五、
「お、俺のことで何か悪い噂を耳にしてるんじゃないかと思うけど、な、何も気にすることはないんだからね。」
ファミリーから戻った数日後、玄関から入った台所で僕に顔を合わせると、同居人の細田は速攻でこう言いはなった。マナセ村での数日の休暇のあと、アピアの町に帰ると、彼をとりまく事態は益々悪化の糸をたどっていた。
二、三人のJコープのメンバーから、夜ごと堂本やよいの住居の周囲を徘徊する細田の話を聞かされたし、やよいの隣人のサモア人たちも、毎晩のようにやって来てはいかがわしく家の外でウロウロしている東洋人のことを訝しく思っていたに違いない。ある晩などは細田が露骨に現地人から注意を受けたという噂まで広まった。彼を厳しく叱りつけたのは、二十四番のすぐ隣りに住む、高校教師をしているサモア人らしかった。
キリスト教の戒律や、ポリネシアの「タブー」に対して、サモア人は敏感だし、時にはかなり厳重にとりしまる。細田の行為は彼らにとってみても目に余るものだったに違いない。
ラグビーのワールドカップで、サモアのナショナル・チームの最終成績は前回の時と同じ八位に終わった。すでに六月も半ばくらいになるとあの熱狂的な騒ぎは鎮火して、誰もワールドカップのことなど口にしなくなっていた。
あと一ヶ月もしないうちに、また新しいJコープのメンバーがやって来る。何人かが来ては何人かは任期満了で帰国する。Jコープは一年に三回、そういった入れ替わりの時期を繰りかえす。
そのたびにお別れや歓迎を名目としたパーティがあるので、いやが上でも盛りあがる。一方で「出会い」があって、一方で「さよなら」の感傷に浸らせる場を設ける。それには、あらかじめそのお膳立てをする人が居なければならない。次回の歓迎パーティを企画するのは僕と同居人の細田、そして堂本やよい、小沢基子、古屋ひとみという、同期のメンツが担当することになった。やよいの職種が「家政」であり、女性事業促進部で料理を教えるのが主だったことを憶えているだろうか。小沢基子は政府の郵便局本部で電話料金の徴収を管理するホスト・コンピュータの面倒を見ていた。我々が称する職種の中では、「システム・エンジニア」と呼ばれる種に属された。そして古屋ひとみは養護婦だった。昼間はハンディを背負った障害を持つサモア人たちを、よろめきながら支えていた。女にしてはかなりハードな肉体労働だった。
僕たちはニューカマァたちを、サモアのやり方、つまり儀式としての「アヴァ」でまち受けることにした。「アヴァ」・・・――これは「カヴァ」という響きのほうが日本人には馴染みがあるかも知れない。コショウ科の草の根っこをすりおろしたものを、椰子の実の外皮と内殻の間にある繊維質でしぼり、そのしぼりおろした汁を大きな木椀いっぱいに溜める。要はその出来あがった汁を椰子の実の内殻をコップがわりにして全員で飲みまわすわけだけど、これはポリネシアやメラネシア各島でもよく見られる儀式だ。
もともと「アヴァ」は村の集会が外来者を村の一員として迎えいれるための儀式でもあったので、新しい部隊員をもてなすにはうってつけだった。サモア式家の中で、まるでその儀式さながらに村人たちが顔を揃え、「アヴァ」をとり行う。そのあとは石焼き料理でご馳走し、サモアの踊りを披露する。僕たち担当スタッフも料理の仕込みを手伝い、村人たちの伝統的な歌や演舞に参加する。――この突飛な案は、実をいうと細田の口から出たものだった。彼はそれを実現させるために、仕事場の同僚をつてにして、場所まで提供して来たのだった。〈水を分ける=島側〉、それは僕の住む〈水を分ける=海側〉からほど近い、隣の村だった。
〈水を分ける=島側〉に住むある教会の牧師が、今回の役目を喜んで買ってでてくれた。しかも自らが持つ開かれた家もパーティのための会場として与えてくれるという、僕たちにとってみればこの上なく都合のいい、おまけ付きだった。このへんの交渉には細田の同僚、ジョーが大いに役だった。
ジョーはこの〈水を分ける=島側〉村の出身で、日本の社会にたとえると青年団の「リーダー格」だったので、多少無理なこっちの要望もよく聞きいれてくれた。
〈木椀の魚〉。彼らのグループ名をこう言った。教会には必ずその教会付きの聖歌隊があるものだった。そこの牧師の所有する教会の聖歌隊の名前が〈木椀の魚〉だった。僕たちは新部隊員がやって来る、パーティの本番のその日に備えて、彼らとサモアのダンスの練習をし始めた。
