六、

               

 七月に入った。十四日の深夜のことだった。Jコープのメンバーたちはアピアの町から西に車で小一時間くらい離れた〈城壁(ファレオロ)〉空港の到着ロビーで待機していた。総勢で日本人が十何人か居ただろう。僕もその中の一人だった。
 飛行機が予定よりも三十分遅れていることが告げられた。僕たちが待ちうけていたのは、新部隊員の七人で、この行事はもう恒例になっていた。つまり、空港まで出むいて新部隊員を歓迎する第一声をあげ、彼らの記念写真を撮る、という演出。こういう風に雰囲気を盛りあげることは新旧Jコープ入れかえの時期には当たり前のこととなっていた。もちろん、帰国する部隊員がいる日には、彼・彼女を見おくるために、同じように皆なで空港にこぞっては最後の握手を交わして、帰国後の激励の言葉をかけた。
 その日、山本夏央理は空港には居なかった。彼女は新部隊員が初めてのサモアの夜を過ごす〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルで彼らを待ちかまえているらしかった。
 僕たちが企画した歓迎(ウェルカム)パーティは次の日に控えていた。やることはやった。明日の朝、石焼き(ウム)料理の食材を市場まで買い出しに行って、昼すぎから仕込みを始める予定だ。
 その後新部隊員たちを〈水を分ける(ヴァイヴァセ)島側(ウタ)〉の会場に迎えて「アヴァ」の儀式を行い、メインの出し物となるサモアの〈踊り(シヴァ)〉を見物してもらい、最後に食事をもてなす・・・。段取りはもう組まれていた。僕たち同期のメンバーは、このパーティを成功させるために満を持してすべてのとりはからいに挑んだ。ひょっとしたらこの大胆な計画は、Jコープが行うパーティとしては初めての試みだったかも知れない。
 なぜかというと、恒例に反して、そのパーティは現地人を大勢巻きこんだものだったし、実際、会場を埋めつくすのは半分以上がサモア人になりそうだった。
 新部隊員を乗せた飛行機は、アナウンス通り三十分だったかは定かではないけど、ほどよく遅れて到着した。さぁ、あとはロビーから姿を現す七人を待つばかりだ。けれど、この時間が最も遅く進む。分速二十センチメートルのかたつむりを目的もなくじっとこらえて眺めているような苛立ちが胸もとにはびこる。その間に月と地球を何度も往復できたような気になる。
 「今度のメンバーの中には日本を出る直前に結婚したばかりの新妻がいるらしい」・・・「相手は誰だ?同じJコープなのか」・・・「いや、なんとも聞いていない」

 「紗絵(さえ)さんの後任がいるって話だぜ。また皆なの前で歌とか聴かせてくれるんだろうか」・・・「おい、藤井君。何か前情報はないのかい」・・・「えぇ、そうですね。音大出のプロらしいですよ。専門はフルートということだけど」・・・「フルートか。今度はクラシックの何かでも披露してくれるんだろうか。歳は?名前は?」――例の低俗なおやじ部隊員が僕に質問を重ねてくる。彼のバイタリティは、「ここまでか」と思うほどJコープ内で派閥をつくるほうに働く。そのくせ普段の仕事ぶりはというと、業務をよくこなす、非常に出来る人だった。
「確か成田京子といって、新卒の部隊員だからすごい若いですよ。」

