七、
僕の気持ちはめぐりめぐった。そしてやっぱり夏央理に帰っていった。遊覧船は、結局出航した時の元の港へと循環する。成田京子は、船が揺れながら吸いこまれる、湖の反対の接岸地点にしか過ぎなかった。つまるところ僕はあらかじめしくまれた運航路を辿るように、夏央理という元の港へと戻っていった。
さながら京子の放つ美酒に酔いしれて大空にひるがえる大鷲が、東京の真実からの手紙(それはみだれ吹く貿易風の荒々しさにも似ていた)に体勢をくずしながら、からくも元の巣へと舞いおりてきたようなものだった。
そのきっかけとなったもの、それは夏央理の同居人である女性部隊員が運んできた、ある誘いにあった。Jコープ内でも「写真屋さん」として名が通っていたその女性を、前にも新部隊員の記念ショットを撮るカメラマンとして紹介したことがあったけど、彼女は名前を鬼頭則子といって、幼稚園の先生をしていた。
「前々から夏央理ちゃんと企画している『マシナ』用の題材があるんですよ。藤井さんに是非協力していただきたいな、と思って、うん。」
――則子は唐突にこんな話を持ちかけてきた。『マシナ』はJコープが年に三回の頻度で刊行している部隊員のための機関紙だった。ハワイ語で「月」を意味する「マヒナ」は、サモア語では「マシナ」と発音された。僕たちはその時はじめて『マヒナ・スターズ』という昔のハワイアン・バンドが「月と星」という、ハワイ語と英語の合成から出来ていることに気づくのだった。
JICOのオフィス。二階にある和室。そこは白塗りに鉄筋コンクリートの大ざっぱに整然とされた空間からぽっと現れた、半分が畳の部屋だった。もう半分はPタイルの西洋式の床になっていた。南側の半分が座敷のように床から三十センチくらい高くなっていて、六畳ほどの畳がはられていた。人によってはそれを「仮眠室」と呼ぶ。部屋に一つだけある窓は東向きで、その傍らには年代モノの旧式足踏みミシンがでんと放置されているのが清涼としていて、壁面の蒸し暑さとは不釣合いだった。段差の低いPタイル側には壁づたいにワープロのディスプレーとキーボードが二台ほどデスクの上で整列していた。僕を含めて学校の教師として活動しているJコープはこのワープロを、たとえば独自の教材をつくるために、あるいはテストなどの問題用紙づくりにあたって、存分に活用していた。
もう一方で、このワープロが恵んでくれる利に調子よく漬かっている連中がいた。それが機関紙『マシナ』の製作部隊員だった。
鬼頭則子はその製作に携わる一員になっていた。そしてその日、たまたま試験問題をつくるために和室でワープロ打ちをしていた僕と彼女が居あわせたのだった。彼女はついこの間、自ら撮影した新部隊員たちの写真付きの記事をプリントアウトしているところだった(その写真は〈語りべ〉ホテルで撮ったあの記念写真で、その被写体の中には成田京子や僕と同居しはじめた渡部晃も入っていた)。
「そうだ、藤井さん。」
則子はこうも何気なく僕に話を投げかけてきた。そして次に口から出てきたセリフ、それが前述のものだった。
「そうだ、藤井さん・・・ずっと前の『マシナ』の中に、(西田)紗絵さんがやった、サモアの中華料理屋を大々的に紹介した特集記事がありましたよね。町じゅうの中華料理屋を食べ歩きして色んな評価とコメントを付けていくという・・・。今度はその第二段としてサモアのナイトクラブをクローズアップしてみたいんですよ。それで、夏央理ちゃんとも相談した結果、やっぱりここは藤井さんにお手伝いをお願い致しましょうと、うん。」
則子は頷きながらよく「うん」という言葉を会話の合い間に埋めこんだ。
「面白そうですね。」
僕は素直にこう答えた。この返事に偽りはなかった。そして背中のあたりからむずむずと翼が生えだしたかのように浮かれそうになった。それまでの僕には夏央理という女に対し少なからずの気がありながら、うまいこと彼女と親密になる機会を逸していた。「これはだんぜん好機になる!」――僕はそう思った。
「・・・もちろん、鬼頭さんも取材の仲間には入るんでしょうね。」
「ううん、あたしは。そうね、ちょこっとは撮影とかでお手伝いしてもいいけど、うん、やっぱり夏央理ちゃんと藤井さんとでやって。」
ぼくには則子のその声が、春の鳥のさえずりのようにも聞こえた。
「どういう意味ですか、それは。」
声をうわずらせて微かに笑った僕に対して、則子は「うふふふふふ」と言って笑いを溜めた。その時、鬼頭則子の哺乳類のような目が、天使のそれのように変幻した。
――僕が夏央理と一緒に連れだって町じゅうのナイトクラブを遊びまわれるとしたら・・・。「機関紙の取材のため」という名目はともかくとして、それは何という艶かしい季節の到来だろう!
九月に入ると、肌寒い〈南風〉もおさまって、空気が湿り気を帯びてくる。僕たちにはあの熱狂的な雨季が近づいていることを予感させた。
雨季の兆しは、強烈な〈貿易風〉が運んでくる。一番暑い一月、二月になると、〈貿易風〉はおだやかに肌を舐めるように弱まる。雨季に吹く突風は「ラッイ」と呼ばれていて、、それは必ず積乱雲を連れてスコールをもたらす。「ラッイ」が通りかかると、人々は急いで洗濯物を取りこみ、雨よけの、椰子の葉で編まれたブラインドを家のまわりにおろす。
ハリケーン(サモア人は「アファ」と呼んでいた)の発生が集中するのも雨季のことだ。そしてその後、三月になって〈貿易風〉がまた猛りだすと、それが乾季のそこまで来ている印になるのだった。
九月の十五日、その日はサモア在住のアメリカ「平和部隊」対Jコープのソフトボール大会がJICO事務所の裏にあるカレッジの校庭を借りて開かれた。もうその頃は同居人の渡部との共同生活にも慣れ、親密に互いの生活を共有するようになっていた。
あっという間に男をつくった成田京子は、職場と男の住居とを行き来するといった生活をすでにパターン化させていた。
あのおやじ部隊員は京子とこの男のことを話のネタにして、何という賭けも持ちだしたか!「おい、あの二人の仲がいつまで続くか賭けようぜ。俺は三ヶ月にしておく・・・」――そう、京子たちの将来の交際期間まで賭け事の対象としておもちゃにしはじめたのだった。
ソフトボール大会は親善を目的にしていたので、我々もアメリカチームも、互いに勝ち負けは抜きでゲームを楽しんだ。「平和部隊」チームには、ソフトには不慣れなオーストラリア人のボランティアが混じっていたとはいえ、体の大きさでははるかに僕たちのそれを凌駕していたので、Jコープよりは有利なはずだった。
Jコープの女性メンバーは空振りか、ボールにバットを当てたにしても内野ゴロがせいぜいなのに、白人女性のパワーは、当たりさえよければ一振りでボールを外野まで飛ばせた。
それでも、かろうじてアメリカチームに勝利を治めたのは、日本のアマチュアスポーツの平均レベルが高いことを白人たちに見せつけた形になった。僕たちは三回裏の守備では、素人の試合では珍しい、無死一、二塁からのトリプルプレーまでやってのけた。
その日は青空の眩い、風もなだらかなスポーツ日和だった。汗はグラウンドの細かい砂を素肌やTシャツに付着させたけど、たまには緑色の微風がそよいで僕たちの体の火照りを癒した。
その試合、隙を見てJICO事務所二階のキッチンまでビールを拝借しに行った僕はそこで夏央理と出くわした(彼女も試合には参戦していた)。ライトグリーンの蛍光色で染められたキャップを被った夏央理は「どうしたんですか」ときいてきた。
「いや、飲みものをね。調達しようとこっそりやって来たんですよ。山本さんは?」僕は共同の冷蔵庫を開けると夏央理には背中をむけたまましゃがんでそうきき返した。