初めのうちは歌の稽古だけをやって、だんだんと踊りを付けていき、最終的に歌と踊りを一体化させて一つの舞踏が出来あがる。舞踏と言っても半分は床に腰をかけたまま演じられるので、これを一言で「ダンス」と呼んでいいものか、迷うところではあるけれど、それがサモアの〈踊り〉のやり方だったので、僕たちにとっては何の違和感もなかった。
サモア人が形式ばった踊りをする時は、立って踊るにしても、座ったまま踊るにしても、歌(もちろんこれは四重唱のコーラスになる)と打楽器を伴奏に全員で整列しながら同じ動作をする。この動作には日常から生まれた自然な体の動き――例えばココナッツ・ミルクを絞る時の仕草だとか、船のオールを漕ぐような手足の動きを見たてた物があったりした。
それから、踊りの中には歌のいっさい入らない、打楽器とそのリズムに合わせて体の動きを刻む「サーサー」と呼ばれているものがあった。この「サーサー」は日本人に向いていた。というのも、わずらわしいサモア語の歌を憶える必要がなかったし、とりあえず表面上は、いかにもサモアのダンスをやりこなせているように観客にもアピールできたからだ。
僕たちにとってもこの「サーサー」が一番とっつき易かったし、完璧にこなせるようになるまでの日数がそうはかからなかった。
パーティの余興、つまり〈踊り〉のために〈木椀の魚〉が用意した曲の数は十。これにはサーサーも含まれていた。曲ごとには必ずといっていいほど〈踊り〉が付く。男女混合で踊る曲もあれば、女だけで踊る曲、そして男だけで踊る曲もあった。
何という幸運だろう。胸躍る興奮が僕の背筋を震わせた。男だけの踊りの中にはあの〈手拍子を合わせる〉もあった!
僕はマナセ村の『ロビンソン』ホテルで〈手拍子を合わせる〉を初めて見た鮮烈な印象を忘れない。・・・・・・逞しい現地の男たちが手と足を大仰に振りまわしながら両手の掌で筋肉隆々とした自分の胸を叩き、ほっぺたを叩き、背中に片手を回して肩の裏を叩き、ジャンプしながら片足をおり曲げてその足の裏を叩く。なるほど、かつで西洋人がこれを「モスキート・ダンス」と呼んだのもうなずける。まるで全身にまとわりつく蚊をはたいて追いはらうような格好に見えるからだ。
この〈手拍子を合わせる〉を体得することは、その時以来の僕の夢となった。念願の〈手拍子を合わせる〉を教わることができる!――僕は意気揚々と〈木椀の魚〉の練習場の家(本番もその同じ家を使ったのだけど)へと毎日のように顔を出した。
思えば滑稽なシーンだ。サモア人の踊りのグループの中に日本人が混じっているのだから。見方によってはかなり奇異に映ったに違いない。それでも僕たちは無我夢中で彼らの練習に参加した。
当初の細田は〈木椀の魚〉にアクセスした張本人ということで、非常に重要な役割を果たした。彼らと何をやりとりするにしても細田を介してでなければならなかった。だけどそのうちに、細田の同僚ジョーと仲良く話せるようになった僕ら残りの同期部隊員は、細田を飛びこして、直接ジョーや〈木椀の魚〉を率いる教会の牧師と交渉するようになっていった。
そんなおりもおり、細田に対して真木コーディネータから厳戒通達が出された。
毎晩の夜歩きがたたったのだろう(何度も言うが、彼がやよいの住む住居あたりをほっつき歩くのは、夜ごとのことだった!)。近所のサモア人からのクレームも、ついにはコーディネータの耳まで届いてしまったのかも知れない。
細田は飛ばされた。「頭を冷やせ」と真木コーディネータにせっつかれた。そのまま反対の島のサヴァイイへと巡回の旅に行かされた。この流浪には、一応表向きの目的が付いていた。――「取材旅行」という名の・・・。彼は他の部隊員にゆかりのあるホームスティ先のホストファミリーを訪問して写真とその記事をつくるよう、真木から命じられた。それは彼の職種「視聴覚教育」という分野を考慮しても、都合のいい名目だった。しかし真木の思案した本当の意図は、細田と堂本やよいの二人を物理的にひき離すことにあった。
細田がサヴァイイ島へと去っていく日、彼は玄関のごつい木製のドアを開いて入ってくるなり、台所を抜けて居間のソファーの上の僕に視線を向けて(奴が他人を正面からまともに見ることは、とても珍しいことだった)、
「こっ、これからサヴァイイに行くことになった。暫くは帰ってこない。」
