「ここにいたんですか! 桜野先輩!」 木製のドアがけたたましく開かれる。 十月の柔らかな陽差しの差し込む棋院の一室。研究会の前に息抜きをしていた桜野智恵子ニ段のもとに、血相を変えて飛び込んできたのは後輩の春木良子初段 だ。 「どうしたのよ、良子ちゃん。そんなに慌てて」 「大変なんです! これを見てください」 言葉とともに差し出されたのは今日発売の週間碁<GoWeekly>。 「なに? 王座戦の速報でも載ってるの? なにか番狂わせでもあったとか」 「そんなことはどうでもいいんです。それよりここ、ここ見てください」 「どうでもいいって───」 仮にも棋士の言う言葉じゃないわよ、と言おうとした桜野の視線が固まった。 「ゲッ」 思わず女性のものとは思えない引きつった悲鳴がこぼれる。恐る恐るその記事の真偽を確認するかのように向かいの春木と視線を合わせれば、同じように引き つっている表情。 念のためもう一度その記事を見直しても、そこにかかれている事実に代わりはなくて……… 「うっそぉ〜〜〜! マジィ〜ッ!!」 さらに容姿と歳に似合わぬ悲鳴をあげてしまう。 「マジです」 「あぁ、もう……いつか来るとは思ってたけど」 「こんなに早くとは思いませんでしたよねぇ」 お互い顔を見合わせて深ぁい、ため息。 「去年、塔矢名人の息子さんがプロになったときもそれなりにクルものがあったけど、これはまた………」 「ダメージ大きいですよねぇ。本当、嫌な時代になりましたねぇ……」 「まったくだわ」 そして五ヵ月後の新入段免状授与式。 「どうした? 越智」 珍しく落ち着かない様子に、和谷が声を掛ける。こいつに限ってまさか上がってるってこともあるまいが、なにやらしきりに周囲を気にしている。 「和谷?じゃないよな」 「越智?」 「いや、さっきからやたらと視線を感じるんだ」 「おいおい、それだけ自分が実力があるから注目されてるんだなんて言い出すんじゃないだろうな」 「進藤じゃあるまいし。今の自分が実績もなにもないプロなりたてのひよっこだってことは判っているつもりだよ」 「なら別に注目される理由なんてないだろう。気のせいなんじゃん」 「だと思いたいんだが」 どうにも先ほどから視線がちくちくと痛いのだ。それも特に女性棋士からの視線が特にグサグサと突き刺さってくるような。それも好意的なものではなく、敵意と言っ てもいいような視線だ。いったい自分が何をしたというのだろう。とりあえず心辺りはないのだが。 「ま、とにかくお互い今日から正式にプロだ。頑張ろうぜ」 「あぁ。君に言われるまでもないさ」 などと相変わらずの会話をしている二人の間に、ひょっこりと顔を出した人物が役一名。 「君が越智くん?」 「うわっ! 芦原さん、急に出てこないでください」 なぜか他門下だというのに冴木を通じて親しくなってしまっている芦原が、なにやら好奇心一杯の目で越智を見つめていた。 「そんなに驚かなくてもいいだろ。それより彼が越智くん?」 「え? あぁ、そうですけど。越智、この人は」 「知ってる。塔矢門下の芦原四段ですね。始めまして。これからよろしくお願いします」 「うん、よろしくね。そっかぁ、君が越智くんかぁ」 「あ…あの、何か?」 まじまじと見られて腰が引ける。 「いや、噂になってるからさ、僕も一度見て置こうと思って」 「噂?」 「え? なに? 越智が噂になってるの? いったいどうして?」 首を捻る。どうやら視線は事実だったらしいが、その理由がまったく思い付かないのだ。 「そう、噂だよ。密かな注目の的。だから気をつけたほうがいいよ。女性陣ピリピリしてるから」 「女性陣って…、なにか恨まれるようなことした心当たりでもあるのか? 越智」 「あるわけないだろう。君じゃあるまいし」 「俺じゃあるまいしってどういう意味だよ」 「そういう意味さ。だいたいいつも君は余計な手出しを───」 「はぁい、そこまで。揉めない揉めない」 ついいつものように口喧嘩に発展しそうになった二人を葦原が止める。いやもとを正せばことの発端は彼の台詞だったのだが。 「まぁ君のせいってわけじゃないんだよ。越智くん。あ、でも君のせいではあるか」 「いったい何なんですか、葦原さん」 「問題はね、君の生まれ年にあるんだ」 「生まれ年? それがなにか?」 「あ!」 「お、和谷は気づいたか」 「あぁ……だから……そりゃあ…気になるよな」 「おい、いったい何だというんだ」 「だから、生まれた年だよ。生年月日言ってみ、西暦じゃなく元号で」 「それがいったい……11月2日だよ、平成元年の……!」 「そう、それが問題なんだよねぇ……平成生まれくん」 「……………………………」 越智康介 平成元年11月2日生まれ 彼は本人の預かり知らぬとこで周囲に脅威を振りまいていた。 |