「あたし?まぁ、似たようなものですね。暑かったからちょっと涼みに来たんです。喉も渇いたし。・・・藤井さんは、やっぱり〈手の水〉ですか。」
「ヴァイリマです。」
僕は手にした〈手の水〉ビールの小ボトルをかざすと、無理に笑顔をキッチン内に散らかした。広めのキッチンには二人の会話がよく響いた。
「そうだ、あの話はもう則子ちゃんからは聞きました?」
「あの話っていうと、あぁ、『マシナ』の件ですか。はい、聞きました。」
「今日の夜とか、お時間あります?よかったら打ち合わせもかねて、どこか行きませんか。」
「そうですね。『ドント・ドリンク・ザ・ウォータ』ででも。」
僕は事務所からも一番近い、粗末に気取ったそのバァを指名した。ここは前にも出てきた。色つやのよい木製の椅子やテーブル、ロココ調の安っぽい壁紙などはまだ洒落っけもあるけど、古ぼけた床のPタイルのくすんだワインレッド色が、どうしようもなく赤サビとのイメージと重なって時代遅れだった。
それでもこのバァが女性部隊員に人気があったのは、冷房を完備していたのと、B・G・Mの音が小さかったので、落ちついて会話を楽しめるところに理由があった。というのもすぐ三、四軒向こうにあるおなじみの「ラヴァーズ・リープ」も含めて、町のバァには必ず馬鹿でかい音楽が流れていて、その音量は、恋人たちの会話さえままならないほどひどかったので。
その後、ソフトのゲームを終えると、夕方からは「平和部隊」との親睦会でバーベキューが始まった。この大会は僕たちの間では「サモアン・カップ」と呼ばれていて、三ヶ月にいっぺんくらいの割合でとり行われていた。たいがいは相手のアメリカ側がグラウンドを用意してくれるかわりに、僕たちJコープ側がバットやグラブなどの道具を貸すことになっていた。そして、ゲームの後は必ずといっていいほど参加者たちが持ちこんだ食材でバーベキューとなる。真木コーディネータはよくドリンクの差し入れをしてくれたので、皆なは喜んでこのおすそ分けにたかった。
その日はたまたまいつもと趣向を変えて場所をJICO事務所のお膝元の〈最後の水〉グラウンドに設けて催されたので、大会の運用はすべてJコープがホスト役となった。場所の予約からバーベキューの準備までが、僕たちのスタッフによってとりしきられ、最後は表彰式になり、参加者たちの拍手のもとイベントはしめくくられた。
夜になった。居のこった「平和部隊」の連中も皆な引きはらい、僕らは夏央理たちとともに「ドント・ドリンク・ザ・ウォータ」へと流れた。
その呑み会に居あわせたメンバーが結果的にそのままナイトクラブの取材班となってしまったことは自然だった。夏央理は僕のすぐ左脇に座り、右には例の四国弁で話すお父さん部隊員の沢村が呑んでいた。彼も実は機関紙『マシナ』の製作部隊員だった。そのほかにはその場に現同居人の渡部晃も居た。彼はよく「コウ」「コウ」と呼ばれて、サモア人からもかわいがられていた。大学出の新卒でやって来た渡部は、若かったし、フレッシュな印象も強かったのでサモアの女たちからも頻繁に色目を使われるような存在だった。


僕たちは発起者である夏央理の案をじっくりと突きつめるべきだったものを、いざ企画から実践へと話が向かおうとしたのも束の間で、ほとんどの人は打ち合わせをそっちのけで私事を論じあうようになってしまった。僕も丸テーブルを囲んで、すぐ隣りに居た夏央理と、わりとプライベートなことを、その場の空気につられるように話しだしてしまった。でも、それは自分では阻止できない欲求だった。その話の内容が身に迫ることであればあるほど。
夏央理がきく。
「藤井さんは派遣国外旅行はどこに行こうと思ってます?」
僕が答える。
「・・・そうですね。目的地は迷わずタヒティですよ。」
「ずっとタヒティにしようと決めていたんですか。」
「そう。サモアに来た時から。いや、正確にはその前からかな。」
「はは。すごいこだわりですね。」
「執着ですよ。」
夏央理は、セリフの頭に「はは」と歯もとで笑う癖があった。それは「あなたの話を聞いてますよ」という相づちを打つようにも見えた。
――「はは。でもいいんですかね、例の核実験のほうは。」
「それなんですよね、問題は。」
「行くのはいつごろんなんですか。」
「そうね。学校のスケジュールのことを考えたら、クリスマスを過ぎて年明け早々かな。――山本さんはどうなんですか。」
「とりあえずニュージーは考えてますけど。・・・あとはクック諸島かな。あと、トケラウ(諸島)にも行ってみたいんだけど。」
「欲ばりですね。」
「うーん、でもどこも一応ニュージー領ですからね。うまいことやればみんな行けるかも。」
「時期は?」
「そうですね、年末くらいになると思いますよ、やっぱり。大学の授業のことを考えるとね。」
ふと夏央理の首すじのほうに目をやると、僕は「失敗した」と自覚した。何という迂闊な自分だったことだろう。彼女は髪の毛をばっさり切って、見事なまでにショートヘアになっていた!
僕の瞼では、サモアの〈踊り〉の稽古に初めて顔を出した時の夏央理の肖像と今のショートヘアの彼女とがオーバーラップした。長い髪にソバージュをかけていたあの時とは、夏央理のイメージはまるで変貌していた。
「あれ、髪を切ったんですか。」
「えぇ、少し前に。」
掌を返して、手の甲あたりでヘアーラインをなぞるような仕草をした夏央理は、僕からの視線をうち流すように何度もまばたきをした。
昼間のソフトボールの時から、バーベキューをしているとき、そして今の今まで、僕は何で彼女の髪の毛のメタモルフォーゼに気づかなかったのだろう。
そう、僕はすでに夏央理を見ていて夏央理のことを見ていなかった。彼女ではなく、彼女という存在を愛しだしてしまったのかも知れない。
「・・・・・・ムルロア環礁の地下核実験は来年の初頭までは続くらしいんですよ。」
「だったら危ないわね。そういえば真木コーディネータも渡タヒティ禁止条例を引くようなこと言ってましたよ。」
「今一番危惧しているのはそのことなんですよ。だってそんなおふれが出てしまったら、俺が行くことさえできなくなってしまうじゃない。」
「はは。核の心配よりも?」
「そう、核のことよりも。」
サモアに派遣されたJコープが国外旅行先として認められていたのは、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、トンガ、米領サモア、ハワイ(アメリカ本土は除く)、そしてタヒティの七ヶ国だった。そのほかにもクック諸島など、若干のニュージーランド領となっている島々へ行くことも大目に見てもらえた。
派遣国外旅行は任期中に一回だけ、三週間の期限付きで許されるサモアからの脱出計画の実現だった(もちろんその間日本へ帰ることは認められていない)。部隊員はこれをやってもよかったし、これをやらなくてもよかった。
これをやる者は、脱獄犯が抱く幻想を思いえがいた。解放と自由を国外に飛遊する自分の心に塗りたくった。一方でこれをやらない者は、「健康手当て」なる現金をもらってサモアの島の内で燻りつづけることに喜びを見いだした。同期の細田嘉章などは、真しくこのたぐいに所属する。
タヒティは旅行で行くことのできる、唯一のフランス領だった。つまり他のどの渡航先よりも異文化圏だった。「英語が通じない」――ほとんどの部隊員がこのことを理由にタヒティのことを敬遠していたけど、僕にとってはそのことが何よりもエキゾチックな魅惑だった。
