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セルジオ・ティエンポ氏の演奏について  

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堀江宏樹〜〜〜



ティエンポ氏をはじめて聴いたのは、2002年の初夏、武蔵野市民文化会館でだった。ショパンの三番のピアノソナタでは、普通のピアニストなら、猛烈なテンポと技術的な困難さの中で見失ってしまうような、鮮やかな色彩が圧倒的に印象的だった。ドライヴ感とあれほど豊かな色彩感が両立した、ピアノ演奏を聴いたことはそれまでなかった。とくに最終楽章での、うねるようにして長調に切り替わる場面などの崇高でさえあると同時に、ショパンという作曲家の蠱惑性をも兼ね備えた演奏に深く打たれ、紀尾井ホールであった次のリサイタルにも憑かれたような熱心さで、聴きに出かけたものだった。


先日、2003年の演奏会の再放送をNHK-FMで聞けたが、その夜の印象がはっきりと甦ってきたが、メンデルスゾーンの「ロンド・カプリチオーソ ホ長調 OP14」にとくに感心した。氏はホロヴィッツを敬愛しているとのことだが、猛烈なオクターブや左手のダイナミックさ、輝かしい強音から、憂鬱な翳りの弱音にいたるまでの幅広い音の色に、彼の中の音楽観を伺うことはできる。これはメンデルスゾーンに限ったことではないが、鍵盤のタッチも自在だ。揺れ動くテンポの中で即興性はもちろんのこと、みごとな瞬間瞬間の構築性が、演奏の中でみごとに結びついている。


Fの次はFF、FFの次はFFF、そして…という風に天井知らずで強度が入れ替わってゆく強靭さはもちろんのこと、同じ強さの中でも、ふっと風が吹き込んだかのように、色彩をまったく変えてみたりする。演奏テンポは、いつものように、かなり早めに設定されていたが、その中でも、他のピアニスト達がおうおうにして、均質に機械的に響かせるだけの、すべすべしてきらきら輝く音、ただそれだけの意味しか見出していない連続する短い和音やパッセージひとつひとつにさえ、氏は存在感を与えていた。そこに、さらに抜群に歌う左手のフレーズが加わった演奏は言うまでもなく、すばらしかった。ただ早く、ただ色彩的に弾く、あるいはそれを完成度高く弾ける、そんなピアニスト達はいるにはいるが、ティエンポ氏のようなピアニストはどこにもいない。彼のハイドンの演奏に聴く優雅なウィットや、決して不潔にはならないピアソラでの直情…。他の誰にも真似はできないだろう。


アルゲリッチやバレンボイム達と同じく、南米の出身であるベネズエラ人のティエンポ氏も、わずか3歳にしてデビューした神童だった。そうした経歴や輝かしい技術性ばかりがピアニストを語る時には話題になるものだが、その音楽や音色の多彩さには、身をもって二つの異なる世界を知る者の感覚がにじみ出ているように思う。他に南米出身というピアニストは多いが、彼の場合、なぜか、とくにそう感じるのだ。氏の愛読書の作家でもあるというボルヘスの世界観が、西ヨーロッパの同時代の文学とは異なっていたように、彼の音色や音楽もどこか違う横顔を持っている。


南米の日差しの強さを知る少年が、西ヨーロッパに渡り、今度は冷たい冬の湿り気と陰影を知った。そして、その音楽にはかってない色彩と陰影を与えられ、ティエンポというピアニストが生まれた…。そんなイメージさえ湧きあがってくるのは、まさに彼の弱音に接する時だ。苦しみなど存在したこともないような幸せとやさしさに満ちた音から、冷たく清らかで陰りがある響きまで、それはラヴェルやドビュッシー、そしてフォーレやショパンのある側面について、フランスの音楽批評家ジャンケレヴィチが「夜の音楽」だと喩えた言葉を僕に想起させる。それだけでなく、ティエンポ氏が演奏する音楽からは、語句から受ける理解をはるかに超えたレベルで「夜の音楽」が、それも世界大戦前の失われたヨーロッパの響きさえもが聴こえて来る気さえするのだ。


2002年の武蔵野では、彼が委嘱したという今日の作曲家、マタロン氏の作品を聴く機会もあったが、そうした類の音楽にも、ほかのピアニストには望めないみずみずしさがあった。また、最近は、古楽の流行と大衆化によってインフルエンザのように一気に広まった「オーセンシティ」とかいう、あいまいな概念に押されがちで、現代のピアノでフランソワ・クープランやラモー、デュフリなどのクラヴサン音楽の演奏を聴くことはかなり珍しくなってしまったが、そうした小さく古雅な音楽にもティエンポ氏は抜群の理解を示すだろう、と思われる。


さて、あれから何度か、ティエンポ氏は来日し、さまざまな場所でコンサートを開いた。スケジュールが合わずに、残念ながら2002年の紀尾井ホール以来の彼の実演には接していないのだが、その時も含めて、残念なことにすべての新聞評や音楽専門誌の批評が絶賛というわけではなかった。意外に思う評価があったことも残念ながらある。たしかに今回、聞いた2003年のライヴ録音も、僕が実際に接した彼の音楽とは少し違うような気もしたのは事実だ。


少しナーバスになっているのか、あるいは、降りてきた霊感が豊かすぎるために、イマジネーションを指の動きに、変換しきれかねているのか、それは僕にはわからなかったが、全体的に残念だ、と思う部分は確かにあった。彼の場合、一聴すれば抜群のポテンシャルをいやがおうにも感じる音楽家であるからこそ、もっと正確に、もっと完成度を高く……と求めることは可能かもしれない。しかし、どこかで接した「ミスタッチする位なら、テンポの調節を」という指摘は不適当だ、と思った。音楽の流れをさえぎって、ミスタッチの数を拾うというのは残念なことに、減点法で音楽を裁断していく音楽コンクール式の聴かれ方に過ぎないと思う。


その国々によって、評論家好きする演奏家のタイプは確かに存在する。年齢、容姿、演奏内容、すべてが良い意味でも悪い意味でも絡んだ上で、評価は下されるのだろうが、古いレコードの演奏に聴くような端正さと耳に馴染みがある解釈だけを彼に求めるのは、お門違いだと思う。もう少し、注意深く聴くのなら、ティエンポ氏の音楽の場合、あのテンポを保つことが、より自在に羽ばたくための方法であることは分かるはずだ。そして、それは彼にだけでなく、本当はわれわれ聴き手にも必要なテンポであり、われわれの中のモチヴェーションを上げていくための必要不可欠なリズムだと分かるはずなのだが。


チェロのミーシャ・マイスキーとデュオを組んだ、メンデルスゾーンのすてきなCDもグラモフォンから発売されたが、いずれにせよティエンポ氏は、誰よりも「実演」がもっとも冴えるピアニストだと思う。つまり、それは「場」を作り上げる天才だということだ。演奏会とはアファナシエフのようなタイプのピアニストでなくても「儀式」である。CDの中に入ってしまった音楽より、いくらライヴとはいえ司会の女性の声が入った録音より、その場でいることで目隠しを取るようにして見えてくる/聴こえてくるイメージは氏の場合、とても多いはずだ。鮮やかにつむがれていく彼の生のピアニズムに接してほしい。フレーズひとつひとつが、まるで羽根のあるように舞い上がって行く瞬間には、音楽を聴く喜びでいっぱいになれるはずだ。





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