成田京子――ある意味で僕はこの人を待ちくたびれ、逆に来て欲しくはない子だった。
 三週間前。コピーされた履歴書ではあったけど、僕は彼女の顔写真を見させてもらった。笑顔で、縁の薄いメガネをかけた表情の、柔らかそうな写真を見て、僕の鼓動はめちゃくちゃにわめいた。
 それは美しい女性が振りまく目に見えない鱗粉(りんぷん)。それを浴びたらその人を愛さずにはいられない魔性の匂い。その芳香を嗅いだ瞬間、目が爛々(らんらん)として、鼻息を荒げずにはいられない、罪つくりな香ぐわしさ。
 写真は両肩のところまでで切れていたけれども、その端極から続く、胴体のなめらかな曲線を、そして白い、(なまめか)しい太腿を僕は想像した。それはただの幻想だったけど、気味が悪いくらいに本物じみていた。――会いたい、会ってみたい。そしてこの空想が事実となるところを確かめたい。・・・だけどそれが虚構となってしまうことも同時に怖かった。
 彼女と会う瞬間(思えばこれだけが確実(、、)()未来(、、)だった。あらかじめ決められた運命ほど珍しいものはない)に僕は夏央理のことが嫌になっちゃうんじゃないか。だったら今は夏央理への気持ちのほうを大事にしたい。いっそのこと京子などという女などは目の前に現れないほうがいい。
 ・・・・・・しかし彼女は来てしまった。この「楽園」という名称を(つら)にかぶった監獄に。この島を脱出するには飛行機か、船を使う以外に手段はない。半年後、僕は「派遣国外旅行」にとび発つことになるけれど、その時、あらてめて痛感し、理解することができた事柄があった。――昔の罪人がなぜ島流しにされたのか。ナポレオンはどうしてセント=ヘレナ島まで舟行(しゅうこう)されたのか。島というものがそれだけで大きな刑務所であって、そこから脱出するには自分の泳ぎしか頼りにできないということ。もし近くに辿りつく島がなければ、脱走=死だった。
 こっちのウポル島から僕のファミリーのあるサヴァイイ島まで行くのだって、そこには十七キロの海原が往生している。行き来するには船か飛行機が必要だった。
 ・・・・・・「いた!日本人だ」「あれが多分新部隊員だよ」「どれどれ、あっ、ホントだ」――間もなく自動ドアを抜けて、出てきた七人が全員、間抜けなトレーナや着くずれたカーディガンなどを身につけていたのがおかしさを誘った。彼らはトランクやスーツケース、サックや手さげカーゴを引きずって、足どりだけは軽快に、しかし遅いスピードで、焦点が合わないちらちらとした目つきをぶらさげてゲートから出てきた。このおぼつかない、まるで座っていない目線はサモアに初上陸した新部隊員の象徴だった。
 乾季の深夜は肌寒いものだけど、長そでのシャツさえ着ていればそれで充分だ。半そででも我慢できないことはない。それなのに、彼らが厚手の衣服をまとっていたのは、今さっきまで真冬のニュージーランドに居たからだった。
 七人のうち四人までが女性だ。彼女たちの色付きトレーナ、そしてカラーのカーディガン。――それらは四輪の花だったと言える。華がやって来た。僕はうっとりと彼女たちの優雅な、そしてゆるやかな足どりを眺めた。その花たちは新鮮で、それぞれが個性的に美しかった。
 僕が彼女たちに見とれているうちに、記念撮影のためのフラッシュが、空港の薄暗い白色蛍光灯につきささるように()かれた。
 現役の部隊員が彼らの格好をからかうと、「そうなんですよ。ニュージーランドがあんなにも寒いとは思いもよらなかった。皆な熱帯に行くつもりでいたもので、ニュージーランドの気候のことなんか全く考えに入れてなくって、失敗しました」と初々しく答えた。
 「それはあんたたちが悪いんじゃない。寒いニュージーが悪いんだ」「そうそう、ニュージーのくせして季節なんてありますからね。しかも生意気に日本とは反対なんだから」おやじ部隊員とそれに追随する別のもう一人がそう弁護の声をかけたとき、逆にそれは現役部隊員からの失笑をかった。その発言が、新部隊員に対してへつらっているようだったからだ。
 成田京子はピンクのトレーナにデニムのJパン、そしてシルバートランクをかかえていた。写真ともそう違和感もない外見だったので、僕は即座に彼女が京子だと思っていた。彼女とはずっと前から友だちだったような気になった。だけど向こうから見ればこっちは初対面の男ということになる。
 僕は明日の歓迎(ウェルカム)パーティのための招待状を京子に手わたすと、ありきたりの言葉を交わした。
――「疲れたでしょう。」
「はい、とっても。」
「サモアの第一印象は?・・・やっぱ熱いですか。」
「うーん、来たばっかなんでまだ分かんないです。」
「ははは、そうか。ところで西田紗絵さんとは会いました?実は僕と配属先が一緒だったんだけど・・・」
「はい、実際に会いはしなかったんだけど、電話で一回だけ話を・・・あれ?それじゃあ・・・」
「藤井一哉といいます。職場は音楽学校なんで、同じになると思います。」
「どーも、成田です。よろしくお願いします。どんな感じなんですか、音楽学校って。」
「そうですねぇ、話すと長くなるからおいおい説明することにしますよ。」
「ははは。」
 京子は送迎のために来ていた真木コーディネータの白いランド・クルーザに乗りこんだ。僕たちは残りの集まったメンツとで、タクシーの相乗りをして町に戻るのが常だった。人数を四人で固めてから手ごろなタクシーを呼んで、ただアピアの町へと、目的地〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルへと急ぐ。
 夜の道路を自分の車が照らしているライトだけを頼りに走っていく。光は、村々に点在する家々からもこぼれている。それ以外は、行く手に延びるアスファルトの反射だけで、すべてが闇だ。
 この光景は八ヶ月前、初めてサモアに来た時とまるで同じだった。あの時、暗闇はすべてをヴェールの中に包みこんでいた。けれど今の僕には夜明けの太陽が差しこんでいるかのように夜の向こうが見える。
 左手には、昼間のあの透きとおるような青い海が存在していることを、右手には実際に目に入ってくる以上の(ファレ)が闇夜に隠れていることを、電燈が灯っている(ファレ)の中でサモア人が馬鹿笑いを交えながらしている卑猥(ひわい)な談笑のその中身までもが、容易に想像できる。
 ・・・・・・深瀬真実(まみ)。――意味もなく思いだす女。唐突だったけど、胸にはかつての女の姿が浮かんできた。何故だろう、と僕は特に自分の心を詮索もしなかった。今、〈語り(トゥシター)(ラー)〉ホテルに急いでいる気持ちがあって、夏央理へのほの甘い思いがあって、それを見張るように真実(まみ)の鋭い、とげのような視線が胸のうちを刺している。
 ホテルに着けば、また成田京子の美貌と対話ができる・・・――真実はあたかも番人のように、僕が入りこもうとする門の前で立ちはだかる目的で忽然(こつぜん)と現れたのかも知れない。いや、運命は僕にまだあの女への未練があったとでも喋りかけているのか。それとも真実自身が「あたしを忘れないで」と僕に叫びかけているのか。その答えを分かろうともしなかったし、見いだそうともしなかった。
 車がフロント・ロビーに吸いついた。もうホテルだった。僕たちがタクシーを降りて、すぐそこのレセプションに近よると、新部隊員の七人はちょうどチェックインを済ませたところだった。
 その時、夏央理の影が目にとまった。約束通り、〈語り(トゥシター)(ラー)〉で待ちうけていた彼女。白い上下の、Tシャツに短パンだ。しかし・・・・・・僕の何という比較、何という下劣な最上級。僕は成田京子と夏央理をはかりにかけてしまった。すでにサモアに来てから一年もたつ夏央理の肌は、土着の色に馴染んでしまって、もとは繊細な白さを帯びていたことが窺えても、今はかなり日に焼けていた。彼女の骨ばった日焼け色の素足に履かれたサンダルは、ひどく擦りへって厚みを無くしていた。年季がこもったサンダルの底の薄さが、(まさ)しくサモアでの一年を物語っている。
 振りかえるとそこにはチェックインのサインをし終えたばかりの初々しい京子が居た。彼女は(つや)やかな頬で笑顔をつくり、僕に会釈をすると、若い女特有の声で「何か、また写真を撮るらしいんですけど」と言った。


「そうなんですよ。これが実は恒例になっていて、ほら、あの『ようこそ』とサモア語で書いた幕を新部隊員の皆さんにこうやって手で持ってもらって撮るんです。その写真は今度のJコープ機関紙に載ることになってるんです。」
 僕は別の先輩部隊員が運んできた、布で出来たその幕を見せると七人を引きよせて、カメラ・アングルを整えるために構図良く並ばせた。前列の女性四人にはその幕を横長になるように持たせ、カメラに向かわせる。幕には「AFIO MAI」と手書きのアクリル塗料で書かれている。
 撮影係はいつものように夏央理とは同居人にあたる女性部隊員に任せられた。彼女はしっかりと任務を果たし、フラッシュの光加減を確認することも怠らなかった。
 ・・・・・・華がサモアにやって来た。僕は被写体となった彼・彼女らを、額縁の記念碑としてでも飾りたい気分になった。それは海の潮を全身に浴びながら強烈な太陽光線を受けている時のような、飽和した塩分が肌に露出してくるような、べとべととした気だるい快感だった。
 「今晩は」――夏央理が僕の傍らによって話しかけてきた。「・・・いよいよ明日ですね」彼女の存在が年老いた化石のように古めかしく匂ったのは何故だろうか。僕はその夜ほど夏央理のことをオバン臭く思ったことはない。この心理作用は無意識から発していたので、僕自身、明瞭な自己分析ができなかった。
「・・・何がですか。」
「〈踊り(シヴァ)〉ですよ。あたし、けっこう気合い入ってますからね。」
「もう準備万端ですか。完璧ですね。」
「いやぁ、そういう訳では・・・・・・。」
夏央理との会話、これももう(うつ)ろだった。彼女には、今夜の僕がいつもと違っていることを悟られないよう苦労した。
 その晩、住居(フラット)の寝室で、蚊帳(かや)の中のベッドにもぐり込んで横になってからも、僕は熱病に悩まされた患者のように、軽い美的妄想にうなされた。そのくせ夢心地でぐっすりと眠りに落ちたのだった。