「仏領ポリネシア・タヒティ」――この響きに僕は未知の光と影の揺曳を見つけた。僕の知らない何かが必ずここには存在している。英語という言葉を、ぎこちなく、もったいぶってて話すJコープたち。その誇らしげな連中は、実は小心者の集まりで、英語を楯にして大そうないちゃもんをつけてくるサモア人のお偉方と寸分の違いもなかった。奴らは英語こそこの世で最も美しい、至上の武器だと思いこんでいた。
そして「イエス」という発音の別の世界では「ウィ」という発音が存在することを知ろうともしなかったし、たとえ知っていたにしても、「イエス」と発音することだけで、弾丸をめいっぱいにつめ込んだ銃を手にとって構える時のように、満面の笑みをひけらかした。
しかし、「ウィ」の存在の優位性に気づいた人たちはどうだろう。ひたすら「イエス」ばかりを連発するかぶれた奴らを「無知」という表現で一蹴したかも知れない。不器用に胸を張って「イエス」をめくら撃ちする臆病な連中を、「コンプレックス」とからかい、嘲笑したかも知れない。
だけど、悲しいことがあった。それは夏央理が「イエス」と言う種族に属していたことだ。彼女は英語を勉強するために毎週オーストラリア人の先生から個人レッスンを受けていた。そのことだけで、僕にとっては耐えられない彼女からの裏切り行為だと真剣に思っていた。
――――――――――
十月の半ば、アピアの町でJコープ主催の駅伝大会が開かれた。JICO事務所の〈最後の水〉がスタート地点であると同時にゴール地点にもなる一周五キロのコースを、三人でタスキをまわすのがこの駅伝のルールだった。三人一組で約五十組、のべ百五十人がこの競技に参加した。その中には「平和部隊」や僕を含めたJコープのメンバーも数名居たけど、半分をサモア人、そしてサモアの子供たちが占めていた。また、これは「駅伝(これを『Long
Distance Relay』と英語に訳していた)という日本生まれのスポーツを、広く知らしめる」という本来の目的にもそぐうことだった。
そして運営はすべてJコープが担当した。この駅伝のもう一つの目的は、Jコープの知名度向上でもあったからだ。
僕は九州出身のサヴァイイ島部隊員、〈水の吹き出る所〉村で機械整備士をやっている泊英樹と彼の同僚のサモア人とでトリオを組んで、五十位中九位という成績をおさめた。
他の部隊員は当日のスタッフを務めた。受付、ゼッケン貸与、案内、コース説明、誘導、救護、撮影、ドリンク、順位、記録、表彰、賞品、これらの役目すべてに担当係とそのリーダーを任命して七転八倒しながらも、僕たちは首尾よく仕事をこなした。
スタッフの中に夏央理の姿もあったことは言うまでもない。
「そうだ、藤井さん、誕生日おめでとうございます。」
彼女は当日の会いがけにこんな言葉をかけてきた。
「ありがとうございます。」
僕は意図もなく反射的に会釈したけど、かがめた上半身をもとに伸ばそうとしながら、僕の誕生日がついおとといだったことを、どうして彼女が知っているのだろうと不思議がった。
駅伝は暑さを考慮して、夜明けとともに一斉にスタートラインを駆けだし、午前十時前には全組がゴールを切った。優勝の座は「サモアン・カレッジ」きっての先鋭陸上部隊、生粋のサモア人三人衆がかっさらって行った。彼らは、サモア人が瞬発力には優れていても持久力に欠けているんじゃないかという、僕たちの固定概念をものの見事に粉砕してトロフィーをもち帰った。
夏央理が僕の誕生日を知っていた理由は後になって判明した。十月は部隊員の誕生日が重なっているので、駅伝の打ち上げと誕生パーティを一緒にやってしまおう、という看護婦・笹本裕子の企みがあったようだ。裕子と夏央理は、前の晩、そのためのケーキ造りに励み、僕たちは打ち上げで出てきたそのケーキの手のこみように驚嘆した。
そしてまたバーベキューでもって駅伝の無事成功も祝った。こうして何かイベントがあると、JICO事務所の屋根付きで壁がない駐車場は、即座にバーベキュー会場となるのが常だった。僕たちは当たり前のようにそこに集い、誰かが火をくべ、誰かがビールを買いこんで、煙の匂いとともに午餐を楽しんだものだった。
夜になると、僕は夏央理と同居人の渡部、そして養護婦の古屋ひとみの四人でディナーを済ませた。渡部は企画中の『マシナ』の取材班の一員として、写真担当を自ら進んで名乗りでていた。そしてひとみは、たまたまその会食に居あわせただけのはずだった。
僕らは〈げんこつの裏〉の先にあるピッツァリアまで足を運んだ。話題はどうしても目前に控える派遣国外旅行のことに集中した。
その時すでに真木コーディネータは僕が懸念した通りに渡タヒティ禁止条例を敢行していた。「フランスの核実験が終止符を打つまでは、いっさいのJコープの渡タヒティを禁ず」――これが部隊員全員に出まわった真木の指令だった。
「もうタヒティに行くことは出来ませんね。」
夏央理は四人用テーブルの向かい側から僕を宥めているようだった。仄暗いレストランには、テーブルごとに軽油ランプがかすかに灯されているだけだ。ディープグリーンに彩られた柱とトタン屋根があるだけで、そこはまぎれもなく外にあった。床には風情を殺すコンクリートが打たれていて、足もとには蚊やハエが渦まいている。ウェイトレスを呼ぶ。「Yes,
may I help you, sir?」――西洋人の客が多いこともあって、彼女たちは本場じこみのような英語を使った。
僕らが虫よけのスプレーを頼むと、すぐに飛んでいって持ってきた。しかめっ面をしながら僕がテーブルの下にスプレーを撒くと、まわりの西洋人の客は神経質そうな視線をこっちに向けた。しかし、僕らが彼らに目を返すと、たちまち「にやっ」というようなスマイルに彼らの表情が豹変する。・・・それはサモア人の笑顔のつくり方にそっくりだった。西洋人も、長くサモアに住んでいるうちに、サモア人独特の仕草や顔のつくり方を、移しこまれたかのように真似するようになってしまう。


「いや、タヒティ行きはまだあきらめていませんよ。」
「はは。」
夏央理はいつものように口先で笑うように、僕の返事を受けとめた。このピッツァリアは洒落ている場所かどうかは意見の分かれるところだったけど、女性の部隊員にはそれなりの高い評価を受けていた。そういえばテーブルには必ず造花の花瓶がしつらえてあったし、便所の芳香剤にさえも、一種のこだわりをパフォーマンスしていた。
「山本さんは?もう決まったの。」
「えぇ、結局クックとニュージーです。トケラウは、物理的にもう無理なので、結局今回は見送りにしました。」
「トケラウは飛行場もないし、行くんだったら船だけしかないからね。」
「うん、しかも三日三晩波に揺られるらしいですよ。」
「山本さんもニュージーですか。あたしもなんですよ」――古屋ひとみが瞳をきらめかせてて話に入ってきた。彼女の目の色は異様に薄く、白人のそれとよく似ていた。人によっては彼女をハーフかクォータにも見まちがえただろう。
「いつですか。」
夏央理がきく。
「十二月の二十九日に出発します。」
ひとみが立て肘をして夏央理のほうに目を流す。
「あっ、ほとんど同じ。あたしが二十一日だから。もう計画表は出した?」
「はい。」
「あたしまだなんですよ。早いとこ出さないと。」
計画表とは、旅行中の移動経路、泊まるホテルの電話番号、旅行代理店から発行された料金の見積り表などを記入したもので、渡航二ヶ月前までには必ずこれをコーディネータまで提出しなければならない。計画表は、いったん島の外に脱出した部隊員を唯一しばくものだったけど、風来坊な部隊員は、外に出たとたんにこの計画表を無視して、勝手に独自のルートで旅をした。ひとたび出獄してしまった僕らの行動を、果たしてどこまで監視できるというのだろうか。一から十まで計画表通りに旅を進行させた連中は、ただ馬鹿真面目なだけか、よっぽど臆病な奴のどっちかだった。