と言った。
急な話ではあったけど、このところの彼の挙動不審さから察すれば、自然な措置だった。むしろ早い決定だったとも言える。というのも、「真木コーディネータは優柔不断だ」とのJコープ内の評判が、大多数を占めていたからだ。
同じ日の夕方、真木は白いピックアップ・トラックで僕たちの住居へと乗りつけた。そして細田の私物などを自転車ごと車の荷台に運びあげると、「藤井さんもまぁ、とりあえず暫くは一人暮らしを堪能してよ」とだけ僕に言いのこして、細田を助手席に乗せて行ってしまった。
僕は海外で味わうことのできる初めての一人暮らしに、少なからずの期待感を持って彼らを見おくった。
同居人の居なくなった僕の住居は、束の間の宮殿になった。実のところ、一人で住むにはもて余すほどの空間があったわけだし、庭の広さときたら、家を占める総面積の二、三倍を有していたのだから、その維持のためには多大な労力が必要だった。
乾季とはいっても三週間に一度は草刈りをしなければならない。庭の雑草ときたら、三週間で十五センチも丈を伸ばす。エンジンの爆音がする機械を使って草を刈る。手元で唸るモーターの柄からは人間の腰から足先ほどの長さでステンレス製の棒が延び、その棒の頭にはくるくると回転する車輪が付いている。実際に草を切るのはこの車輪からにょきにょき身を伸ばしているナイロン製の二本の紐だった。
広い庭じゅう全部の芝を刈りきるのは、二、三時間を費やすほどの骨折りだった。その間、ずっとモーターの振動にいじめられた僕の腕は、作業が終わったあとでもまだしばらくはブルブルと震え、晩酌のビール瓶を持つのさえ手こずらせた。
僕たちが次回の歓迎パーティのために、土着の踊りをサモア人からじかに教えてもらっているということは、他の部隊員たちにも広まっていたらしい。〈木椀の魚〉も日本人の参加者をたくさん連れてくればくるほど、喜んで迎えいれてくれたので、色んなJコープのメンバーも飛び入りで練習に参加するようになって行った。
ある晩、もう夕方六時くらいに集まるのが定例になっていた練習場の家で「今夜はまた新しい日本人の参加者が現れる」という話を聞いた。
きっとやよいか誰かが話をもちかけて、他の部隊員を誘ったのだろう。そしてその晩に現れるという日本人の中に、夏央理の姿があることをただひたすら僕は期待した。夏央理は知識欲が旺盛だった。見ず知らずの事柄にはいつでも飛びついて、新しい情報を吸収しようという本能を持ちあわせていた。
「今夜現れるという日本人の集団の中に夏央理の顔があっても不思議なことではない」――そう思っている間に夜のとばりは完全に降り、暗闇の中から二台のタクシーが到着して、六、七名の日本人が下車してからこっちへと向かってくる。その時、期待に反して夏央理の顔はその集団の中には見うけられなかった。
だけど僕の目は髪の長い、ソバージュ風のパーマをかけた、細身の女性に目が行った、彼女は白いTシャツに厚手の白いショートパンツを履いていた。「誰だろう。さて、あんな子がJコープのメンバーに居たのだろうか・・・」
でもその直後に僕はドキリとし、言い知れぬ幸福感を味わうことになる。長い髪の毛のせいで見わけられなかっただけで、その実ソバージュの彼女は、こっちのほうに顔を向けると、間違いなく山本夏央理その人だったからだ。
合唱の稽古から始まって、小気味いい打楽器のリズムで動きを合わせる「サーサー」。それからグループは男と女に分かれて男は男だけの、女は女だけの踊りに専念する。最後にもう一度だけグループで一緒になって、男女で「今日のとこはここまでできるようになりましたよ」「今のところここまで進んでいますよ」という報告も兼ねた、その晩の成果を披露し合う。こういった段取りがすでに毎日の形となりつつあった。
練習が終わると、会場ではそのままお茶会へと移行する。誰かがパンやお菓子を差しいれ、そこでは紅茶やココアなども給仕される。お茶会の食べ物を献上することはグループの中で持ち回りになっていたので、日によっては僕たち日本人が代表してパンやお菓子を買っていったこともあった。というのも、集会の中では、必ず貢物をたてた人の名前が告知されたからだ。
彼らは場のしめくくりとして、決まってこういった文句を垂れる。・・・「そして皆さん、今宵もまたこのように素晴らしいお食事をご用意して下すった方々が居る。」
――「でかした。」「でかした。」
