「どうして起こしてくれなかったんだよ!!!」 昼下がりのカフェに似つかわしくない声が響く。 ドアの開く音に視線を向けた緒方の視界に飛び込んできたのは、まだ整わぬ息に金色の前髪を踊らせた待ち人の姿だった。 「待ち合わせに二時間遅刻したあげくに、第一声がそれか? いい態度だな、進藤」 「起きたら12時過ぎてたんだもん。これでも早い方だよ」 ちなみに今は1時過ぎだ。ヒカルの自宅からの距離を考えれば確かに早いと言えるだろう。 「そもそも緒方さんが悪いんじゃないか。俺言ったよね。八時に電話してって」 「確かに言ったけどな」 不機嫌そうに煙草に火を点ける緒方に、ヒカルもムッとする。 前日の仕事が遠方での指導碁だったため、朝起きる自信がなかったヒカルは緒方にモーニング・コールを頼んだのだ。普段なら母親に頼めば済むことなのだが、 あいにく今朝に限って母親は早朝から外出するという。ちなみに目覚ましは先日、壊して修理中。ほっておいたら絶対寝過ごすのは確実で、散々悩んだ末辿り付い た結論は、当の待ち合わせの相手・緒方自身に電話で起こしてもらうという方法だった。 いや、で〜き〜れ〜ば、この方法だけは避けたかったというのがヒカルの本音だったりする。 なにせ緒方からの電話というと、ろくな思い出がありはしないのだから。 電話越しのモーニングキスぐらいで済めば恩の字だよなぁ〜〜と、頼む前からため息が出てしまう。本当、なんでこんな男を好きになっちゃったんだろう。つくづく己 の趣味の悪さを身に染みる。 そもそもあれは……等と、暗ぁく落ち込みそうになりつつも、頭を一つ振って気を取り直す。 そうして遅刻するよりはマシと覚悟を決めて緒方に目覚まし役を頼んだというのに……… 「あれだけ頼んだのに電話くれねぇんだもん」 目覚めれば時計は待ち合わせ時間をとうに過ぎた時刻を指していて、慌ててとるものもとりあえず駆けつけたというのに、当の本人は優雅にカフェで珈琲なんぞを飲 んでたりするのだから、つい怒鳴ってしまったのも無理はないだろう……というのがヒカルの主張だ。おかげで食事もまだのありさまで、不機嫌さも増そうというもの。 「お昼、『港や』のラーメン。並ぶのは嫌だなんて言わせないからね」 普段、自分の稼ぎでは入りにくい有名ラーメン店を指定する。無論、払いは緒方だ(まぁこれはいつものことだが)。 「とりあえず座れ。立っていると目立つぞ」 「その後、スィートテラスでケーキ。テイクアウトじゃなくデザートビュッフェの方」 動じない緒方にムッとして、言われままに向かいに腰を下ろしつつも、さらにほとんど嫌がらせと言っていいようなリクエストを付け加える。当然ここも普段の緒方な ら絶対連れて行ってくれない店だ。 「テイクアウトなら相談に乗ってやる。それからラーメンは却下だ」 「なんでだよ!」 ムカツキ度MAX! 「言っておくがな、俺はちゃんと電話したぞ」 「嘘! 全然鳴ってなかったよ、携帯。ちゃんとマナーモード解除して、着信も最大にしてたのに。ほら!」 証拠を見せるように携帯の表示を緒方に見せ、ついでに操作して着信音を響かせる。ちなみに曲目は『天国と地獄』だったりして。 「それに着信履歴も残ってないじゃないか」 「そりゃあそうだろうさ」 履歴を確認するヒカルにため息を一つ。緒方はポケットから自分の携帯を取り出すとスピーカー機能をオンにした後、短縮の1を入力した。そして無言でそれをヒカル の耳元に当てる。そこから聞こえてきたのは……… 『こちらはNTTドコモです。おかけになった電話は、お客様の都合により通話ができなくなっております………』 乾いた女性の声が二人の間でダンスする。 