「どこをまわるの、古屋さん。」
僕は同期の養護婦にきいた。彼女とは事前研修から一緒だったので、言ってみれば同じ釜のメシを喰った仲だった。ひとみはちらりとこっちに視線をずらすと、「まずはオークランドから。自転車でずっと動いてみたいの」と答えた。
「自転車ですか。」
渡部が口をはさんだ。
「はい。」
その時、ひとみはきらりと僕の左隣りの渡部のほうに目を寄せた。
「いいですね。自転車好きなんですか。」
「趣味なんですよ。そういえば渡部さんて、登山のプロだってお聞きしたんですけど。」
「プロってほどじゃないですけど、学生時代にずっとやってきましたから。」
思えば「登山」とはこの二人の妙な結びつきだった。ひとみは四大卒業後、約四ヶ月の見習い養護婦のアルバイトをしてからJコープに参加した。学生の頃は冬山の登山に何度か挑戦していたことはかねてから聞かされていた。そう、彼女も渡部同様に山岳部の出身だった。
渡部はこの春、大学の新卒でやって来た。職種は生態学なので、かなりいかめしい響きがある分野だったけど、要は国立病院でフィラリア対策を研究する活動をしていた。僕たちがしばらく山登りの話で盛りあがると、ついに渡部はシリシリ山登頂の夢まで語りだした。
――シリシリ山。サモア語で「最も偉大なる」を意味する山。サヴァイイ島にある、サモアの最高峰。海抜千八百五十六メートルの未踏の頂は、山登り好きの日本人にとってはたまらない魅力があっただろう。その地へは必ず麓の〈夜明け〉村から入らなければならなかった。禁止があったからだ。
渡部の案に対して僕はマノノ島まで泳いで渡る計画を打ちたてた。
マノノ島はウポル島の本島側から西の方角に四キロほど離れた小島だ。そこまでは浅瀬が途切れず、水深数メートルくらいの海がずっと続いている。波はおだやかで、注意がいるのは海流だけだった。急な流れさえなければ、海での泳ぎは真水のプールよりも体が浮くぶん推進力が上まわる。僕はそこまで二、三時間もみれば渡りきるという単純な計算を頭の中で打ちだした。
シリシリ山登頂計画、マノノ島まで泳いで渡る計画、ともにその時は絵空事だったものが、数ヵ月後、実際に試行され、しかも両方とも成功をおさめたのだった。
僕らはピッツァリアでもっと『マシナ』の取材計画のほうを話すべきだった。だけど取材班とは部外者にあたるひとみが居たために、「具体的に活動するのは十一月に入ってから」という大ざっぱな決め事だけで、ナイトクラブ巡りの話は、どこかへうっちゃられてしまった。
ひとみはさかんに「よかったんですか、あたしが居て」と気遣いの言葉を露わにしていたけど、僕らは今夜の会合が別の意味で有意義だったと確信していた。少なくとも将来のためのうさ晴らし(真しく、Jコープにとってレクリエーションとは、日常のストレスを発汗させるスパイスだった)計画をたてることができたからだ。ひょっとしてこの会食がなかったならば、「シリシリ山――」「マノノ島――」の実現はありえなかったかも知れない。
だけど、帰りしなの夏央理の、凪いだ波のような足どりは。・・・・・・ピッツァリアで精算を済ませると、僕はタクシーを二台頼んだ。帰路の方向の違いから、夏央理だけは一人で乗ることになる。
その時、停車中のタクシーに乗るため道の反対側へと渡っていく彼女の後姿と足の運び具合が気になった。心なしか背中を丸めて、彼女の寂寥が孤独を歌っているようだった。白いブラウスのタックが薄暗く見える。
夏央理は僕たちのほうへ振りかえると「ファー(じゃぁ)」と言って手を上げた。彼女を送ってあげたい、だけどその行為は露骨だ。僕がそのようなそぶりを見せたとしたら、渡部とひとみも一台で同乗して、それぞれの住居をまわりながら帰宅するという面倒に巻きこんでしまう。わざわざタクシーを二台もチャータした意味がなくなってしまう。
だからといって単独行動に出るのは不自然だ。僕だけが夏央理を送っていく形をとるのなら、今度は残りの男女を一組で帰すことになる。さらに渡部は僕と同居しているわけだから、別々の車に乗ってまるで反対の方向に走らせるのももったいなく思わせる。
色々な迷いに理由をつけて、その晩の夏央理を一人で帰してしまったことを僕は悔いた。つまり、僕は認めたくなかっただけだ。夏央理を好いているという自分の心理そのものを。そして怯えていた。この感情を是としている僕も、否としている僕も、その両方が表面に現れ、他の部隊員に察知されてしまうことを。
夏央理を愛するにはまず自分の恋心を完全に愛さなければならないのかも知れない。
僕の慕情の先走りを踏みとどめるもの、それはプライドだった。幼いころ、パラパラマンガを完成させるごとに積みたてていった誇りという名のブロックを一蹴してしまう何か、かつて栄光という勲章を刻みこむつもりでいた左胸から、今まで誰にも諂ったことのない、豪華絢爛とした矜持の輝きを、さもニセモノの刺青プリントをはがす時のようにしらじらしく胸から引きちぎってしまえるような勇気――僕にはそれが必要だった。
「山本さん、一人で大丈夫ですか。」
別れ際にこうきいた僕に、
「当たり前じゃないですか。ここはサモアですよ」と言った夏央理の返事は、追い打ちをかけて僕のわだかまりを苛んだ。
彼女の、いかにももっともらしい答えの通り、サモアの治安の良さは世界中のどこの国も比肩することができない。家には壁さえもない。この国の人たちは西洋人が入ってくるまで鍵が存在しなければならない理由だって知らなかった。強姦はないこともなかったけど、今ではキリスト教の戒律がそれを強く押さえつけていた。夏央理の言葉が事実だっただけに、僕の心にはえも言われない水彩画の不協な色――それとそれを混ぜてしまうと必ずどす黒い惨めな色になってしまう絵の具が残ってしまった。サモアがもっと治安の悪いところだったら、それにかこつけて彼女を送っていく口実もつくれたというのに。
夏央理の一言は、考えようによっては「大丈夫ですから、あたしを送っていただくなんて、かえって迷惑です」とも解釈できることに、ふと気づいたとき、黒光りする僕の精神は岩山が崩れるように砕けおちてから愕然とした。
とにかく僕は立ちさろう。きまりの悪いこの場から逃げかえろう。それをいかにもクールに演じきるのが、せめてもの夏央理への思いやりのある毅然さだろう。僕は腕だけ大げさに振って、彼女に別れの態度を示した。
夏央理の気遣いは、僕たちが闇の中に彼女を乗せたタクシーの影を見うしなうまで続いた。彼女はその間ずっと後部のウィンドウ越しにこっちに向かって手を小さく振っていた。
――――――――――
それから一ヶ月が過ぎ、サモアは十一月に入った。この頃になると、ぼちぼち町角ではクリスマス・キャロルが台湾製のスピーカァから流れはじめ、家々の装飾とかにはユールタイドの面持ちが彩られる
一年を通して、一番はしゃぐ時期がこのクリスマスだ。サモア人はだんだんと浮かれだす。それは週末ごとのナイトクラブの盛大ぶりにも、如実に現れはじめる。
堂本やよいが去ったあと、〈水を分ける=海側〉二十四番住居は成田京子たちとともにやって来たうちの二輪の華、大河原美里と富岡百子に引きつがれていた。この二人はあの事件のことを何も知らない。ただ、先輩部隊員から色々なことを聞かされて、「そんなことがここであったんだ」ときょとんとするばかりだった。
もう彼女たちもそこに住みはじめてから三ヶ月めに入っていた。そして多聞にももれず、来サモアしてからこのくらいの時間がたつと、在任の部隊員たちとまるで同じようなことをしだすのだった。
