至上最強助っ人外人列伝
ルイス・ロペス
1964年9月1日生まれ
身長185センチ・体重90キロ
右投げ右打ちのニューヨーカー
1996年に米インディアンスより
鳴り物入りで(?)
僕らの広島東洋カープに入団した。
が
大リーグの実績がほとんどない彼。
何でそんな外人連れてくるの?
と言いたくなるが、
貧乏球団のカープなので
ここは目をつぶることにしよう。
しかし実績のない事が逆に
好転するきっかけになろうとは
この時、誰が予想できたであろうか。
来日してすぐに日南キャンプに合流したがロペスだが
打球がまったく前に飛ばない
そして、打撃改造を言い渡されたのが
その6日後
おいおいおい
早すぎるだろ
確かにうちのチームには金がなく
安っちい外人しか連れてこないけど
今回は本当にやばいんじゃないの?
真剣にそう思った。
だが、
大リーグの実績のない彼は
プライドを捨てた
山本一義チーフコーチの指導と
彼の実直で真面目な人柄もあり
見事に開眼する
郷に入っては郷に従え
ことわざを実践する事で成功への足掛かりを掴んだ。
1年目の成績は
打率.3.1.2 25本塁打 109打点で
打点王を獲得
続く2年目は
打率.3.2.0. 30本塁打 112打点で
2年連続打点王
来日1年目から2年連続3割100打点をマークし
セ・リーグ史上ただ一人の記録を残したロペス
だがしかし好成績に気分を良くしたのか、
お山の大将に大変身。
年俸交渉は決裂し
育ててくれたカープの恩を忘れ
ダイエーに移籍してしまう。
しかし
広島野球のスピリットを失ったロペス
が活躍できるわけもなく
米独立リーグのソマーセットへ落ちてゆく事になる。
時は過ぎて2000年
カープはペナントレースで苦戦していた。
故障者が続出し
新外国人助っ人のボールは
ボールにかすりもしない
深刻な状態
どうする
そうだ
奴を呼ぼう
そいつの名は
ルイス・ロペス
米独立リーグに落ち延びていた
彼を再び呼び寄せる事になったのだ。
2軍選手よりはマシだろうといった感じであった
しかしロペスは
またも期待を裏切る
当時36歳であった彼はピークを過ぎていた。
1999年はダイエーで試合にさえ出れず
2000年は米独立リーグに甘んじていた。
だがしかし
カープ野球スピリット
に再び触れた事で
見事に蘇ったのである
2000年の成績は
打率.3.1.3. 20本塁打 88打点
シーズン途中からの出場でこの成績は立派ではなかろうか。
続く2001年は
打率.3.0.8. 32本塁打 100打点で
チーム最多打点をたたき出す。
文句のつけようのない成績だった
そして次女「ビクトリア」の誕生
2002年に賭ける意気込みは凄まじかった
報道陣に
「2002年の目標は?」
と聞かれたロペス
打率3割5分0厘
56本塁打
160打点
到底不可能とも思える目標をぶちまける
報道陣は当然アメリカンジョークと思って笑う。
それを聞いたロペス
冗談じゃない
怒るロペス
気持ちが空回りしている
何だか、嫌な予感・・・
事件は4月6日に起きた。
今シーズン、並々ならぬ気合を見せるロペス。
その試合も張り切りまくっていた。
ランナーを置いて、2度もヒットを放つ。
が、運の悪い事に、
ランナーは共に、足を怪我している前田。
ホームまで帰って来る事ができない。
それを見たロペスは
ベンチに帰った後、
チームメイトの前田を殴ってしまった
やっちまった
前回もお山の大将になって
失敗してるじゃないか
君が入団したばかりの頃
外人選手には珍しいほどチームプレーを
大事にしていたじゃないか
「タイトルや個人記録ではない。
チームが勝つために
僕は自分の仕事をしなければならない」
って言ってたじゃないか
その結果、打点王を取れたんじゃないか
成績が良いと調子に乗りすぎてしまうのが
彼の最大の弱点だ
いいところはいっぱいあるのに・・・
謹慎10日間の処分を終えて
無事、一軍にも合流し
前田とも話し合いを設けて和睦
再度復帰したロペス。
しかし、忘れようとしても
変なシコリが残ってしまったのは事実。
こんな状態ではいけない。
そうだ
そんな事を払拭するには
打って打って打ちまくる
これしかない
今現在(8月23日)
ロペスは試合に出たり出なかったりで
決して絶好調とは言えないかも知れない。
しかし、僕らのカープのAクラス入りを目指して
最後まで力を合わせて頑張って欲しい。
君の活躍がカープ浮上の鍵を握っている
記録にも記憶にも残る選手になってくれ
至上最強助っ人外人の座を掴み獲れ
今年の目標
打率3割5分0厘
56本塁打
160打点まで
あと少し
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