『き』 きちく  より 


「塔矢先生!」
声変わりはすませたのか? と聞いてしまいたくなる声で呼ばれて、行洋は振り向いた。
その先には、いまや囲碁界の寵児として、自分の息子である塔矢アキラと対をなす、進藤ヒカルが立っていた。
「進藤君じゃないか、どうしたんだ、1人で」
「塔矢先生こそ」
互いの言葉も無理はない。
何せ、2人が出会ったのはとあるホテルのロビーなのだから。つい最近建てられたこのホテルは、このご時世にあえて高級志向を狙ったホテルで、半端じゃなく、お高いところなのだ。
それでも、そこに泊まるだけの価値がある、とされるサービスをもってもてなしてくれるホテルとして、日本には珍しく海外に知られ始めているらしい。
どちらかというと、芸能人やお偉いさん、海外のハリウッドスターとか、そんな人達の御用達のホテルなのだ、と先ほどまで取材を受けていたインタビュアーから聞いたヒカルだ。
「なんか、俺、場違いで困っちゃいましたよ」
「そんな事はないよ。なかなか、そのスーツも似合っているよ」
「そう、ですか?」
ヒカルが着ているのは、華やかさを強調するデザインスーツだ。スリムな型のスーツは、身体の線を出すように、所々を絞ったりして強調していた。薄めのコバルトブルーのベロア地で作られたスーツはヒカルの明るい髪の色とよくあった。丈がウエストラインよりちょっと下ぐらいまで、と短めのスーツジャケットは、ヒカルの細い腰をよく強調していたし、ストレートのパンツも絶妙なラインで尻から脚のラインにかけて素晴らしいカーブを作っている。ジャケットの下は白のレースのTシャツで、かなり広い襟ぐりらしく形のよい鎖骨が露になっている。
そして、ワンポイントに付けられている皮のチョーカーが全体を引き締めていた。幾重にもゆるく巻きつけられた細い皮紐には、シルバーの細いリングが何本も通してあり、時折触れ合うそれらが、可愛らしい音を立てた。
「ほう、今日の格好は随分可愛らしいね」
「・・・・かわいいですか?」
ちょっと不服なのか、ヒカルは唇を尖らせた。
他の人がかわいいね、なんていおうものなら、ちょっと許せないけど、行洋は特別だ。
「今日はどうしたんだい? 一人で」
「俺だけ取材だったんですよ」
「進藤君だけ?」
「ええ、本当なら一緒にだったんですけど、その日は俺にどうしてもはずせない用事があって。結局・・・・塔矢と…アキラとは別々に取材を受けることになったんです。なんか、衣装一式用意してくれたのはいいんですけど、こんなものもらっても・・・・・」
「私は、それはよく似合っていると思うが」
「そうですか?」
綺麗に整えられた髪を弄りながら、ヒカルが照れたように笑った。
「そういう先生はどうして?」
「ああ、ここのホテルに私の知り合いが泊まっているんだよ」
「お知り合いですか?」
「ああ、私が海外に出たときに、いろいろ協力してくれた相手なんだ」
ああ、とヒカルは思う。
佐為と碁を打った後、行洋は随分と行動的になったと思う。
今まで築きあげてきた名誉もなにもかも捨てしまって、身軽になった、と笑う行洋の姿勢を、ヒカルは素敵だと思っている。
「先生みたいなのって、いいですよね」
「私かい?」
「ええ・・・・」

ヒカルの目が一瞬遠くなる。

もし、自分なんかじゃなくて、行洋と佐為が出会っていたら、今も消えてしまう事もなく、碁を打っていたかもしれない、なんて、思ってしまうから。

「・・・・どうした? 進藤君」
「あ・・・や、なんでもないです・・・・」
きっと、聞きたいこともあるだろうに、聞かずにいてくれる行洋の優しさが嬉しかった。行洋の優しさは、佐為の懐の大きさに近いものがあると思う。だから、ついつい、ヒカルは行洋に甘えてしまうのだ。
それを、恋人が面白く思っていない、というのはわかっているのだが。
「それにしても先生、随分活動的になりましたね」
「ああ、パスポートがあっというまに、印でいっぱいだよ・・・・前は、1人で旅行なんて考えてもいなかったのにねぇ」
「ふふ、先生なら、まだまだ大丈夫ですね」
「ああ、なんだかね、体中にこみ上げてくる力のような物を感じてるんだ」
そう言って笑う行洋を、ヒカルは眩しげに見上げた。年をとるにつれて、この人は内側から光を増すと思う。そんな行洋相手に、佐為に本気の碁を打たせて上げることが出来て
本当に良かった、とヒカルは思う。
そして、いつか自分もこの人と、そう思わせるような碁を打ってみたい、と思う。
行洋は、ヒカルにとって憧れの存在でもあるが、果てしなく大きなライバルでもあるのだ。
「先生、また、俺と打ってくださいね」
挑むようなヒカルの目に輝きに、行洋は満足気に微笑んだ。
下から追い上げてくるこの存在は、行洋を奮い立たせてくれる、ありがたい存在だ。
行洋は、自分の予定を思い返す。今日は、昼間の用事さえ済ませてしまえば、珍しく時間が空いているのだ。
あいた時間はネット碁でもしようか、と考えていたが、目の前の存在は充実した時間をすごさせてくれるだろう。
「ならば、家に来ればいい」
「先生の家に、ですか?」
「ああ、今日は、家に私だけでね」
「先生だけ?」
「ああ」
行洋が困ったように笑う。
「明子は実家に用事があって、今日は向こうに泊まるらしい。アキラも指導碁で地方にいっているから、どうしようかと思っていたんだ。手作りの料理、というわけにはいかないが、晩飯は食いにでも出ればいいさ」
「いいんですか?」
「ああ、なんだったら泊まっていけばいい」
「そ、それは」
「駄目かい」

――― 駄目じゃない。

ヒカルは心の中で即答していた。もし、行洋の家に泊まることができたら、時間を気にすることなく、行洋と碁を打つことができる。いつも、行洋は忙しそうだから、こんなチャンスは滅多にない。
だが、だがしかし!
他の家でお泊りは、絶対禁止されているのだ!
なんにもない、と口をすっぱくしていっているのに、どうしてもそれだけは許してくれないのだ。
加えて塔矢の家には一人で行くなとも言われている。

――― でも、折角のチャンスなのに・・・・!

よくよく考えてみれば、その恋人だって今日は地方の遠征で東京にはいないではないか!
ヒカルの心の天秤が大きく傾いた。

――― ごめん・・・・! でも、俺やっぱり、先生と碁がしたいっ!!




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