたとき、ニューベイビーがお腹にいて、その出産をできればNZで体験したいという希望も含まれていました。その時、一挙にたくさんの事を知らされたので、ニューベイビーの誕生の喜びにあまり意識を向けてあげることが出来ませんでした。

 娘は病院へ行き、入籍を待って母子手帳を貰い、超音波で映した赤ちゃんの写真も見せてもらいましたが、私の意識は結婚式と、娘と孫がNZへ行ってしまい寂しくなるという方向へ向かっていて、赤ちゃんを楽しみに、心待ちにするという方向へはほとんどいっていませんでした。

 勿論、引越しや、結婚、旅立ちの準備のため飛び回っている娘に「つわりはどうなの? 身体を大切にしなさいよ。」と言っていましたし、嬉しい気持ちはありましたが・・・。

 今日お買い物にいったとき、ベビーカーをおした若いお母さんと3、4才の男の子がいました。男の子はとても聞きわけがよく、お母さんの買い物のお手伝いをしていて、私はその有様に目を細めて見とれていました。買い物が終わり外へ出ると、男の子がベビーカーの後ろの台に立って、2人をお母さんが乗せて歩き出しました。ああ、子供ってなんてステキなのかしら、キラキラ光っている。見ているだけで私まで幸せな気持ちになってしまうなー。

 その親子を見たとき、私が若い母親だったころ、弟が乗ったベビーカーの後ろに娘が立って、いつも外出していた事を思い出しました。娘は1才6ヶ月でお姉さんになり、寂しい思いをしたことも多々あったと思いますが、弟の面倒を本当によく見てくれました。弟も「おーちゃん、おーちゃん」と後ろを追いかけて、子猫のようにじゃれ合い、喧嘩しても喧嘩してもいつもくっついていました。若い母親(私)は思慮が足りず、たくさん子供の心にトラウマをつくってしまいました。夫婦仲が悪く、子供にとって家庭は決して居心地のいいものではなかったでしょう。でも子供を可愛い、かけがえのない存在だと思い続けてきた事は事実です。

 そして、2人の子供達がそういう私達のところに来てくれたということは、それを(高次の自分は)体験したかったとも言えるでしょう。今、それぞれ素晴らしい大人に成長してくれて私は何と幸せ者でしょう。物理的に離れて暮らしていても、2人は自分の信じる道で、自分が本当にやりたい事をやっています。

 今日幼子を見て「なんて可愛いの!!」と思った瞬間から、私の意識はニューベイビーに向きました。「ああ待ち遠しいなあ、今度は男の子かしら、それともまた女の子かしら」と・・・。今まで、「NZへ行ってしまい寂しいな」というマイナスの方向へ意識が向いていました。それが、「もう1人孫が生れるんだ。なんて私は幸せなんだろう」とプラスの方へ意識の向きが変ったのです。意識の向きを変えただけで不幸から幸せへとシフトしました。

 娘は水中出産で孫を産みました。私は一部始終を共に体験し、孫のへその緒をはさみで切りました。ですから、ひとしおその孫がかわいくてなりません。素晴らしい体験でした。娘は今回も水中出産を望んでいます。夫や娘にも立ち会ってもらいたいと思っているようです。NZはそういう自然なお産を望む人が多いそうです。私もまた是非立ち会いたいと望んでいます。

 娘達はヒデさんのNZでのお母さんのところへとりあえずお世話になっています。そしてヒデさんは妻や娘が自分の大好きなNZを気に入ってくれるかどうかを見定めてから、次の行動へ移すといって旅行者として3ヵ月後のチケットの予約を入れて出発しました。(勿論予約の変更が出来るチケットです)

 約一ヶ月生活してみて、もう少し長く住みたいという意思の確認がとれたのでしょう、車を買って、NZをあちこち旅行してみて、自分達が住みたい町を探すそうです。

 娘から最初に来た絵はがきの文章を紹介します。

 飛行機の乗り換え地のシンガポールで2泊3日滞在し、動物園・ナイトサファリ・バードパーク・リトルインディアなどを訪れ、エスニックな食べ物を楽しみました。

 6日にNZのオークランドへ到着。深夜のドライブで明け方にマウントマンガヌイのドナさんのお宅へ着きました。まばゆい夏の陽射し、広い空、青い海、きれいな空気を満喫しています。でも朝晩は寒いくらいでいつも風は爽やかに吹き渡ってとても心地よいです。

 娘はもう友達ができて、海やプールで一緒に遊んでいます。皆、元気ですのでどうぞご安心下さい。


 出発前にホットメールのアドレスを取得して、メールのやり取りやパソコン電話がかけられるようにしていってくれ、時々孫と話すことができます。無料だそうです。でもお互いがパソコンを開いているときにしか繋がらないので、そういう意味では時差の4時間は面倒です。

 メールを少し紹介します。

おはようございます。
やっとメールチェックできました。

毎日3食作って(昨晩は、採って来た貝でペスカトーレを作りました)買出しに行って、お散歩や海へ行って・・・、それだけで一日が過ぎてしまいます。

パソコンはドナさんのお宅の電話回線を使わせていただいているので、なかなか気軽には使えません。

じゅんじゅん(私のこと)が来る便名・時間等、了解しました。
娘がオークランドの動物園に行ってみたいと言っているので、空港へお迎えに行った際、お疲れでなければ、その足でオークランド市内&動物園を観光したらどうかと思っています。体調を整えて、楽しみにいらしてくださいね。

娘は、今朝も、猫のロングソックスとテラスで遊んでいます。この辺は猫ちゃん天国で、お散歩していると人懐っこい・かわいい猫とたくさん出会います。娘もヒデさんも私も、彼らとのふれ合いをとても楽しんでいます。

こちらは、今日もいいお天気。今日はサンドウィッチをつくって、公園にピクニックに行こうかな?

