彼の場合のバレンタイン






「おはよう〜♪ あら、いい匂いね」
 ポレポレのドアベルがカランとなった。
 午前八時過ぎ。重そうな鞄を軽々と抱えた桜子が入ってくる。目の下にクマのあるところを 見ると、また徹夜明けらしい。
「あ、おはよう、桜子さん。珈琲でいい?」
「うん、濃いのお願い。うぅん、さすがにきついな」
「また徹夜したんだ。身体に悪いよ」
「判ってるんだけど、ついねぇ」
「桜子さんもそろそろお肌も曲がり角なんだし、無理の効く年じゃないんだから」
「うぅ〜〜それを言われると辛い……って、五代くん、本当に私のこと異性として見てないで しょう」
「え? なんで?」
 珈琲を煎れながら、きょとんと瞳を見開くのが妙に可愛い。これでももうすぐ27になろうとい う成人男性のはずなんだが、とてもじゃないがそうは見えない。
「ふつう男の人は言わないわよ。女の子に対して『お肌の曲がり角』だの『無理の効く年じゃない』 なんて。言ったら最後、即刻引っぱたかれてるわね」
「そっかなぁ〜?」
「言ったのが五代くん以外だったら、私も絶対そうしてるわよ…って、私も五代くんのこと異性 扱いしてないか」
「なんだ、じゃあお互いさまじゃん」
 って、納得していいのか?
「はい、どうぞ」
「ありがとう。んんんいい香り」
 まいいか、本人たちが気にしてないなら。疑問は残らないでもないが、美味しそうな珈琲の 香りに有耶無耶になってしまったようだ。
「で、なに作ってるの?」
「チョコレートクッキー。ちょっと味見してみて」
 白い皿に綺麗に盛り付けられたクッキーが桜子の前に出される。芳醇なバターの香りが甘く 誘う。
「うん、おいしい。でももう少し甘くてもいいかな」
「う〜ん、そこんとこ悩んだんだよね。女の子にはもう少し甘い方がいいんだろうけど、男の 人にも出すからなぁ……いっそのこと二種類作っちゃおうか」
「これポレポレ用なの?」
「そう、ほらもうすぐバレンタインだろう。サービスに出そうと思って」
「なんだ、一条さんにあげるのかと思った」
「? なんで? 一条さん甘いの好きだったっけ? 確か苦手だって聞いたけど」
 クリスマスのときも、確かケーキ焼く匂いだけで腰が引けてた記憶が。それでもあの時は他 にも七面鳥やパイなんかも焼いてたからそれほどじゃなかったのに。
「なに呆けたこと言ってるの。2月14日はバレンタイン、バレンタインデーなのよ」
「? 判ってるけど」
「判ってるなら、バレンタインが何の日か、言ってみなさい」
「う〜ん、世界的にはいろいろあるけど、とりあえず日本では女の子が好きな人にチョコレー トを添えて告白する日だろう」
 さすがの五代もそれくらいは知っていたらしい。
「一応、判ってるんだ。だったらちゃんとあげなきゃダメよ。一条さん、(性格はともかく外 面は)あんなにかっこいいんだから、狙ってる子、かなりいるわよ。そんな子たちに負けてい いの? そりゃあ、今更あの一条さんが心変わりをしてくれるとは思えないけど、これは女の 意地ってもんなんだから。この人は私のものです! 思いっきり釘を刺すいいチャンスなの、 判る!? 五代くん!」
「………、いや…あの…桜子さん?」
 なんか知らんが、やたらと熱血している桜子にかろうじてブレーキをかける。過去にいった い何があったのだろう。
「なぁに? 五代くん」
「俺、一応男なんだけど」
「あ、そうか、忘れてた。でも立場は似たようなものなんだからいいじゃない」
「似たようなもの……」
「奥さんなんでしょう、一条さんの」
「! さ…桜子さん! だ…誰が奥さんなんですか」
「五代くんが」
「違います!」
 きっぱりと言い切られるのに、こちらもきっちり言い返す。ここで負けてなるものか。
「え? だって、一条さんと一緒に住んでるんでしょう。炊事洗濯全部五代君がやってるって 話しだし。だいたいあれだけ盛大に結婚式あげといて違うもなにもないじゃない」
「あ…あれは……」
「すごかったわよねぇ……いろいろな意味で。私も何回かお呼ばれしたことがあるけど、あん なすさまじいのは初めてだったわ」
「言わないでくれる? 思い出したくないから」
 深ぁくため息をついてしまう。あれはまさしく五代にとっては悪夢としか言い様のないもの だった。今でもつい思い出してしまう度に胃がシクシクと痛む気が。
「ま、とにかく、あげといた方がいいんじゃない。チョコレート。きっと一条さんも期待して るわよ」
「してるかな」
「確実にね」
「けどさぁ……」
「まぁ、五代くんがそう思ってるのなら無理強いはしないけど。がっかりするだろうなぁ、 一条さん。まぁあの人の場合、五代くんがいてくれればそれだけでいいのかもしれないけどぉ …………あ!」
 ふっと桜子が何かを思いついたかのように言葉を止める。なにやら嫌な予感。
「どうしたの? 桜子さん」
「五代くん、やっぱり用意しておいたほうがいいと思う」
「へ?」
「さもないと、あの一条さんのことだもの。『プレゼントはおまえでいいぞ』、なんて言いか ねないわよ」
「え? えぇ〜〜〜〜〜っ!」
 あり得る。絶対にそれはありえる。  もしそんなことになってしまったら、どんなことをされてしまうのやら。普段でさえ十二分 に気力体力を吸い取られているというのに、それは絶対に避けたい事態だ。
「…………プレゼント、用意します」
「それが賢明よね」