「それは我らが親愛なる日本人のご好意だ。」
――「でかした。」「でかした。」
「ありがとう、神よ。我らに、そして我らにご馳走をふるまってくれた日本人の友だちにご加護あれ。」
――「でかした。」「でかした。」・・・例えば僕たちが差し入れをした日などは、こういったアナウンスが入った。
――〈告知〉。サモア人は家に集まって村じゅうの家長たちが顔を揃えると、必ず「アナウンス」を口頭で告げた。その役目は家長が果たすものと決まっていて、その内容は村の決め事や掟に関する重要なことだったり、意味のない挨拶、例えば「本日はお疲れのところご足労ありがとうございました」といった他愛もないことだったりした。そして一人がアナウンスし終えるごとに、席上からは「マーロー」という応えが返ってくるのだった。
夏央理たちが始めて参加してきた夜から、僕たちJコープの間でもサモアン・ダンスの話題は一気に盛り上がりを見せた。もとから練習に顔を出していた看護婦・笹本裕子などは、病気を理由に仕事を休んでも、踊りの稽古が始まる夕方には〈水を分ける=島側〉に来て待機していた。
そして四国弁で話す、ある子持ちの部隊員は、「藤井さん、あの『パチパチ・ダンス』は前々からやりとう思うとったんじゃ。ほんとに練習に参加するのが毎日楽しみじゃわ」と言った。この人とはこの時の縁がきっかけで懇意につき合うようになった。あの、西海大のフェリーの日も話しかけてきた彼の名を、沢村といった。
沢村は日本に奥さんと三人の子供を置いて来ていた。
〈木椀の魚〉の練習は日ごとに本格化し、それに加わる僕たち日本人の目も次第に真剣になっていった。
新部隊員がやって来るのが七月十四日であることは決まっていた。そして彼ら七人のための歓迎パーティを開くのが翌日の十五日。その中には紗絵の後釜である、女性の音楽教師も含まれていた。
しかしその前に、我々Jコープはお別れパーティを控えていた。そう、新しくやって来る人たちの前には、任期の二年を終えて帰国する部隊員も当然のように居る。僕たちが歓迎パーティを企画しているのと同様、帰る人たちのためにお別れパーティを組織しているメンバーも居た。
この二つのパーティは、似たような時期に催されるという都合上、どうしても同時進行で練られるものだった。
計画を立てる側のほうで、それに携わるメンバーが別々だったので、二つのパーティはお互いに内容を牽制し合うことがしょっちゅうだった。――例えば、「あぁ、『お別れ』では××をするの?それじゃ『歓迎』では○○をやって盛り上げようよ」といったように・・・。
僕たちが歓迎パーティで踊りをやるのを知っていてか知らなかったことにしてか、お別れパーティでは、余興として「サーサー」をやることになったという話が流れてきた。「サーサー」の踊りのパターンには数えきれないほどあるので、僕たちのものとは内容が違うのだろうけど、さも当てつけられたようで、愉快な感じはしなかった。
つまり「あなたたちもサーサーをやるの?それじゃ私たちもサーサーで対抗するよ」みたいな、つまらない心理の裏側のかけひきがあった。これこそ醜悪な人間関係だったに違いない。
いつでも、Jコープの部隊員たちの間では、「あいつが〜〜をやった、だったら自分は〜〜をやってそれに対抗しよう」という考え方がさも当然のように横行していた。きっと日本人もサモア人に負けず劣らずの見栄っ張りだ。それだけに、一度でも目で火花を散らせた相手には「負けたくない」という執念に近いものが各人に育っていった。
もちろん、中には中道を歩く人も居た。山本夏央理や看護婦の笹本裕子などはこの部類に属するだろう。対立する双方のグループのどちらにも属さないで、両方ともほど良くつきあう。表向きは社交的だけど、グループの内部には深く関わらない。これが一番頭のいいやり方だったかも知れない。「こだわり」を持った部隊員同士は必ずと言っていいほどぶつかり合い、喧嘩した。
それとは別に、他の部隊員とは全く接触しないで完全に距離を保ち、孤独の境界線を引いてしまう部隊員も居た。この人たちは、日本人の集団の前には最小限しか顔を出さないで、毎日サモア人と目と目、鼻と鼻をつき合わせ、膝と膝を向かいあわせて生活していた。Jコープの草の根レベルの活動を考えた場合、この生き方こそ最も理想的な現地人とのコミュニケーションだったけど、このライフスタイルにもそれなりの限界があった。
