以下は、市民団体の求めにおいて記述したものです。
自由民権にこだわり続けたい。

「歴史的な偶然には必ず必然が内在する」
あるいは三多摩の東京府移管


 大切なことは、歴史を知り歴史から学ぶことだと思っている。自分はいったい何処にいるのか、
そしてこれから何処へ行くのかをあきらかにしてくれるからだ。三多摩は東京都を構成しているが、
それ以前は神奈川県であった。三多摩で暮らしてして、この歴史にこだわり続けている。
 東京府(当時)に編入されたのが1893三年であり、編入は政府と東京府の思惑であり、三多摩の
人々が望んだことではなかった。多摩川の水利権を神奈川県から東京府に移し、膨張し続ける首都
東京の水を確保するためだ。
 この理由は納得できるのだが、問題なのはもう一つの理由だ。それは、当時の反政府運動の中心と
なっていた自由党を弾圧するためだからだ。自由党がその牙を抜かれ、体制内化するのはまだもう
すこし先で、この時代までは、各地で自由党員が絡んだ「騒擾事件」が頻発していた。そして、その
自由党の左派の一大拠点が神奈川県であり、その神奈川県の西多摩、南多摩がそのまた拠点だった。
 移管は、当時の権力を握っていた藩閥勢力と改進党が企んだもの。三多摩を神奈川県から切り離せば、
神奈川県下の自由党の勢力は半減し、東京府に編入された三多摩にしても、膨大な人口を抱える東京府
の一地方となり、そこに拠る自由党を沈黙させられる。
 1993年には、移管百周年を祝うためとして、様々な記念行事が行なわれた。そして、その中心となっ
たのが、「多摩ライフ21協会」という団体だった。会長は当時の鈴木知事で、その行事を推進したのが
都議会であり、三多摩の各自治体と議会という構図だった。
 百年前の三多摩の人びとは、果敢な反対運動を繰り広げ、過半の町村の長が抗議のためにその職を
辞したりしている。三多摩はこれで死んだとして、「三多摩院殿花蓮大姉霊位」と書いた位牌を推し立て、
当時の川口村から八王子まで葬儀の行列もしている。それが百年後には、三多摩の自治体がこぞって
その移管を祝うというのでは、何ともやりきれない思いがした。
 三多摩の自治体議員22名の連盟で、「移管を祝うのは遺憾」だとして、イベントの中止を求めて
抗議したが、行政権力は揺るがないし、いたって評判が悪かった。でもそれは、百年たっても貴方たちの
思いは忘れてはいませんよという。百年前の三多摩の人びとへの「メッセージ」としたいからだった。
日々の活動の原点はこんなところにある。


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