そういえば、ここしばらく忙しくて、色々忘れていたような……。あぁ緒方の視線が痛い。 「あははははは………ごめん。振り込み忘れてた」 「これで何回目だ? いい加減、自動引き落としにしろと言ったろう」 「やろうと思ってたんだけど、つい手続きが面倒くて」 「その言い訳も何回目だ? 聞き飽きたぞ」 「だからごめんなさいってば。あ、これ返すね」 ぺこぺこと謝りながら、携帯を緒方に差し出すが、緒方はそれに首を振った。 「?」 「それで自宅に電話入れておけ。今夜は俺のところに泊まるとな」 「えぇ!! でも、今日は夕方には俺帰るって約束だったろ!」 なにかと理由を付けては自分の部屋に泊まらせようとする緒方に、ヒカルがあの手この手で抵抗するのが二人の日常で ─── 今までの戦歴は圧倒的にヒカル の黒星だったりする ─── それでも今回は珍しく泊まらずに夕方には帰る約束を取り付けられたのだ。それなのに。 「遅刻と濡れ衣でペナルティ二つだ。文句あるのか? あぁ、いきなり怒鳴られたのを入れれば三つだな」 「……………」 考えなしに言葉を口にしてしまうのは昔から出、最近は『墓穴掘り』という特技まで加わった気がひしひしとする。 「あ! でも俺、今日夕方から塔矢と約束がある」 思いだして内心胸を撫で下ろす。良かったぁ〜〜。念のため予防線引いておいて。 傍若無人、天下御免の緒方さんでもさすがに師匠である塔矢元名人は別らしく、ついでに下手なことをすればその元名人にまで伝わりかねない塔矢に対しては多 少の遠慮はあったりするのだ(あくまで『多少』のだが)。 その塔矢との約束は、対外囲碁絡みであったこともあって、これまでも度々ヒカルの命綱になっていたのだが…… 「あぁ、それなら俺が断っておいた」 「えぇ! なんで! ……って、その前にどうして俺が塔矢と約束してたこと知ってるんだよ」 まさか今までも何度も塔矢を理由に誘いを断ってたから、今日は事前に塔矢にチェックを入れておいたんじゃあるまいな───などと冗談半分に考えつつも、完全 に否定し切れないところが頭が痛い。 「おまえが来る前、昼頃か。電話があってな。夕方の予定を確認したいがおまえと連絡が付かないと言っていたぞ」 「あ……………」 まずい………ってことは、携帯を不通にしたことが塔矢にもバレてるってことで………後でまた散々小言を聞かされるに違いない。うぅ……最悪ぅ〜〜〜。 「今日は俺との約束があるからまた今度にしてくれと言ったら、快く承知してくれてな。あぁ、今から連絡とろうとしても無駄だぞ。もう昼の休憩は終わってるからな」 「いや、あの…でも………あ、俺。おなかが空いたなぁ」 「ピザでも鰻でもとってやる。寿司でもいいぞ。うちの近所にもいい寿司屋はあるからな」 ちゃんと出前もしてくれるし、とニヤリと緒方が笑い、伝票を取りキャッシャーへと歩き出す。その後を歩くヒカルの足取りはめっきり重かった。 「そうそう、ケーキが食いたいと言ってたな。ここのカフェはケーキのテイクアウトもしているから好きなのを選べばいい。いくつでも構わないぞ」 思いっきり含みのある笑顔とともに指し示されたショーケースには確かに色とりどりのおいしそうなケーキが並んでいて、それがわずかにヒカルの心を慰めてくれ た。こうなりゃ自棄とばかりにかたっぱしから注文するヒカルだったが、背後から店員に告げられた言葉はその気力さえも奪ってくれた。曰く、 「ドライアイスは多めに頼む。食べるのは遅くなるからな」 今度こそ携帯は自動引き落としにしよう。 硬く心に誓う進藤ヒカル二段だった。 |