僕たちはただ金を運ぶだけの天使ではなかったはずだった。だけど現地の人は金や物資を運んでこないと、不満を唱えるものだ。・・・・・・それは、たいがい前任の部隊員たちが援助した内容から発した問題だった。前任者のほとんどはその生真面目さから、あるいはえぇ格好しいの根性から、謙虚に、しかし傲慢さをもってサモア人にモノを分けあたえたものだった。なぜならその資金はといえば、自腹ではなく、もとは日本の税金が源だったからだ。
この時期、僕にもこういった厄介ごとが音楽学校でまき起こっていた。僕には前任者という人は居なかったけれど、もう帰国してから三ヶ月近くたつ西田紗絵には前任者が居た。音楽学校の授業で使っている楽器のほとんどはその前任者がJコープで認められている資金援助の枠から供給したものだった。もちろん、Jコープであるからには僕にだってこの資金を使えるだけの権利がある。
紗絵の前任者はC社のハーフサイズの電子キーボードを十三台取りよせた。それが三年前のことだ。この手のキーボードは日本ではおもちゃ扱いで、その寿命は毎日使えば三〜四年がいいとこだろう。このキーボードは電源をとるのに「アダプター」という電圧変換機を必要とした。サモアの家庭用コンセントの電圧がAC二四〇ボルトだったものを、キーボードを稼動させるのに必要な十二ボルトまで落とす役割をするもの、それが「アダプター」だった。
このアダプターは十三機のキーボードそれぞれに外付けされるもので、中にはすでに死んでしまっているものがかなりあった。肝心のアダプターがないとなると、せっかくのキーボードも使うことができない。
この時、死んだアダプターのせいで電源を入れられる学校のキーボードの数は、六台にまで減っていた。あとの七台は飾り物のようにただ整然と置かれているか、専用の箱に収容されたまま、教室の裏の、棚の上に放っておかれていた。確かに、現時点で学校が必要とするのは、アダプターの補充だった。それは僕も認識していた。
だけど僕はギターの先生としてここまでやって来た。「アダプターが無い」と言われても、「それがないとキーボードの授業がまともにできない」と言われても、僕に必要なのはギターのほうだった。
学校は独立記念をひと区切りにして、もう二学期めに入っていた。ある日、僕は校長のティティに「Jコープの資金援助の中からギターを購入したい」と告げると、話は変な方向に進みはじめた。それは僕の意図していたことからは外れる趣旨になった。何よりも悔しいのは、僕の尊厳を無視した意見のほうに風向きが一八〇度変わってしまったことだった。
実際に話をもちかけた僕に対し、校長は何と言ったか!
「ギター?今、学校にギターは要らないわ。」
・・・・・・そしてその場に居あわせた長男のスティーヴと顔を見あわせると、
「それよりもあなた、事務所からいくらもらえるの?」と話をすり替えてきた。ティティの丸っこい大きな目からは商魂の輝きがあふれ出た。校長といっても同時に私立学校のオーナァだ。彼女はこういうとき、生来のビジネス・ウーマンとしての顔で燦燦となる。
彼女の言う「事務所」とはJICOのことを指していた。Jコープの援助金を支払うのはJICOだった。そして、そのJICOの予算は政府開発援助(ODA)、つまり国民の税金が出どころになっている。
そもそもこれがJコープを受けいれたサモア人の側に大きな勘違いを起こさせた。僕たちは「金と技術を与えるためにやって来たスタッフであり、所属はJICOにある」と思われていた。なまじっかサモアにはJICOの事務所があるために、そのような誤解が生じやすかった(派遣国によってはJコープの事務所しか無い国もある。太平洋諸国で言うと、ヴァヌアトゥがそれにあたる)。
僕自身の所属はあくまで配属先の音楽学校にあること、JコープというのはJICOの配下にあってもあくまで独立した集団であって、JICOは資金的にJコープのバックアップをしているに過ぎないこと。――これらのことを説明し、サモア人に理解を得るには難があった。
本来、Jコープとサモア政府の『二国間取極』によると、配属先は我々の住宅まで保障するべきだったのに、この取極は少しずつ崩壊していた。
「私たちはでき得ることは可能な限り最善を尽くすべきなのよ。あなたが、学校のために資金を取ってきてくれるだけの身分にありながらそれをしないのは、怠慢だわ。もしJICOがお金を出してくれると言うのなら、その額を提示しなさい。何のために使うかは私が決めさせてもらうわ。」
