長谷川監督「優作以来の衝撃」

唯我独尊の男 赤字を出しても妥協せず


弔問に訪れた長谷川和彦監督。後輩監督の突然の死に、やるせない表情だった
弔問に訪れた長谷川和彦監督。後輩監督の突然の死に、やるせない表情だった
 弟分、相米監督と30年来の付き合いになる長谷川和彦監督はショックを隠し切れなかった。「昨夜、知り合いのプロデューサーから連絡があったが、こんなことになっていたとは思わなかった。オレよりも若いやつが先に死んでしまったのは(松田)優作以来」と声を落とした。

 ゴジこと長谷川監督が24歳、相米監督が学生だった21歳の時に2人は出会った。「今村プロの冷蔵庫をあさっている汚いやつが相米だった」相米監督はテレビを経て、日活入りし、再び助監督の先輩後輩として仕事をすることになった。

 「カチンコのタイミングがうまかった。優秀な助監督だった」と振り返る。その後、ゴジは「太陽を盗んだ男」(1979年)で相米監督をチーフ助監督に起用、82年に設立した「ディレクターズ・カンパニー」にも誘った。同社は相米監督の「台風クラブ」の赤字をきっかけに倒産し、ゴジ自身は1本も映画を撮れず、現在に至る。

 「よくも悪くも独断専行、唯我独尊の男。相米は予算オーバーして、赤字を出したりして、今思い出しても腹が立つことはある。しかし、弟分としてはかわいい。人にかわいがられやすいやつで、保護者としての意識をくすぐるんだよ。甘えん坊が堂に入っていた。スタッフや役者にも慕われていたよ」と故人をしのんだ。

 最後に会ったのは1年以上前だという。「『風花』を見たが、久々にほめたいと思った。しかし、それもできなかった。こんなことになるのなら、強引に会いにいけばよかった」と悔やんでも悔やみ切れない様子だった。
 
親友の三枝成彰「最後の監督」

 「お引越し」や「台風クラブ」など4本の映画の音楽を担当し、海外旅行に一緒に出かけるなど公私ともに親しかった作曲家の三枝成彰さん(59)は「日本の映画界にとって大損失。情熱を持った本当の芸術家で、良心的な仕事をする最後の監督だった」と声を詰まらせた。

 訃報は9日に、仕事先の福島の会津若松市で聞いた。「1週間前に容体が悪化したのは知っていたので、覚悟はしていたがショックでした。肺がんは完治したと聞いていた。彼も死ぬとは思っていなかったでしょう」

 相米監督と最後に会ったのは今年の春。「食事をしながら新しい作品の話で盛り上がった。当時はお元気でした」。監督が体調を崩した際には医師を紹介した。「仕事には非常に厳しい人だった。何曲書いても変えてくれと。これからもっともっといい作品を撮れていたと思う。残念です」。葬儀・告別式には友人代表として出席する。
 
大林監督「全身の力抜けた」

 大林宣彦(映画監督)「残念です。全身の力が抜ける思いです。撮影所の良き伝統を伝え得る最後の世代の映画作家として、21世紀の日本映画界に最も必要な才能の一人でした。“映画監督”という名がふさわしい数少ない一人でした。相米さんの死は本当に大きな損失です。悔しいです。日本映画は大きな可能性を失いました。その分、僕らが頑張らねば―。今日、“なごり雪”の現場の大分県臼杵でスタッフ全員で黙とうしました。相米さん、おつかれさまでした。ありがとう」

 鶴見辰吾(「翔んだカップル」など)「第一報を聞いた時はとても信じられる出来事ではなく、現実感がありませんでした。まだこれからいろんな仕事でご一緒したかったんですけど…。僕にとって映画の父である人でした。とても残念でなりません」

 矢崎滋(「魚影の群れ」など)「映画論を向けても口数少なく、ムダ口を叩かない物静かな人だった。生き急ぎはしたが、酒やたばこを十分に愛し、悔いなく天国へ逝ったのかもしれない」

 佐藤忠男(映画評論家)「日本映画がつらい状況にある中で、本格的な映画を撮り続けた稀有(けう)な監督だった。例えば妥協を許さずに粘りに粘る姿勢は、『魚影の群れ』という傑作を生んだ。日本の社会風俗に一貫してこだわり、『あ、春』などのように、ごく日常的な生活の中で人間が見せる奇妙さ、おかしさを、奇をてらわずに描いた。日本映画界でもトップクラスの存在だった」