   ――――――――――



 翌日、午前中に買出しを済ませた僕たちは、昼過ぎには〈水を分ける(ヴァイヴァセ)島側(ウタ)〉のパーティ会場となる開かれた(オープン)(ファレ)のあたりへと集合していた。そこは何度となく通いつめた練習場ではあったけど、あらためて昼間に来てみると(夕方から夜にかけてのそこしか知らなかったので)まるで違う所を訪ねているような気分になった。
 (ファレ)のそばに横付けされたピックアップ・トラックの荷台には、朝のうちに仕入れてきたタロ芋やサツマイモに似た「ウフィ」、巨大なワサビみたいな形をした「タームー」(やっぱりイモの味がする)とか青バナナ(ファッイ)が積まれている。
 僕たちは石焼き(ウム)料理を手伝うためにそこに居たわけだけど、それはあくまでも名目上で、実際にはサモア人たちの仕込みや料理の手順を見物していただけだった。
 伝統の石焼き(ウム)料理は男がやることになっている。僕は村の若衆の中に紛れこんで、ココナッツ・ミルク(ペッエペッエ)のつくり方を教わった。
「カズヤ、ペッエペッエの作り方を知ってるかい?」――陽気なサモア人のうち一人が僕にきいてきた。彼はニコニコしながら大きな手を操ってココナッツ・ミルク(ペッエペッエ)を搾りだしていた。
 椰子の木には九十九通りの使い方がある。葉っぱは組みあわせて(ファレ)の雨よけや日よけのためのブラインド・カーテンになるし、家の柱に巻きつけて室内装飾のために利用される。そして葉っぱを編んで手さげ用の(かご)にすることもできる。細長い幹は、家の柱の素材になる。最も実用的なのはその実だ。外皮はプランテーションの肥料になる。外皮と内側の殻の間は良質な繊維質になっていて、これを(つむ)いでロープにしたりココナッツ・ミルク(ペッエペッエ)や「アヴァ」の茎を搾るための道具として使ったりしている。内側の殻は、中身の果肉とジュースを護るために固くなっているが、これは燃やしてから燃料としての(すみ)に出来た。もちろん真っ白な果肉はココナッツ・ミルクの素になるわけだし、ジュースは我々の日常を潤す糧となった。もし南の島に椰子という仲間が居なかったならば、彼らの祖先はそこに居つかなかっただろう。
 日本人がコメのことを色んな状態や形体によってその呼び名を変えるように、サモア人もこと細かく椰子の木のそれに単語を付けていた。たとえば、同じ椰子の実でもとれたてのものを「ニウ」、コプラ用に数週間寝かせて熟成させたもの(置いておくと、果肉の部分が分厚くなって上質のココナッツ・ミルクが出来る)は「タウポポ」と呼んだ。椰子の幹はよく見ると竹のように節がある。彼らはこの節にさえ「ラパラパ」という名前をちゃんと付けていた。