――僕は憮然とこの五十を過ぎたオバちゃんの言葉を聞いていたけど、怒りの鼓動は今にも心臓をぶち破るんじゃないか、憤りの血液が逆流していっきにこめかみまで集中し、いつそれが噴きでるんじゃないか・・・そんな瞬間をやきもきする余裕さえ失った。握りこぶしの内側で汗をかき、表情は赤かったかも知れない。・・・僕の心はふみにじられた。返す言葉さえ出てこなかった。


これを挫折と言うのだろうか。めくるめく暗黒が僕の体内を押しひろげ、蹂躙している。軋轢が耳鳴りのようにぐるぐると神経を犯しはじめている。僕は自分で鉛でも呑みこんだのかと思った。
これを挫折と称するならば、その単語は表現が余りにも生ぬるい。少なくともこの蹉跌感、このまずい味は僕に耐えがたい傷跡を打った。痛烈なケガではなく、燃焼でやけどを負ったような自覚症状、そいつは僕の内臓を中のほうからむくむくと圧力をかけて膜をえぐり、炎症を起こさせた。軀の外からは、まるで雷を身に受けたかのような錯覚を体験した。
「もう駄目だ!」・・・諦め、倦怠、衰微・・・虚脱・・・・・・堕ちた。彼らに僕の魂を吸いとってしまう権利があるのか。でも確実に彼らは僕の所有物を抜きとった。それはパワーだったか、誇りだったか、栄光だったのか、それとも勇気だったのか、果たして分からない。
「しょうがないよ、もう何を言っても無駄なことだ」――ぬぐい去れない敗北感。それはまた若さという別の原因からも来ていた。サモアの社会をとりしきるのはいつでも年配で、若いものの意見は(たとえそれがどんなに素晴らしいものであっても)足げにされた。親の命令に(たとえそれがどんなに突拍子もない頼みごとであっても)子どもは屈服しなければならなかった。校長のティティは年上であり、教師の僕は彼女の子供(長男は僕と同い年だった!)ほどに年下だった。これで自ずと構図は出来あがった。
サモア語で親は「マトゥア」と言う。そして年上も「マトゥア」だし、家族構成を語るときに「マトゥア」と言えば、それは「長男」あるいは「長女」のことを指した。すなわちこの単語は自分より年長である人たちの総称だった。そして同じように自分が尊敬しなければならない、絶対服従しなければならない対象物の名でもあった。
「・・・・・・いいこと、よく分かったわね。とりあえず今の学校に必要なのはアダプターのほうよ。冷静に考えれば誰だって分かることじゃないの。」
ティティはそう言って英語で僕に念を押すと、同席していた長男のスティーヴを残してぷいと部屋を出ていってしまった。あとにはさびれた空気のガレキが漂った。その空気はいつもの十倍も重いような気がした。
英語。――サモア人は威厳を保つためには、わざとこの言葉を日本人には発する。叱責、そしり、処罰、そしてアナウンス、あらたまった挨拶、お褒めの言葉。・・・これらをすべて英語で儀礼的に話すことで、彼らは厳粛さを、虚飾色した鎧で演出した。そしてこの外国語はまたお似合いだった。これらの狼の面をかぶった女々しい修辞句たちとは。
「カズヤ、ここはマザーの言うことが正しいよ。確かにギターは欲しいよ、僕だって。喉から手が出るほどにね。だって分かるでしょ、僕はギター弾きでもあるんだ。でも、よくよく考えたら、今はアダプターを買ったほうが頭がいいよ。同じ金を使うんだったらね。」
居残ったスティーヴはさとすようにこう僕に声かけた。彼の目の色は戸惑いで揺れていた。挟まれているに違いない、「マトゥア」のプレッシャーと僕との友情、それ以上に「ギターを持ちたい」という欲望に。古い慣習とこの精神的覚醒(親に口ごたえをするという)が交えた葛藤に。
スティーヴもやっぱり僕としゃべる時は英語を使う男だった。これは彼の慎重な性格を浮きたたせていた。だけど僕と彼の会話の、何ていう無機質さ。社会の秩序に対するありきたりの迎合。それが僕らの距離をどうしてもひき延ばしている。
僕にはプライドを傷つけられた痛手だけが胸に沈殿した。やっぱり僕は鉛を呑んだんだ。今、心臓に堆積しているのは、疑いもなく鉛の粉に違いない。その汚濁物は、ついに最後まで僕の軀から排泄させることはなかった。