部隊員たちの身内のパーティほど俗を極めたものはなかったし、高等な人間関係はなかった。サモアという狭い日本人社会の中で、そのうちの二割ほどの日本人が、サモアだというのにサモア人を呼ばないで、かといって西洋人などのゲストもなしで、Jコープの一つの住居に集結する。
そう、この時期、二十四番で開かれるホームパーティが月に二、三度はあるという、もはやそれがJコープ内での慣例事業になってしまっていた。美里も百子もまた、本人たちの人気に誘われてやってくる部隊員たちを寛大に迎えいれたし、それを楽しんでいるようでもあった。
集まる人数も多い時には二十人を超えることがあった。僕たちはそこにお得意の料理を、ご自慢のデザートやケーキを持ちはこぶ。両親が郵送してくれた日本製のお菓子や日本酒、そして肴となる乾き物を差しいれる者も居る。
日本人だけしか集わないそのパーティで、我々は日ごろの活動のうさ晴らしとサモア人への悪口を垂れて夜を更かす。これはふだん部隊員が気の合った少人数だけで連れだったバァで交わす会話とはひと味違っていた。同じJコープに対する悪辣な非難や、特定人物に対する醜い中傷などはいっさい聞かれない、高尚な会合ではあった。
だけど、ホームパーティには鋭いサモア人批判が散在し、それが笑いの種にされ、そうしていることが、ときにストレスの解消と次の日の活動のエネルギーにもなった。
虚しいことに、僕たちはサモア人への悪口を共通の話題にした。そのほうがパーティとしておかしかったし、それが列席した面々の笑いを誘う(要はウケをねらう)効果的な手段でもあった。
「サモア人は臭い」「汚い」「頭が弱い」「能天気過ぎる」「大ざっぱだ」――嘲笑をまじえながら、ついにサモア人の体系的欠陥にまで触れるようになる。そこまで行くと、パーティの喚声はいっきに佳境に達する。その時の僕たちには、罪悪感に満ちた、こみあげる笑いがどっと襲ってくる。
何という下劣な、後ろめたい抱腹だろうか。細田を始めとして、直接的に現地人の中に入っていく親サモア派の一部のJコープは、絶対にホームパーティには加わらなかった。
そういう人たちは夕食後、開かれた家の中でくつろぎながらサモア人ととりとめのない日常会話をすることだけに喜びを見いだした。それこそ真のJコープのあるべき姿だと信じていた。
土曜の夜、その日も大河原・富岡邸でホームパーティが開かれて、時計の針が〇時をまわったところで、例のサモア人をお笑い草にした騒ぎは打ち止めになった。僕たちは一同で庭に出てからまた賑やかに別れ間際の立ち話をし始め、誰がどのタクシーに乗って帰るとか、誰が貸与されたモーターバイクで帰って、その後部座席には誰が乗る、といった協議も兼ねて、しばらくは深まる闇の中でパーティの余情に耽っていた。そんな時も容赦なくアルコールの匂いをまき散らす僕らの露出した肌めがけて蚊が襲ってくるけど、すでに三、四ヶ月もサモアで過ごしている部隊員は、ほとんど気にもかけずに蚊が噛みついてくるままにさせておく。もう自分の皮膚は来た当初から比べても倍くらいに厚くなったような気がしている。「血が欲しいのなら、自由にくれてやる」と思うくらいに大胆になれる。それはあの恐ろしいマラリアという病気がこの国には存在しないからあり得る無用心だった。
「うわぁ、虫の声がきれい。」
誰かが近くで、そう零した。
夏央理は足首まで隠れるロングスカートをなびかせて僕にすり寄ってきた。スカートの絵柄は、もの言いたげにこげ茶色で、細密画のような花びらが規則的に鏤められている。
「藤井さん、そうだ。タヒティの件はどうなりました。」
彼女は狙いを定めたように僕を呼びとめ、前のピッツァリアから数えると二たびにわたってこの質問を投げかけてきた。
「あぁ、あれですか。もう駄目ですね、あきらめました。結局派遣国外旅行はハワイに行くことにしました。」
「ハワイ?・・・ハワイだけに三週間も居るんですか。」
「そうです。」
「またまたぁ、色々と企んでんじゃないですか。アメリカ本土に渡るとか。」
「いえいえ、全然。」
「そうなんですか。そんなに簡単にあきらめちゃったんですか、タヒティも。」
「まぁ、しょうがないですよね。すぐ近くで核実験なんて。フランスがそれを止めない限りはね。」
そこへ割りこんで来た男がいた。彼の名を太田健二といった。太田はずんぐりとした軀の運びで、転がるように僕らの会話に仲入りしてきた。銀ぶちのメガネから奥二重の目をぎょろっとさせて。
「ねぇねぇ・・・さっきから何話してんの?」片手を前方九十度に持ちあげて、夏央理と僕との会話を憚ることなく阻んだ。
太田は農林省で野菜及び果樹をしている男だった。Jコープ内では、あの低俗なおやじ部隊員の小間使いのような役まわりになっていた。
夏央理と僕が芝生の上で立ち話をしだした時から、太田はずっと僕らを注視していた。先に乗りこんでいた車の中から、誰かの視線をちらちらと感じていたところに、わざわざドアを開けて僕らめがけてかけ寄ってから話をはさんだので、さっきから気になっていたまなざしが太田の発する眼光だったことを、その時になって僕は気づいた。
看護婦の笹本裕子などは家付きの番犬に愛撫しながら人間の言葉で別れの挨拶をしていたけれども、もうほとんどのJコープは帰るための車やモーターバイクに乗って、あと一台来るはずになっていたタクシーの到着を待っていた。
まわりは勝手気ままな、くだらない話題でくっちゃべっている。誰一人として、太田が介入してきた行為に気を止める者は居ない。僕は僕で、あとは歩きで五十メートルほど道路からは奥まったところにある自宅までとぼとぼと帰ればいいだけで、夏央理が話しかけてきたのは、パーティのしめを飾るちょっとした酔狂に過ぎなかった。
その証拠に、彼女から呼びとめられて浮かれていた僕は、太田がその時に見せた猜疑心をうかがい知ることなく、こんな発言をしてしまった。
「いえ、別に大した話はしていませんよ、太田さん。それより今ここには見えない壁があるのを知っていました?(と言って僕は彼と僕らの空間を遮るように平手を上下させた)僕は山本さんと話をしているんです。邪魔はご無用ですよ。」
「はは。」
夏央理はかすかに顎を上むかせて小声で笑った。
「そうだ、藤井さん。ナイトクラブ巡りのことですけど。」
「そうそう、いよいよ来週からですよね、取材のスタートは。」
「よかった、憶えてて。忘れていらっしゃるんじゃないかと思いましたよ。」
「いえいえ、忘れてなんかいらっしゃいませんよ。」
夏央理の添えた尊敬語が皮肉っぽく聞こえたので、僕は渋いものを吐きだすようにそう言いかえした。
しばらくは仏頂面で仁王立ちのまま耳を傾けていた太田は、僕らの話が機関紙『マシナ』のことになったので、「なんだ、『マシナ』の記事のことか」と人に聞こえるような独り言を言ってからきびすを返してもとの車へと戻っていった。
足早に、威厳を保とうとする太田の、コバルトグリーンのポロシャツを着た背中。彼は常に人当たりがよく、まわりからは好かれていたけど、いつも自分が築きあげたプライドにうち負かされていた。人々はそんな彼のガラス製のこだわりを見て、嘲笑う対象としていた。太田はやさしい性格上、自分の誇りが傷つけられても気にとめないようなそぶりをしていたけれども、その実、自分が皆なのやり玉にあげられてしまうような、集団の中の位置にあることを心のうちでは激怒していた。
まもなく、片方のヘッドライトが消滅してしまっているタクシーがのろのろと現れ、夏央理と笹本裕子たちはそれに乗って帰っていった。
二十四番の前の道は、舗装されていないじゃり道だったので(かつて、このじゃり道のおかげで自転車に乗った僕は、よく堂本やよいにとっつかまってしまった)、歩くと必ずけつまずいたし、自転車で通るときは、パンクしないようにとかなりの注意を要する道だった。