では、またメールします。


こんにちは。
今日は珍しく曇り空。とても涼しい一日です。午後3時ころから、買い物がてら、3人でてくてく散歩してきました。徒歩30分ほどで、大きなショッピングモールに着きます。

途中には、芝生の公園や、牛が放牧されている牧草地があります。この一面の緑の景色と、草のにおいが、NZらしさですね。空港を一歩出ると、もうそんな感じですから・・・。

絵はがき、着いたんですね。喜んでもらえて、よかったです。マウント・マンガヌイの写真のハガキにしたんだっけ? 延々と白いビーチが続く、キレイな街でしょ?

昨日の夕方は、このビーチを往復2時間ほど散歩して、お腹をすかせてからお店で揚げたてのフィッシュ&チップス(美味しいのだ)を買って、ピンクに染まる海を眺めながら、ビーチサイドのテーブル・ベンチで食べました。

チップスって、フライドポテトのことね。これ一人前で3人分あるの。フィッシュ・フライは3切れ頼んで、合わせて10ドルちょっと。(約800円)

家から冷えたビールやレモネード、ケチャップ・レモン汁、パン・果物などを持っていって、超ゴージャスなディナーになりました。

そうそう、今日郵便局へ行って、ハガキを結婚を知らない友人たちや結婚式に出てくださった方々へ送りました。

こちらにはプリンターがなく、結婚式の写真を使ってハガキをつくる・・・といったことができませんので、みんなNZの絵葉書にしました。

今は永住といった先のことは考えていません。でも、できれば1〜2年、こちらで暮らせるようにしたいなぁ・・・と、ヒデさんの中で、心が固まりつつあるようです。

でもしばらく住むのなら、もう少し田舎町がいいとも感じているようで、そのためにも、車を買ったら、国内をあちこち旅行してみたい、と言っています。

私も、せっかく来たのだから、あちこち見てみたいし、地図を見て、どうこう言うより、実際その地のエネルギーを感じてみないと、住むも住まないも、検討の余地がないので、それには賛成です。

娘は、家で退屈しているときは、たまに寂しいとか・日本へ帰りたいと言って涙を浮かべることもあります。

ハーフのジャスミンちゃんという7歳のお友達は日本語も話せますが、その異母姉妹のグレイスちゃんやエマちゃんは英語オンリー。一緒にいるときは、身振りも交え、ゆりが逆に日本語を教えたりして楽しそうに遊んでいますが、やはり、英語がほとんどわからないということが、娘の中でプレッシャーになったりしているようです。

日本の気心の知れたお友達と遊ぶのとは、やはり違うものね。私でも、英語がわからない事がプレッシャーなので娘の気持ちもよくわかります。

でも、自然の中にいるときの娘はほんとにのびのび・活き活き、楽しそうに輝いています☆

少しずつ、ゆっくり慣れていけばいいのかな? 今は娘の気持ちの揺れを、しっかり受け止めて、あたたかく見守ってあげようと思っています。

では、またメールします。体調に気をつけて、ダンスの練習がんばってください。


 1月号で肺ガンの検査をすると書いたら、何人かの方にご心配のメールを頂き、ありがとうございました。何の問題もありませんでした。肝硬変は持っていますが、もう長年のお友達なので、仲良く共生していくつもりです。

 母も弟もガンで亡くなりました。ですからどうしてもガンという言葉に反応してしまいます。体調が悪いとガンではないかしらと意識を向け、新聞広告のガンが治ったという本に目が留まってしまいます。今ガンでもないのに・・・。

 今回肺ガンと肝臓ガンの疑いありでCTを別々の時期に撮ったのですが、検査を待つ間に悟りました。今はガンではないのだから、もうガンに意識を向けるのはやめよう。なったらなった時に考えればいいのだから・・・と。そして今は元気で好きなことが出来ているのだから、本当によく頑張って動いてくれてありがとうと身体に感謝しようと思いました。

 意識が今に固定すると恐れはなくなります。未来に意識が飛んでしまうと、だれでも不安になります。ですから、今を感謝して生きようと思ったのです。

 今、自分にはないと思っている事に意識の焦点を当てている人が、不幸な人で、今、自分が持っているものに意識の焦点を常に向けている人が、幸せな人です。

 私も含め、人はないもの探しの名人です。「隣の芝生は美しい」という例えのごとく、あれが欲しい、あれさえあれば、私は○○が出来ない。私はダメな人だ。多かれ少なかれこちらの方向へ意識は向いています。

 今、自分の持っているものに感謝し、まるごとありのままを受け入れる。それが幸せになる一番の方法だと思います。私たちは、元々神だった時は全てを持っていたし、思いは瞬間に叶ったわけです。それではつまらなくなったから、色々制限を加え、人間として全ての感情体験をしている・・・。だから色々体験しましょう。それが肉体を持つということなのだから。

 自分のしたいことだけをする。それだけは、はっきり決めました。