991年春のリーグ戦 優 勝
10勝2敗 勝ち点5の完全優勝。(7季ぶり7度目)
当時の東都大学リーグのエースは駒大・若田部 日大・落合であった。
東洋大の主力選手は、主将・桧山(4年・阪神)、和田孝志(3年・千葉ロッテ)、関口(2年・横浜)そして1年生投手銭場(東芝)。
優勝を決めた日大戦(5月14日)では当時のリーグ記録となるチーム15本となるホームランが飛び出し、投げては和田、銭場の必勝リレーで快勝。
9回投手交代でベンチに下がる和田への暖かい拍手を忘れることはできな
い。当時1年生であった私は学生時代これが最初で最後の優勝になるとは知らず試合終了の瞬間、歓喜の雄たけびをあげたのだった。これから何回も同様なシーンが訪れることを期待しながら・・・

ベストナインにはキャチャー徳田(4年・日本ハム、現在は日本ハムスカウト)サード桧山、1年生コンビのセカンド西岡(松下電器)、ショート明比が選ばれ、未来の東洋大は前途洋々かと思われた。
1991年 秋のリーグ戦 3 位優勝:駒沢
東洋大初の連覇はならず、なんとかAクラスを確保。この年のドラフトで桧山が阪神タイガースから4位、徳田が日本ハムファイターズから3位で指名された。優勝は駒沢。エース若田部が最終学年のリーグ戦を制した。
1992年 春のリーグ戦 3 位優勝:駒沢
前半戦で早々に勝ち点を落とし優勝戦線から脱落。昨秋に続き3位で終わってしまった。優勝は駒沢。秋春連覇となった。
1992年 秋のリーグ戦 2 位優勝:日大
またまた前半戦(青学戦、日大戦)で勝ち点を落とし優勝戦線から脱落。しかし終盤追い上げて最終的には2位。春のリーグに続きスロースタータぶりを発揮してしまった。この年のドラフトではエース和田孝志が千葉ロッテマリーンズから3位指名された。このシーズンで清水(1年・巨人)がデビュー。
優勝は日大。エース門奈が最終学年を優勝で飾った。
1993年 春のリーグ戦 2 位優勝:青学
開幕戦の亜細亜戦を落としまた早々に優勝戦線から脱落かと思われたが、新エース和田(2年)が6勝、ルーキー今岡(阪神・後、東洋大史上初のドラフト1位となる)がホームラン、打点の二冠王となりベストナインにも選ばれた。昨秋に続き2位で終わったものの、秋こそはと期待が高まる結果となった
1993年 秋のリーグ戦 2 位優勝:駒沢
スロースターターを返上し、開幕以来勝ち点を挙げ続けた。亜細亜、東濃大日大を退け勝ち点3。駒沢3回戦が1勝1敗のまま雨のため順延されていた一方、駒沢も順調に勝ち点を挙げ続け勝ち点4。そして10月22日、東洋対駒沢3回戦に勝利したほうが優勝という最高の舞台が用意された。
(駒沢が勝てば勝ち点5の完全優勝、東洋が勝てば最終週の青学戦に連敗しても勝率で上回る。)
この試合の先発投手は駒沢は当然エース河原(巨人)、東洋・和田で戦いの火蓋は切って落とされた。このシーズンでは和田は主にリリーフで登板して数々のピンチを救ってきていただけに、勝ちをあせっているなという印象を受けた。
試合は、東洋がエース河原を打ち崩し、清水(巨人)のタイムリーや川中(巨人)のホームランなどで4点を奪取し河原をKO。エース和田も駒沢・4番早川にホームランを浴びるものの(打った早川が3塁を回る際、3塁側・東洋大応援席に向かって派手なガッツポーズをしてきた)5回まで早川のホームラン1安打に押さえ4対1。優勝の2文字はいやおうなく大きくなってきていた。

が悲劇は6回にやってきた。和田が連打を浴び、名手・西岡のまさかのエラーで満塁のピンチを迎える。しかし2アウトまで追い込み、サードゴロでチェンジと思った瞬間、この時スタンドにも安堵のため息がもれたことをいまでも鮮明に記憶している。川中が1塁に送球してチェンジのはずが、ショートバウンドになり、1塁・主将の池葉のミットからこぼれる。悪いことは重なるものでこの隙に3塁を狙ったランナーを刺そうと池葉があせり3塁へ悪送球となり1点差。気落ちした和田が次ぎのバッターにタイムリーを浴びあっというまに4対4の同点に追いつかれてしまった。
この後、和田を関口(横浜)銭場(東芝)で7回、8回と必死の継投をみせどうにかピンチを押さえる。8回のピンチにスタンドと選手が一体となり三振に討ち取ったシーンは忘れることができない。
一方、駒沢はエース・河原KO後、左腕・宮本、右腕・高木浩を外野手と投手に交互に入れ替えるという戦術をみせ確実に流れを呼び込み東洋に6回以降、追加点を許さなかった。
そして決戦は終焉を迎えた。9回に銭場が打たれ1アウト1塁・3塁。ここで恩田(新日鉄君津)がリリーフするも、高木浩の打球は1・2塁間を名手・西岡のグラブをかすめライト前へ・・・。サヨナラ負けとなった。