車だってかなりよたよたと進んだ。ライトが片目なんていうボロタクシーは珍しくも何ともない。夏央理を乗せたそのタクシーは、障害者の歩きのように不規則な流線型を描いて少しずつ遠のいていった。
後部座席の夏央理はいつだって後ろを向いて、僕と居のこった二十四番の住人、つまり大河原美里と富岡百子のほうを見つめて、目で別れを告げていた。ときおり片手を小刻みに振りながら、見えなくなるまで。
僕は美里と百子に「ファー(じゃぁ)」と言うと、幻想的な夜の向こうへと歩きだした。自宅まではずっとこのじゃり道が続く。暗闇は充満していて、どうしても僕の前進運動をまごつかせる。運良く隣りの家の番犬ども起こさないで家の扉までたどり着けたのでほっとした。奴らを誤って眠りから覚まさせてしまったなら、とんでもない犬吠えの嵐に遭遇するハメになる。
蒸し暑い夜を過ごして僕は寝についた。狂喜の夢への予感を弄ぶように。
――――――――――
真にそれからの数週間は夢の続きをずっと味わっているようだった。とうてい、整理することができない、形而上の乱舞。絶え間ない恍惚の進行。たゆたう恋情の身じろぐ煌きが連続して僕を盲目にさせ、夢想にのめりこませ、観念を失わせ、うっとりと刺激物を舐めているような、まったりと全身麻酔の快感に溺れているような気分。・・・それが神経を通過していく。
『マシナ』の取材、ナイトクラブ巡りが始まったのだった。
海岸道路沿いのダンスホール「O.S.A.」で、〈げんこつの裏〉地区のビルの屋上をディスコに改装した「スカイ・ヴィレッジ」で、町の野菜市場からほど近い「クリスタル」や「カヘヤランギ」で、「テウイラ・ホテル」とか「インゼル・ホテル」、そして〈語りべ〉ホテルのサタデーナイト・DJで、僕の心は踊った。
後にも出てくる「マウント・ヴァエア」は〈山の麓〉地区にあって、サモア人たちにも〈山〉の愛称で親しまれている、千人収容のダンスホールだ。
「ル・ジャルダン」は〈ソンガ〉地区(町の西側海岸)にある、落ちついた西洋料理屋で、金曜日には〈演奏〉がある。
「マティーニィズ」はかつて紗絵のお別れパーティをやった場所で、木曜のポリネシアン・ショー、金曜のファファフィネ・ショー(美形のオカマちゃんたちを拝める)以外の日はディスコティックになる。
僕たちは週末がやってくるごとに、アピアの町じゅうのディスコやダンスホール、ホテルの〈演奏〉をハシゴした。同居の渡部は写真の腕をふるい、お父さん部隊員の沢村は取材計画から原稿づくりのアイデアまでよく段取りを組んでくれた。
もちろん取材班の先導をとったのは僕と夏央理だった。この頃になると彼女はわりと気がねなく僕の住居に電話してきたし、僕も頻繁に彼女と鬼頭則子の同居する住居へと電話するようになっていた。
夏央理との電話に何という動悸を憶えたことだろう!
取材班には四人のほかに不確定なメンバーもいた。彼らは都合さえつけばついて来たけど、毎回必ず顔を出しているわけではなかった。僕たちは各ナイトクラブをまわって、それぞれにこと細かく評価をつけていたので、一緒に連れだつメンツも多ければ多いほど都合がよかった。それだけ多くの票や意見を集めることができたからだ。


ダンスホールの雑踏の中の夏央理は、小さい軀を優雅に翻した。ノリのいい曲の時ははしゃぎながら、チークタイムの時にはのびやかに。切れ味の鋭い挑発的な踊りの彼女、悩ましげに腰をくねらす。――そのダンスにぎこちなさはあったのかも知れない。夏央理はもともとスポーツに長けていたわけではなかった。
でもブラックライトは彼女の細い軀の曲線を愛らしく描いた。そんな時の僕はドライアイスの煙に巻かれたものをじっと凝視するように、まじまじと夏央理の姿を追った。古ぼけたミラーボールは、彼女の吐息を柔らかくうつろわせていた・・・・・・。
夏央理の目はつぶらだったけど、大きいわけではない。黒目がちな瞳の奥には好奇心と幼稚さを秘めていた。くっきりとはしていないけど、こまやかな二重瞼は薄弱な美徳を写しているようで、羞恥心からの解放を謳っていた。人によっては夏央理の子供っぽさを非難しただろう。だけど何度もまばたきをする彼女の目は、つつましく控えめに自由を誇負していた。いたいけな瞳は、むしろ彼女が生まれつき持った自然であって、性格が表に浮きでたものではないだろう。夏央理は感情のおもむくままにはしゃいだり、高い声で笑ったりもした。それを恥ずかしいと思うでもなく、道徳が純真さを邪魔することもなかった。
鼻は高くはなかった。しかし鼻筋は奇麗に通っていた。この曲線はおだやかに丸みを帯びてやや乱れた口もとへとつながる。唯一顔のバランスを犯すこの唇は、いつも鮮やかな口紅で彩られていた。けれど形の悪い唇こそ彼女のもう一つの魅力だろう。夏央理は醜い自分の唇をかわいく見せる術を体得していた。それは時にすぼませたり、横に広げて笑顔をつくって見せたり、縦に伸ばして不平をつぶやく時の手助けにもしていた。
こういう時の彼女の唇ときたら百パーセント、キッスしたいと思う対象に値した。心もち尖った顎と首筋の境界は、そのままやたらと大きめな耳にゆるやかな輪郭を保つ。
夏央理の耳は赤ちゃんの掌のようだ。それが頭の両脇から顔を出していた。髪の毛がこの耳の存在を覆いかくす時もあるけど、髪を上げてまとめている晩などは、耳元から垂れさがる数本の髪の毛に透きとおるような潤いを見せる。こんな時の僕はこの揺らぐ彼女の髪の毛一本一本でさえもいとおしいと思うのだった。
月日が十二月になだれ込むと、またしても新しいJコープがやって来る時期にさしかかる。そのたびに、部隊員同士の入れ替わりはつきまとう。
ついにあの卑俗なおやじ部隊員も自分が帰る番になって、恐らくは何の未練もなく、新部隊員が到着したのと同じ日に、同じ飛行機でサモアを去っていった。愛想たっぷりの投げキッスを見送りのメンバーたちに振りまいてから。
いつかは、いつかは自分にも順番が回ってくる。順番というのは、もちろん「帰る」順番のことだ。
僕は今は日本に居る西田紗絵のことを想いおこした。あの時も、そう、僕はダンスホールに居た(しかも「O.S.A.」に!)。ミラーボールは「帰国部隊員症候群」に浸る紗絵のことを投影していた。紗絵は「もう見納めね」と頭をもたげて、テーブルの上に目線をおろした。
――あの時の紗絵の気持ち、その半分を僕は理解した。もうすぐ来てから一年になる。完全に理解するまでにはあと一年かかるのだろう。
昼間はカエンジュがしたたるような、赤い花をほころばせるようになった。音楽学校を自転車で行き来する僕は、じっとりとわき出てくるTシャツの胸にしみつく汗を感じ、「また雨季が来たな」と思う。水ぼったい、吸いこみにくい空気が鼻先にしがみつく。見あげると、命を謳歌する鮮血の色をしたカエンジュの花が僕の目をしみらせる。
青天の空とその花は、二色のコントラストを産んで異彩を放ち、たそがれ時には薄暮の紅い色と混ざりあって花びらに同化していくように映る。仰ぎながら僕はにこやかに笑う。この頬のたるませ方は、サモア人が教えてくれたものだ。あのまま日本に居たなら、一生知らない笑顔のつくり方だった。
でも・・・どうやって冷静にふるまってつくり笑いをしたところで、僕の気持ちはすでにどうにもおさまらない所まで来ていた。
「ビリーズ・ベイ」は、かつて紗絵とも行ったことがあるレーザーカラオケ付きのナイトクラブだった。僕たちはここでインドネシアの話をしたのだった。
