「うわあああああああ!!」 ある晴れた昼下がりの塔矢邸に、悲鳴が響きわたる。 「なんじゃ、こりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」 その顔からはとても想像できない言葉が塔矢アキラから上がったのだった。 バタバタバタ・・・と廊下を走る足音がして。すぱぁん!、と障子を思い切りよく開く音がした。 「かあさん!」 それに続いて、目面しくアキラが険しい声をあげると 「乱暴ね、アキラったら、障子は静かにあけるものよ?」 と穏やかな母の声が返る。 「静かに、ではないでしょう! また、やりましたね!?」 眦を吊り上げてアキラがスーツを突き出した。 「あら、気づいた?」 「あたりまえでしょう!」 「どう?それ! お母さん、いつになく上手くできたと思うのぉ」 「上手く≠カゃありません! 僕のスーツには一切しないでください、って、あれほど言ったじゃないですかっ!!」 と。 アキラは背中の内側に真っ赤な緋牡丹が前面に刺繍されたスーツを握り締めて叫んだのだ。 「もう、なにが気に入らないのかしら」 「まだまだ、アキラも子供だから、アレの良さがわからないんだよ」 「・・・でも、せっかく貴方とお揃いで上手にできたのに・・・・」 「ならばなおさらだよ。アキラはアキラで私とは違うのだから、別のものにしないと」 「そんなものなのかしら」 「そうだよ」 「ちがいます!」 ポイントのずれた会話をしている夫婦の会話を塔矢がさえぎった。 「僕の服に刺繍≠したのが気に入らないんです!」 「やっぱり緋牡丹≠ェいけなかったの?」 「緋牡丹≠カゃなくて刺繍です! 刺繍をしたから怒ってるんです! あれじゃ上着を脱ぐことができないじゃないですか!!」 そう。 アキラが怒っているのはそこなのだった。母、明子は塔矢の服に、目を離すと片っ端から刺繍≠施してしまうのである。 勿論、父 塔矢行洋 の着物にも同じことがいえるのだが。 もっとも、こういったものは隠れたお洒落だよ、という塔矢行洋の考えと、その刺繍≠フ意味を理解した塔矢のお願い≠ナ人目にさらされたことはないが。 何があるのかわかったものではないので、塔矢は自分の服にはくれぐれも刺繍≠カゃするなと常に念を押しているのだが、これで無事なスーツはなくなってしまっ たのである。 母に買ってきたスーツにはすでにソレはなされた後で、アキラが買ってきたスーツは気づかれるとソレをされてしまうのである。 勿論、その刺繍≠ヘ塔矢行洋の着物にもすべてなされている。 塔矢行洋がきている着物の羽織の内側には、すべて母の手製の刺繍が施されているのであった。 かつて、伝説とまで呼ばれたカリスマ的存在として、数多の族の頂点を極めた男の背にはいつも見事な登り竜の刺繍がしてあった。 「とても格好よかったんだから・・・・」 ほぅ、と頬を染めて溜息をつく母に、塔矢行洋は微笑むだけだ。 そんな母を見ながら塔矢は苦い顔をして見せた。 視線が手元の雑誌に落ちる。珍しく夫婦で取材に応じた記事が囲碁雑誌に載っているのだが。 ―――――― ご趣味はなんですか? ―――――― 刺繍なんですよ。 ―――――― 刺繍? ―――――― ええ、よく洋服にもしたりするんですよ、もっとも息子には恥ずかしいからするな、って怒られるんですけどね(笑) ―――――― どんな刺繍ですか? ―――――― そうですね・・・動物とか 麒麟や昇り竜ね・・・・ ―――――― お花とか・・・ 緋牡丹や桜、薔薇ね・・・・ 苦々しく胸の内で呟いたアキラだったりするが、事の事実に気づいていないインタビュアーはそれが可愛いワンポイントの刺繍などとおもっているのだろう ―――――― それですよ、年頃の息子さんは恥ずかしがるんじゃないですか? と、たわけた返事を返していたりするのだ。 ―――――― やっぱりそんなものなのかしら ―――――― そうですよ、でもいつか機会があったら見せてください 結果、などとオチがついていたりして思わずアキラは眩暈を覚えてしまった。 記事から視線をあげると、深く溜息をついて、アキラは母、明子に向かい合う。 「いいですか、若い頃の思い出でもなんでもいいですから、父さんのにはともかく、僕のには一切刺繍はしないでくださいね!」 そう。塔矢行洋は、碁の世界に入るまで若い頃ちょっとヤンチャをしていたのだ。 もともと祖父によって碁を叩き込まれていたのだが、18歳で碁の世界に足を踏み入れるまでの数年間、夜な夜な愛車ですっとばしたものである。 ――――――――――蛇足ながら、そのとき仲間であった行洋の懐刀と呼ばれた緒方、芦原、白川、の子供達は、想像の通り、同じ碁の世界に足を踏み入れた緒 方 精次、芦原 弘幸、白川 道夫だったりする。それをしったアキラはしばらく何も言えなかった。 「なんでそんなにアレを嫌がるのかしら・・・緒方さんは喜んでくれたのに」 「緒方さんのにもしたんですか!?」 「ええ」 にっこり笑う、母にがっくりと肩を落としたアキラは心の中で(これだから元ヤンは・・・・!)と思わず叫んでしまうのであった。 これが。 塔矢行洋、アキラ、緒方 精次、芦原 弘幸 ・・・等、塔矢一門の人々が、常にびしっ! と決まった格好をしている隠れた理由であったりするのだった。 蛇足 緒方の部屋で、ヒカルが珍しくソファに投げ出されていたスーツをハンガーにかけようと手にとって。 その裏側になされているものを目にしてしまったとき、しばらく思案した後、再びもとあった位置にスーツを戻しただった。 |