ココナッツ・ミルク(ペッエペッエ)つくり方は手がこんでいて、それはかなり時間を費やす作業だった。量にもよるのだろうけど、まず一時間は丸々かかってしまう。電子レンジだと、ものの三分で出来あがる現代の都会的調理法とか、レトルトパウチとはかけ離れた、原始的な息吹きがそこにはあった。最新のシステムキッチンのいかにも無機物的でものぐさな世界とは、まるで別ものだった。
 まず椰子の実の内側のソフトボール大ほどの殻を真っ二つに割る。そのためには素手でわし掴みにした実を、力任せに固い場所(コンクリートや家の柱)にぶつける。都合のいいことに殻の表面には筋がたっていて、その筋に沿って見事に実は真っ二つになる。
 その時、中身のジュースははじけて地面にこぼれてしまう(場合によってはこれを飲むこともあるけど、この液汁には油っぽくて強い匂いがあるので、飲料としては向かない)が気にはしない。必要なのは殻の内側の面に一〜二センチの厚さでへばりついた果肉のほうだ。
 この次の作業が根気を要する。へばりついた純白の果肉をはがしていくのだけど、そのためには道具が必要となる。ここで扇形(おうぎがた)した、外円をギザギザに施した金属が役にたつ。たいていは缶切りで開けた缶ぶたのギザギザした部分を利用したり、あらかじめそのような形をした鋼を持ってきたりしていた。もちろん、西洋人が入ってくる以前は木製の器具を使ったのだろうけど、今となっては単なる推測でしかない。
 そのギザギザを殻の内側になぞらせてシャコシャコと果肉をこまかく削っていく。そのための動作は両手の五指を組んで殻を持ちながら中身をくり抜いていく連続運動だったので、マッサージ師が蜿々(えんえん)と両手を組みあわせてお客の肩をたたいているようにも映った。削り手のたもとに置かれたプラスティック製の(おけ)には、削られたばかりの荒々しいコプラの粒が堆積していく。
 さて、その次の段階も労力を強いられる。桶の中にたまったコプラの削りぶしを、前述の椰子の外皮と内側の殻の間につまっている繊維質にまぶしてから、ぞうきんを搾るように果肉に含まれる汁をねじり出してはその桶の中にためていく。搾りカスは地面にばらりと捨てる。このカスは鶏たちの好物のようで、ココナッツ・ミルクを作っている場所では、しょっちゅう飼われた鶏が群がり、砂糖のようにも見えるそのカスをついばむ。
 最終的には真珠色に光る搾り汁だけで桶の中は満たされる。これで終わりではない。仕上げの味付けがまだ残っている。「これが重要なんだ。これを忘れるとまずい。味気のないペッエペッエになっちまう」――サモア人はよくこう口にする。そのかくし味とは、単純に塩のことだった。
 ココナッツ・ミルクは、果肉から搾りだされた液体だけではただただ甘ったるいだけで、あの何ともいえない香りの高い野蛮チックな美味を誇負することはできない。辛くもなく、甘くもない微妙な舌ざわりは、言ってみれば最後の塩がもたらした矜持(きょうじ)だった。
 そしてその塩加減が、食材の味をぼんやりと活かしもし、激しく殺しもしてしまう。ほどよくしょっぱいペッエペッエのほうがかえって主食の旨みを引きたたせた。
 彼らはその汁を青バナナ(ファッイ)に垂らせて、ウフィに添えて、タームーにぶっかけて、タロ芋に付けさせて、あげくの果てには食パンにしみ渡らせて食した。
 彼らにとってのココナッツ・ミルクとは、日本人にとってのしょう油、西洋人にとってのソース、インド人にとってのカレー、アジア人にとっての唐辛子のような役割があった。何があってもペッエペッエは食事の場に顔を出していた。日本人の食卓に必ずしょう油差しが置かれているのと同様に。
 一方で「パルサミ」は我々の間でも、評判のある人気料理だ。出来あがりの見て(、、)くれ(、、)は決していいわけではない。深緑色の、焦げた茶かす(、、)の塊みたいなものから牛乳色のどろりとした液体が滲みでたような、食べ物と言うよりは、一種の物品に近いものだ。
 だけどこの得体の知れない珍品のかもし出す極上の刺激ときたら、頬っぺたがふくよかなその味わいに満足の言葉を漏らさないわけには行かなかったし、舌はそのことでもたらされた幸福感にわななかないわけには行かなかった。それはまるで麻薬が与える快楽、全身に飛び散る快楽の一つでもあった。
 一度でもパルサミを頬ばった人は、その塩辛く甘酸っぱい芸術的な絶品に、こたえられないほどの美的な恍惚感を、思わず目をつぶりながら歯を噛みしめて、表現するのだった。
 「カズヤ、パルサミを作ってみよう。ほうら、こうやるんだ。」
話しかけてきたサモア人は、タロ芋の葉を見る見るうちに上手に包んでいきながらコップのような凹みをつくって、そこに出来たてのココナッツ・ミルク(ペッエペッエ)を流しこんだ。それをまた外側からパンの木の葉っぱ(野球のグローブくらいの大きさはある)でラッピングしてから石焼き(ウム)の火種に並べる。くべたばかりの焼き跡から掘りおこしてみれば、そこには昆虫の(さなぎ)のような夥しい数のパルサミが湯気をあげて出来あがっている。
 パルサミは漬物やお新香のようなものだったのかも知れない。これさえあれば他に何がなくても、主食となる芋類をたいらげることができた。
 歓迎(ウェルカム)パーティの準備が進むにつれ、まわりで動きまわるサモア人連中も、わりとてきぱきとそれぞれの役割で働くようになった。僕は裏庭で腰をおろし、パルサミづくりに励む男衆の輪の中にまじっていた。ちょうど向こうの、〈石焼き( アン)()ため(ー )()釜場()〉の近くでは、僕の視界に入る所でブタ殺しの共同作業が始まった。そのブタは、今夜のメインディッシュのために丸焼きにされる予定だ。丸々と太ったブタをあお向けに押さえつけたかと思うと、太い木の棒をちょうど首の部分にかませて、ブタの胴体と棒が十字になるよう固定した。瞬間、息を合わせて棒の両端に二人のサモア人がとび乗る。ブタは(うめ)き声をあげてもがく。さんざん暴れて逃れようとしているけれどそれも無駄な抵抗だった。最初はとりまいたサモア人をてこずらせていたこの生贄も、だんだんと静かになって、ついに声も出さなくなった。
 僕は遠目でその光景を眺めて、(ほふ)られたのがのったりとした脂肪ばかりの、肉づきのふしだらな親ブタだったことにがっかりした。あれが、ぴちぴちとした子ブタだったなら、これから迫りくるご馳走が、いっそう食欲をそそるものになっただろう。それほど同じブタでも、親と子では味に雲泥の差がある。