その晩は『マシナ』の取材班が、総勢六人で一席を占めていた。僕の隣りには夏央理が座る。最初の盃が昼間の太陽で乾ききった僕らの喉をそっと癒しはじめたころ、僕は二本めの〈手の水〉ビールの小ボトルを握りしめ、夏央理の前には呑みかけのジン・トニックが添えられていた。彼女の指が、グラスの縁をなぞるように動いたとき、僕ははっとして我を失った。
夏央理の指!それはうつろうようにしなやかに伸び、その白さは夕凪ぐ潮の泡の色を思わせた。細長くしなった指先はつややかな爪でその繊細な描線を終わらせてしまうけど、ネオンのケバい色や酒の匂いなどは、彼女の指を永遠に続く音楽のように演出した。僕は何かを喋る彼女の声をおぼろげにしか聞けない。ひたすら美しい手に気をとられている。他の皆なはただディスコの雰囲気に酔わされていた。一瞬、ただの一瞬だった。彼女の手を僕の手中に収めるのは、ものの一秒で実現できるはずだった。その時必要なのは勇気ではない。理性の裏側に隠れた魔力だ。けれども僕の荒ぶる焦燥を引きとめたのは理性ではない。理性ならまだよかった!それは戦慄のしわざだった。「彼女の手をつかんだとき、急に彼女が僕から引いたらどうしよう――それが僕の恋愛の終息を告げるサインになっちゃったらどうしよう」
夏央理への愛はまだ続かなければならなかった。それは僕がつくり出した「絶対」だった。この思いは、彼女がサモアを後にする、その時まで結末を迎えてはならなかった。僕はこの「絶対」がくずれ落ちるシーンを想像して、ぞっとした。そこで途中まで伸ばした自分の手を引っこめてしまった。
感傷が、もうひとつ、僕の欲望をしぼめた。そう、夏央理にも帰る日が宿命的にやって来る。彼女は僕よりも一期先にサモアに来ていたので、翌年の七月には任期満了を迎えた。
「皆な帰ってしまうんだね」――僕は彼女の耳もとで語気を強めた。
ただでさえ音楽のビートは僕らの胸を貫いている。僕が夏央理の耳に口をあてて声高に喋った中身はすべてディスコティックのパーカッションの音にかき消され、夏央理にしか聞こえてないはずだ。
「これで山本さんが沢村さんたちを、その次に俺らがあなたたちを追い出せば、すべては終わりだ」――そう、僕らのサモアはあと八ヶ月で消滅してしまう運命にある。
「そんなぁ」――夏央理は空想家を現実に引きもどすような口ぶりで、そう答えた。
僕らが帰る日、その日の何という空洞的な存在だったことか。とりあえずは目前に派遣国外旅行があって、今はそれが何といっても楽しみな毎日だった。日本への帰還、サモアを永遠に去る日のことなど、まるで中身のない筒箱を眺めているようで、箱の表には「任期満了後四週間以内に帰国すべし」などと、いかめしい命令句が書きならべてあるけど、ふたを開けてみると空っぽで、つまりこの筒箱が何も意味も無いこと、何の機能も果たしていないことを発見して、むしろ安心するのだった。
その箱がいつか、はち切れんばかりに膨張して、何十倍の重さで僕たちの心臓を圧殺しに来ることを何とはなしに予期しながら。
間近に迫ったクリスマス休暇のことで、他のJコープのメンバーもやはり話題沸騰だった。学校や幼稚園の先生をしている部隊員は一ヶ月以上にもなるこの長いヴァカンスを派遣国外旅行に当てることが多い。ところが細田嘉章や太田健二のように政府か公共事業の職務に携わる部隊員は長期の休みはないので、どうしても自主的な休暇を事前にとってから旅行に出ることになる。
クリスマス休暇には、サヴァイイ島やウポル島を自転車でツーリングする者、釣り舟をチャーターして外海へクルージングする者、ダイビングの講習を受けてライセンス獲得を目指す者など、それぞれが自分の時間を楽しむための計画をうちたてる。シリシリ山登頂計画の予行演習にウポル島中部にある〈トッオ〉湖までハイキングしたのは、渡部晃たちだった。
あとの人たちは、夏央理と同居人の鬼頭則子も、養護婦・古屋ひとみも、システムエンジニアの小沢基子も、旅行前のガイドブックを広げながらああしよう、ここへ行こうなどどいう思案に耽ることのできる、極上の時間を満喫していた。
僕だけは少し違っていた。ハワイに行っている三週間ものあいだ、夏央理の顔を見ることができないということは、想像するだけでも恐ろしいことだった。それだけではなくて、『マシナ』の原稿の〆切日が来月に迫っているからには、次の週までには予定しているすべてのナイトクラブをまわり切ってしまわなければならない。
取材の打ち止め、それはつまり踊り続けた僕の躍動の、終息を同時に意味していた。もうこれ以上、夏央理とデュエットダンスを共演することはできない。
そういったとき、とうとう僕は見てしまった!
・・・・・・そこは国際空港にしてはかなり小さめの空港で、五人乗りのプロペラ機とかが行きかいしている場所だった(後から思うと、それは国内線とわずかな米領サモア行きのセスナ機などが発着する、〈酋長の港〉空港の風景だった)。男(――それは僕だった)は女(――夏央理だった)を両肩から抱擁し、建物の中の関税などがあるしきりの壁の陰へと寄りたおし、深い、儀式的な、めくるめく、だけど味わいのあるキッスをした。男の頭の中には「間もなくあの、今も響いてくるプロペラ機のエンジンの音、その音の主の飛行機でこれから旅だつ女を抱いているのだ」という意識がある。明らかにキッスのために、男は、薄暗いその場所へと女を誘いよせたのだった。
唇を離して女の顔を見る。女は、やっぱり山本夏央理だ。つぶらな目、いたいけな鼻、あどけない口、細い顎のライン、そして小つくりな頭を抱えたとき、男の掌と二の腕で感じたサラサラとした髪の毛の甘酸っぱい匂い。
もう一度接吻しようとしたところで僕は目が覚めた。
――夢だった。半開きのまなこから、暗がりの中で、窓の外のガレージからの蛍光灯の薄明かりに導かれるように、白く浮きたつ蚊帳の細かい網の目を仰ぎみて、僕は「・・・夢か」と呟いた。
昨夜も呑みすぎた、朦朧とした意識の中で体を起こした僕は、二度めにこう呟いた。
「恋をしたんだな。」
蚊帳のとばりを払って、ベットからすり抜けたのは、その次の瞬間に喉の渇きをむしょうに感じたからだった。キッチンのある玄関まで辿りつくには、足もとがまるでおぼつかないまま渡り廊下とリビングの藍色のPタイルを通らなければならない。目はまだ半開きだ。酒のおかげで重くなった頭をようやく持ちあげて、ふらふらと冷蔵庫の前まで来ると、電気もつけずにしゃがみこんだ。冷蔵庫の扉を開ける、冷やしておいた飲料水のプラスティックボトルを引きぬくと思いきりラッパ飲みした。
ひんやりとした真夜中の冷水が頬骨づたいに喉の奥へともぐって行く。
「恋をした・・・いや、してしまった。」
今度は奥の部屋で寝ているはずの渡部まで届かない程度の声で、ぼそりと洩らした。その時冷や汗が全身の血の気を吸いとったかと思うと、次には灼熱の鋳型を背中に打ちつけられたような衝撃がかよった。それは背中に負った大やけどを、流れた血が癒していくような、不定形な波動の苦しみだった。
――告白しなければならない。この恋は、このまま終わらせるわけには行かない。少なくとも告白だけが、この片思いの苦痛をやわらげる唯一の手段なんだ。僕はようやく目を充分に見開いて、頭をめぐらせた。その告白はいつでなければならないか。いつがもっとも適しているのか。その状況をつくるために、どれだけの努力をしなければならないか。
だけど、あぁ、告白の、その瞬間まで続くだろう、このじんわりとした痛手の来襲を、どうすればしのげるというのだろうか。くやしいことに、これは快楽をともなう大ケガだったので、いつの間にか夏央理への仄あたたかい恋慕に、自分からうっとりとしびれてしまうかも知れなかった。この感情は呪縛にも似ていた。告白する時まで解かれることのない鎖だった。