あくまで結果論だが、このシーズンリリーフで登板していた和田をなぜ先発に使ったのか疑問が残る。9回すべてを和田に託すのではなく、4年生コンビ関口・恩田を先発させいけるところまでひっぱり、銭場、和田とつなぐべきではなかったのか。

最終週の青学戦は連勝。終わってみれば3期連続の2位という結果になった。恩田・関口の両投手はぬけるものの、春6勝、秋5勝を挙げた和田、名手・西岡、強打の清水、今岡を中心に来年こそ優勝・打倒駒沢をと願った。

1994年 春のリーグ戦 2 位優勝:駒沢
昨秋の屈辱をはらすべく、GWの雨中の立正大戦にサヨナラ勝ちし、開幕6連勝で勝ち点3を挙げる。続く青学戦で勝ち点を落とすものの最終週の対駒沢戦で勝ち点を挙げたほうが優勝という展開に持ち込む。
そして迎えた駒沢との決戦。

第1戦は、秋の決戦に続き東洋・和田、駒沢・河原のエース対決となるが駒沢が先勝。
第2戦の東洋大の先発は4年生にして初登板の岡崎(鷺宮製作所)。しかし9回まで力投。最後は同期の銭場にリリーフを仰いだものの見事に1勝1敗のタイに持ち込み決戦は第3戦にもつれこむ。
しかしあっさり負けずに最後まで粘りる駒沢。さすが駒沢と同行の先輩と唸ってしまった。

第3戦は、腰痛のエース和田に代わり1年生倉が先発と奇襲をかける。対する駒沢は当然エース河原。序盤、奇襲作戦が効を奏し先制するものの、終盤に逆転されて昨秋に続いてライバル駒沢が優勝となった。
これで4シーズン連続の2位となった。

このシーズン、いかんせん就職活動中で駒沢との決戦は第2戦しか行くことができなかった。第3戦が行われた日は雨。会社説明会の会場から外を眺め、試合は行われているのか、どんな結果になったか気になって仕方がなかった。
1994年 秋のリーグ戦 2 位優勝:青学
4期連続の2位、そして私自信にとっても学生時代最後のシ−ズンとなった。1年春に優勝して以来6シーズン優勝から遠ざかっていることになる。

今期こそ優勝と思い、就職活動も終わりサークル活動も卒業していた私はひたすら神宮へ通った。しかし、序盤の青学戦で井口(ダイエー)にエース和田がホームランを浴び、春に続いて苦手青学から勝ち点を落とし自力優勝が難しくなった。

ライバル・駒沢もエース河原が青学に敗れ勝ち点を落とし同時に優勝戦線から東洋も脱落してしまった。この駒沢対青学の結果は、板橋区・成増の下宿アパートにてテレホンサービスで確認した。その瞬間、なんとも言えない脱力感に襲われたことをいまなお覚えている。

そして最終週に、永遠のライバル駒沢戦が学生生活最後東都大学リーグ観戦となった。昨秋、春の雪辱を果たし見事に連勝。惜しむらくは主将西岡(松下電器)が100安打まであと1本の99安打にで終わってしまったことであった。数々のピンチを華麗な守備で救ってきた西岡。このシーズンでの西岡の序盤での不調が最後の最後まで響いてしまった。

最終的にまたまた2位となりこれで5期連続となった。東都大学リーグタイ記録となる。同行した友人も思わず
「こうなったら新記録を目指せ」と叫んでいた。しかし勝率では優勝の青学を上回ていた。

駒沢との決戦が終わり最後の校歌斉唱・・・。来春こそは絶対優勝してもらいたい。ただその思いで一杯だった。
そしていつまでも東洋大学野球部に声援を送り続けることを誓った。

この雪辱は翌春、主将・清水(巨人)、今岡、エース塩崎によって青学との直接対決に勝ち果された。第3戦までもつれみ延長戦押し出し四球でサヨナラ勝ち。サヨナラ四球を選んだのは2年前の秋、駒沢決戦にて敗れた主将池葉の弟であった。

新入社員であった私は、優勝の翌日のスポーツ新聞を全紙購入し優勝記事を読みあさった。
万年2位からの脱出。5期連続2位の苦しみの呪縛を象徴するような押し出し四球での勝利。あらためて優勝の喜びをかみ締めた。

しかしこのスポーツ新聞は会社帰りによったカラオケ店に置いてきてしまってなくなってしまった。永久保存するつもりでいただけに今でも後悔している。それ以来、優勝から遠ざかり優勝記事を永久保存できないでいる。