 そしてバレンタインデー当日の夜。
 鼻歌などを歌いながら五代はせっせとディナーの用意に勤しんでいた。ローストビーフもい い色合いに焼けているし、ミネストローネはあとは温めるだけ。ビターのチョコレートケーキ も良い出来だ。
 帰るコールがあったのは30分ほど前、もうそろそろ帰ってくる頃だろう。
 なんだかんだ言いつつも、こういうイベントは嫌いじゃない。ひとつひとつ一条との思い出 を作り上げていけることが今はただ嬉しいのかも知れない。
「でも喜んでくれて良かった」
 朝出がけにプレゼントだと言ってネクタイピンを渡したときの綺麗な笑顔は、当分雄介の脳 裏を離れそうにない。一条のイメージである百合を意匠にした彫金のアラベスク模様は、知り 合いの工房を借りて自分でデザインしたと言ったら、朝っぱらから濃厚なキスをかましてくれ て、仕事に追い出すのが大変だったっけ。そんなことを思い出してしまい顔を赤らめる。
「普段真面目な人(←そう思ってるのは君だけだ、五代くん)ほど、すけべだっていうけど、 本当かも」
 まったく、どこで覚えてきたんだと突っ込みたくなるくらい一条のキスは上手くて、今朝も 危うく流されてしまうところだった。かろうじて正気に戻れたから、一条を遅刻させずに済ん だけど。まさか遅刻の理由があんなことだなんて、とても恥ずかしくて言えないよな(いや、 言ってると思うぞ、あの刑事なら)。
 などと危ない方へと行きかける思考を修正してると、高らかにチャイムが鳴った。どうやら 帰ってきたらしい。
「お帰りなさい。一条さん」
「ただいま、雄介」
 にっこり笑ってドアを開け、一条を迎えいれる。そのままお帰りなさいのキスの雪崩れ込ま ないように微妙に距離を開けるところなど慣れたものだ。
「早かったですね」
 と、鞄を受け取ろうとして、しばし固まる───荷物が多い。ついでに一条の機嫌も心な しか悪いような。
「それ……」
「あぁ、バレンタインのプレゼントだそうだ」
 ほらと渡されたのは、大き目の紙袋一杯に入れられた、幾つものプレゼントボックス。綺麗 にラッピングされたそれは、この重さからして間違いなく中身はチョコレートの類だろう。
「そうですか」
 同時に雄介の機嫌も斜め45度へと傾いてゆく。
 そりゃあ一条がモテることは知っていたけど、なにもこんなにもらってこなくてもいいじゃ ないか。優しい(←雄介限定)一条のことだ。きっと断りきれなくて、つい受け取ってしまっ たのだろう。
 そう判ってはいてもおもしろくないのは事実で、つい口調がきつくなってしまう。いっそ のことどこかに捨ててきてくれたら良かったのに───心の込められているだろうプレゼント を前に、そんなことすら考えてしまう自分が嫌になる。
「早く着替えてきてください。その間に食事暖めますから」
「開けないのか?」
「開けるって、何をです」
「それ」
 示された先には、つい目に付かないような場所に置いてしまったプレゼントの袋。故意に忘 れようと思ってるのに思い出させるなんてひどい。そんなに俺に嫉妬させたいんだろうか。
「開けられるわけないでしょう、一条さん宛てのプレゼントなんて」
「違う」
「なにが違うんです」
 今更、単なる義理チョコだって言うつもりなんだろうか? あんなどう見ても本命チョコと しか見えないラッピングもかなり混ざってるっていうのに。
「おまえにだ」
「なにがおまえにです……って……? え? 俺?」
「そうだ、おまえにだ」
「え? え? なんで俺に?」
 思わず声が裏返ってしまう。あまりに予想外の出来事に頭がパニックだ。
「一条さんのじゃなかったんですか?」
「俺は予め、受け取らないって宣言してある」
「でも義理チョコとか……」
「義理なんだから、課の人間で分けた。持ち帰るはずがないだろう」
「じゃあ、これは……」
「帰りがけに榎田さんから渡された。どうやら俺に直接渡すと届きそうにないと悟った連中が 榎田さんを頼ったらしい。いっそ全部捨ててやろうかとも思ったんだが、榎田さんの分も入っ てると言われてはな」
 それまで捨てたら後が怖い。さすがの鬼畜刑事も苦手な相手はいたらしい。
「で、雄介」
「は…はい」
 背筋に嫌ぁなものが走る。一見優しそうな一条の声音が怖い。
「何時の間に本庁の婦警とそんなに仲良くなったんだ?」
「な…仲良くだなんて…そんな……、あ、ほ…ほら。一条さんに頼まれて、書類を持っていっ たりもしてますし、通訳なんかも頼まれたときに顔を合わせる婦警さんもいるじゃないです か」
「それだけで、こんなに仲良くなるとは思えないんだが」
「あ、でも差し入れなんかに行くと、つい給湯室で話しこんじゃったりして……で…でも本当に それだけですってばぁ〜〜〜!!!」
「まぁいい、そのことについては今夜ゆっくり聞かせてもらおうじゃないか、雄介」
「×××××××〜〜〜〜〜!!!!」

 そしてその言葉とおり、その夜一晩中、じっくりと一条が雄介(の身体)に話を聞いたこと は言うまでもない───合掌。






 リハビリを兼ねて、遅ればせながらバレンタインネタです。
 時間的には最終回ネタの後だから来年の話かな。今年は逃げられてる最中だもんねぇ(笑)
 そろそろ気力体力戻ってきたんでがんばりますね。(ひかる)




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