忘れたい、わずらわしさからは解放されたい。その願望が毎晩のように僕を〈水を分ける=島側〉に吸いよせた。〈木椀の魚〉の人たちと汗ばんだ時間を共に過ごすだけで、足かせを放たれた自由人になったような気がした。〈手拍子を合わせる〉で掌や胴や足を叩くたびに、そこからは鉛の粉が蒸気のように噴きでて、軀が軽くなったような気分になった。
僕たちが主催する歓迎パーティを二週間半くらい前にして、帰国する部隊員のためのお別れパーティが開かれた。
場所は「ラヴァーズ・リープ」。以前から何度か顔を出している、Jコープにとっては馴染みのバァだ。オペラ『マリエトア=ファインガー』のあと、夏央理たちと四人で『野獣サモア』がアルゼンチンチームを下したのを観たのがこのバァであり、部隊員同士のスノッブ的発想による派閥争いに巻きこまれそうになったときに、僕が細田の肩を持ったあの卑俗な呑み会、あれもここ、「ラヴァーズ・リープ」での出来事だった。
僕はそこで日本人による現地の「サーサー」の演舞を初めて見た。打楽器役は松井幸司がやった。彼はいつもは鍵盤弾きだったけど、その夜は両手にバチを持ってプラスティックのバケツをリズミカルに叩いた。
幸司の叩く拍子に乗って座した日本人の部隊員たちが色んな、サモアの日常生活に根ざした動きを身振り手振りで再現する。
「サーサー」の動きの中には真面目なものもあったけど、中には笑いを誘うような道化も混じっていた。観客(といってもそこに居たのはほとんどが日本人だった)はそのぎこちなくもおかしみをかもし出したペイソスに薄笑いをして、ついにこらえた爆笑を会場にそそぎ出した。
この笑い声は、観客がほどよく酔っていたのであふれ出ただけなのかも知れない。というのも冷ややかな目で見ると、サモアのダンスを演じる日本人の姿は凄く奇妙に映っただろうから。例えば我々は歌舞伎を演じる西洋人を予想さえしないし、もしそんなのが実現したら、吐き気を催すことになるだろうから。
「トゥロロ〜〜。」――かしこみ、かしこみ。「サーサー」は決まってこの〈トゥロロ〉という合図の言葉から始まる。この時、踊る側は胡座をかいたまま肩をすぼめて頭ももたげる。次に「ノフォ!」というかけ声がかかると、また全員が背筋を伸ばして胡座の姿勢にもどる。打楽器の叩き手が細かい、正確無比な拍子を刻みだすと、胡座で折りまげた膝を微妙に上下運動させて次の合図を待つ。
「タカタッタカタッタカタッタカタッタカタッタカタッタカタカタカタッ」この「タカタカタッ」が次の踊りのパターンへの移行を指示する打楽器の重要なサインだ。演じる側はこの「タカタカタッ」を待ってから次の踊りの動きを始める。
「タロファ!」の叫び声。これはオープニングの決まり文句だ。右手を胸の前あたりに差しだして掌を一回だけ斜めに振る。
整列して座った状態から始まるサーサーは、エンディングに近づくと必ず示しあわせたようにリズムに乗って全員で立ちあがり、踊りのしめを装飾する。最後は「ティォヒョォーゥ!」という踊り手たちのかけ声だ。口先だけではなく、腹の底からこの「ティォヒョォーゥ」といういかした奇声で演舞は終わる。
踊りには、今度帰る部隊員たちも混じっていた。彼らは人生のうち二年か三年をサモアのために捧げた。電子機器士に臨床検査技師・・・Jコープの職種は本当に多岐にわたった。若さの二年間には色んな想い出が心に刻まれたことだろう。そして思い残すことも多々あっただろう。それは真に「帰国部隊員症候群」だった。
パーティの余興として演じたサーサーが彼らの想い出におみやげを添えることになったかどうかは分からない。ともかく、それは会場全体の拍手でしめくくられたし、店の外側から覗きみていたサモア人たちの冷やかしや褒めそやしを受けていた。店の中と外は細板を網目状に組んだ壁でしきられていただけなので、テーブルから海岸道路ごしにアピア湾を眺めることもできたし、道端から店の中を垣間見ることもできた。
そして帰国する人たちの別れの言葉でお別れパーティは終わる。
はにかんだ笑顔を絶やさずにスピーチする部隊員。黒目の瞳に涙を潤わせながら頬を赤らめてしゃべる女子部隊員。ややハイトーンで息をあらげた別れの文句がマイクを通して拡声器を震わせる。