 午後三時、新部隊員の七人が到着した。その疲れた様子から、昨夜はゆっくり休むことができなかったことが窺えたものの、みなぎる緊張感が彼らの眠気をおし殺していた。一夜が明けたとはいえ、何かが目の前で起こるたびに落ちつかない十四個の瞳は、表面を白黒させていた。何もかもが初体験に等しいことだった。派遣前の研修時に学んだことは、すべてが疑似体験に過ぎなかった。
 そんな彼らに、いきなり「アヴァ」の儀式に参加させたのだから、彼らの目付きが終始すわらなかったのも無理はない。
 アヴァ。――コショウ科の植物をすりおろし、その汁をサモア式の木椀(ターノア)にもみ出したもの。アヴァを儀式的につくる作業はかならず嫁入り前の処女(おとめ)がやるものと決まっていた。その役目を果たす彼女は「タウポー」という名称で呼ばれる。「タウポー」は装飾された冠をして、(こま)やかな赤茶模様に施された伝統的なタパ布(木の樹皮からつくられる。サモア語では「シアポ」という)を身に巻きつける。それが昔ながらの信義に基づいたタウポーの格好だった。
 アヴァの味は漢方薬にそっくりだと言われる。独特な、上あごにつっかえるような苦味を帯び、一瞬だけ青くさい泥水でも舐めたかのような錯覚に陥る。サモア人はこの飲み物を椰子の実の内殻をコップのように使って、回し飲みするのだった。
 アヴァにはアルコールのように即物的なハイ(、、)状態を生みだす能力はない。そのかわり、ひたすらゆっくりと、そして断続的に精神を沈着させる効果がある。アヴァを飲みかわす集団は飲めば飲むほど無口になって、安息のための糸をたどるように負の極地へと堕ちていく。
 しかし儀式のためのアヴァはかなりさらりとしていて、形式的に一口ずつアヴァの、緑がかった薄茶色の汁を飲みこんでしまえばそれでよかった。盃一杯を必ず飲ほさなければならないわけではない。
 七人はおどおどしながら困ったような、だけど興味を強くひかれたような顔つきで、その立場を上手にこなした。
 教会の牧師(パスター)(ファレ)をパーティ会場にした限りは、アルコール類の持ち込みはもちろんご法度だった。このことが事前に通達された時からまたもやJコープ内で物議が始まった。
 数人のメンバーは「酒が出ないパーティなどには出たくはない」と発言して、出席をボイコットしていた。だけど僕たち主催者サイドでは、そんなことはおかまいなしだった。
 宗教上のタブーがある以上、会場で酒を出すわけにはいかない。べつにそこで呑むことができなくても、二次会を〈語り(トゥシタ)(ーラー)〉ホテルに設けていた。そこで存分に盃を乾かせばいいだけだった。
 ボイコットした仲にはあの(、、)醜聞好きなおやじ(、、、)部隊員も入っていた。細田に対するやっかみから、彼がボイコット組の切り込み隊長だったことは間違いない。すでにサヴァイイ島に出張してから二週間以上もたつ細田とおやじ部隊員とは、とり返しのつかないほど犬猿の仲になっていた。今回の歓迎(ウェルカム)パーティの企画・発案者が細田である以上、彼はすべてを否定しなければならない。「ノン・アルコール」ということは、おやじ部隊員にとっては都合のいい口実になった。露骨に「細田のやることには参加したくはない」と言わずに「酒が出ないから出ない」という、妥当な響きのする理由が出来たわけだから。
 さて、アヴァの儀式が終わった。午後五時を過ぎ、食事の用意も一段落して、そろそろ夕闇が夜の到来を告げていた。いよいよこれから、一ヶ月に渡って練習してきたサモアの〈踊り(シヴァ)〉の本番がまち受けている。間もなく、僕たちが汗をかいてきた稽古の成果を、新部隊員はじめ会場に列席していた他の日本人たちに披露する時がやってくる。
 僕たちは〈木椀の魚(ターノア レ イッア)〉のメンバーたちと入りみだれながら、踊りのための扮装にとりかかった。女性陣の衣装はとてもシンプルだった。純白のTシャツにブルーの腰巻(イエ)、そして真紅の「テウイラ」の花でできた首飾り(ウラ)、それだけだった。
 それにひきかえ男たちのいでたちはかなりこっていた。首にも二の腕にもふくらはぎにもパンダナスの葉をヒラヒラに刻んだものを巻いて垂らし、腰巻(イエ)には女のそれと同じブルーの布、そしてその上にはさらに椰子の葉で編まれたヒラヒラを(へそ)のあたりから太腿のへんまで垂らせる。上半身は裸だ。これは伝統的にそういうものだった。
 キリスト教伝道者は、躍起になってサモア人に服を着させようと試みたけど、ついにその望みは最後まで達成しえなかった。サモア人があくまで彼らの「サモア(ファッア)やり方(サモア)」を通したので、宣教師たちの努力の甲斐は、せいぜいサモア人の死体に白装束を着せることくらいにしか実らなかった。
 僕たちは男衆の一人からおすそ分けしてもらった椰子の実油を上半身に塗りたくり、いつでも演舞が始められるように会場の裏手で待機した。もう真っ暗で、蛍光灯が白くともる会場の(ファレ)の中から見れば人山がかすかにうごめく影にしか映らなかっただろう。
 (ファレ)の中では、半分がステージ((むしろ)を敷きつめている)、半分が木材のベンチを置いて並ばせた観客席になっていて、新部隊員はその最前列で背筋をしゃんとしながら、「何が始まるんだろう」といった面持ちで、僕たちのほうを眺めている。
 「用意(サウニ)用意(サウニ)野郎(ソレ)ども!騒ぐ(アウア レ)( ピサ)。」
青年団長のジョーが無声音で強く囁いたので、皆なも無駄な口の動きを止めた。それでも落ち着きはなく、緊張を(まぎ)らわせるように腰を揺らせ、脚を小刻みに震わせている。
 ジョーはおもむろに両方の掌を合わせると、激しく手もみをするように両手をこすり合わせた。それを見て、一同もいっせいに拍手をする構えに入る。
 「ヴィリヴィリヴィリヴィリヴィリヴィリヴィリヴィリ、パチャ!」
ジョーのかけ声に応えて全員で手を叩く。間をあけずにもう一度「パチャ!」の叫び声に続いてもう一度手を叩く。そして三回目の「パチャ!」の声に最後の手拍子。
 「ヴィリヴィリ」には日本語の「ぐるぐる」のような意味があって、ものを回転させる擬音みたいに使う。「パチャ」というのは〈手拍子(パティ)〉からその発音がきていて、同じように拍手の音の擬音でもある。
 ともに、皆なでこれから何かをしでかしてやろう、という時の意志統合のための諸動作で、これによってチーム全体の連帯意識が高まる。
 そのまま導入歌に流れる。ここまで来てしまうと、もう緊張感からはとき放たれ、「あとはどうにでもなれ」と開きなおれるようになる。まるで運動会のかけっこ競争でスタートの音を聞いた直後のように・・・・・・。

Savalivali mai a   Lau mata fiafia

歩いておいでよ   楽しそうな笑顔で

Lupe o le vanu e      E luelue malie

谷間の山バトも   はしゃいでいるよ

Ta lau kitara         E leo malie lava

ギターを弾いて   その音もかろやかに

Faapepepepe solo     Lupe o le foaga

翼をパタパタと   山バトの雛

この曲を歌いながら、僕たちは(ファレ)の中へと登り、すぐに次の演目となる「サーサー」に入れるように各自のポジションについた。
(タシ)(ルア)(トル)(ファー)、ティォヒョォウ!」でひとおもいに歌いおえると、間髪入れずにその位置でしゃがんでからいっせいに胡座(あぐら)をかく。その後に続く〈かしこみ(トゥロロ)〉と〈なおれ(ノフォ)〉の合図に備えるためだ。
 しんと静まり返った会場に「タカタッタカタッタカ」という打楽器(パテ)の、木と木がこづき合う乾いた音が流れる。「サーサー」の始まりだ。
 この時、僕たちは歌わない。サーサーが歌なしの演目だからだ。それだけにごまかしが効かない。ちょっとでも動きのタイミングをはずしたり、息が合わなかったりすると、みっともない踊りになってしまう。
 二曲めに入る。これは男女混合の座り演目だった(基本的に座り演目はずっと座りながら、立ち演目は立ったまま行うが、中にはサーサーのように座りと立ちが入りまじることもある)。

 Tausani mai manu e   Le alofa i ulu laau e

一番鳥の鳴き声が    パンの木の愛情が

Ua i luga o mauga      Faaifo i le vanu e      Ua i luga o tumutumu e・・・・・・

山の上から      谷の下まで降りてって またまたてっぺんまで登って・・・・・・

 三曲め、男衆の立ち演目。

 

