「進藤君」
「せ、先生!」
1人でぼんやりとソファに腰掛けていたヒカルは、後ろから声をかけられて慌てて振りむいた。
 北斗杯終了後のホテルのロビー。惜しくも半目差で負けたヒカルを気遣ってか、他に人影はない。
「見事な手合いだったね」
「そ、そんな・・・」
「途中からの追い上げ、見事だったよ」
ヒカルの頬が赤くなる。そんなヒカルを見て、行洋が微笑んだ。
「変だね、なんだか君の手合いを見ていたら、Saiを思いだしてしまったよ」
「!」
「間違いなくアレは進藤君の碁だったんだがね」
高永夏との手合いが終って。
負けてはしまったけれど、自分なりに頑張った。
佐為を取り戻したくて、懸命に頑張ってきた。
誰にも話せないから仕方がないが、誰かに話したかった。誰かに証明したかった。
佐為が消えてしまったからこそ、自分が佐為がいた事を証明できるような囲碁を打てるようになりたかった。
だから。
「・・・・進藤君」
ぽろり、と涙が頬を伝いおちるのを感じていたけれど、ヒカルはそれを止められなかった。
「・・・・Saiを、思い出した・・・・」
「・・・・ああ」
ぱき、っと。
ヒカルの心を覆っていた殻が、割れてしまった音がした。割ってしまったのは行洋だ。
懸命に硬く硬く塗り固めていたのに、行洋が壊してしまった。
「俺の、囲碁で・・・・?」
「ああ、2人の囲碁は根底に同じものを感じたよ」
その言葉がトドメだった。
涙が止まらなくなってしまう。足がガクガクと震えてきて、体が支えられなくなる。
だから、自然と目の前の行洋に縋りついた。
誰かに支えて欲しかった。
ずっと、誰かに支えて欲しかった。佐為を失ってから、ヒカルはずっと半身を失った寂しさに耐えていたのだ。気の遠くなるような孤独に、ヒカルはじっと耐えていた。
行洋は、何も言わずに抱き締めてくれた。
「せ、せんせい、俺、俺・・・・」
「進藤君、家においで。よければ、そんな風に泣いてしまう理由を聞かせてくれないか」
ヒカルは黙って何度も頷いた。そして行洋に促されるままに歩き出したのだった。

ところで。
忘れてはいるようだが、ここはホテルのロビーである。
そんなところで、まるでドラマのようなことをされれば誰だって見てしまう。
しかも男同士。さらにはものすごーい年の差。
これで、ビジュアル的に問題があったら思わずひいてしまうものがあるかもしれないが、それは全然クリアしてしまっている。
人々の注目を集めてしまっても仕方がないだろう。
しかも、ここは北斗杯が行われたホテルのロビー。
ヒカルはまだまだ囲碁歴も浅いといっても知名度は高い。そして相手は塔矢行洋である。今の一幕は完全に注目されていた。


ヒカルは、溢れる涙を止めることができずにいた。
タクシーに乗ってからも涙を止めることができずにいたヒカルを、行洋は抱き締めてくれていた。
門の前にタクシーを止められて、降りたつと、目の前の家は真っ暗で明かりが一つもついていなかった。あれ、と首を傾げたヒカルに、行洋が背中を押して、家の中へと促した。
「だれもいないから安心しないさい」
リビングのソファに腰掛けさせられて、ヒカルは辺りを見回したが、次の瞬間、行洋が離れる気配を感じて、咄嗟に洋服を掴んでしまった。
そんな様子をみて、行洋は目元をほころばせる。
「喉が渇いただろう。飲み物を持ってくるよ」
「あ・・・すみません」
思わず自分のしたことが恥ずかしくなって、俯いてしまう。行洋が冷蔵庫に向かうのを見送って、ヒカルは体から力を抜いた。どうやら緊張してしまっていたらしい。
ヒカルは、家のことはよく判らないが素敵な感じのリビングに感じられた。
けれど、なんとなく。
「私の家に、こういったリビングがあるのが、不思議かい?」
いま、まさしく思っていたことを行洋に指摘されて、ヒカルは慌てて振り向いた。
「い、いえ、そんなことは・・・!」
差し出された飲み物を受け取って、ヒカルは慌てて首を横にふる。渡された冷たいオレンジジュースはほんのり甘くって、ヒカルは一気に飲み干してしまった。
行洋は笑ってヒカルの隣に腰を降ろす。
「いいんだよ。だれでも一度は驚くからね」
「だれでも・・・ですか?」
「ああ、なぜか皆私の家は畳の部屋ばかりだと思うようでね」
「・・・・それ、なんとなくわかります」
「だからここに通すと誰でも一度は驚くんだよ」
楽しそうに笑う行洋をヒカルは不思議そうに見上げた。
「ん? どうした?」
「なんだか、先生が前と違うように感じて・・・」
「前と違う、か・・・そうかもしれないな」
優しげに微笑む目元に、ヒカルの心が何故かずきり、と痛んだ。
「私は自由になったんだよ」
「自由?」
「ああ、じゃあ今まで不自由だったか・・・と言われればそうじゃあない。私は自分の心を自
分で縛り付けていたんだ。いつのまにか自分に『塔矢行洋』であることを強いていたらしい」
「『塔矢行洋』であるって・・・・」
「私は、只の碁の打ち手の一人なんだよ。それを教えてくれたのがSaiだ」
「佐為・・・が」
「ああ、彼は私に囲碁を打つ楽しさを思い出させてくれた。いつのまにか、タイトルを取る囲碁を義務付けられていた私の目を覚まさせてくれたんだよ。もっと世界に目を広げなさい、まだまだ上には上がいるってね」
確かに。日本においては行洋をしのぐ事ができる相手はいないだろう。
行洋はいつしか独りで碁と向かい合っていたのだ。それを佐為が救った。
「Saiと打つことができてよかったよ」
「・・・・・佐為も、喜んでた・・・・」
「そうか、それは良かったよ! 失望させてたら申し訳ないと思っていたからね」
ヒカルはブンブンと首を横に振った。
「違う! そんなことない! 嬉しがってた! もっと、もっと打ちたがってた!」
「・・・もっと?」
「もっと! ・・・もっと、打たせてやれば良かった! あんなに強い相手と打ちたがってたのに、俺なんかが独り占めして!」
「進藤君・・・・・」
「先生!」
今まで胸の奥底に押さえつけていた佐為への思いが一気に溢れ出してしまって、ヒカルは溺れてしまっていた。
「俺、苦しい・・・!」




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