「どうも、二年間、本当にありがとうございました。来た当初は何もかも驚きの連続で、すぐにホームシックにかかってしまい、毎日毎日日本に帰れる日のことを思い描いていたものですが、今こうしていざ自分が帰る番になると、何となくまだサモアに居たいな、帰りたくないな、なんて思ってしまうあたしです。不思議なもので・・・・・・」――彼らの似たような語り口は異口同音に僕たちの感傷的な心に谺したものだ。おかしなことに、同じようにくり返される常套句を、観客は感動を持って聞きながしていた。それは、「いつかは自分もこんな風にくさいセリフを皆なの前で吐く時がやってくるのだ」という覚悟だったか。ともかく、僕たちは裁判官が判決文を読んでいるというのに、それをB・G・Mとして聴いている被告人のようなものだった。つまりは真剣に不真面目だった。
さて、パーティの後はたいていは二次会へと移動するものだ。その晩もディスコへと、参加者たちのややばらけた足並みが流れて行った。だけど僕が向かったのは別の方角だった。僕はディスコへは行かなかった。行くことができなくなった、と言ったほうが正しいかも知れない。
同僚のスティーヴが学校の車をパーティ会場に乗りつけていた。僕はこの車に、荷物を運ぶと彼と同乗した。パーティの道具係として頼まれていたその日、僕は開場前にP・Aをセッティングし、パーティが終わったあとは装備した音響設備、マイクやスタンドやミキサァやスピーカァを片付けて、それらを持ちだした音楽学校へと返しにいかなければならなかった。校長の長男のスティーヴは機材を運搬するための車を出してくれ、重いP・A類をセットするために必要なこま使いを快くひき受けてくれた。
僕は助手席に座り、一路学校へと向かっていた。機材を一通りもとに戻したら、すぐに二次会のディスコへと飛んでいくつもりだった。しかしその時だ――山本夏央理が別の部隊員(サヴァイイ島で技術の教師をしている男だ)と一緒に歩道を歩いている姿を見かけたのは。二人は僕の乗っている車の行く手と同じほうに進んでいたので、明らかにディスコへ行くのではないことが分かった。
最初は「二人連れの日本人が歩いている」くらいにしか眺めることができなかったけど、女のほうの、浮遊するような足の運びから、それがすぐに夏央理の後ろ姿であることに気づいた。
夏央理の、その骨格が露わになったヒザ小僧からは、か細い太腿がスカートの裾まで伸びていた。やわ肌は細い脚のたよりなさと、はじける麗しさを演出していた。ヒザの裏から足首にかけての曲線は、ややうち股で、かかとまでが心もち外側へと反れている。太くもなく、細すぎもしないふくらはぎは、その時の僕の美意識をとめどもなく挑発した。
男と女の歩調が余りにもくい違うので、二人が親密な関係でないことはすぐに推測できた。夏央理とその技術家のはざまには、どうしても「遠慮」という名のつい立てが置かれているように映った。
しかし、車が彼らをすぐ横からおい抜く瞬間、嫉妬の、いや焼餅を焼く自分を嘲笑したいというような思いから、僕は身をかがめて、彼らの視界には入らないよう、下世話な努力をした。その実、僕はそのような行為、二人のあいびきの邪魔にならないような気遣いをしてしまう自分を蔑み、その感情は笑みとして表情に現れた。その時僕はそれまでは自覚していなかった、夏央理に対する特別なシンボルを当てはめていた自分に気づいた。
それはつまり、「僕は彼女を好いている→彼女も僕のことが好きでなければならない→夏央理は僕以外の男に好意を抱いてはならない」・・・だけど、これはただの夢想だった。しかもそれは僕の身勝手さが築いていただけだった。
夏央理はその後も幾度となく僕の理想をぶち壊した。彼女が他の男とデェトしている場面を見るごとに、その映像が僕をがっかりさせ、僕の願望をうち砕いた。だけどもそういう刹那に瓦解した破片でさえも僕はかわいらしいと思った。なぜなら、それは夏央理の一部だったから。夏央理がこぼした、絵の具の一滴だったから。
僕はいきなり二次会には行きたくなくなった。だってこうして彼女が彼と居る以上、ディスコに夏央理が来ることは考えられなくなったから。僕の目当てはやっぱり夏央理であって、彼女が来ないのなら、僕もそこに行くだけの価値を見いだせなかったから。
その晩は月がなかったのでよかった。もし月が明るく夜道を照らしたなら、僕は僕の気持ちを知らないで揚々と光る月のことを憎んだだろう。
乾季のまっさなかだった。〈水を分ける〉の川の水は、とっくに涸れきっていた。
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