Faliu le la i lona tauafiafi      Le lau Samoa ua felanulanu ai

夕暮れ時、太陽が傾き      サモアの木々も色づいて

Ua felanu ai ona ave i le lagi      Ioe, ta fia savalivali・・・・・・

その色がやがて空を彩る     そうだ、散歩にでも出かけようぜ・・・・・・

 ステージでは四曲目の女性の立ち演目が進行していた。僕たちはその間、脇に引っこんで次の演目のために控えていた。サモアの骨太の女たちが大きく体をくねらせる中で、しなやかに、そして小つくりに舞っている夏央理の姿がちらちら見え隠れしていたけど、僕にはそれをまじまじと観察するような余裕はなかった。次にはあの、〈手拍子を合わせる(ファッアタウ パティ)〉が待っていたからだ。
 「ついに来たの、藤井さん。わしぁ、この時を待ち望んでいたんじゃ」――四国弁の沢村部隊員が僕の肩を叩いてきたな、と思ったら顔を近づけてこう言った。
 振りかえると、また夏央理の後ろ姿が、腰を折りたたんで前屈姿勢のまま左手は天井に伸ばしている格好で目に入ってきた。
 夏央理は日本人女性の中に入っても(からだ)はそんなに大きなほうじゃない。いや、かえって小さいほうになる。あの大きなサモアのご婦人連中に混じったら、まるで子供のようにしか見えなかった。実際、小学校の高学年になるサモアの女の子だったら、夏央理よりも大きな子はそこらへんにごろごろしていた。
 五曲め。僕たちは〈手拍子を合わせる(ファッアタウ パティ)〉をやるために、リハーサル通りの順番に並んで列をつくった。
 演舞の前にジョーが客席に向かって能書きを垂れる。
「これから始める『モスキート・ダンス』は何故そういう名が付いているのかというと、その昔、サモア人は蚊の殺し方を知らなかった。そしてそれを練習するためにこの踊りをあみ出した。このダンスをやるようになって、今日、我々は蚊の来襲に悩まされなくなった」――これはもちろん、ジョーが発する茶目っ気たっぷりの冗談だ。しかし彼は流暢な英語でこの説明におかしみをこめた。会場から笑いが()れる。なだれるように〈手拍子を合わせる(ファッアタウ パティ)〉の演目に入る。・・・・・・まずは歌からだ。

 

Samoa, Samoa e     Fai sau faatatau

サモア、サモアよ    日々の務めをよくこなし

O le poto e, aoao ina ia faasalalau

賢明さが、アナウンス術を体得するための向学心となる

Tatou tausaili poo fea le sili

さぁ、つきつめよう 誰が一番なのか

O le poto lava e, avea ma tamaalii

一番賢明で 果ては酋長の坐をしとめるのか

 

いよいよ全身を叩きまくる動作に入る。僕たちがモスキート・ダンスを始めると、会場からはどよめきが湧きたった。それは例えて言えばボクサーの右ストレートが相手の顔面を見事にしとめた時のリングサイドのようだった。数十人の、ただでさえ大きなサモア人が軽快に、機敏に、そしてリズミカルに両(もも)を、胸を、肩の裏を、脇の下を左と右の掌で交互にはたくものだから無理もない。肉体ははちきれそうに汗を放出していたし、その迫力は荒ぶる心の乱舞だったに違いない。〈手拍子を合わせる(ファッアタウ パティ)〉はまた戦争のとき、敵を威嚇する踊りだった。誰もがこのパフォーマンスを間近で見たとき、驚嘆しないわけには行かなかった。
 「おお!」――喚声を聞きながら、火照った胸や肩をさらに何重にも叩きながら、僕は何とも言えない満足感を得た。堂々と演じながら、繊細な表現も忘れずに。喝采を噛みしめながら、叩きすぎで赤く腫れているだろう上半身を気づかいながら、ふと単純に「パーティは成功した」と思った。
 出しものが全部終わって、ディナーの時間に入り、丸焼きのブタの(ただ)れて脂ぎった肉片を頬ばりながら、昼さがりに(ほふ)られたあの親ブタの、どことなく白けた感じの献身的な死に思いをはせて、もう一度僕は「パーティは成功したんだ」と思った。
 僕は肩に重くのしかかった荷物を誰かにひったくられたような感覚に陥った。でも、その犯人に対して、僕はかえって感謝しただろう。鬱血(うっけつ)した静脈に潤滑油みたいなものが注がれたような解放感。それを与えてくれたのは、「安堵(あんど)」という名の犯人だった。
 それからパーティは幕を閉じ、二次会の〈語り(トゥシタ)(ーラー)〉ホテルへと移動するクルーと相乗りする僕の行動を尻目に、僕と同じくその日の主催者側にあった堂本やよいと養護婦の古屋ひとみが連れだって同じタクシーで帰っていった。
 その晩の僕はやよいとひとみが一緒に帰路についたことを、二次会へはついに二人とも顔を出さなかったことをもっともっと勘ぐるべきだった。やよいの奇妙なくらいの(かしま)しさと、ひとみの執拗なまでの僕に対するよそよそしさを、絶対に(いぶか)るべきだった。
 残念ながらそれは後になって判明した。細田とスキャンダラスな密事があったやよいの帰国、本国への強制送還!・・・それがこの時点ですでに決まっていたとは!
 そう、二次会も普段のパーティとまるで変わらなかった。Jコープではいつもより少しばかりあでやかな夜が更けていくのだった。〈語り(トゥシタ)(ーラー)〉ホテルでは、あのおやじ部隊員たちがまち構えていたけど、特別な恋幻は見られなかった。誰一人として女としけ込む暴挙に出た男性Jコープは居なかった。先輩の男につられる新人の女性部隊員の生半可な精神などは存在しなかった。
 数日後、僕は戸惑いに入った。夏央理への思いは、もう一度心の中で整理する必要があった。というのも、成田京子の出現があまりにも大きかった。京子の、身もとろけるかのような存在。僕はキューピッドの悪戯(いたずら)な矢に射ぬかれた心臓を所有するということがこんなにも破滅的になってしまうのか、前にもこういったことを何度か味わったのかも知れないけど、全く思いだすことのできない経験を味わうことになった。
 京子を目の前にした時の僕は、まるで自分の精液を鼻から垂らしているような気分になったものだ。それは動悸をともなう羞恥だった。何という気だるい焦燥だっただろう。僕は彼女をモノにした時の夢さえ見てしまった。京子は何というまどろっこしさで、その肌の裏皮に隠れた秘肉をさらけ出したことだろう。夢の中のそれは、現実よりもはるかにかわいらしく美化されていた。その時の僕の欲望は彼女のまき散らした蜜液にまみれていた。
 もう八月に入ろうとしている、ある日のことだった。JICOオフィスの二階談話室にあるJコープ専用のメールボックスの、自分の箱を開けた僕の目に、うす桃色の、パステルカラーで縁どられた一通の封筒が目にとまった。それは、木製でニス塗りされたボックスの中からひょっこりと顔を出した。
 「誰だろうか」――封筒を裏がえして送り主の名を見たとき、それが戦慄となって僕の頬尻をわななかせた。
 「深瀬真実」とだけ送り主の名字がある。――真実(まみ)だった。なぜ、今ごろ、よりによってこんな心のおぼつかない時に、あの女は手紙をよこして来るのか。
 しかしそれを手にしてみて、談話室の窓から差しこむアピア湾の夕陽を(まぶた)の奥に刻むと、二ヶ月前、マナセ村で彼女宛てに手紙を書きつづったことを思いだした。案の定、それはあの時の返事のようなものだった。
 その時、反射的に封を切ろうとした親指と人差指を僕は制止した。そして、「ほんのちょっとの動揺も見すかされてはならない」という臆病さから(談話室では他のJコープのメンバーがたむろして、ただ暇つぶしにだべっていることが常だった。そこでは日本の漫画本が腐るほど本棚に埋まっていたし、テレビやヴィデオさえあるのだった)胸の鼓動を静めて〈水を分ける(ヴァイヴァセ)海側(タイ)〉の自宅まで、もう愛車となっているマウンテン・バイクを漕ぎだした。
 その道のりはふだん通り二十分を必要とした。しかし、そのあいだの時間の進み具合の、あきれるような遅さにはつくづく辟易(へきえき)だった。
 えもいわれない薔薇色の期待感がうす桃がかった緋色の夕映えと緩やかに交差していた。その期待・・・真実はこの手紙の中で来サモアの意思表示さえ書きしるしているに違いないという、(はかな)い確信。
 ついに一人暮らしの住居(フラット)に着いたとき、それまでとは逆に時間が速くなったような気になった。自転車を奥の自室に片づけ、浴場で手を洗い、乾いたタオルでよく手を拭きとってから、開封のために鋏を用意することまでが、コマ回しをする映画のようにぎこちなく、しかし着々と進んだ。
 さて、期待と現実にはどれほどのギャップがあったことだろう。
 封筒の端の一辺を切りおとして、開いてみると、果たして中から出てきた手紙は、表のパステルカラーに似つかわしすぎる二枚つづりで、しかも二枚めはほとんど二、三行くらいしか文字が埋まっていない、短いものだった。ピンクであしらわれた便箋の縁の部分は、まるで封筒の外見になぞられていて、紙の右下に百合の白い花が描かれていたのが、封筒の表とはワンポイント違う趣を出していた。