派遣国外旅行を目前に控え、クリスマスも間近に迫ったある夕方、『マシナ』の取材も一段落して、僕が既に原稿の執筆にとりかかっているというのに、夏央理は、僕と渡部が住む〈水を分ける=海側〉二十六番住居に電話をかけて来た。
「今夜七時から、ウチの大学の開かれた家でヴァヌアトゥから来ている劇団の公演があるんですけど、見に行きませんか。」
夏央理のこの誘いは、僕らがこれからも踊り続けるための前奏曲のように耳に入った。
取材は終わった・・・。けれどもそれは物語の序幕が演じられただけで、まだ一人の役者も自分のセリフを発する前だった。女優が高らかに歌いあげる第一声。それが夏央理の、この電話口の言葉になるかも知れない。


彼女の配属先、〈坂〉にあるサモア大学は、音楽学校からも程近い所にある。大学といえば聞こえはいいけど、実際にはカレッジの専攻科のようなもので、まだ総合大学のようなレベルには至らない。決して広くはないその敷地には、通りからも目立つように、巨大なサモア式家が建っていた。パイプ椅子を四百脚も並べれば、そこは立派な仮設劇場になった。
ヴァヌアトゥはメラネシアに属する、仏語圏(英語もよく通じる)の独立国だ。Jコープも常時二十人前後は派遣されている。
今回ヴァヌアトゥから来ていた劇団は、役者が少人数ながら、伴奏する楽隊も率いた、大がかりなものだった。
演目は英語の脚本で書かれたオリジナルの家族劇(愛情あり、嫉妬あり、思いやりあり、ジェラシーあり、若さの挫折、老いの辛苦、貧富の差による不平等、家族の確執を描いたもの)だった。
僕は同居人の渡部を、夏央理は珍しく成田京子を連れてきたので、会場に居たJコープのメンバーは不思議なとり合わせになった。京子の恋人はちょうど旅行でオーストラリアに行っている最中だったので、本人はよっぽど暇をもて余していたのだろう。夏央理の誘いについて来たわけだけど、僕は京子の姿を認めると、ちょっとびっくりして面はゆく「マーロー(どうも)」と言った。さっきまで同じ職場に居た者同士が、仕事後に思わぬ所で出くわすと、照れくさくなるものだ。その時の京子と僕は、真しくその状況だった。「マーロー」――彼女は目線だけ僕に距離をおいて、挨拶を返してきた。
舞台のほうは、楽隊の前奏曲から導入され、芝居が始まると、役者の演技力には期待をはるかに上まわる素晴らしさがあった。僕はつい半年前に音楽学校が主催したオペラ『マリエトア=ファインガー』と比較してしまったけど、それをするだけ馬鹿らしい所為だった。
オペラと演劇は「歌だけ」「セリフのみ」という形態の違いこそあるけど、「ドラマ」という概念では同じジャンルに入るはずだ。
ヴァヌアトゥからやって来た芸人たちは、ちゃんとした「演技」をしていた。ところが『マリエトア=ファインガー』では、出演者がただ「演技を演技」していただけだった。つまり「何が演技か」ということも知らずに「これが演技だろう」と真似っこをしていただけだったことになる。
僕は、開演前にはあなどっていたヴァヌアトゥの劇団を、終幕近くには敬意を抱くようになっていた。
ヴァヌアトゥもサモアと変わらない途上国だった。それなのに、この落差はひどい。サモア人にだってヴァヌアトゥに見習うべき所はたくさんある。観客として見ていたサモア人は、すべてこのことを悟るべきだった。
しかしサモア人はただ茶化しただけだった。しかも俳優に対してではなく、俳優が演じた劇中の一人物に対して。
舞台の上での彼女の役柄は、誤って恋人の子を妊娠してしまった娘の役で、シーンはその若いダンサーの娘を母親が詰問する所にあった。
「――妊娠したって?相手は誰なんだい。え?分からないって。そんな筈はないでしょう。相手が分からないで妊娠することなんか、あるもんですか。」
母親役の女優が「妊娠」というセリフを発するたびに、客席では「ウッヒャヒャ」というような笑い声がとびかい、「アーラ」「オイ、アウエー」と娘役の女優をからかう喚声があちこちで沸いた。
この時の「妊娠」という英単語が、何と卑猥に響いたことだろう!すべてはサモア人のひやかす声が、そう思わせるもとになった。そしてその時ほどサモア人に幻滅したことはかつてなかった。
今、サモア人は「妊娠」という表現を使ったというだけで、ヴァヌアトゥ人を見くだそうとしている。体格の良いポリネシア族に属するサモア人にとって、メラネシア系のヴァヌアトゥ人は外見だけでも矮小に見えたし、アジア系の肌をしたサモア人よりもヴァヌアツ人のそれは、よりニグロに近いものだった。彼らの根底には、どうしても色の黒い人種に対する偏見があったのだろう。
サモアにもまた、他の太平洋諸国と同じように、「白人伝説」というものがあり、色の白い人たちは古代、「神」だった。
クック船長が最初にハワイに上陸したとき、マカヒキ(新年の祭り)の最中にあった原住ポリネシア族は、ジェームズ=クックを神として崇めたという。それは、「マカヒキのとき白い肌をした神がやってくる」という土着信仰に由来していた。「伝説の再来だ!我々の神話は本当だった」――彼らは感動と畏怖をもってこう叫んだに違いない。それからマカヒキが続くあいだ、クック船長らは快くもてなされ、最高級の饗応をあずかった。
ところがいったんハワイを離れた近海で船が座礁したために、もう一度ハワイまで戻ったとき、マカヒキはもう終わっていた。そこで待っていたものは、クックの最期だった。彼はそのとき、すでに「無用の神」となっていたからだ。
キャプテン・ジェームズ=クックがハワイで死んだことは、意外に知られていない。彼が「無用の神」として排泄物のように無きものとして処理されたことは置いておくとして、ともかく、ポリネシア族サモア人にとっても肌の白さは聖いことであり、黒いことは賤しさの象徴だった。
この晩のサモア人の大笑いは、彼らの心の奥底の優越感を(裏を返せば白人への劣等感を)暑苦しい熱帯の夜風に晒すことになった。僕はその時の彼らの軽率さをはしたないと思ったけれど、逆にその僕をまた客観的に眺望していたものが居たとしたら、どうだろう。
「何を思う。サモア人のほうが、笑える時にはこれでもかと笑え、泣きたい時にはこれみよがしに涙を流すことができるサモア人のほうが、お前ら日本人よりもはるかに自然なのだ。何しろお前ら日本人ときたら、本当は笑いたいのに、本当は泣きたいのに、その感情を無理に噛み殺すような、偏屈な美徳を愚かにも持ち歩いてるのだからな」――そのものはこう反駁していたかも知れない。
芝居は終わった。理不尽な感動とともに、いや、納得のいく感激とともに、命題としての訓戒を残して。その訓戒とは、「ヴァヌアトゥに決してひけをとってはならない。我々はサモア独特の技法で、彼らを上まわらなければならない。そのためには、いかなる行動をとるべきか、重々考えなければならない」だった。
・・・・・・山本夏央理、成田京子、渡部晃、そして僕の四人は、そのままどこか小気味のいい音楽を聴かせるバァにでも場所を移そうかと談議していたところ、京子が強くそれを拒んだ。
そのために、四人のモードはそれぞれ帰宅する方向で固まった。
その時、夏央理はこれほどのものは世の中にないほどの大欠伸をかました(しかも幾度に渡って!)。よほど疲れていたのだろう。それを慮ることはできたものの、それにしても、夏央理の、まるですべての鬱憤を吐きだすような、熱風に怠惰を注ぎこむような欠伸に、僕はただ呆気にとられていた。
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