 「お手紙ありがとうございました。元気そうで何よりです。そちらの生活にはもうすっかり慣れきった様子ですね。日本とはまるで違う世界なのでびっくりしました。『今は乾季』とありましたが、それでも南の島だからやっぱり暑いんだろうと思います。私としては暑いのはそんなに嫌いじゃないけど・・・そういえば、予報で『今年の夏は猛暑になる』って言ってました。
 この間、ちょっとオフ・レコで聞いたんだけど、あのBさんがついに結婚することになりました。相手は、ほら、ずっと付き合っていた、あの奇麗な人です。まだ内緒なので公表はしないで欲しいとのことでした。
 私はもう二十四になってしまうので、結婚のこととなるとけっこう考えてしまいます。
 ところで世界地図を広げてみたら、サモアって、ムルロア環礁のすぐ近くじゃない。大丈夫なの?フランスの核実験の方は。魚とか食べてもいいのかな。今度はそこらへんを聞かせて下さい。それでは、お元気で。

                                 深瀬 真実 」

 丁寧で、他人行儀な文体は逆に僕をほっとさせたけど、内容の短さには呆気(あっけ)にとられた。しかしこの短い文章の中で、真実の言おうとしたことがすべて読みとれてしまった。
 つまり彼女がサモアまで僕に会いに来る意志は全くなく、その理由として結婚を申しこまれている(あるいは意識する)相手が居るということ。そして、二度とこのような手紙のやりとりをする気はないということ。――真実のことをよく知っているために、僕には彼女の考えていること、言葉の裏の真意がすぐに分かるのだった。
 ムルロア環礁のフランス核実験!こいつが五ヵ月後に控えた僕の派遣国外旅行のネックになった。核非拡散条約では一九九七年以降の核兵器の実験をいっさい禁止にしていたために、そのタイムリミットを目前にまず中国が暴挙に出て、その次にフランスが追随した。仏領(フレンチ)ポリネシアのガンビエ諸島、とくにそこのムルロア環礁は前々から核実験のための島として悪名が高かった。フランスはこの美しい島を穢れた鉱石で血塗ろうとし、実験を決行していた。そこはサモアから三千六百キロ、つまり北海道から沖縄の先の西表島や台湾島までの距離といっしょだった。
 いくら「地下実験」とはいっても、そんな間近な太平洋の海で、水素やヘリウム爆弾がぶっぱなされている。・・・Jコープの部隊員は魚市場へは寄りつかなくなった。そして時期はずれの、あまりにも時代錯誤なフランスの強行姿勢に激しく反駁(はんばく)した。
 僕が行くつもりだったタヒティはさらにそこから近くなる。距離は半分、つまり北海道――九州くらいしか(ムルロア環礁からは)離れていない。
 真実(まみ)が形の上だけでも、そういった僕の境遇を配慮したことは間違いなかった。しかし、それはあくまでうわべだけの、社交辞令に過ぎなかった。
 案の定、その手紙は彼女から受けとった最後のものになった。我々が(つぼみ)を見てそれが近日中に開花するのを予想するように、または稲妻のあとの落雷の音を胸騒ぎとともに予期するように、彼女とこのまま音信不通になること、それは僕にとって自然の成り行きのように写った。「作戦が失敗しただけだ」――結果的に真実をおびき寄せることはできなかった。単にそれだけのことだ。落胆はない。
 だけど、堂本やよいの帰国する日どりを耳にした時の細田の顔ときたら、まるで水たまりの波紋に写ったようにゆがんでいた。彼は心の動きをおし殺すように表面(おもてづら)に出す人だった。そういう時はいつも以上に喉もとから(ども)るのだった。
 「ど、ど、ど・・・堂本さんが帰るという、は、話はき、き、きき、聞いたかい。」
「えぇ、八月の六日でしたっけ。」
「あの子は・・・・・・もう。辞めたというんならまだ分かるけど、しょ、職場からクビをいい、いい、言いわたされたというんだから、あっ、飽きれるよ。」
 いつものように僕のほうを見ないで細田はこう言いはなった。彼の(とが)めはもう解かれて、サヴァイイ島の「取材旅行」からは帰ってきていた。しかし、真木コーディネータは強制的に彼を別の場所に引っ越すようにしむけた。細田は、ただ荷物をまとめるために一時的に〈水を分ける(ヴァイヴァセ)〉の住居(フラット)に戻っただけだった。二日の猶予だけを与えられて、すぐにも海岸近くの村にある、かつての部隊員が住んでいた西洋風(ファレ・パ)(ーラ)(ンギ)に移るよう命じられていた。さすがの細田も、その時はあくせくして首が回らない様子だった。
 「ずっとヴィデオを撮ってたんですか。」
「う、うん。」
「サヴァイイのどんなとこを回ったんですか。」
「えぇ?あぁそ、そうね。Jコープのホームスティ先に泊めさせてもらっていたんだよ。そうだ、ふ、藤井、お前のホストファミリーにも寄らせてもらったよ。マナセでね。」
 ・・・・・・そんなあたりさわりのない話から、堂本やよいの名前が飛びだしてくると、突然細田も形相を変える。
「しかし堂本さんの話も急でしたね。」
「まっ、全く。あれだけ散々忠告したのに。しょ、しょうが、しょうがない人だ、かっ彼女も。・・・あ〜ぁ。」


 僕は細田が居た二日間とも、彼の「あ〜ぁ」という溜息を聞かされっぱなしだった。何かにつけ、荷造りの手を休めては、ふと思いだしたように「あ〜ぁ」と口から零す。
 よっぽどショックだったに違いない。
 そして、真実からの手紙の返事があった二週間後、僕にももの凄い激昂が訪れた。
 夕刻、「ラヴァーズ・リープ」で呑んでいた。たそがれ時のアピア湾は紺碧色からさらに青さを増していた。オレンジ色にたたずむ海岸(ビーチ)道路(ロード)沿いを連れだって並走する自転車の二人組。片方が男で、片方が女。女は長い髪を後ろで結ってポニーテールにしている。僕は自分の目を疑う。男がこの前の歓迎(ウェルカム)パーティをボイコットした部隊員のうちの一人で、女は・・・・・・女は京子、そう、成田京子だったからだ。なびいたポニーテールが男におもねいた。純白の短パンからむき出しになったペダルを回す脚が、その白く反射する太腿のテンポが、男のそれと一致していた。
 「あの二人はもうデキてんのかいな。」
その場に居あわせた四国なまりの沢村部隊員が僕にきいた。それは独り言のようでもあったので、僕は軽くぬるい返答をしただけになった。でもその答は確信をもって「イエス」だった。向こうは僕たちに気づいていない。女の瞳は男の微細な動きにまで追従していた。京子は、男の(まつげ)のなびき方ひとつにも敏感に反応した。
「男と女というのは早いもんじゃのう。」
その実、あの二人が知りあったのは、わずか三週間前のことだった。
 生憎(あいにく)と、僕には自分が好きになった女の好きな男を見ると、その女を嫌いになってしまうという、都合のいい性格が生来からあった。これはよくよく考えてみたら、女のほうは何も悪くはないんだけど、なぜかその女に対する侮辱といっしょに嘲笑がこみあげてくるのだった。
 そんな時の僕は、町なかでとびきりの美女がブ男と並んで歩いているのを見る時のような、吐き気を催した。しまいには僕の口の中は、逆流してきた汚濁物でいっぱいになってむせるようになる。その汚水の源泉は・・・それこそ本当は湧きでる嫉妬心だったのかも知れない。
やがて僕の中の男という虫は全く京子には寄りつかなくなった。その役割は彼、すなわちあの新しい恋人がやればいいだけの話だ。
 京子は、一時間半もある音楽学校の昼休みごとに姿を消して男のために食事をつくり、午後四時に授業が引けるとともに速攻で帰ってはあれこれと身を投じて尽くしていたに違いない(もちろんセックス(あれ)の面倒も含めて!)。
 しばらく日がたつと、僕は彼女のTシャツに貼りついた汗を見ただけで「臭い」と感じるようになった。もちろん本当に臭かったのではなく、それがもう終わり(、、、)()()だった。恋愛感情の終焉だった。
 細田は命じられた通りあの二日後にはしぶしぶと出ていった。もう彼のぼやきを聞かないで済むと思っただけで、どれだけ僕の気は楽になったことだろう。
 しかし二度めの一人暮らしも束の間だった。すぐに成田京子とは同期になる渡部(こう)部隊員が入居して、今度は新部隊員との共同生活が始まった。僕は相変わらず〈水を分ける(ヴァイヴァセ)海側(タイ)〉の二十六番に住んでいた。
 やよいが帰路につく八月六日は謀反を起こさずにやって来た。はからずもその日はJICO(ジーコ)主催のゴルフ大会に参加するという理由が出来たので、僕はやよいのことを空港まで見おくることはしなかった。でも僕は見ていた。〈酋長(ファンガ)( アリ)(ッイ)〉村にあるサモアで唯一のゴルフ場のレストハウスから。それもその二階の便所(トイレ)の窓から。そこから眺められた景色は、滑走する白いランド・クルーザ(疑いもなく真木コーディネータの運転するもの)。そしてその助手席には、今日もまた朱色系のワンピースを着たやよいの姿がある。
 ・・・告白すると、これは僕のイメージ画像だった。しかし、僕にははっきりと見えたのだった。薄暗い便所(トイレ)の中から、小便くさい便器の匂いを嗅ぎながら、まるで映画のように壁に反射された画像。さっそうとひた走る真木の光るランド・クルーザを。
 やよいにはお別れの文句さえ告げなかった。同期の小沢基子や古屋ひとみは後になってそのことを非難してきたけど、僕はその日に見送りに行かなくてもすんだ口実、つまりJICO(カップ)の存在をありがたく思った。
 やよいの涙を見るのは、京子の汗を見ることと同じくらいに耐えられない屈辱だったからだ。不条理劇を見せつけられたときの、膨張する腹だたしさ。この二人の女の涙と汗には、胃袋が破裂するほどの嫌悪感を呼びおこす苦々しさがあった。

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